1930年代のスターリンによる大量殺人を「ジェノサイド」と定義すべきだとする自分の立場を
明らかにしたい。
理由は、ソ連の場合にジェノサイドとして一括できる、ホロコーストのような単一の行為がな
かったからである。
その代わりに、ソヴィエト国家の反対者と目された人びとにたいする、相互に関連した数多く
の攻撃(attack)が存在した。この人たちは「階級の敵」「人民の敵」と呼ばれた。
また大量殺人の多くの事件にはいろいろな形があって、それらは大量処刑や特別居住地への移
住や強制収容所拘禁などだった。
数十万人が凶暴な逮捕、拘禁、尋問のもとで、また地獄のような条件の輸送、居住、食料のせ
いで命を落とした。
『スターリンのジェノサイド』ノーマン・M・ネイマーク
「今や、この物語はジェノサイド史のなかで大きな一章を割く時が熟している」とも書いてい
るが、著者はニューヨーク生まれで、スタンフォード大学で学び、東欧史教授、フーヴァー研
究所の上級研究員でもあるノーマン・M・ネイマーク。昔からジェノサイドの歴史を研究してい
る。
巷では、ヒトラーの蛮行(ジェノサイド)に関してのドキュメンタリー番組や書籍の出版などは
日本でもよく見かけるが、スターリンに関しては、ヒトラーほど見かけないし、語られること
が少ないと感じる。敗戦国と戦勝国の違い、といわれればそれまでなのだが、訳を担当されて
いる根岸隆夫氏は“あとがき”の中で、
「ヒトラーにはつぎつぎと新しい光が当てられ・・・ヒトラーの蔵書目録にいたるまで―研究書が
出版されている・・・ところがこれとは対照的に、スターリン、ロシア、ソ連については本が少な
い・・・スターリン時代の公文書の公開を制限しつづけるだろう・・・すでに破壊焼却された重要機
密文書も多いだろう・・・」
とも指摘されているが、冒頭で引用した通り、本書で著者はスターリンの大量殺人を「ジェノ
サイド」と定義すべきだとしているが、そういう状況に至らなかった経緯も説明している。
「学界の冷戦政治学(むしろ反冷戦政治学)も、数十年にわたって、ジェノサイド問題をスター
リンとスターリン主義の関連で検討することに公然と反対してきた。
このことは今日になってもわれわれのソ連理解になんらかの影響をあたえている」
「この議論にさいしては多くの妥当な学問上の遠慮と、それに道徳的な遠慮さえはたらく。
とくに学者とジャーナリストは遠慮して、本来はナチスによるユダヤ人大量殺害、つまりホロ
コーストを定義する言葉としてのジェノサイドを、1930年代のソヴィエト市民の大量殺害に使
おうとしない」
その争点には1948年12月の国連の「集団殺害罪の防止および処罰に関する条約「(国連ジェノ
サイド条約)が関係してくるという。
この条約は民族(ethnic)、国民(national)、人種(racial)、宗教の集団は対象としているが、
社会・政治集団は対象にしていない。
スターリンの残虐な作戦のおもな犠牲者は、この条約から除かれた社会・政治集団だった。
何故除かれたのか。それは、ソ連と連合国が国連ジェノサイド条約のいつくかの初期草案のほ
とんど全部に盛り込まれていた社会・政治集団の字句を削除させたから。
「国連においてソ連とその同盟国が、社会、経済、あるいは政治集団をジェノサイド条約から
排除したことである。わたしがさらに言いたいのは、このことが、ジェノサイドをソヴィエト
制度の産物として学者が論ずるのをはなはだむずかしくしている点である」(本書)
「ジェノサイドについてソヴィエトは、国連の委員会と現代の学問的研究の双方で、自分たち
に都合のよい主張をした。
つまり社会・政治集団を条約にふくめようとしても、それらを定義することは流動的すぎるし、
困難すぎると主張したのである」(本書)
「国際法の客観的考察にもとづけば、スターリン政権がソヴィエト国民にたいしておこなった
各種の攻撃はジェノサイド条約の対象にすることができる。
スターリンは重要な社会・政治集団にたいする殺害の主導権をとった。
これが事実なのだから、国際法学者がこの犯罪をジェノサイド定義に当てはめないでおこうと
する態度は正しくない」(本書)
「ジェノサイド」(genocide)という用語は、ギリシャ語のゲノス(genos:種族、人種)とラテン
語のキデ(cide:殺しの意味)から合成されていて、ポーランド系ユダヤ人の法律家であったラフ
ァエル・レムキンが第二次世界大戦中につくったもの。
レムキンは1940年にナチスの手を逃れてポーランドからアメリカに渡っている。
1938年頃のスターリン(左から二番目)
そのスターリンによるジェノサイドには「富農(クラーク)撲滅」、「飢饉殺人(ホロドモル)」、
「民族の強制移住」、「大恐怖政治(大粛清)」がある。
・富農(クラーク)撲滅
レーニンがまだ生きていた頃に、穀物の強制収奪と農村部の集団化を行おうとしていたが、農
民とソヴィエト側の代表者は激突した。
農民蜂起が起こり、全ロシアとウクライナで飢饉が荒れ狂った。ソヴィエト側は一時的に農民
と妥協する。
その後、再びスターリンが農業集団化運動に着手するが、最初の2カ月間でソヴィエト農民層
の半分、10万カ村以上のおよそ600万人を大急ぎでつくられた集団農場に押し込んだ。
その目標は、自営農民の背骨を叩き折ることだったとしている。
クラークとされた人びとは、土地の社会化を邪魔し、貧農と中農から土地を奪い、低賃金で働
かせて搾取するとみられてもいた。
基本的には対決すべき二種類のクラークがいたという。一番危険なクラークは「即座に抹殺す
べき」とし、二番目に危険なクラークは強制移住させる。
1929年と1932年のあいだにおよそ1000万人のクラークが家から追い出され、1930年には政
治犯罪を理由に2万201件の死刑判決を下したという。
著者は、クラーク撲滅運動には四つの特徴があり、そこから導かれるのは、この運動がジェノ
サイド的性格を帯びている、として次のように指摘している。
第一の特徴は、スターリンが農村部の攻撃を命令し、その実施を腹心の部下たちに任せたこ
と。スターリンは作戦を監督し、その首尾と問題についての報告を熱心に読んだ。
第二の特徴は、クラークが個人としてではなく家族として定義されたこと。
世帯主と妻だけにとどまらず、老若を問わず親族全員がクラークとみなされた。
第三の特徴は、20世紀をつうじてジェノサイド犠牲者が共通して非人間扱いされ、固定概念で
烙印を押されたこと。
第四の特徴は、クラークが大規模に抹殺されたこと。集団化の課程で約3万人のクラークが殺
された。
「スターリンにはクラークをただ比喩的な階級としてだけではなく、国民の一集団として物理
的に抹殺する意図があった。だからこそ、この結果をジェノサイドとみなすべきだという立派
な理屈が成り立つ」(本書)
・飢饉殺人(ホロドモル)
国家は農民を集団化し、その結果得られる穀物の収穫を統制することによって、工業の加速的
成長がはかられると考えられていた。
しかし、強制的徴発は農村の蓄えを奪い、飢饉、自暴自棄、人肉食に追いつめた。
ソ連全土で、飢饉とその原因とした病気のせいで、直接失われた生命は600万人から800万人
だったとされている。
中でも、ウクライナとウクライナ人が多く住んでいた北クバンで、300万人から500万人が命
を落とした。ウクライナ飢饉には二つの段階があったとされている。
最初が1930年―31年で、大飢饉が起こり全国の広い地域を脅かした。
つぎが1932―33年で、ロシア人、ベラルーシ人とは異なってとくにウクライナ人が救援を求
めていたにもかかわらず、あたえられなかった。
諸外国から救援食料の申し出があったが、不要だとして断ってもいる。
・民族の強制移住
「民族集団の強制移住と迫害とはそもそも、戦争とスパイ浸透の現実の脅威から生じたのでは
なく、スターリンの徹底した外国人嫌いと、トロツキーの第四インターナショナルや適性外国
の破壊工作によって権力を失うのではないかという病的恐怖心からもたらされたのである」
(本書)
1937年に、最初の一民族の全面強制移住が実施された。それは朝鮮人に対してであった。
スターリンは、約17万5000人の朝鮮人をソ連の極東からカザフスタンとウズベキスタンへと
移住させるよう命じている。
朝鮮人は、この大規模の移送の途中で欠乏に苦しみ、目的地に着くのに一カ月以上を要し、ク
ラークとおなじように、移住地に着いてみると用意されているはずの建築資材、必需品、食
料、燃料のどれもなかったという。
朝鮮人強制移住は、少数民族にたいするソヴィエトの弾圧の歴史のなかでも画期的事件だった
と著者は述べている。
その他にも、ポーランド人やドイツ人、ウクライナ人やフィンランド人、バルト諸国のリトア
ニア人やラトヴィア人やエストニア人、チェチェン、イングーシ人やタタール人なども同じよ
うな目にあっている。
・大恐怖政治(大粛清)
1937年―38年の大粛清について、ロバート・コンクエストは先駆的著作のなかで専門用語をつ
くり、それ以来この言い方は歴史家たちに採用され使われているという。それが「大恐怖政
治」(The Great Terror)。
揺るぎない権力を求めるスターリンは、古参ボリシェヴィキは勿論のこと、元メンシェヴィキ
や社会革命党員、立憲民主党員、赤軍高級将校などや、これらの人びとと関係のあった人たち
は粛清の重要な標的だった。結果として密告の嵐となった。
数が多く、経歴のせいで標的にされたのが、クラーク、聖職者、元地主、元帝政軍将校の「非
社会的分子」とレッテルを貼られた人たちだった。
ポーランド人、ドイツ人、フランス人、イギリス人、フィンランド人などが民族的背景によっ
て逮捕された。
「弾圧された」最大の単一集団は、故国がソ連以外にありながらソ連内に住む少数民族と外国
人から構成されていたという。
1937年と38年に、NKVD(内部人民委員部)は約157万5000人を逮捕、その大多数が「裁判」
にかけられ、そのうち68万1692人が処刑され、残りは流刑に処されてグラーグでの緩慢な死
にゆだねられたという。
1937年11月のある昼食会でスターリンは次のように語っている。
「社会主義国家を破壊しようと企むものはだれであろうと、その構成民族の一つでも分離を図
ろうとするものはだれであろうと、ソヴィエト国家と国民のゆるしがたい敵である。
そしてわれわれはこのような敵一人一人を残らずことごとく、古参ボリシェヴィキであろう
と、その一族、家族もふくめて撲滅する。
われわれは行動と思想―そうだ、思想だ―によって社会主義国家の統一を脅かすものをだれで
あろうと無慈悲に撲滅する。すべての敵、かれら自身とかれらの一族の完膚なき撲滅に乾杯!」
著者は、1937年―38年の粛清は、特定の民族、社会・政治集団が攻撃されなかったから、ジェ
ノサイドとして分類をするのはむずかしい、と指摘している。
スターリンとヒトラーを比較して論じられている章もあるが、その中で、ステファンヌ・クルト
ワの『共産主義黒書』を引用しながら、
「スターリン政権が意図して大飢饉で犠牲にした富農(クラーク)の子供の死は、
ナチスが誘発した飢饉の結果として死んだワルシャワ・ゲットーのユダヤ人の子供の死と「おな
じである」」
と主張している。
しかし、多大な犠牲を払いながらナチスに勝利したことにより、ソヴィエト犯罪をナチス犯罪
と同一範疇で考えることには少なからぬ遠慮がはたらく、傾向があるという。
一部の学者はスターリンの殺害行為に関して、「階級殺害」(クラシサイド)、「民衆殺害」(デ
モサイド)、「政治殺害」(ポリティサイド)のような新用語をつくって問題を回避しようとして
いる、とも指摘されている。
著者の結論は、
「・・・けれどもスターリンとヒトラーの類似点、ナチズムとスターリニズムの類似点は無視する
にはあまりに多すぎる。両者は独裁者として欧州大陸で莫大な数の人びとを殺害した。
二人は根本的改造をめざすユートピア社会の名において、人間の生命を噛み殺した。
二人は自分たちの国と社会を、そして国の内外の膨大な数の人びとを破滅させた。
二人は、つまるところジェノサイド実行者だったのである」
と断言している。
本書に対しても、スターリンとその犯罪はジェノサイド史の文脈で論じられるべきだと考えて
きた、その成果である、と述べている。勿論「カチンの森の虐殺」にも触れている。
本書の原著は2010年に出版されているが、日本語訳は2012年でドイツやウクライナでも出版
され、フランスとエストニアでも出版が予定されていると、この時点で書かれているので、
今現在は出版されていることだろう。
昨年、イギリスの映画監督アーマンド・イアヌッチが製作した『ザ・デス・オブ・スターリン』が
ロシアで公開直前に上映を禁止して少し話題になっていた。
その内容が、スターリンの死を受けて、後に共産党第1書記に就くフルシチョフや側近たちが
繰り広げる権力闘争をユーモアたっぷりに描かれている、というもの。
ロシア全国で上映される予定だったが、ロシア政府が公開直前に上映を禁止した。
メジンスキー文化相はその時の声明で次のように語っている。
「ソ連の過去や、(ナチス・ドイツという)ファシズムを打倒した国、ロシアの一般国民に対する
侮辱だ」。
本書のなかで著者は、
「ロシア人の大多数は、父祖の葬られた集団墓穴のある殺戮のことを知っていながらも、スタ
ーリンを尊敬している」
と書いているが、上の発言でも納得いくし、“訳者あとがき”のなかで、根岸氏も
「スターリン時代の暴力支配の関係文書の多くはいまだに公開されていない。
これは、ソ連と今のロシアが決然と袂を分かっていない事実をあらわすだろう。
過去との対決なしに新生はない」
と指摘している。
プーチンもオリバー・ストーンのインタビューのなかで、ソ連に触れた場面があったが、
プーチンは肯定も否定もせず、お茶を濁していたのが、うる覚えだが記憶に残っている。
いずれにしても、本質的な部分はソ連時代とあまり変わってはいない、ということで間違いな
さそうだ。