詩中に画あり、画中に詩あり。ファウストよりも、ハムレットよりも…



王維。生まれは河東蒲州、現在の山西省永済(えいせい)県。

盛唐に生きた文人。世間からは詩仏とも呼ばれている。

九歳で立派な詩文を綴り、琵琶の名手でもあり、十代半ばに長安に上り、

王侯貴族、上流階級の門に出入りし、天才少年ともてはやされ、周囲からの評判は高かった。

科挙の進士科に及第して官僚の道を歩み、大楽丞(だいがくじょう・音楽を司る官)にはじま

り、晩年諸官を歴任したが、安緑山の乱で捕まり苦難の後、粛宗に仕えて尚書右丞の高官まで

出世し、官名をもって王右丞(おうゆうじょう)とも呼ばれた。

別業輞川荘(もうせんそう)を営み、公務の余暇に琴を弾じ詩を賦し、画を描いて悠々自然の生

活を送り、俗塵を避け、仏教にも深く信仰して維摩詰(維摩居士)を慕い、字(あざな)は摩詰(ま

きつ)としている。

母が仏教の篤信者で、当時繁栄していた禅宗北宗派の傑僧、大照禅師普寂(ふじゃく)に師事し

ていた影響によると、本書解説で入谷仙介氏は書かれている。(他の著書も色々参考にした)

     偶然作六首 (第六)

老 来 嬾 賦 詩 老来 詩を賦(ふ)するに嬾(ものう)く

惟 有 老 相 隨 惟(た)だ老の相い隨(したがう)有るのみなり

宿 世 謬 詞 客 宿世は謬(あやま)りて詞客たり

前 身 應 晝 師 前身は応に画師なるべし

不 能 捨 餘 習 余習を捨つる能ず

偶 被 世 人 知 偶たま世人に知らる

名 字 本 皆 是 名字 本と皆な是なり

此 心 還 不 知 此の心 還た知らず

年をとるにつれ詩を作るのがものうくなり、身の老いばかりが私につき従ってくれる。

前世ではまちがって文学者になり、生まれ変る前はきっと絵かきだったろう。

身にしみついた創作欲の習気を捨てきれないままに、たまたま余技である詩や絵の方で世間の

人に名を知られてしまった。

維摩詰という私の名と字とは、もとみな私の真実を表現しているのだが、

この気持は一向に誰もわかってくれない。

宋の士大夫で、文豪として聞え、書画を能くした蘇東坡(蘇軾)は、

王維を「詩中に画あり、画中に詩あり」と評し、

明の董其昌は、その著『画禅室随筆』のなかで「文人の画は、王右丞自り始まり云々」と、

王維から文人画・南宗画の系譜が始まるとして、南宗文人画を尚び北宗院体画を貶めた有名な

一文を書いた。

      山中

荊 渓 白 石 出 荊渓(けいけい) 白石出づ

天 寒 紅 葉 稀 天寒く 紅葉稀なり

山 路 元 無 雨 山路 元と雨無きに

空 翠 湿 人 衣 空翠(くうすい) 人衣を湿(うるお)す

荊渓の水は枯れて白い石が姿を見せ、気候は寒くなって紅葉もとぼしい。

山路はもともと雨が降っていないのに、空に映える山の緑が人の着物をぬらしてしまう。

蘇東坡(蘇軾)が「詩中に画あり、画中に詩あり」と評した詩のひとつ。

安(阿)倍仲麻呂(あべのなかまろ)は養老元年(七一七)、遣唐使として唐に渡り、

姓名を朝衡(ちょうこう)と改め玄宗皇帝に仕え、李白や王維と交わった。

天宝十二年(七五三)に遣唐使藤原清河の一行とともに帰国を決意する。

その時に王維が送った有名な詩がある。

 送祕書晃監還日本國 (秘書晃監[ひしょちょうかん]の日本国に還るを送る)

積 水 不 可 極 積水(せきすい) 極むべからず

安 知 滄 海 東 安くんぞ滄海(そうかい)の東を知らん

九 州 何 處 遠 九州 何処か遠き

萬 里 若 乗 空 万里 空に乗するが若し

向 國 唯 看 日 国に向かいて唯日を看

歸 帆 但 信 風 帰帆 但だ風に信(まか)す

鰲 身 映 天 黒 鰲身(ごうしん) 天に映じて黒く

魚 眼 射 波 紅 魚眼 波を射て紅し

郷 樹 扶 桑 外 郷樹 扶桑(ふそう)の外

主 人 孤 島 中 主人 孤島の中(うち)

別 離 方 異 域 別離 方に域を異にす

音 信 若 為 通 音信(いんしん) 若為(いかん)ぞ通ぜむや

たたなわる波のはては極めつくせないから青海原の東がどうなっているかはわかりようもな

い。

九大州のうちではどこが遠い国だろうか。万里の海の旅は空中を飛行するのと変わらない。

お国へ向かうにはひたすら太陽のさしのぼる方向を見すえ、帰国の航海はただただ風まかせ。

大亀の甲らが大空に黒く映り、怪魚の眼の紅い光が波頭を鋭く射る。

扶桑の国の外にお郷の木が生い茂り、あなたは主人として孤島の中にお住居になる。

これから別れて境を異にすることになり、便りもどうして通わせたらよいことだろうか。

安倍仲麻呂は、明州(寧波)で開かれた送別の宴で、東に月を眺めて

「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の和歌を詠み、

訳して唐人に聞かせたところ、皆感涙を流したという有名な話が残っている。

だが、一度帰朝しようとしたが難船し唐に帰り、その地で死んだ。この時に李白は詩を残す。

幕末に人間形成を終え、明治、大正まで生きた書画一致の最後の文人富岡鉄斎もこの場面を

見事に描いている。

〈安倍仲麻呂明州望月・円通大師呉門隠棲図〉大正三年(一九一四)

夏目漱石は『草枕』のなかで、『唐詩選』にも選ばれ、広く親しまれている

王維の詩『竹里館』を引いている。

     竹里館

獨 坐 幽 篁 裏 独り坐す 幽篁(ゆうこう)の裏

彈 琴 復 長 嘯 琴を弾じ復た長嘯(ちょうしょう)す

深 林 人 不 和 深林 人知らず

明 月 來 相 照 明月 来って相い照らす

奥深い竹やぶの中に、ひとり坐っておる。

琴をひいたり、ひとふし吟じたりする。

里を離れた深い林のこと、人にはわからぬ。

明るい月が来て、照らしてくれる。

さらに、自身の胸中を主人公の画工の青年に代弁させてもいる。

二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。

惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、

わざわざ呑気な扁舟(へんしゅう)を泛(うか)べてこの桃源に溯るものはない様だ。

余は固より詩人を職業にしておらんから、王維や淵明の境界を今の世に布教して広げようと云

う心掛も何もない。

只自分にはこう云う感興が演芸会より舞踏会よりも薬になる様に思われる。

ファウストよりも、ハムレットよりも難有(ありがた)く考えられる。

こうやって、只一人絵の具箱と三脚几を担いで春の山路をのそのそあるくのも全くこれが為で

ある。

淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも否人情の天地に逍遥したいから

の願。一つの酔興だ。

(『草枕』)

漱石の遺墨のなかに王維の「鳥鳴磵(ちょうめいかん)」の詩を書いた色紙もあり、

王維に自分を重ねていた可能性が高い。

     鳥鳴磵

人 閑 桂 花 落 人 閑にして 桂花落つ

夜 静 春 山 空 夜 静かにして 春山空し

月 出 驚 山 鳥 月出でて 山鳥を驚かし

時 鳴 春 澗 中 時に鳴く 春澗の中

「鳥鳴磵」は本書に収録されていないが、静かな春の夜の山荘の空気が描き出されている。

     田園楽七首 (うち一首)

桃 紅 復 含 宿 雨 桃は紅にして復た宿雨を含む

柳 緑 更 帯 春 煙 柳は緑にして更に春煙を帯ぶ

花 落 家 僮 未 掃 花落ちて家僮(かどう)未まだ掃わず

鶯 啼 山 客 猶 眠 鶯(うぐいす)啼いて山客猶お眠る

桃の紅い花は、よいごしの雨をたたえている。

緑の柳の枝は、春のもやをまとっている。

花が散ったのに召使は掃除せず、鶯が囀(さえず)るのに、山へ来た人はまだ高いびき。

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊い。

住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有(ありがた)い世界をまのあたりに

写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。

こまかに云えば写さないでもよい。只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。

(『草枕』)

渋柿も熟れて王維の詩集哉

漱石

漱石を見たらわかるが、厭世的な気分に陥っているのであれば、ファウストよりも、

ハムレットよりも、詩中に画あり、画中に詩ありの王維の詩の方が慰めてくれるはず。

かのやうに山水を愛するのは、

王維よ、あまりに世を厭ふからではないか。

あなたが画いた寂しい雪景、

あの白い岩も柳も

あまりに白い。

凡ては水墨の暗い情致の中で、

あなたの霊はあまりに白く落ちついている、

あまりにあなたは澄みきつてる。

王維の雪景(水墨集) 北原白秋

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王維/小川環樹 岩波書店 1999年02月
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夏目漱石 新潮社 2005年09月
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和田 利男 文藝春秋 2016年08月19日
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夏目漱石/坪内稔典 岩波書店 1990年04月01日
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大槻幹郎 ぺりかん社 2001年01月