東アジアは堯舜三代(夏・殷・周)で治るよ |『書経』


『書経』は中国古代の堯舜三代(虞書・夏書・商書・周書)の政治的理念を説く文章を集めたも

ので、「経書(けいしょ)」と呼ばれる中国古典のなかでも、特に重要とされているものであ

る。古くはただ『書』と言っていた。『論語』や『孟子』でもそうのように呼ばれている。

孔子の教団に属する人々は儒と呼ばれたが、『詩』と『書』は孔子の学校の教科書であり、知

識人の必修文献であったとも言われている。この『詩』と『書』は多数あったが、孔子が整理

統合したともされている。さらに『孟子』では「詩」と「書」ともにしばしば引用されている

が、『詩』は考慮を払わずに引用されているのに対し、『書』に関してはそのほとんどにおい

て、引用された『書』の言葉が発せられた由来を説明している。そんな孟子の時代は、『書』

の各篇の成立の事情が強く意識された時期に相当する可能性が高いとされている。

かくして『書』は、「過去の聖賢の事績を伝えるもの」という、歴史書的な存在になっていっ

た。そのことを特徴的にあらわすのは、この書を呼ぶのに『尚書』という言葉が用いられるよ

うになったこと。今の中国でも『尚書』と呼ばれているが、この『尚書』という名称が一般化

した時点で、『書』は過去についての知識を身につけるための、一つの学問の対象と化した。

「書」の語源は、単に「記録されたもの」あるいは「記録すること」にとどまらない。

この文字には呪術的要素が強いとも言われている。白川静『中国古代の民族』によれば、祝詞

の器をその呪能を阻止するために、針などで害される恐れがあるので、隠されることが多く、

その呪能をはたらかせようとする場所に隠され、埋められた。古代の聚落は、馬蹄形のように

中央をかこみ、周囲に土垣を作ることが多く、その土垣の要所に、木の枝や土で蓋うた土中に

深く、その器を隠しておくことがある。それが書であるという。書は聚落を守るため、外から

の邪霊の侵入に備えて、ひそかに呪文や呪符を埋めておくものであったという。しかし、共同

体としての盟約をいう説も指摘されている。

『書経』には二種類のテキストが伝わっており、それらを『今文尚書』『古文尚書』と呼んで

いる。秦の始皇帝は法治を強力に進め、儒家を始めとして、法家以外の諸学派が批判的であっ

た。そのため、法家や自然科学や占い関係の本を除き、諸学派の本を集めて焼いたとされてい

る。焚書である。また、儒家の学者を穴に生き埋めにしたとも言われている。坑儒である。

有名な焚書坑儒である。司馬遷『史記』儒林伝によれば、「伏生はもと秦の博士であった。漢

の孝文帝(前一八〇〜前一五七年在位)のとき尚書に通じた人を求めたが、いなかった。伏生が

よく通じていると聞き、召し出そうとしたが、すでに九十余歳であった。そこで朝錯(ちょう

そ)に出向いてその学を受けさせた。秦の時に焚書の事件のため、伏生は尚書を壁にめり込めて

かくしていた。漢代になって伏生がとり出したところ、数十篇は散逸し、二十九篇だけを得

た」とある。この二十九篇の尚書は、隷書(漢代の字体)で伏生によって伝えられたので、これ

を『今文尚書』と呼んだ。

『古文尚書』とは『漢書芸文志』によれば「尚書古文の経四十六巻』とあり、五十七篇に分か

れていたと記されているという。また『古文尚書』が世に出た経緯については、「『古文尚

書』は、孔子の旧宅の壁の中から見出された。漢武帝(前一四一〜前八七年在位)の末年に、魯

の共王が孔子の屋敷を壊して、自分の宮殿を広げようとした。その時に『古文尚書』・『礼

記』・『論語』・『孝経』など数十篇の書物が発見された。いずれも戦国時代以前の古い字体

で記されていた」という。古い字体で記されていたので『古文尚書』と呼ぶ。

これらのことに関しては、本書の解説で丁寧に説明されているが、加地伸行『儒教とは何か』

でも同様に説明されている。『古文尚書』には偽作もあり、これを『偽古文尚書』と呼んでい

る。その核となっているのは、戦国頃の諸子に引用されている『書』の断片であった。それを

中心として偽古文は作られていった。しかし、人々はこれを真の尚書として尊び、学んだので

あり、その影響は極めて大きい。朱子学の論拠となっている重要なテーゼである「精一にして

中を執る」の大禹謨篇も偽古文である。

眇忽(びょうこつ)になるので、この二種類に関して掘り下げた話はやめておくが、本書は今文

古文の区別なく訳出されている。ちなみに、『詩』を『詩経』、『書』を『書経』というふう

に、「経」の字を付け加えてゆくようになったのは、「経学」の登場による。経学とは「聖人

と関わり深い古典についての解釈を加える学問」のことであり、前漢のはじめ頃から始まり、

しだいに形を整えてゆき、武帝の頃に前面に出てくるようになった。

儒教の権威が確立したのもこの頃であり、五経博士をおいて儒教を国教としたことによって決

定づけられたのは有名な話だ。

唐代時代に書写された古文尚書〈巻第六〉。東京国立博物館所蔵。


とにかく『書経』の由来については複雑怪奇な様相を呈していて、専門家でも紐解くのに億劫

になると思う。両テキストに少し話を戻すと、本書の解説の野村氏によれば、前漢においては

今文が、後漢においては古文系が盛行し、注釈も作られたという。しかしその後、孔子の旧宅

から出たとされる古文尚書は、いつの間にか散逸し、今文の学も永嘉の大乱(三一一)を経て滅

びたという。ところが東晋になり元帝(三一七〜三二二在位)のとき、梅頣なる人物が『古文尚

書』を献上した。それには孔安国の伝(注釈)もついていた。以後このテキストが重んぜられ、

唐初に太宗(六二六〜六四九在位)が『五経正義』という、経書に対する国定の解釈を、孔穎達

(くようだつ)等に命じて作らせたときも、梅頣献上の尚書を底本とし、孔安国の伝にもとづい

て再解釈を加えた。このとき作られたのが『尚書正義』であった。

そしてのちの宋代には、朱子などが梅頣献上本に対して疑問を抱いたが、朱子の門弟の蔡沈(さ

いちょう)は師の説を取り入れて、『書集伝』を著した。朱子の遺命によるとされている。

『尚書正義』より全体の意が通るように平明に解釈したのが『書集伝』であった。この『書集

伝』は宋学の隆盛とともにもてはやされ、元代には『尚書正義』に代わって科挙のための国定

テキストとされるに至った。この場合にも梅頣献上本を底本としている。本書はその蔡沈の

『書集伝』のよって訳されている。かなりややこしい話だったが、それが我々が『書経』と呼

んでいるものである。

宋版尚書正義 足利学校遺蹟図書館。「正義」とは注釈のこと。南宋時代に発行されたもの。

宋版纂図互註尚書 題跋草稿。作・富岡鉄斎

『書経』は中国古代の堯舜三代(虞書・夏書・商書・周書)の政治的理念を説く文章を集めたも

のだと冒頭で書いた。そして今回は、孔子『論語』にある「子曰く、周は二代に鑑みて、郁郁

乎として文かな。われは周に従わん」と孔子が最も高く評価し、夢にまであらわれた周ではな

く、はたまた、その周が鑑みた夏殷二代でもなく、伝説の最も古い層であり、古代の聖王(帝)

である堯舜の時代を書いた虞書を主眼にしたい。

孔子は堯舜と禹を加えた三人を最も理想的な大政治家だと評価している。『論語』の「雍也(よ

うや)」では二人の名前が、「泰伯(たいはく)」では「子曰く、大なるかな、堯の君たる

や・・・」「舜に臣五人ありて、天下治る・・・」と別々の箇所で二人に触れている。

「顔淵」でも舜に触れている箇所があるが、最終篇のその名は「堯曰(ぎょうえつ)」である。

『孟子』でも所々堯舜に触れているが、「滕文公上(とうのうぶんこう)」では「孟子善を道(い)

い、言えば必ず堯・舜を称す・・・」とある。

そんな伝説の時代を書いた虞書は、二典・三謨で構成されている。

二典は堯典(ぎょう)・舜典(しゅん)。三謨は大禹謨(だいうぼ)・皐陶謨(こうようぼ)・益稷(せき

しょく)の三篇のこと。「謨」は大謀の意で、益と稷とは、禹の水を治めるのを助けて功のあっ

た人。皐陶は舜の臣で、最も法理に通じ、法を立て刑を制し、又獄を造った。

白川静『古代中国の文化』では、皐陶は羌族(きょうぞく)の祖神で、羌族は牧羊族であったと

指摘されている。

堯(右は南宋・馬麟の作)

虞とは帝舜の氏であり、舜が天下を有した時の称号でもある。虞氏の時代の史官が記録したの

で虞書という。冒頭の堯典では帝堯の不滅の事績が記されているが、その書き出しからこれで

もかというくらい帝堯の徳を讃え、「欽明文思安々(きんめいぶんしあんあん)」の字で評価し

ている。「欽」はつつしみ深いことで、「明」はものごとに明らかに理解がとどくこと。

「文」は天地をよく整えることで、「思」は考慮深切で通敏なること。「安々」は天性に得た

もので、勉強によって得たことのものではないことをいう。「欽明文思」の四徳は堯の天性の

もので、堯の巨大の勲業はこの四徳にもとづいたものであることを言っている。

幕末の大儒であった横井小楠は、若き日の井上毅と対談した「沼山対話」のなかで、井上の

「古の学問は後世の学問とは違うのでしょか」という質問に対して、この「文思安々」の「文

思」が学問の眼目であって、古の学問の要はみな「思」の一字にある、と諭している。

帝堯は、この大徳を己のものとした上で、親族を睦ませた。また、一族が親睦すると、お膝元

の民百姓を強化して、穏和でかつ明らかな徳をもたせた。民百姓が明らかなよき徳を持つと、

さらに拡大して、天下の国々を協調和合させた。ついには全世界の人々みな善人と化し、和ら

ぎ合うに至った。『大学』の「明明徳」「親民」「止於至善」の三綱領と「格物」「致知」

「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」の八条目のようなことである。

ついで羲・和両氏に命じて、天の運行を慎重に計測し、日月・星座・月日の交会点などの動き

を、観測記録と測量器機とによって正しく把握し、農事暦を作らせ、心を込めて民間に配布し

た。そして、暦に誤差があるのを恐れ、羲仲を分遣して東方の嵎夷へ。暘谷ともいう。羲叔に

命じて、南方交趾の地へ。明都という。和仲を分遣して、西の果ての地におらしめた。昧谷と

いう。和叔に命じ、北方におらしめた。幽都という。そして帝堯は、これらの尽力したこと

に対して、「百官も暦に従って職務に励み、万事につけ業績はあがった」と労をねぎらった。

その後帝堯は、よく時節の運行に従った政治の行える人物を探し、臣下に問いかけるが、帝の

仕事を継ぐ人物はいないかと問いかける。そして帝堯は続けて臣下の四岳に、大洪水が天下に

災害を与えている。誰かこの危機を切り抜けることのできる者がいれば、治水の任に当たらせ

たい、と発する。群臣はみな口を揃えて、「鯀(こん)」を推薦した。しかし帝堯は、鯀は命令

に逆らった人物であり、人々も害する、と指摘した。そこで四岳は、試しにやらせてはいかが

でしょうと諫め、帝は承知し、鯀を任地へ派遣したが、九年経っても成果が上がらなかった。

帝位にあること既に七十年のある時、帝は四岳に譲位しようと提案するが、四岳は謙遜してそ

れを断った。続いて臣下たちが、帝のおめがねに適うような独り者が下にいます。それは虞舜

という男です、と推挙する。

その舜は、めくらの父を持つ若者で、その上頑迷、母は口喧しく、異母弟の象は傲慢という一

家であったが、孝心を持って家族の心をやわらげ、徐々に善行に導き、悪事を働かせないよう

に務めていた。そこで帝堯は舜を試すことにし、舜に堯の二人の娘を嫁がせ、舜がこの二人に

どのような手本を示すか見定めた。

『百美新詠図伝』娥皇女英。堯の娘である、娥皇(姉)と女英(妹)はともに舜の妻となった。

ここまでが聖王・堯典の話(伝説)である。次の舜典では、帝堯に見出され、諸官を遍歴し、摂

政の位についた時の話と、舜が帝位にのぼった時の話が述べられている。

のちに帝に即位する舜であるが、その功や徳も先帝堯の光輝を兼ね備えた人物であった。

また、深遠な哲理と、明らかな知恵を持ち、穏やかさと誠実さとを身につけていた。

これらの計り知れない心ばえが上聞に達し、帝堯によって取り立てられた。

登用されてからの舜は、まず民衆教化の任に当たり、父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の五つの

人間恒常のあり方を正すように努めた。ついで宰相となって百官を取り仕切り、また都の四方

の城門で、各地の諸侯を出迎え(外交)、心から和らぎあった。山林に足を踏み入れ、暴風、雷

雨に遭遇しても、道に迷うことなく、危機に際して優れた判断力と徳を示した。

そんな舜に対して帝堯は、余の後をついで帝位に登れと禅譲すると持ちかける。しかし、舜は

他に徳のある人に譲って、はじめは帝位を継ごうとしなかったが、正月上日(一日)、帝堯が位

を退き舜があとを継ぐことを、堯の始祖の廟に報告した。

舜は政のはじめにあらゆる儀式を行い、摂政の位についたことを報告したが、四方の諸侯や長

官たちと会見し、東方諸国を巡察し、泰山に至り柴を焼いて天を祭った。南方諸国も巡察し、

南岳衡山(こうざん)に至り、西方諸国巡察の際には、西岳華山、北方諸国の巡察では、北岳恒

山(こうざん)に至り、ついで諸国の諸侯と会見した。五年に一度、天子は諸国を巡察し、四方

の諸侯は各地方ごとに年をわけて来朝した。人々の前には、永遠に変わることのない五種の刑

罰を明示し、刑を行うに当たっては、慎重に期し、刑を施行する際には、誤りなきよう心を配

ることを諭した。しかし、例外処置として情状酌量の余地のある者は、遠方へ流し刑を宥た。

舜は以上の刑罰を施行する方針に基づいて、共工を北方の幽洲の地に流し、驩兜(かんとう)を

南のはて崇山に追放し、三苗(さんびょう)を西のはて三危の地に押し込め、鯀を南のはて羽山

に幽閉して、失政および天下を乱した責任を取らせた。この四者を罪したが、天下の人々は処

置の正当さに従った。かくして二十八年経ったとき、帝堯は崩御した。民衆は父母の死と同様

に悲しみ、三年にわたって天下は音曲を絶った。

この共工、驩兜、三苗、鯀を極地に追放したことを四凶放竄(ほうざん)という。

白川静『中国古代の文化』によれば、三苗は饕餮(とうてつ)で、饕餮は虎などの神獣をモチー

フとする青銅器の文様。共工はもと姜姓の奉ずる洪水神であり、鯀は夏系の洪水神で、驩兜は

素性のよく知られていない神。みなその本族の居るところと異なる方面に飛ばされている。

白川さんによれば、この四凶放竄の説話は戦国期後期に至って、すでに古い神話的伝承の意味

が知られなくなってから、神話的素材の断片をつなぎ合わせて作られた。しかしその基本とな

るべきものは、上古の邑落の生活において、その入口に髑髏棚をおいて、邪霊の入るのを防い

だ時代からの古い習俗にもとづいていると指摘されている。

年が明けた元日に、舜は祖霊をまつる廟に至って即位した。四岳とはかり、四方の城門を開い

て天下の賢者を招き、天下の人々の耳目の働きの助けを得て民の声を聞き、政治に役立たしめ

た。臣下らを適材適所に配置し、禹には司空として治水治山の任に当たってきたが、今後は宰

相となり、一層はげんでくれと諭した。禹ははじめ他の臣下の者を推挙するが、その任にあた

った。臣下の成績を、三年に一度ずつ考査し、三度の考査を重ねた段階で、その能力の良し悪

しによって賞罰を与えた。舜も善政を施した。

そんな舜は、三十歳のとき召し出して登用され、三十年摂政の任にあり、堯崩御ののち五十年

間帝位にあって、天に昇った。

大禹の献じた政治の方策が記されている大禹謨。これは偽古文だといわれている。

この大禹謨には、①禹、帝舜に進言する、②帝舜、禹に位を譲らんとす、③禹、摂政となり、

有苗を討たんとす、の説話がある。①の禹、帝舜に進言するでは、禹と帝舜との会話の中で、

政治を行うに際しての心得を述べた説話が中心となっている。眼目だったのは禹が帝舜に帝王

の徳を進言した箇所である。禹は言う。帝の徳は、個人としての善行に限られるのではなく、

民に善政を施すのも王者の徳である。その政治の目的は、民の生活を豊かに養うことにある。

水火金木土と穀物の六者は、万物の生きてゆく基礎であり、これを過不足なく塩梅しなくては

ならない。そのうえ、教育によって民の徳を正すこと、道具を作り、物品を流通させて民の生

活を便利ならしめること、衣類・食糧を豊富にし不足なからしめること、この三つのことを円

滑に行います。前の六者とこの三つ、合わせて九つが順調に人々の間にゆきわたると、民はそ

の九者の恩恵を讃えて歌いましょうと。

この禹が説いた六者と三つのことは、幕末に横井小楠が『国是三論』の「富国論」の中で、海

外貿易を目指し、半官半民の産業を興さなければならない、と主張した時に論拠とした重要な

箇所である。

②の帝舜、禹に位を譲らんとすでは、帝舜が老境に差し掛かり、禹に摂政の任につくよう命じ

た時の話である。しかし、禹は自分には徳がなく、とうていその任には耐えませんと謙遜して

皐陶を推挙する。帝舜は皐陶も高く評価し、皐陶が士となって五つの刑を正しく施行し、五つ

の教えを補って、民は正しき道にのっとって行動するようになったが、これはひとえに皐陶の

功績であったと述べた。続いて帝舜は禹の功績である、治水の功をあげ、これはまことに禹の

賢明さを示すものであり、禹と手柄を争う者は天下にいない。天の与えた帝位継承の順序は、

禹の身の上にあり、しばらく摂政の任に当たり、いつかは王位にのぼれ、と禹に諭す。

しかし、それでも禹は辞退する。さらに禹は、占い(亀卜)で吉兆を得た人に王位を譲った方が

良いと提案するが、その占いの結果も禹に吉兆と出る。それでも禹はおばみぬかずいて固辞す

る。

ここでの注目した箇所は、帝舜が禹に対して帝王の心得を述べたところである。その中には、

「人心惟れ危うく、道心惟れ微なり。惟れ精、惟れ一、允に厥(そ)の中を執れ」とあり、心の

修養に関する朱子学の論拠になっている重要なテーゼがある。「精一にして中を執る」という

意味である。

③では、その禹が摂政となり有苗を討たんとする話である。

舜が初めて摂政となった時と同様に、年が明けた元日の朝、禹は摂政につく命を先帝堯の廟で

受けた。そして帝舜は禹に言う。いま有苗の君は命に従おうとはしない。禹が行ってその罪を

ただせと。禹はそこで諸侯を召集し、兵を率いて有苗を伐つが、三十日経過しても苗民は依然

として命に逆らったままであった。そこで臣下の益は禹に進言する。徳が天を感動せしめると

き、いくら天が遠くても必ず届くものである。驕りたかぶる者はそこなわれ、謙虚な人は利益

を受ける、これが天の道であると。禹はこの徳さかんな言葉に対して、頭を垂れる。そして軍

を引き返し、帰国した。その後有苗は自ら降伏してきた。

皋陶

皐陶謨では、主に皐陶と禹との間での人材登用に関しての話である。

皐陶は、人材を見抜くことと、民心を安定させることが肝要だといい、人の徳ある行いには九

つのものがあると指摘する。寛容であるが、人を恐れさせるものを秘めている。柔弱であるが

筋金が通っている。謹厳であるが謙虚。治才はあるが敬虔(けいけん)である。柔順ではあるが

果断である。性はまっすぐであるが温和であり、大まかであるが廉直であり、剛健ではあるが

篤実であり、勇を好むが義も好む。これらの九徳が身についており、いつも変わることないこ

とが重要だと述べる。君主たるものは民心を疎かにしてはならないとも述べている。

続く虞書の最後である益稷では、禹が自らの功績をはじめて口にする。

大洪水が天にまで広がり、民は目もくらみ、なすすべも失っていた。そこで禹は、山川跋渉用

の四つの乗り物を用いて、山野をかけめぐり、川の流れを妨げる朽木を伐採した。益と力を合

わせて、人々に鳥獣の肉をすすめ、お腹を満たした。天下の大河の流通をよくし、四方の海へ

と水を流した。田畑の間を流れる小川や溝をさらえ、大河へ流れ込むようにした。そして稷と

力を合わせて、五穀の種をまき、腹一杯食えない者には、鳥獣の肉をすすめて栄養をつけ、民

を農事に務めさせた。また、食糧の乏しい土地へは豊富な地方から食べ物を移入させ、互いに

自己の住む地に多くある物資を交易するよう指導した。かくして、人々は穀物を充分に食べる

ことができるようになり、天下の諸国は、安らかに治った。その仕事が一段落すると、帝を助

けるために天下に五服の制を施行し、五千四里に及ぼした。各方面にはそれぞれに五人の長官

をおいた。帝舜もそのことを評価し、天下の者どもが、帝の徳教を実践しているのは、禹の治

水の功が、世にあまねくゆきわたったがためであると述べる。益稷の最後には、音楽について

語り、君臣ともに歌を歌う話も付けられている。それが虞書の最後である。

そして、夏書の冒頭には、禹が天下の山川を治めたときの記録である禹貢となっている。

いずれは、治水のために半身不随となって偏固となった、禹の洪水神話も取り上げたい。

その夏は、禹が舜の褝(ゆずり)を受けて建国した中国最古の王朝で最初の人間界の王朝。第十

七代桀(けつ)の暴政により殷に滅ぼされた。殷は商ともいい、湯王(とうおう)が夏を滅ぼして建

国した存在の確実な王朝。商とは殷の正号であり、それは商邑(しょうゆう)の名から出てい

る。紂王(ちゅうおう)に至って周に滅ぼされた。周は、武王(ぶおう)が殷を滅ぼして建国。前一

一〇〇頃〜前二五六。それぞれ夏書、商書、周書となっている。『孟子』の中で取り上げられ

ている湯武放伐の様子も記されている。湯王は夏王朝に仕えていたが、桀王の暴政に反対して

打倒し、殷王朝を開いた。武王は殷王朝に仕えていたが、紂王の暴政を打倒し、周王朝を開い

た。白川静『漢字』によれば、殷は沿海の夷族の種族であり、周は西北の夏系の種族であった

という。実際の三代の事柄に関しては、岡田英弘『中国文明の歴史』や白川静『中国古代の文

化』『中国古代の民族』の中で、詳細に説明されている。

その白川静『中国古代の文化』によれば、どうも禹の神話の経典化は、墨家の間によって進め

られたみたいだ。そして墨家が禹を称道したのに対し、儒家はその上に堯舜の説話を加え、そ

の学を堯舜に由来するものだと主張していった。より古いものを尚(たっと)しとする尚古思

想。儒家のもっとも有力な対抗者は墨家であり、それで禹の上に堯舜を加えるこの加上説は、

孟子の一派によって推進されたと推察されている。さらに儒家が堯舜を称道すると、墨家もま

たそれを取り入れ、その思想を根拠づけようとしたという。当時の儒家が堯舜禹湯文武周公と

いう道統説を唱えたが、そのためにはその聖業を示す文献がなくてはならない。『書経』の

「堯典」「皐陶謨」「禹貢」などは、堯舜禹の物語が、こうして作られたという。それらは、

古い神話的伝承を変改して、教典化したものであった。『孔子伝』でも詳しく説明されてい

る。ちなみに、司馬遷『史記』の冒頭では、「五帝本紀(ごていほんぎ)」という一篇があり、

黄帝からはじめ、帝顓頊(せんぎょく)、帝嚳(こく)、帝堯、帝舜の五代から帝の理想の治世を描

いている。なぜ黄帝からはじめたのか。加地伸行氏によれば、司馬遷の父司馬談の道家思想的

立場が影響を与えているという。父親の意志を無視するわけにはゆかず、儒家思想的立場であ

った司馬遷は折衷的に打ち出したという。青年時代の司馬遷は、五経博士の一人であり、「尚

書(書経)」を担当した孔安国について学んでいる。

岡田英弘氏によれば、「帝」という文字は、何かというと、この字に「口」をつけると、

「適」「敵」「嫡」の旁(つくり)になることからわかるように、もともと「配偶者」の意味で

あり、都市の始祖母神の夫と考えられた天の神のことであるという。


ぼくが『書経』を手に取ってみようとした動機は、幕末の開国思想家である横井小楠の影響で

ある。小楠は、西洋の政治の道を『書経』に当てはめて捉えた。朱子では西洋に対抗できず、

より直接に堯舜三代に照らし合わせた。中国古代の理想的君主堯は、自分の息子にではなく、

有能で衆望が集まっていた家来の舜に位を譲った。それが天命にかなっていたからであった。

それは世襲政治の否定でもあった。舜は格別に心の広かった人で、いろんな考え方に耳を傾け

ながら、それを自分の中で受け入れて、そして善い面を生かしながら政治的な決定をする帝で

あった。先述の通りである。そして小楠はそれをジョージ・ワシントンに当てはめて高い評価

を下した。小楠の場合には為政者の思索という事に非常に大きな意味が置かれる。小楠は「堯

舜精一之心術」とも申していた。安政四年には「所以堯舜巽。是真為大聖。(堯の舜を巽(えら)

ぶ所以。是れ真に大聖たり」という漢詩も詠んでいる。晩年の勝海舟は、堯舜の政治の重要性

を康有為と梁啓超に説いてもいる。

聖人の施政、利世安民の事業は、『書経』の堯典・舜典の二典と、大禹謨・皐陶謨・益稷の三

謨で大体を見ることができる。今の東アジア情勢を考えると、堯舜三代の治を思い出すべきだ

と強く感じるし、堯舜三代の治に則って善政を施せば、矛を収められることを実感している。

天はみずからその意志を示すことはないが、天意は民意を媒介として表現される。

為政者が天の徳を身に修めていれば、民意の支持を受けることができる。天意はそれによって

動く。ここには人民が、天意の媒介者として意識されている。政治の対象として、民衆の存在

が自覚されてきたのである。このような政治思想は、天の思想とよばれる・・・

『孔子伝』白川静

嗟乎唐虞(ああとうぐ)の道、明白なること朝霽(あさはれ)の如し。

之を捨てて用うることを知らず、甘んじて西洋の隷と為(な)る。

横井小楠(安政四年)

created by Rinker
野村茂夫(解説),宇野精一(編集), 鈴木由次郎(編集) 明徳出版社 1974-1-10
created by Rinker
久米旺生(翻訳) 徳間書店 1996-3-1
created by Rinker
今里禎(翻訳) 徳間書店 1996-7-1
created by Rinker
横井小楠(著)、花立三郎(翻訳) 講談社 1986-10-9
created by Rinker
白川静 中央公論新社 2003-1-1