王陽明『伝習録』



 幽静の境地

山 中 示 諸 生  山中、諸生に示す

渓 邊 坐 流 水  渓辺流水に坐し

水 流 心 共 間  水流れて心共に間なり

不 知 山 月 上  知らず山月の上るを

松 影 落 衣 斑  松影衣に落ちて斑なり

王陽明

「陽明学は、朱子学とは異なり、ある一定の静態的・思弁的な体系的教説というのではなく、

人間や社会をどのように見、どう行動していくかという動態的・実践的な性格を強く帯びている

ため、師説の継承ということの意味が朱子学とは異なっていた」(『朱子学と陽明学』小島毅)

王陽明、本名は守仁。明の憲宗の時代に浙江省に生まれた。

父の王華は科挙を受験し、その中でも最高の栄誉である殿試(でんし)の首席合格者(状元/じょ

うげん)であった。

十二歳で祖父に従って父の赴任地である北京へ行き、家庭教育や塾講師について科挙試験の勉

強をした。

その時に陽明は塾講師に「人間は何をするのが第一か」と尋ね、塾講師は「読書して科挙の試

験に合格することだ」と答えた。それを聞いた陽明は「いや、そうではない。読書して聖賢を

学ぶことこそ第一等のことでしょう」と答えたという。

王陽明(守仁)・明 成化8年9月30日(1472年10月31日) – 嘉靖7年11月29日(1529年1月9日)

十七歳で妻を娶り、その初夜に散歩に出掛けたが、たまたま近くで道士に会い、夢中で議論

し、心配した家族が探し当てたときには夜が明けていた。その後も導引の術などを試し、禅僧

にも会っている。

陽明は朱子の学説を研究し、十八歳のときには江西の朱子学者である婁一斎(るいっさい)をた

ずね「宋儒の格物の学」を告げられたりもするが、どうしても合点いかない。

そんなこんなで精神の放浪を重ね、試行錯誤した結果が陽明の五溺(任侠の溺、騎射の溺、辞章

の溺、神仙の溺、仏教の溺)といわれているもの。

二十八歳で進士の試験に合格(三度目に)し雲南の司法官などにも任命されるが、三十七歳で跋

扈していた宦官と対立し、貴州省の竜場に左遷されてしまう。

左遷された場所は人の住まない僻地であり、そこでは「聖人だったらこんなところでどんなふ

うに暮らすだろうか」と石室を作って日夜瞑想にふけったり、『大学』を読んだりしていた。

するとある夜に、「理は自分自身の内面にそなわっており、外部に求める必要はない」「物事

の道理は物事に具わっているのではなく、判断主体である自分の心の中にあるのだ」と気づい

た。これが後に「竜場の悟り」「龍場の大悟」と呼ばれるもの。

その後、江西の地方官を勤め、この地出身であり朱子の論敵でもあった陸九淵(象山)の教説に

言及する機会が増え、「聖人の学とは心学である」として陸九淵の「心即理」を称揚し、後

世、陸王学と呼ばれるようになった。「知行合一」を強調したのもこの時期。

やがて三十九歳で都に帰り、四十六歳の時に南方の軍務総督となり賊を討ち、このときに門人

に送った手紙に「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」という言葉を残している。

四十七歳の時に、門人の手によって『伝習録』が刊行され、四十八歳の時に江西省の寧王が反

乱を起こしたが、陽明が二〇日もたたないうちに平定した。

しかし、朝廷はその報告を信じようとせず、陽明への中傷がいきかったが、四十九歳の時に冤

罪が晴れ、五十歳で初めて「致良知」を掲げた。

五十歳から五十六歳までは郷里に帰り、弟子たちと研磨を積み、陽明学を完成させる。

五十六歳のときに再び江西省で反乱が起き、討伐の勅命が下り、健康がすぐれなかったにもか

かわらず出陣した陽明だったが、それを平定し、凱旋の途次に病により南安の舟中にて没す。

門人の積が泣きながら、「何か遺言は」とたずねると、陽明は微笑して、「この心は光明、

いまさら何をいうことがあろう」と答えたという。

「心がそのまま理である。

天下に心をおいて他に、どんな事があり、どんな理があるというのか」(『伝習録』)

「知は行の始(もと)、行は知の成(じつげん)である。

聖学にあっては(知行の)功夫はただ一つで、知と行との二つに分けることはできない」

(『伝習録』)

「人は、個別の事例に即して研鑽(「事上磨錬」)すべきで、功夫がそこにむけられなかった

ら、何の益もない。

もし、静だけを目的的に追求していると、それは事が起こったとたんに必ず散乱し、結局なん

の成果もえられない」(『伝習録』)

朱熹(朱子)・宋 建炎4年9月15日(1130年10月18日)-慶元6年3月9日(1200年4月23日)

朱熹は政治的弾圧の渦中に世を去り、葬儀は政府から監視されながら行われた。

しかし、淳祐元年(一二四一)、孔子廟にあわせて祭られる儒者として、それまでの王安石に代

わって、周敦頤、程頤、程顥、張載、朱熹が新たに選ばれた。この改制は道学の公認、朱子学

の体制教学化と評価されている。

朝廷から権威を与えられたこと、印刷出版技術が向上し、それをうまく利用したことにより朱

子学はあっという間に普及した。

元や明の時代になると、体制教学としての朱子学が進められ、かつては革新的な意義を担って

いた朱子学が、体制護持や権力追従の役割を果たすようになり、科挙の科目にも採用された。

四書五経。『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書、『易経』『書経』『詩経』『礼記』

『春秋』の五経を決めたのも朱子だった。島田虔次は『朱子学と陽明学』の中で、朱子学の内

容をわかりやすく大きく五つに分けている。

第一は、存在論であり「理気」説。第二は、倫理学、人間学で「性即理」の説で朱子学の中心

をなしている。第三は、方法論「居敬・窮理」の説。第四は、古典注釈学、著述。第五は、科挙

に対する意見や政策論のようなもの。

朱子学成立以降の士大夫たちの生き方の指針となっていたのが、朱熹が高唱した「修己治人」

であり「おのれを修めて人を治む」。これは『論語』の「修己安人」に由来しているという。

朱熹は程頤、程顥の程氏兄弟(二程)を継承して「敬」という修養法を継承した。

その主眼は「主一」で「一を主とする」、精神を一事に集中させて他事に惑わされないこ

と。

第二の方法は、窮理であり、理を窮めること。『大学』のことばでいうと「格物致知」で、事

物の理をその究極のところまで窮め至ろうとすること。

理は人間の内なる理(性)であるとともに(「性即理」)、人間の外なる天地万物の理であると。

その手段は、儒教の経典を読み研究すること。(『朱子学と陽明学』島田虔次)

朱熹より九歳若く、ほぼ同時代を生きた陸象山(九淵)は、兄の九齢を引き継ぐ形で、朱熹が論

争した相手として有名であり、鵝湖(がこ)という場所で会談し、何通もの書簡のやりとりをし

て論争しているが、その中心的な論題は二つだったという。

一つは修養方法で重点をどこに置くかであり、もう一つは周敦頤『太極図説』をめぐってであ

った。(『朱子学と陽明学』小島毅)

『太極図説』の方は省くが(重要なのは認識している)、陸象山は朱熹の「性即理」ではなく、

人間においてもっとも「大」なるものであるところの「心」、それに全開心を集中することを

要求し「心即理」を主張した。

お互いに尊重はしていたみたいだが相手の学説を認めず、象山は朱子を「支離」と非難し、

朱熹は象山一派を「狂禅」と非難して激しく対立したという。

朱熹は学問中心、静的、知的、分析的であり、象山は道徳中心、動的、実践的、直観的である

というふうによく対比させられる。

「性即理」と「心即理」の対立は、この段階ではまだその意味を完全に露呈することにはいた

らなかったが、朱熹が没した二七〇年後の明代に、王陽明とその学派にいたってはじめて明白

なものとなった。(『朱子学と陽明学』島田虔次)

冒頭の通り陽明は、まずは篤実な朱子学者であろうと修養を積んでいる。陽明の有名な話に朱

熹の説を実際にやってみたことがあげられる。

聖人となるためには、天下の物に格(いた)らなければならない。そこで庭先の竹を格物するこ

とにした。友人は三日でノイローゼを発病し、陽明も七日で発病してしまった。

結局、二人は、聖人にはなろうとしてなれるものではないのだ、と嘆息したという。

『伝習録』下、一一八で言及している。

朱熹の「性即理」の説によれば、理は個人の「内」なる理であり、それと同時に「外」なる

事々物々の理でもある。物に格ることによって知を完成するためには、内なる理のみでなく、

外なる理をも窮めなくてはならない、としている。

その主張は、「内外なし」「内外を合す」であり、仏教や道教にかわる新しい儒教の「内」の

主張にほかならないという。(『朱子学と陽明学』島田虔次)

陽明の朱子学の解釈の問題もあるのかもしれないが、朱子学につまづき、朱子学に満足できな

かった理由を、島田虔次『朱子学と陽明学』の中で三つ指摘している。

一つは、朱子は格物を解釈して、天下の事々物々ぶ格る(至る)、としたけれども、天下の事々

物々に一つ一つ「格る」ということが、どうしてできるであろうか。

二つ目は、もし朱熹の解釈に従うならば、内と外(心と物、心と理)は、無関係、無意味な、対

立者となってしまう。

三つ目は、朱子の格物説は、結局において「外」によって「内」を補おうとすることにほかな

らない。

坐禅したり道士に会ったりして悪戦苦闘していた陽明だったが、三十七歳で左遷された僻地で

ある竜城で、「理は自分自身の内面にそなわっており、外部に求める必要はない」「物事の道

理は物事に具わっているのではなく、判断主体である自分の心の中にあるのだ」と大悟した。

それが「竜場の悟り」「龍場の大悟」と呼ばれているもので、格物致知を追求して「心即理」

に到達した。

「格物の格は、たとえば『孟子』の「大いなる人は君心を格す」の格で、つまり自己の心の不

正を去り、自己の本体の正を全(まった)からしめることである。

意のはたらいているそのところにおいて、その不正を去り、その正を全からしめさせすれば、

いついかなる場合にも天理の存しないことがなく、まさにこれこそが「理を窮める」ことなの

だ。天理とは明徳に他ならず、理を窮めるとは明徳を明らかにすることに他ならない」

(『伝習録』)

格物致知とは物、意の発動を正すことによって良知を実現する。心の本体であるところの天理

を、あらゆる場合や事象のうえに実現する。

致知とは知識を磨くことではなく、良知を実現するという意味になる。陽明学が「知行合一」

と称せられるのはこの点に由来している。(『朱子学と陽明学』島田虔次)

格物という語は『大学』で見え、『大学』というのは『礼記』の一つの篇であったが、朱熹が

自立させたもの。朱熹は『大学』の要点を三綱領八条目(さんこうりょう・はちじょうもく)にし

ている。

三綱領は「明明徳」「新民」「止至善」、

八条目は「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」。

具体的な個々のものごとについて、その理を窮め尽くして自分のものにすることが「格物」で

あり、八条目の第一段階。そうして得た識見を推し及ぼし(「致知」)、みずからの意思を誠実

にし(「誠意」)、心持ちを公正にし(「正心」)、自分の行動を統御し(「修身」)、一家一族を

きちんと統率し(「斉家」)、諸侯として領地を統治し(「治国」)、天下万民を安んずる(「平天

下」)。(『朱子学と陽明学』小島毅)

陽明では、八条目は段階ではなくなり、物を正すということは良知の働き(「致知」)であり、

それには内面が誠意・正心という状態であることが必要となった。

外にある理を窮めるのではなく、心の内なる人欲を正していくことが格物であり、各人が格物

することが、「平天下」の実現であるとした。

「事上磨錬」とは、外物と接触するその現場において、みずからの心を正しく持っていくこと

を実地に身につけていく、ということ。

小島毅氏は便宣的に、八条目の階梯性を信奉するかどうかを朱子学者か否かの境界としている

という。

「朱子学が道徳的修養と政治的実践を段階的に区別するのに対して、陽明学は現場主義の立場

から両者の壁を取り払っている。彼らが生きていた社会の情勢が、書斎で文献的知識を弄ぶこ

とを許さなかったのである。より厳密に言えば、そう感じた者たちのやむにやまれぬ心情が、

朱子学の枠を飛び出す陽明学として結集したのである」(『朱子学と陽明学』小島毅)

明代にはいくらか陽明学が流行ったみたいだが、続けて小島毅氏によれば、

「消費時代が到来し、人々は生活必需品以外のモノへの物欲を刺激される。

限度を知らず肥大化する物欲を制御することで社会に再び調和を取り戻そうとする思想―

陽明学の初発の社会的効用はそこにあったと思われる」

と指摘している。明末は禅の興隆期でもあったみたいだ。

その後、陽明学は四句教の解釈(無善無悪論争)で分裂し、銭徳洪の王学右派と王畿の王学左派

(中核をなすのが泰州学派)に分かれ、泰州学派からはさらに過激な思想家も輩出する。

第二世代の間で分岐が始まり、世代を重ねるたびにその差は広がっていった。

明代後半の江南地方で経済的好況と文化的爛熟の中で誕生し流行った陽明学だったが、繁栄の

終了と清朝治下での新たな秩序構築により、再び朱子学が力を得ることになっていった。

陽明学は一度断絶する。そして、清代には今まで以上に礼教の浸透をめざし、朱子学の教説も

批判するような形で考証学が浮上してくる。

中国で無善無悪論争が活発に繰り広げられていた時期に、日本では本格的な朱子学受容が始ま

る。

日本に朱子学が伝来したのは鎌倉時代といわれ、後醍醐天皇の建武の新政や北畠親房の『神皇

正統記』に朱子学摂取のあとがうかがえるが、専門家の目から見れば、朱子学とは呼べないよ

うな水準の理解しかしていないという。

京都の五山を中心として禅僧によって朱子学が学ばれていたが、応仁の乱をきっかけとして地

方へ広まっていた。特に薩摩や土佐が有名であり、周防(山口県)の大内氏も学問を奨励してい

たという。

江戸時代になると禅宗寺院から独立し、藤原惺窩の門人林羅山は政治顧問として徳川幕府に仕

え、子孫は大学頭として儒学を統括する職務を世襲するようになる。

朱子学に対しては、体制教学、幕藩体制を支えるイデオロギー、とよく批判されているが、小

島毅氏によれば、その批判は後世からさかのぼって形成されたものであり、幕府当局者の間で

も、羅山が説く学説はほとんど理解されていなかったという。

朱子学が武士階層に浸透するのは江戸時代後半だとするのが近年の通説になっているとも指摘

されている。

しかも、惺窩の思想は朱子学というより、道学や陽明学の要素も色濃く持つものであるという

指摘もあり、惺窩や羅山や闇斎が学んだのは朝鮮の李滉(りこう)の系譜を引く朱子学だった。

王陽明は日本で応仁の乱が戦われている頃に生まれ、寧波のすぐ近くが陽明の故郷であるが、

日本に陽明学がいつ伝わったかはよくわかっていない。

日本の了庵という僧が陽明に会い、陽明から文章を贈られているが、了庵が陽明学を将来した

わけではないという。

日本陽明学の開祖と位置づけられているのは、近江聖人と呼ばれている中江藤樹。その弟子に

水土論や正心論を説いた熊沢蕃山。その系譜に淵岡山(ふちこうざん)、佐藤一斎、大塩平八

郎、山田方谷というように、ひとくくりに陽明学派としたのは、明治の学者であった高瀬武次

郎や井上哲次郎によって広く定着した見方であるという。

岡倉天心が『日本の目覚め』の中で「王陽明の学説は支那自体には只一時的の影響しかなかっ

たように見えるが、日本人の心に対しては特別な魅力を持っていて、後に維新の大業に対する

主要な誘因の一つとなった」と指摘しているが、西郷隆盛は王陽明の『伝習録』を座右にして

いたのは有名な話だし、吉田松陰も同様のようなものだろう(『孟子』も)。

高杉晋作は長崎で『聖書』を読んだとき「これは陽明学だ」と語ったのも有名な話で、内村鑑

三はその話を『代表的日本人』の中で言及している。

その『代表的日本人』を内村は五人あげているが、その内の三人(二宮尊徳、中江藤樹、西郷隆

盛)は先述のように陽明学に打ちこんでいた人物であり、キリスト教と陽明学の類似性も指摘し

ている。

同じくクリスチャンであった新渡戸稲造は『武士道』の中で、「西洋の読者は、王陽明の著述

の中に『新約聖書』との類似点の多いことを容易に見いだすであろう」と書いている。

勝海舟も『氷川清話』のなかで陽明をべた褒めし、「全体陽明の学風は、簡易直截であるか

ら、我が国民の気風に最もかなうて居るやうに思ふ」と語っている。大隈重信も勝と同じ意見

を述べている。

松岡正剛は「陽明学に対する行動派日本人の心服には、やや異様なものや頑固なところや他の

追随を許さないところがあります。だからこそ幕末維新には吉田松陰から真木和泉まで、会沢

正志斎から西郷隆盛まで、陽明学は日本革命の旗印のように言挙げされたのです」「ところが

なぜか、そのような日本で陽明学はめったに本格的な議論がされてこなかったと言わざるをえ

ません。行動に走る危険な思想としてほったらかしにされてきたのです」(『日本という方

法』)と指摘しているが、その状況は一部の学者をのぞいて変りなく、知識人や言論人といわれ

ている人たちから聞こえてくることはない。

戦前戦後には安岡正篤(まさひろ)が陽明学を読講していたのは有名だし、三島由紀夫も陽明学

をかじっていたのも有名な話。三島は井上哲次郎の『日本陽明学派之哲学』を読み、『伝習

録』は読んでない。


近代中国では、孫文が東京にいた清国留学生に対して、維新の諸豪傑は王陽明の知行合一に沈

酔し、大功を成し遂げたと演説し、蒋介石は、日本が明治維新から現在に至るまで、強国たり

続けているのは、王陽明の知行合一、致良知の哲学であると言及している。

ただ、小島毅氏によれば、中国における近代以降の陽明学理解は日本の明治時代の風潮を受け

て再構築された可能性が高いと指摘している。

プロパガンダ機関でもあるCCTVの上の動画も視聴したが(このシリーズは20本以上もある)、

小島氏が指摘した通りの流れであり、明治維新についても触れている。

朱子学や宋学全体を理解しないと、陽明学はちゃんとつかめないと感じているし、

自分でうまく説明したとは思っていないが、きっかけになれば幸いだとは思っている。

島田虔次氏の『朱子学と陽明学』は、宋学から朱子学、朱子学から陽明学の流れを単線的に追

っているので理解しやすい。

小島毅氏の『朱子学と陽明学』は、各章ごとに朱子学と陽明学を対比しながら解説し、時代背

景や問題意識に焦点あてているので、広く、想像以上に深く理解することができる。

本当に理解したいのであれば、分厚い専門書を何冊も読んだほうがいいに決まっているが、ぼ

くみたいな一般人には、時間も限られているので、上の二冊はお薦め。

当然だが、直截に触発されたいのであれば『伝習録』。

乾坤我に由りてあり 安んぞ他に求むることをなすを用ひん

千聖みな過影    良知乃ち吾が師

陽明晩年の「長生」の詩句

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王 陽明, (翻訳) 溝口 雄三 中央公論新社 2005-9-1
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島田 虔次 岩波書店 1967-5-20
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岡田 武彦 明徳出版社 1970-10

コメント

  1. 『縮約(縮退)自然数』 より:

     ≪…「物事の道理は物事に具わっているのではなく、判断主体である自分の心の中にあるのだ」…≫を、
    西洋数学の成果の6つのシェーマ(符号)からの『自然比矩形』の中に≪…判断主体である自分の心…≫と[同定]できよう『両刃の剣』が[顕現]することだ。 

    [数の言葉]の世界では、『両刃の剣』が≪…「知行合一」…≫を指し示している。『両刃の剣』を創り出す数学妖怪キャラクターの『(わけのわかる ちゃん)(まとめ ちゃん) (わけのわからん ちゃん)(かど ちゃん)(ぐるぐる ちゃん)(つながり ちゃん)』に≪……「致良知」…≫を[縁起し](演技させ)たい。