「私が鄧小平について取り上げようと思ったのは、
彼こそが毛沢東以降の中国の構造変動を主導した人物であり、
その結果が現在の中国の基礎になっているからだ」。
「毛沢東が歴史書や小説を読み、
布告を発する雲上の皇帝のような存在であったとしたら、
鄧は自らの戦闘計画が適切な人員配置の下に実行されるよう、
注意深い点検を怠らない司令官により近かった」。
「鄧の人生と思想を知れば、中国の社会的、
経済的変化を形作る根本力学を理解することにつながるからである」。
『ジャパン・アズ・ナンバーワン』で有名なエズラ・F・ヴォーゲルが、
日米中などの公文書などを駆使し、10年の歳月をかけて完成した、1200ページあまりの大著。
2013年一月に大陸でも出版され、半年で60万部以上の売り上げを記録したという。
もちろん制約を受けてはいるがね。
エズラ・ファイヴェル・ヴォーゲル
翻訳と“解題”を書かれている益尾知佐子氏が、本書の構成を
わかりやすく整理してくれている。
第一部は、
一九四〇年に四川省で生を享けた鄧小平が、中国共産党の一員として中国革命に成功し、
比較的順調にキャリアを築き上げながらも、文化大革命で失脚していくまでの過程を叙述。
第二部は、
改革解放の仕込みの時期で、江西省への追放、
北京に呼び戻されて行った限定的改革(「整頓」)、三度目の失脚、三度目の復活などを含む。
第三部は、
一九七八年から八〇年までを取り上げ、鄧小平がどのように改革開放の基礎固めをしたか。
対外関係がメイン。
第四部は、
一九八〇年代を扱い、改革の内容を各分野別に考察。
第五部は、
現代政治史で、天安門事件を考察。(第四部の最後の章も含む)
鄧小平(客家)
鄧小平は一九〇四年に四川省広安県牌坊(はいぼう)村で誕生している。
本書では言及されていないが、客家である。
岡田英弘氏によれば、
客家とは山西省の太原を故郷とする人たちで、差別され、見下されていたから団結力が強い。
(ちなみに、孫文も客家。正反対にみえるが。)
子供の頃は、儒教教育を受け、論語の暗誦が得意だった。
後に毛沢東は、彼を歩く百科事典と称していたこともあるぐらい。
清末から中華民国初期まで、中国は日本をまねて近代化を行った。
日本の教科書をそのまま使い、日本人の教師を何千人も招いて、
新設の初等教育・中等学校で教えさせた。
清朝は、日清戦争で日本に負け、賠償金を二億両も出したが、
日本はそれを清朝の近代化のために使おうとした。
学校も建て、たくさんの留学生を日本に招いた。
日清戦争の後を境に科挙も廃止しているが、
一挙に廃止できないので、事実上は意味をなくしていた。
鄧小平がどのような教育を受けたのか、詳細は知らないが、
国内で教育を受け、その後フランスに行くことになる。
第一次世界大戦中、多くの若者が戦争に出てしまったため、
フランスでは工場労働者がまったく不足し、一五万人の中国人労働者が雇用され、
フランスに働くことになった。
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
鄧小平がフランスに到着したのはロシア十月革命の三年後だった。
彼は討論グループで、勉強好きな仲間の労働者から資本主義や帝国主義、
ソ連について学んだ。
そうした知識は、フランスに来る途中や到着後に彼らが自ら見たり、
体験したりしたことに深い意味づけを与えた。
ヨーロッパの帝国主義は中国に屈辱を与え、資本家たちは労働者を搾取し、
中国人労働者は現地の労働者よりもひどい扱いを受けていた。
状況を変えるためには、エリートの前衛隊が運動を組織していかなければならなかった。
一九二一年の末、
フランスにいた若い中国人たちが工場で動き始めようとしていたちょうどそのころ、
同じ年の七月に中国共産党が設立されたというニュースが飛び込んできた。
初期の中国共産党は小規模で、同年には五十数人の党首しかおらず、
翌二二年になっても一〇〇人に達しなかった。
しかし、その存在はフランスにいた中国人の学生労働者たちに多大な影響を与えた。
二二年にはフランスで、共産主義者を名乗る者たちが組織を結成した。
同年一一月、学生指導者の一人であった李維漢(りいかん)が、
この若い共産主義者の組織を
「中国社会主義青年団」(「中国共産主義青年団」の全身)
下部組織として認めてもらうため、フランスから中国に派遣された。
許可が下り、二三年二月に開かれた旅欧中国少年共産党臨時代表大会は、
自分たちを公式に「中国社会主義青年団」の一部と宣言した。
鄧もその場に参加しており、周恩来が総書記に就任した。
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
ちなみに、一九一七年にロシア革命、一九一九年二月にコミンテルンの結成。
そして、その後、フランス・パリから逃げ出し、モスクワに行くことになる。
パリから逃げ出した鄧は一九二六年一月一七日にモスクワに到着し、
二週間後には一期生として中山大学への入学が認められた。
二五年三月に孫中山が死去して七ヵ月後、
コミンテルンは中国国民党と中国共産党のメンバー養成のため、
モスクワに中山大学を創立していたのである。
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
孫中山とは、孫文のこと。
あれ? 三民主義を唱えていたのに、何故、モスクワに大学が出来ているんだ?
モスクワで、鄧小平は週に六日間、一日八時間、授業に出席した。
時間割はマルクス、レーニンらの著作の勉強や
史的唯物論、経済地理学、ソ連共産党史、中国革命運動史
などの授業でぎっしりと詰まっていた。
コミンテルンは中国の共産党主義運動の政治指導者たちと
良好な関係を築きたいと考えており、中国の学生たちにロシア人の多くが
享受していたのよりもずっとよい生活環境を提供してくれた。
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
このときのソ連の新経済政策(NEP)に、鄧小平はかなり影響を受けたらしい。
共産党指導下で市場経済を行うというもので、私営企業が認められ、外国資本が奨励される
というもの。
それを鄧小平は、わかりやすく授業で書いた作文で残している。
「中央に集約された力は、トップダウンで流れる。
上からの指示には絶対的に従わなければならない。
民主主義がどの程度許されるかは、周囲の環境次第である」
これは、一九四九年から五二年まで西南局でと、
八〇年代に実施した経済政策とよく似ている、とヴォーゲルは述べている。
その後、
中山大学での養成は二年間の予定で組まれていたが、わずか一年後の一九二七年一月一二日、
鄧小平は二〇人ばかりの若い共産主義政治指導員たちと一緒に、
コミンテルンによって陝西省の黄河高原に派遣された。
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
そして、コミンテルンのスパイとして中国に帰り、地下活動に従事することになる。
日本への共産主義の影響も気になる所だが、
曽村保信氏が『地政学入門』のなかで、三つのルートがあった、と指摘している。
日本のマルクス主義の導入には、おおむね三つのルートが考えられる。
その一つは河上肇などを代表とする論壇のマルクス主義であり、
その二はシベリア出兵(一九一八年以降)から兵士が持ち帰ったものである。
そして第三はコミンテルンの対日工作によるものだった。
『地政学入門』曽村保信
鄧小平は共産党の規律に従って陝西省から上海の党本部に出向き、
地下活動に従事することになった。
蒋介石は共産主義者と亀裂を深めたため、彼らが攻撃されることを恐れるようになった。
彼は一九二七年四月、自ら共産主義者たちの殲滅に動き、
その指導者の多くがすぐに殺された。
上海では中央委員会が、かつての協力相手で、
そして今や生きるか死ぬかの敵となった者たちに発見される
危険の中で地下活動を続けていた。
見つかるのを避けるため、鄧はさまざまな人物に変装し、生涯を通して技術を磨いた。
すなわち彼は、外の人間に共産党の活動に関する手がかりを決して与えず、
他の党員に迷惑がかかる可能性のある手紙の痕跡は決して残そうとしなかった。
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
一九二七年八月七日に、国民党への対応を話し会うために、漢口に集まって緊急会議を開く。
この会議に鄧小平は、記録係として参加し、毛沢東と初めて出会う。
ちなみに、毛沢東は湖南省出身で、湖南なまりが凄かったらしい。
話をかなり飛ばすが、
アメリカのアシストなどもあり、
一九四九年一〇月一日、毛沢東は北京で中華人民共和国の成立を宣言し、
首相には周恩来が就任する。
この辺りのことは、加地信行氏の『現代中国学』に、
わかりやすく整理された年表があるので、載せる。
① 昭和二四年 (一九四九)
中国共産党(主席は毛沢東)が中心となり中華人民共和国成立。
中華民国(蒋介石総統)は台湾へ還る。
② 昭和二九年 (一九五四)
中国共産党が実権を握り、全国人民代表大会第一回会議開催。
国家主席に毛沢東。
③ 昭和三二年 (一九五七)
毛沢東は大躍進政策など、三面紅旗(大躍進・社会主義建設路線・人民公社)
という政策をもちいて急進的に社会主義化を進めたが、無理があり、破綻してゆく。
④ 昭和三四年 (一九五九)
毛沢東は失脚して、劉少奇が国家主席になり破綻を再建してゆく。
⑤ 昭和四一年 (一九六六)
毛沢東が権力奪還のため文化大革命運動を起こして成功し、約十年続く。
⑥ 昭和四三年 (一九六八)
劉少奇が国家主席を解任される。
⑦ 昭和四四年 (一九六九)
毛沢東に協力して文化大革命を進めた林彪が毛沢東の後継者とされる。
⑧ 昭和四六年 (一九七一)
地位が危うくなった林彪がクーデタを起こしたが失敗。逃亡中に死亡。
毛沢東夫人の江青ら、後に四人組と言われるグループが実権を握ってゆく。
⑨ 昭和五一年 (一九七六)
一月に周恩来首相死去。九月に毛沢東死去。
一〇月に江青ら四人組が華国鋒首相によって反党集団として逮捕され失脚する。
⑩ 昭和五三年 (一九七八)
四つの近代化政策の下、鄧小平が実権を握る。
*昭和五四年(一九七九) アメリカと国交樹立。
⑪ 昭和五五年 (一九八〇)
四人組裁判開始。
⑫ 平成元年 (一九八九)
第二回目の天安門事件。
政治的要求をした人々に対して弾圧があったため「人権」「民主化」問題浮上。
⑬ 平成八年 (一九九六)
民選で李登輝が中華民国総統。
⑭ 平成九年 (一九九七)
二月に鄧小平死去。
七月に香港返還。
中国共産党の内部抗争を、
“農村派”と“都市派”に分けて見るとわかりやすくなるかもしれない。
毛沢東は徹底的な農村主義者で、初期の中国共産党は都市革命を唱えた、
李立三(りりつさん)、王明らによってリードされていたが、
毛沢東らが農村革命を主張し、勢いに押され都市革命派は敗れる。
その後、毛沢東は党内の権力闘争に勝ち、
中華人民共和国を建国し、国家主席にまで上りつめる。
そして、農村をテコとする大躍進政策を取るが、効率が悪く大失敗する。
その影響で、毛沢東は失脚し、都市派の劉少奇が実権を握り、都市において工業化を進める。
が、しかし、農村との貧富の格差が拡大し、農民の不満が増える。
それを利用して毛沢東が劉少奇らの都市派を失脚させ、再び実権を握ることに成功する。
文化大革命だ。
農民を重視し、知識人を弾圧し農村で働かせたが、文化大革命は破産し、
再び都市派が息を吹き返す。その都市派の代表が鄧小平。
ちなみに、農民は八億人で、都市は四、五億人いるといわれている。
いってみれば、現在、習金平がやろうとしていることも、
上のことを繰り返しただけ、という見方も出来る。
毛沢東と会った毛遠新は、鄧小平が文化大革命の成果についてほとんど言及しない、
劉少奇の修正主義路線をほとんど批判していない、
そして周恩来を標的とする批林批孔運動についてもまず称賛したことがないと報告した。
遠新はさらに、鄧はほとんど階級闘争に言及しないし、
生産を向上させることばかりに集中していると付け加えた。
最終的には、鄧が文化大革命前の体制を復活させようとしている危険性があると、
伯父の毛が最も恐れていたことを述べたのである。
毛と甥とのこの日の会見以降、鄧と毛との間の緊張は急激に高まった。
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
本書の中でヴォーゲルは、“農村派”と“都市派”の抗争という見方はとっていないが、
上述の様に、それを裏付けるようなことは書いている。
そして、中国共産党の公的な歴史は、一九七八年一二月一八日から二二日にかけて開かれた、
第一一期全国代表大会第三回中央委員会全体会議(一一期三中全会)を、
鄧小平の「改革開放路線」が始動した会議としているが、
ヴォーゲルはその前の華国鋒からだとして、次のように述べている。
世界に門戸を開くという中国の政策は
― 外国から学ぶ心構えと海外の技術を導入する熱意を含め ―、
一九七八年一二月の三中全会で確立された鄧小平のリーダーシップに始まる、
としばしば言われている。
しかし、こうした取り組みは実際には、すべて七七~七八年に華国鋒の指導下で始まったし、
また、華が進めた政策も彼の独創ではなかった。
多くの党指導者が、中国を新しい軌道に乗せるために必要と考えていた政策を、
華と鄧が推進したのである。
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
としている。
華国鋒は毛沢東によって選ばれている。
その政策は毛沢東が亡くなってから推進した、と言えるのかもしれない
ヴォーゲルは、その一連の流れも次のように書いている。
中国が一九六九年にソ連と武力衝突を起こすと、毛沢東は西側への門戸を開き、
七一年には中華人民共和国が国連で中国代表権を(台湾から)獲得した。
ただし、毛が生きていた間、中国はほんのちょっとしかそのドアを開かなかった。
毛の死後、華国鋒は対外関係、開放の試みを容認したが、
中国を(本格的に)開放して国際問題に積極的に参入させていく仕事は鄧小平に委ねられた。
中国政府の指導者は鄧の時代になるまで、帝国主義時代の苦い記憶を乗り越え、
他国と永続的で前向きな新型の関係を築き、第二次世界大戦後に生じた新たな世界秩序の中で
活動していくだけの未来像と政治力を持たなかった。
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
そして、国家主席に就任した鄧小平は、容認できるものとできないものとの間に線を引き、
重要演説で、四つの基本原則を提示する。
いかなる文書も
(一) 社会主義の道 (二) プロレタリア独裁
(三) 共産党の指導 (四) マルクス=レーニン主義と毛沢東思想
に、異を唱えてはならない、としている。
それは、歴史評価で党の権威を失墜させないように毛沢東をたたえ、
大躍進と文化大革命は批判するとういう、微妙なバランスを取っている。
経済の現代化を実現するためにも、四つ挙げている。
(1) 決して揺らぐことのない、終始一貫した政治路線
(2) 安定して団結した政治局面
(3) 刻苦奮闘の開拓者精神
(4) 「社会主義の道を堅持」し、「専門知識と能力」を兼ね備えた幹部の隊列
鄧小平は、日本の池田政権下での六十年代の所得倍増計画に強い印象を受けていたらしい。
仮想敵国は、一九六九までにはソ連になっており、その拡大を食い止めるためと、
現代化の支援国として、日本とアメリカに目を向ける。
鄧小平の戦略分析の起点は毛沢東と同じであった。
主要な敵を特定し、それに敵対する同盟相手を探し、
敵の同盟国を中立化して敵から引き離すことである。
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
そして、一九八二年三月一二日の中央軍事委員会では、軍の全体的問題について概説し、
解決すべき四つの問題として挙げ、
(1) 「太り過ぎ」を軽減する
(2) 組織構造を改革する
(3) 訓練を改善する
(4) 政治的、イデオロギー的意識を高める
「軍の戦闘力を高めて効率を上げるには、
『太り過ぎ』をなくさなければどうしようもない。…
人員を減らし、その分を装備の刷新に充てるのがわれわれの政策だ。
もし節約した分を少し経済建設に充てることができればなおよい。…
われわれの小規模精鋭化の対象は、主に不必要な非戦闘員、
そして指導や司令にあたる組織の人員だ。
最も重要なのは幹部の数を減らすことだ」
と述べている。
鄧小平と彼の仲間たちは、超大国との全面戦争の危険が低下する一方、
世界は二極体制から多極体制に置き換わりつつあり、
小規模戦争の危険が高まっていると判断した。
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
その他にも鄧小平は、一九六二年のインドとの国境地帯で行われた「短期決戦」を好み、
フォークランド戦争でのイギリス、レバノン侵攻のイスラエルの作戦行動を参考にしている。
さらには、毛沢東と同じく、敵の軍事技術が優れていようが、
「人民戦争」と核兵器の脅威が中国の抑止力になるとも信じていた。
そして、小学校から役人にまで、競争の激しいエリート主義的な試験制度も打ち立てている。
ヴォーゲルは、チベットにも言及していて、気になった箇所がいくつかあった。
北京とチベット人との間にはもう一つ、和解できない問題があった。
チベット人たちは、自治区の境界線をもっと外に拡大し、
他者のチベット人居住区を統合することを要求していたのである。
七世紀には、チベットの王国は中国とほぼ同じ面積の領域を支配していた。
そのころから四川省、青海省、甘粛省、雲南省のあちこちに小さなチベット人の村が生まれ、
存続してきた。だが、どれほど寛大な中国人でさえ、
そこまで広大な領土をチベットに譲歩することは考えられなかった。
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
共産党の宣伝情報を通じてチベットについて理解するようになった漢族の大衆は、
中国政府は寛大な財政援助をしているのにチベット人は恩知らずだと考えている。
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
一九八九年一一月、鄧小平は治安維持を図るため、
チベットに新しい労書記、胡錦濤を送り込んだ。
胡はさまざまなチベット人指導者と話し合いをしたが、
基本的には鄧の方針を繰り返しただけだった。
すなわちチベットの経済発展を支援し、マンダリンでの教育を拡充する。
他者との結び付きを強化する。一部のチベット人との協力を推進する。
そして分離主義者の活動は厳重に取り締まる。
八九年春、北京で学生たちが抗議デモを展開していたころ、
チベットでも大きな暴動が再び起き、胡はそれに対処するために戒厳令を公布した。
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
九〇年代後半にはラサの移住者の数はチベット人の数をしのぐ勢いになった。
チベットの若者は、将来を見据えてマンダリンを学び、
中国式の教育を受けるようになっている。
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
と、チベットへの認識が、侵略している中国共産党と同じなのは、いただけないだろう。
一九五〇年に、人民解放軍が青海から入り、チベット全土を席捲した。
当然、イギリスの権益を受け継いだインドとのあいだに衝突が起きたが、
当時の中華人民共和国は、建国後まだ日が浅く、外国と事を構える暇がなかった。……
そのときに北京は、覚え書きをラサのダライ・ラマ政権とのあいだに取り交わしたが、
その内容は、
「チベットの現状を変更しない、
従来のチベット仏教、王侯貴族たちの特権にはいっさい干渉しない、
チベットについては土地改革などを行わない」
というものだった。
チベット人にしてみれば、そういう関係こそ、
十三世紀にチベットが初めて元のフビライ・ハーンに服属して以来の、
伝統的なシナとの関係である。
つまりシナの皇帝が、チベット仏教界の施主という関係になるわけだ。
施主に対して自分たちは、施主の幸福を祈るラマたちであるという関係なのである。
そういう関係が、それからのちも持続できると思っていた。
ところが、それから九年後の一九五九年、いよいよ中国共産党は本性を現し、
チベットに手をつける。それで追い詰められた僧侶たちが反乱を起こす。
それに対して人民解放軍は猛烈に弾圧を加える。
それに抗議してダライ・ラマ十四世は、
ヒマラヤを越えてインドに亡命することになったわけだ。
それが今でも尾を引いているのである。
チベットの文明がシナとまったく異なる別系統のものである事実は、その暦法に表れている。
チベットの暦は十一世紀にインドから伝わったもので、
月の満ち欠けを基準とする太陰暦である点はシナ暦と同じだが、閏月の置き方が異なり、
しかも夜明けの六時の月齢によって日を呼ぶので、五日という日が二日続いたあとで、
六日を飛ばして七日になったりすることが起きる。
現在でもダラムサラからこのチベット式の暦が毎年刊行されている。
『東アジア史の実像 Ⅳ』岡田英弘
と、岡田英弘氏は述べられている。
「九〇年代後半にはラサの移住者の数はチベット人の数をしのぐ勢いになった。
チベットの若者は、将来を見据えてマンダリンを学び、
中国式の教育を受けるようになっている」
としているが、それを民族浄化というんじゃないのか。
マンダリンとは、満洲なまりの漢語。現在は標準中国語、北京官話などといわれているもの。
辛亥革命で清が倒れるまで、シナの第一公用語は満洲語だった。
中華民国時代になって、代わりに表に出てきたのは、
それまで漢人が話していた言葉だったのが、新しい中国をつくろうという運動のなかで、
それまで首都であった北京の、文化の高い、満洲族が使っていた漢語(北京官話)が、
共通語である普通話の基礎(プートンホワ)になったというわけである。
『東アジア史の実像 Ⅳ』岡田英弘
驚くのは、幕末の勝海舟も上の事情を認識していたこと。
『氷川清話』で次のように述べている。
これにつけて思い出すのは、清朝の官府語だ。
支那は、元来漢字の本家だから、どんな字でも人民は読むだろうと思われるけれども、
この官府語は、一種特別で、小説語でもなく、古文の語でもなく、流石の支那人も、
読めるものが少ないといふ話だが、…
と、当然だろうと言われれば、そうなのだが、
勝は官府語(満洲なまりの漢語)の存在を把握していた。
まあ、いずれにしても、ヴォーゲルのパンダハガー的なチベットの解釈には賛成できない。
ちなみに、現在、北朝鮮のミサイルが騒がれているが、
中国は一九八〇年に初めて大陸間弾道ミサイル(ICBM)の実験、配備し、
五八年に原子力潜水艦の研究を始め、
八二年には潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の初実験に成功している。
そして、天安門事件が起こる。
胡耀邦への哀悼の意を示すために無計画で平和裡に始まった動きは、
デモ行進、政治集会、テント生活を生み、怒りの抗議行動とハンストへと変化し、
さらには制御不能の衝突事態へと発展していった。
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
として、西側諸国から制裁を加えられ、
高官の訪中、技術、軍事技術の輸出に制限が設けられる。
その制裁中に、今後起きるかもしれにない対応について後継者たちに指示を与え、
有名な、
最初に冷静に観察すること(冷静観察)。
第二に足場を固めること(穏住陣脚)。
第三に落ち着いて行動をすること(沈着応付)。
としている。
さらに、
ソ連と東欧諸国が崩壊していくなかで、中国は瓦解の危機にあり、
若者の支持回復に向けた真剣な取り組みが求められていた。
愛国主義は経済発展や経済的機会の拡大と並ぶ解決策の一つに位置づけられた。
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
九一年一一月に宣伝部は、
「文化遺産を十分に活用して愛国主義と革命的伝統についての教育を実施に関する通知」
「全国の初等・中等学校における愛国教育の実施に関する通知」
を発行し、若い人々に、愛国主義教育を進める。
そんな中で鄧小平は、
一九九七年二月一九日の真夜中に、
パーキンソン病と肺炎の合併症によって九二歳で死去した。
鄧小平のリーダーシップの下、中国は真の意味で世界のコミュニティに加わり、
国際機関、そして貿易、金融、あらゆる段階の市民交流などに関するグローバル・システム
に積極的に参加するようになった。世界銀行やIMF(国際通貨基金)のメンバーにもなった。
中国はWHO(世界保健機関)や各分野のすべての重要な国際機関の活動のなかで
積極的に役割をはっきするようになった。
中国がWTO(世界貿易機関)への加盟が認められたのは鄧の引退から一〇年後のことだったが、
加盟に向けた準備は鄧の下で始まった。
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
そして、ヴォーゲルは、次のように鄧小平を評価する。
彼以上のことを行った二〇世紀の指導者が誰かいたであろうか?
彼以上に世界の歴史に大規模で長期的な影響をもたらした二〇世紀の指導者が、
他に誰かいただろうか?
『現代中国の父 鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル
として、ヴォーゲルは鄧小平に対して高評価だが、それはまだ早計な気もする。
今後の中国の政策によるだろう。特に諸外国に対して。
いずれにしても、今の中国の繁栄に繋がる基盤を整理し造ったのが、鄧小平、
という認識で間違いはなさそうだ。
長くなり、まとまりも欠け、省いた箇所も多数あるが、
気になった方は、独自で紐解いていただければ幸いです。
結局は、
「中国人にとって、言葉は言葉、行動は行動、現実は現実で、別である」
という、岡田英弘氏の言葉が見事に当て嵌まる。