共産主義は嫌いだが、ゲバラは好きだ。
サルトルに「二〇世紀で最も完璧な人間だった」と言わせ、
ジョン・レノンが「あの頃、世界で一番かっこいい男だった」と評し、
アンディー・ウォーホルがアートにし、マラドーナは腕にタトゥを入れている。
左寄りの人間には大人気だ。
(左)ジョン・レノン、(右上)サルトル、(右下)マラドーナ
本名エルネスト・ゲバラ=デラセルナは、一九二八年六月一四日にアルゼンチンロサリオ市
で、裕福な中産階級の家庭の第一子として生まれた。
父はエルネスト・ゲバラ=リンチで建築技師で、母はセリア・デラセルナ=デラジョサで自由
奔放な性格。
そんな比較的裕福な家庭に生まれたゲバラだったが、二歳の頃から喘息を患い、
学齢に達してからも学校を休みがちで、自宅でアルファベットを母から習っていた。
その喘息は、終生ゲバラを悩ませることになる。
成長するとフランス語の習得や、読書にも耽るようになり、
デュマ、ヴェルヌ、スティーブンソン、ロンドン、ジュペリなどの冒険小説、
ヴェルレーヌ、マラルメ、ボードレール、ネルーダの詩、
ラスカサス、ベガなどのラテンアメリカの歴史関連の本を読破し、
十四歳~十五歳の頃には、すでにフロイトを読み、周りの大人を驚かしている。
大学時代には図書館で一日十時間も読書に没頭し、
イプセン、パスカル、サルトル、ネルー、ガンディーも読んでいた。
革命戦争の山中ではゲーテとセルバンテス、マルクス・レーニンを読み、
革命後に国立銀行総裁に就任した時には経済学の本を読んでいた。
父は蔵書を約三千冊を有しており、大半は社会学、哲学、数学、工学。
宗教関係と軍事に関する本はなかった。そんな環境で育ったゲバラは、
生涯読書とマテ茶を欠かすことがなかった。
十三歳の時に、最初の放浪の旅をする。古びたジャケットに、マテ茶と湯沸かし器、
少ないお金をポケットに入れて。アラビアのロレンスを思い出す。
月日が経ちコルドバ市の中等学校に進学する。
同級生の兄の六歳上のアルベルト・グラナードと出会い親友となる。
アルベルト・グラナードは国立コルドバ大学卒で専門はハンセン病で、
大学卒業後はハンセン病院に勤めていて、ゲバラは何度もそこに訪れている。
グラナードとは、後にモーターサイクル・ダイアリーズの旅に出ることになる。
思春期のゲバラは、持病の喘息や母が乳がんの手術を受けたこと、
脳梗塞の祖母を身近にしていたことなども重なって、医師になることを決意する。
その後、一九四七年に国立ブエノスアイレス大学医学部に入学し、
ブエノスアイレスのアレルギー研究所でアレルギーを研究する。
そして、一九五一年にグラナードとおんぼろバイクで、ラテンアメリカを旅をすることを決意
する。『モーターサイクル・ダイアリーズ』の旅。
行き先は、チリ、ペルー、エクアドル、コロンビア、ベネズエラ。
途中からはバイクが故障し、徒歩とヒッチハイクの旅となるが。
旅の道中は、喘息と極貧に苦しむ老女を診察し、
わずかな薬を与えることしかできず苦悩したり、アタカマ砂漠では、
アメリカ資本と現地特権階級に搾取されていた貧しい鉱山労働者と出会い驚愕し、
アンデス山脈にあるクスコやマチュピチュでは、インカ文明の歴史の深さに感動したり、
アマゾンの奥地にあるハンセン病療養所では、医局で働きながら患者たちと、
一緒にサッカーなどをして楽しんだりした。
そして、ベネズエラのカラカスで二人は別れることになる。
グラナードはベネズエラのハンセン病院に勤め、ゲバラは競走馬取扱業者の貨物機で、
空路でマイアミ経由でアルゼンチンに帰る予定だったが、
貨物機の故障でマイアミに二〇日間滞在することになる。
初めてのアメリカでは、プエルトリコ人に間違えられ差別され、
後に大学時代の親友に苦い思い出だったと語っている。
そして、空路でアルゼンチンに帰国する。七ヵ月の旅の終わり。
この旅を通して、若きゲバラはラテンアメリカの現実を目にする。
飢え、貧困、病気、外国資本の支配、腐敗した為政者、先住民への差別。
アルゼンチンに帰国後は、足りない大学の単位を修得し、一九五三年に卒業する。
医師免許も取得。
大学卒業後の一九五三年七月七日、グラナードのいるベネズエラの首都カラカスへ再び旅に
出る。今回は列車での旅。途中、ボリビアに立ち寄る。
その頃のボリビアは、政治が混乱している状況で、錫産業を国有化し、農地改革もおこなおう
としていたが、アメリカの横やりで錫価格を暴落させ、経済封鎖をし、打撃を受けて改革は弱
まっていた。( 後のボリビア革命に繋がる )
そんな中、ゲバラはボリビアで、後にカストロ兄弟を紹介される、
同じアルゼンチン人の弁護士リカルド・ロホと偶然に出会う。
ロホと出会い、北に進路を取ることを決断する。
ペルー、エクアドル、さらにコロンビアの首都ボゴタに行こうとしていたが、政情が不安定で
断念し、予定を変更して中米グアテマラへ向う。
そのグアテマラでは、ハコボ・アルべンス・グスマンが合法的な選挙で、一九五〇年に大統領
に就任し、五二年六月に農地改革法に署名していた。ボリビアと違い成功していた。
そこでは、少数の白人とラディーノ( 混血 ) が、大多数のマヤ先住民を分断させ、搾取し、
富の多くを握り、さらには、悪名高いアメリカのユナイテッド・フルーツ社も、
農場一六万ヘクタール所有するありさまだった。(多くのラテンアメリカも)
農地改革に怒ったアメリカは、ユナイテッド・フルーツ社の大株主で顧問でもあった、
ジョン・ダレス国務長官と、アレン・ダレスCIA長官の兄弟によって陰謀を企てる。
ダレス国務長官は、ベネズエラのカラカスで開かれた米州諸国機構外相会議で、
「 米州における共産主義に反対 」をするカラカス宣言を採択し、
CIAに組織された八〇〇人の侵攻部隊が、ホンジャラスからグアテマラに侵入した。
善戦むなしく、アルべンス大統領は辞任し、メキシコ大使館に亡命。
その結果、農地改革は無効になり、元の大地主たちが復権した。
そんな、政情不安定のグアテマラにいたゲバラも、一緒に戦闘に参加していたが挫折し、
列車でメキシコに移る。
その九ヵ月間のグアテマラ体験が、人生の転換点となり、
武力がラテンアメリカを解放する手段だと認識することになる。
後にゲバラは、「 グアテマラの体験が革命家になり始めた 」と記している。
最初の妻でペルー人のイルダ・ガデアと出会ったのもグアテマラでだった。
そして、メキシコに移ったゲバラは、フィデル・カストロ、ラウル・カストロ兄弟や、
亡命キューバ人と出会い、その思想に共鳴していくことになる。
二八歳、若き革命家エルネスト・チェ・ゲバラの誕生だ。
若き日の読書とモーターサイクルでの旅が、ゲバラを革命家にした。
本書と『エルネスト・チェ・ゲバラとその時代―コルダ写真集』を持って、ペルーのクスコに
旅をしたことがあるが、ゲバラと同じようにインカ文明の歴史の深さに感動した。
ゲバラと交差した瞬間だったのかもしれない。