江戸時代の日本に影響を与えた朝鮮の大儒 |李退渓『自省録』

聖 言 上 達 不 言 語  聖は上達を言うも 悟りを言わず

功 在 循 循 積 久 中  功は循環 積久の中に在り

既 説 無 為 便 説 誤  既に無為を説かば 便ち脱誤す

如 何 自 説 落 禅 空  如何ぞ自ら説いて 禅空に落ちん

李退渓

儒者の気概を大いに感じさせる漢詩であり、穎脱(えいだつ)で踧踖(しゅくせき)する。

そんな李退渓がもてはやされたのは江戸時代の日本でだった。

江戸時代初・中期、闇斎学派(崎門学)の開祖となる山崎闇斎(一六一八〜八三)は、土佐高知に来

て禅学修行に励んでいたが、海南朱子学派の野中兼山や小倉三省らと交わって、李退渓『自省

録』を熟読した。これを契機として、闇斎は退渓の説に導かれて朱子学の精髄に開眼し、禅か

ら朱子学に転じていった。それ以降、闇斎は『自省録』だけではなく、入手可能な退渓の著述

や退渓編纂の書籍をことごとく読破していったという。

闇斎の学は、佐藤直方、浅見絅斎、三宅尚斎の崎門三傑をはじめ、闇斎門下の約四千人によっ

て継承され、江戸時代を通して退渓の学が尊重された。また、退渓の著述や編纂書は、訓点を

付した和刻本として、日本で数多く出版された。それらは、徳川幕府の直言の昌平坂学問所

や、全国の藩校や漢学塾で教材に使用されている。

闇斎から約五十年後、肥後熊本の大野退野は、宝暦元年(一七〇四)二十八歳の時に『自省録』

を読んでいる。退野は中江藤樹が王龍渓に触発されて形成した陽明学を学んでいたが、『自省

録』を読んで陽明学から朱子学へ移った。退野以降は、平野深淵(一七〇六〜五七)や森省斎(一

七一四〜七四)などの退野後学を経て、幕末の開国思想家である横井小楠(一八〇九〜一八六九)

に継承されていった。そんな小楠は退野を尊敬し、退野朱子学を「真儒」として高く評価し

て、本庄一郎宛書簡には次のように書いている。

退野は、李退渓の自省録を見て、程朱の意味を暁り、・・・老年に至りても、国を憂い君を愛

する誠は、いよいよ深切に有し、真儒と申すべき人物である。

小楠は江戸に遊学していた時に、酒の上の過失を咎められて逼塞の処分を受けるが、その時に

『自省録』を読んで自己の功名心を反省し、経学(哲学)を基礎から学び返さねばならない必要

を痛感したといわれている。失意の中に思索と勉学を重ね、朱子学に転向した。

闇斎、退野、小楠のいずれの三人は李退渓『自省録』を読んで、大きくその進路を変更してい

った。小楠の直弟子だった元田永孚も『自省録』を尊重していた。

李退渓の書簡

李退渓の著書「退渓文集」

『自省録』は、李退渓が門人・知友に与えた数百通の書簡の中から、自ら二十二通を選び出

し、それを座右に置いて思索・自著に努めた書簡集であり、その内容は朝鮮朱子学の諸課題や

思想的精神を網羅しているといわれている。

『自省録』の存在には、退渓の門人たちにも知られていなかったみたいで、「年譜」や「言行

録」にも記録されていないという。その価値が認められて刊行されたのは、退渓の没後十五年

を経てからであった。母国の朝鮮よりも、海を隔てた江戸期の日本の儒学者の間で珍重され、

訓点を付された和刻本も刊行された。やがて朝鮮半島でも翻刻されて普及していき、今でも日

本版を底本にしている場合があるという。朝鮮刊行本は『退陶先生自省録』とあるが、日本古

刊本では陶を渓に改めている。

李退渓(李滉:1501-1570)

李退渓の名は滉。字は李浩、後に景浩。号は退渓、退陶など。慶尚北道安東郡(現安東市)陶山

面礼安県温恵理の出身。父の埴は進士であったが、退渓が誕生した半年後、七男二女を遺して

四十歳で病没した。退渓は母と叔父の松斎に陶酔を受けて成長する。

六歳になると「千字文」を習いはじめ、十二歳から『論語』を学び、十四歳の頃には陶淵明の

詩を愛好していたという。十九歳で『性理大全』を入手し、本格的に科挙の受験学習に入り、

周囲から大きな期待を寄せられるが、二十歳になった時に『易経』の学習に寝食を忘れて没頭

し、体調を崩して虚弱体質になってしまう。退渓は後年、国王や中央官界からの招聘を受けて

も、やむを得ない場合を除いて、百回近くそれを拒絶して郷里に隠棲することになるが、この

病弱な身が第一の口実となる。

二十一歳の時に許氏と結婚し、二十三歳の時には長男が誕生する。

そしてこの年には、京城(ソウル)にある太学に進学するが、当時の太学は二十二年前の乙卯士

禍(きぼうしか)の後遺症が残っており、学生たちは学習意欲を失い、浮薄な学風に流れていた

という。これを察知した退渓は、早々に帰郷する。士禍は、朝鮮朝成立期の功績で得た膨大な

既得権益を保持する勲旧派と、在郷中小地主集団を中核とした新興士林派との間で政争が激化

し、士林派に対して勲旧派が政治的弾圧を行ったものである。今と同じような現象だ。

慶尚北道安東の在郷地主である退渓は、士林派の一人と見なされていた。しかし、二十七歳に

は科挙に首席で合格して進士となっている。

朝鮮八道の慶尚道

慶尚北道 安東市

三十歳代の退渓は、仕官も家庭生活も比較的順調であった。三十三歳の時には、官僚のための

学校・泮宮で学び、その学識を高く評価される。これまでの退渓は独学であった。

そしてその帰路、驪州に帰郷していた金慕斎を訪問して、そこで初めて「正人君主の論」を聞

く。三十四歳には殿試に合格して任官生活に入り、東萊への日本人護送官などの雑事を命ぜら

れ、その後は、成均館典籍や弘文館修撰、経筵検討官など、主として文教的官職を歴任した。

しかし、四十三歳の時に、官界に蔓延していた権謀機略をめぐらす政争が退渓の周辺にも及ん

でくる。朝廷政治の腐敗と危うさを察知した退渓は、官僚の業務を退休して、郷里に隠棲す

る。この年から五十二歳までの十年間は、「三度退休して(郷里に)帰り、三度(中央官界に)召喚

される」という緊迫した政争の中に身を置くことになる。

四十四歳の年に、中宗が崩御し、その翌年には仁宗も崩御してしまう。この異常事態の中で退

渓は、国王に直接謁見して意見を述べる正饔院正を拝命する。ところが、その年の秋に乙卯士

禍が勃発して退渓もこの渦中に巻き込まれてしまう。この混乱の最中、削職されただけでな

く、実際に襲撃を受け、危うく一命を取り留めることができたという。四十六歳の退渓は帰郷

し、乙卯士禍で犠牲になった知己の葬儀を挙行する。そしてこの年、実家の近くを流れる兎渓

という小川のかたわらに、書斎の養真庵を築いて読書に専念し、また地域にある郷校の釈典の

指導をした。兎渓の呼び名を退渓と変更して、これを自らの号にしたのもこの頃だった。

四十九歳になると、官庁からの強い命令で、やむを得ず郷里を離れて、豊基郡守に赴任する。

その時、この郡内にあった大儒・安珦(あんきょう:一二四三〜一三〇六)の創設した白雲洞書院

を修復し、併せて国王に「書籍、学田、および扁額」の要請を奏上し、許可を得る。退渓はこ

の書院の名称を紹修書院へと改名し、これが朝鮮半島に設置される多くの書院は郷校ととも

に、在郷中小地主や士林派の学習拠点となり、地方の郷村共同体を運営する中枢機関として機

能することになる。

退渓は、四十五歳から逝去する七十歳までに、三品以上の要職を次々と拝命している。

国王の崩御や即位に関する諸行事や明朝への報告文作成、使節団接待などの指導を皮切りにし

て、諸政策や制度改革、帝王教育に至るまで、国王や官界から退渓への期待と要望が日々に増

大し、退渓の朝廷出仕への要請が頻繁に行われる。しかし、退渓はその都度、体調や服喪など

を理由にして、朝廷への出仕をできるだけ謝絶して、郷里で古典学習や、門人と朱子学に力を

注いだ。五十七歳には陶山に書堂の地を定め、『易学啓蒙伝疑』を著す。

そして、五十八歳の端午に『自省録』「識語」を記している。さらに退渓は、三度目の成均館

大司成を拝命して上京するが、病身を理由にして帰郷する。この年だけでも、実に六回、辞職

願いを出したが、許可されなかった。

五十九歳には『宋李元明理学通録』を編集、六十歳には陶山書堂を設置し、その翌年には「陶

山記」を作成する。六十四歳には「心には体用無きの弁」を作成し、心の工夫を重視した。

そして翌年の六十五歳の時に、「敬斎筬図」「白鹿洞規図」を作り、これを壁に提示する。

横井小楠も同じようなことをしている。


今も残る陶山書院

宣祖時代になると、困難な事件が続出し、退渓の高潔な人品と見識を求めて、国王や朝廷から

の招聘が頻発する。その中で、晩年の六十八歳、若い宣祖のために「聖学十図」「戊申封事」

を上奏する。この「聖学十図」は後世、韓国の至宝と称賛されているという。

そして最晩年の七十歳、いよいよ臨終の時を迎える。退渓は同席の門人に向かって、「日頃は

終日、諸君とわが謬説を論じあうことができ、ありがたいことであった」と丁寧に礼を述べ、

家族には「官職名による礼葬は辞退すること。墓碑は小石板を用いて「退陶晩隠真城李公之

墓」とのみ記し、墓石は不要である」と遺言する。その朝、侍人に命じて、盆栽の梅花に水を

やり、寝室を整えさせ、座りなおして、恬然として逝ったという。律儀な最期であった。

『自省録』は退渓が故郷の陶山で静居していた五十八歳の時に、編纂したとされている。

門人・知友に与えた数百通の書簡の中から、自ら二十二通を選び出した。その冒頭の「識語」

には、『論語』(里仁篇)の「古人が軽々しく言葉を口に出さなかったのは、わが身の行いがそ

れに伴っていないことを恥じたから」を引用し、朋友と講論考究のための書簡を往復して、言

葉で表現しているのは、やむを得ないことではあるが、恥ずかしいどころではなく、容赦され

るものではなく、まことに懼れ慎むべきことです、などと記されている。

退渓の律儀で誠実な人柄が窺い知ることができる。

陽明学を研究しているということで、朱子学派から弾劾され削職した南時甫に宛てた手紙に

は、「第一に必ず、世間の窮通(困窮か栄達か)、得失(利得か損失か)、栄辱(栄誉か恥辱か)、利

害(利益か損害か)等の一切を度外視して、これらで心を煩わさないようにすることです。この

心を治めることができさえすれば、心の患いの半分から七割は解消するでしょう」と的確なア

ドバイスをしている。これは現代にも通じる問題でもある。

門人の鄭子中に宛てた手紙には、「もし驀進する者は衰退するのも早いという孟子の訓戒を堅

持して、その努力を続けるなら、やがて学問が身を結び、気質が変じて仁徳が熟成し、人生の

一大歓喜事に遭遇することができるでしょう。しかし、問題は功を焦って、取り逃すことがあ

ることです。随時随処に皆そのように行うことです。ただ、そのようにわかっていても、徹底

して行えないならば、それは聖人の「先ず言おうとすることを行ってから、後で言うことだ」

という教えにそむき、恥ずべきことです」と答えている。

鄭子中宛てには同じような手紙がもう一通残されているが、この時代の学問をする態度につい

て次のように苦言を呈している。「私の郷里には、逆に学問を修めた人が多くいます。しか

し、皆、科挙試験に拘束されているので、彼らの読書は、たいてい表面的で、自分の頭で考え

足を踏まえて、その真義を理解しようとする意思がありません」。

同じく門人である金三兄弟のひとり惇叙に宛てた手紙には、学問の要法を伝授している。

「大抵、人が学問をする場合には、有事か無事か、意の感応が有るか無いかを問わず、(いずれ

の場合にも)ただ、敬することを主として、動時にも静時にもそれを失わなければ、その思慮が

まだ萌していない時は、心体は虚明で、その本領は至深至純です。また、その思慮がすでに動

いている時は、筋道が明らかになって物欲が退き、ごたごたした雑事の憂いが次第に少なくな

り、実績を積んで大成します」。

この一文を読んだだけでも李退渓が仁徳備えた素晴らしい人格者であったことが容易に想像で

きる。横井小楠が李退渓を通して、自己の功名心を反省したのも肯ける。

さらに金惇叙に宛てた手紙には、自己を修めることに努めないで、他人と長短を比較する、と

いうことは愚蒙なことだと喝破している。持敬の一事が学問の大本であると諭している。

李叔献(しゅくけん)。李珥(りじ:一五三六〜八四)の名で通っている。栗谷と号した。

退渓と並ぶ朝鮮性理学の二大高峰の一人。退渓が成均館大司成を拝命し、病気にて辞職願いを

出した一五五八年に、李珥は退渓を訊ねている。李珥二十八歳、退渓五十八歳の時である。

そんな李珥宛ての手紙も収録されている。李珥からの質問状は掲載されていなく、退渓が教え

諭しているような手紙が入っている。そこでは、ただ、十分に窮理居敬の工夫に努力するだけ

であり、この窮理と居敬の二つの工夫は、『大学』に説かれており、朱子は『大学章句』でこ

れを説明し、『大学或問』で詳しく論じている、として次のように認(したた)めている。

「貴方がこれらの書物を読んで、なお会得するものがないと悩んでいるのは、文章だけを読ん

で、まだそれを自分の身心や性情に照らして納得していないからではないでしょうか。

また、身心や性情に照合したとしても、真に切真な体認を通じて、その深い趣旨を味わうこと

ができていないのではないでしょうか。この窮理と居敬の二つは、互いに首と尾のように一体

ではありますが、実はこれはそれぞれの工夫です。躊躇することなく、随所に工夫すべきで

す。虚心に理を観て、我見への執着を優先させてはなりません。段階を追って十分に熟成し、

その効果を年月に求めてはいけません。得られないままでは投げ出さず、ひたすら生涯を貫く

修行であると考えなさい。その理がすっきりと融解し、敬が専一になったら、いずれも深く極

められて自得するものです・・・」。

退渓と李珥の学説の相違は、理気論・心性論の分野にあったといわれている。

主理派と主気派。退渓は理と気との区別を厳密にして理を重視したが、李珥は理とは気が発す

る所以であると説いた。後に李珥は、退渓の所説を継承する成渾と四七理気論争を展開する。

李珥は政治にも関心を持ち、修己のみではなく治人の重要性を強調した。その門流は畿湖学派

と呼ばれる。退渓と李珥の差異は後学たちの間で拡大生産されるうちに政治的論争に変質し

て、朝鮮政治史の重要なテーマとなっていく。

さらに、奇正字明彦大升(奇明彦)こと、奇大升(きたいしょう)との四端七情論争の手紙も収録さ

れている。奇大升は退渓の門人でもあり、号は高峯。

「そもそも四端は情であり、七情も情であって、どちらも情です。それなのに何故、四端と七

情という異名で呼ばれているのでしょうか。貴方が、「何について言うかが、異なっている」

と述べているのは、その通りです。思うに、理と気とは、本来、相互に依存しあって体をな

し、用をなしています。もともと理のない気はなく、また気のない理もありません。

ところが、何について言うかが異なっているので、分けて説明しなければならないのです。

古来、聖人・賢者がこの理と気に論及する場合、この両者をまぜこぜに一つのものとして説い

て、分けないで言っていることがあるでしょうか。それ故に、私は以前から考えてきたのです

が、情を四端と七情に分けるのは、あたかも性に本性の性(本然の性)と気稟(きひん)の性(気質

の性)の違いがあるようなものなのです。そうであれば、性について理と気とに分けて説くこと

ができるのなら、情についても、理と気とによって分けて説くことができるのではないでしょ

うか」。

四端七情とは、『孟子』にある四端と『礼記』にある七情のこと。四端は、惻隠、羞悪、辞

譲、是非の心で、それぞれに仁義礼智の端緒である。七情は善・怒・哀・惟・懼・愛・悪・欲

の七つの情。奇大升は四端は七情の中の一部であるという理気一元論の立場であったが、退渓

は主理的な理気二元論。退渓の学派は嶺南学派となり、李珥の畿湖学派と朝鮮儒学界を二分す

ることは先に触れた。退渓は朱子を純粋に継承したと言えるのかもしれないが、別の手紙には

次のように書いている。

「朱子は「性は即ち理である。心に在っては性と呼び、事に在っては理と呼ぶ」という説は、

その真意に透徹して察知すれば、理のわかりにくい処も、だんだん合点できます」

退渓は、朱熹の「増損呂氏郷約」を下敷きにして「社安郷約」を掲げ、社倉法や退渓門下生の

書院における祭祀や思想学習も、朱子学の文献を基本テキストにして、学習され導入してい

た。社倉法、郷役、郷校や書院の学校は、朱熹をはじめ宋明儒学者が重点を置いた郷村づくり

の三点セットだともいわれ、退渓の士林派はこれらを積極的に導入し、朝鮮社会に具現化して

いった。特に士林派の朝鮮朱子学は、当時の朝鮮社会における農業改革や郷村建設の需要に即

応した実践的なものであったという。解説を書かれている難波征男氏の言葉に直すならば、

「その学習方法が、みずから聖人を志向する体認自得を重んじたのは、このような社会改革に

適合したものであったと言えるであろう。体認学は、体認するまでは己のための学であるが、

体認するれば公共の道となる」ということになる。退渓は手紙の中でも体認という言葉使って

いる。この退渓の体認の学に関して、横井小楠の目に留まった節もある。小楠は、弟子の徳富

一敬に与えた書簡の中で、退渓の『自省録』を引用して体認の学に対する見識を表明してい

る。そこでは、心より真実に合点するのが、本領の合点というものである、ということを論

じ、この合点がゆけば、世間の窮理・得失・栄辱など、一切の外欲は、実々、度外のこととな

る、と喝破している。続けて「本領を合点する工夫は、本心の起ち現れているところを察知し

て、なるほど、この事だと、平生、心がけておくことこそ、この工夫なのである」と記してい

る。「本領があることを知っていること」と「本領を真実に合点できたこと」との間には雲泥

の差があることを示した。合点することの重要性は、若き日の井上毅にも沼山津で説いてる。

ちなみに、難波征男氏の解説は脱稿までに二年もかけて書かれている。本文の翻訳では八年

だ。難波氏はその過程において、朱子学の奥義の一端を示されている。それは「道を体得した

儒者は、工夫が親切である」ということであった。解説は大変ありがたいものとなっている。

以上がぼくが退渓を読んでの、ざっとしたあらましである。特に小楠が退渓を読んでその進路

や立場を大きく変更していたことが気になって『自省録』を手にした。読んでみてどことなく

小楠に重なる所もあるし、小楠が退渓を読んで功名心を反省したということも大きく肯けた。

難波氏の解説もまた素晴らしいものであった。今回は現代語訳しか載せなかったが、科挙を好

成績で通っただけあって、原文は流麗な筆致で書かれ静謐な様子が伝わってくる。

さすがの大儒である。


藤原惺窩・林羅山・山崎闇斎といった江戸時代初期の儒学者が学んだのは、退渓の系譜を引く

朱子学であった。朱熹から退渓へ、退渓から江戸期日本の儒学者へ、という塩梅に授与されて

きた。日本において、朱子学そのものの存在は一三世紀に知られていたが、それが仏教教団か

ら独立した力を持つのが一七世紀になってからで、社会への浸透はさらに遅れて一八世紀以降

であった。逆に朝鮮の方では、徂徠学(古文辞学)が知られ徂徠の著作やその門下の太宰春台の

著作が読まれている。朝鮮実学の集大成といわれる丁若鏞(一七六二〜一八三六)なんかは、日

本儒学や日本に関する著作も数多く残している。

李退渓は韓国の1000ウォン紙幣の肖像画となっている

最近の世論調査によれば、日本の印象を「良くない」と答えた韓国人は昨年比22ポイント増の

71.6%だという。逆も然りの結果が出るだろう。未来に繋がらないような歴史を蒸し返し、ど

こにでも銅像を建てる韓国人には辟易させられもするし、その韓国人を叩いて喜んでいる日本

人に対しても同様の気持ちが湧き起こってくるよ。本当にたわけ者だよ。

日本人をバカにしていた儒者の方が多かったと思うが、今は儒学を通して共鳴しあった歴史を

見返す時期に来ていると強く感じている。静謐で律儀でもあり、格物致知、主一無適を実践し

た李退渓は立派であった。現代人はその居敬を学ぶべきだよ。

created by Rinker
李退渓(著),難波征男(編) 平凡社 2015-10-26
created by Rinker
土田 健次郎 筑摩書房 2014-1-14