大国は下流なり / 老子



最初に断っておくが、老子はつかまえられない。

押せば引くし、引けば押してくる。

諦めたところで老子は黙って座る。そして直ぐに居なくなる。

形を拒否し、無形にいたり、すべてをおおう。「上善は水の若(ごと)し」なのだ。

言葉であらわそうとする時点で老子から遠ざかる。たゆたっているのが老子。

これがぼくの老子を最初に読んだときの感想だ。

老子 下村観山

老子 横山大観


『老子』は五千数百文字の短いもので、上篇の道経(三十七章)、下篇の徳経(四十四章)の二篇

によって成り立っていて、『老子道徳経』ともよばれている。

老子道徳経図 姚華




老子道徳経〈上下〉南北朝/1373

司馬遷の『史記』老子伝のなかでは、姓は李、名は耳(じ)、字は聃(たん)で、老子とか老聃と

よばれ、周の王室の司書だったと記されている。春秋末期から戦国中期の歴史の大変動期に

著された、とも言われるが、はっきりした真相はわからないとしている。

ちなみに白川静は、「老荘のような思想を形成した基盤は、おそらく古い祭祀者の集団と関係

をもつものであった」と見立て、「老」という字も「長老の意であるが、それはもと、地域集

団などの司祭者をよぶ語であった」としている。

本書「解説」で金谷治も「この書物は個人の著作というよりは、一般に伝承されていた古い名

言を集めた編纂といった色彩が強い」とし、中公文庫版『老子』の「解説」の小川環樹は、

「老子の文体は、練りに練ったすえにできあがったようである。……屈折に富み、全体とし

て、散文よりは詩に近い。この著者は深く思索した人であったろう」、「八十一章の過半数が

韻文でできている」としている。

『老子』は断片的に書かれているのだが、統一感も感じさせるのが特徴だろうと、個人的には

思っている。

まあ、色々な説があるだろうが、その点でも老子はつかまえられない、ということだ。

       上善は水の若(ごと)し

最高のまことの善とは、たとえば水のはたらきのようなものである。

水は万物の生長をりっぱに助け、しかも競い争うことがなく、多くの人がさげすむ低い場所に

とどまっている。

そこで、「道」のはたらきにも近いのだ。

住居としては土地の上が善く、心のはたらきとしては奥深いのが善く、

人との交わりでは情け深いのが善く、ことばでは信義を守るのが善く、

政治としては平和に治まるのが善く、事業としては有能なのが善く、

行動としては時にかなっているのが善い。

すべて、水を模範として争わないでいるのが、善いのだ。

そもそも、競い争うようなことをしないからこそ、まちがいもないのだ。

       営魄(えいはく)を載(やす)んじ

迷える肉体をおちつけて唯一の「道」をしっかりと守り、

それから離れないでいることができようか。

精気を集中し身心を柔軟にして、あか児のようになることができようか。

不可思議な心の鏡を洗い清めて、少しのおちどもないようにできようか。

人民を愛し国を治めて、それで人に知られないでいることができようか。

万物の出てくる天門が開いたり閉じたりして活動するとき、

雌のように静かな受け身でいることができようか。

すみからすみまではっきりとわかっていて、それで何事もしないでいることができようか。

ものを生み出して、ものを養い、ものを生み出しても、それを自分のものとはせず、

大きな仕事をしても、それに頼ることはせず、

首長となっても、居すわってとりしきったりはしない。

以上が玄徳―不可思議な能力―といわれる聖人の徳である。

       虚を致すこと極まり

あくまでも無欲になってどこまでも心を空虚(から)にし、

深い静けさをしっかりと固く守っている。

そうしていると、万物はどれもこれもすべて盛んに生長しているが、

自分にはそれらがまたもとに返っていくのがみえる。

          (中略)

一定不変の常道をわきまえていれば、どんなことでも包容できる。

すべてを包容できれば、それが偏りのない公平であり、

公平無私であれば、それが王者の徳であり、王者と一致すれば、それは天のはたらきであり、

天と一致すれば、それは「道」とも一致し、「道」と一致すれば、それは永久である。

このような人は、その生涯を通じて危険にあうことがない。

       大道廃れて、仁義有り

すぐれた真実の「道」が衰えて、そこで仁愛と正義を徳として強調することが始まった。

人の知恵とさかしらさがあらわれて、そこでたがいにだましあうひどい偽りごとが起こった。

身内の家族が不和になって、そこで子供の孝行と親の慈愛が徳として強調されるようになっ

た。

国家がひどく乱れて、そこで忠義な臣下というものがあらわれた。

       反る者は道の動なり   (下篇)

前に向かって進むのでなく、あともどりをしてもとに返ってゆくのが、

「道」の動きかたである。

強くたくましいのでなく、弱々しいのが、「道」のはたらきかたである。

世界じゅうの万物は「有」としてのある存在から生まれてくるが、

その「有」は「無」としての「道」から生まれてくるのだ。

       天下の至柔は

世界じゅうで最も柔らかく弱々しいものが、

実は世界じゅうで最も堅くたくましいものを思いどおりに走らせる。

水が岩石を流すようなものだ。

また実体のないものであってこそ、少し隙間もないところまで入ってゆける。

水がきまった形をもたないからこそ、どこへでも浸みこむようなものだ。

わたしは、このことによってことさらなしわざをしない「無為」の立場こそが有益であること

を知った。

ことばに頼らない無言の教えと、ことさらなしわざをしない「無為」の利益とは、

世界じゅうでそれに匹敵するものはほとんどないのだ。

       大成は欠くるが若(ごと)く

ほんとうに完全なものは欠けたところがあるかのようであって、

そのはたらきはいつまでも衰えることがない。

ほんとうに充満したものはからっぽであるかのようであって、

そのはたらきはいつまでも尽きることがない。……

       大国は下流なり

大きな国というものは、いわば大河の下流である。

世界じゅうの流れが集まってくるところであり、

また世界じゅうがなびき従う牝(めす)である。

―牝はいつでも静かにじっとしていることによって牡(おす)に勝つのだが―、

そのように大きな国も、静かにじっとしていることによって、へりくだっているのだ。……

老子といえば、「無為自然」の遁世主義や厭世主義、「柔よく剛を制す」の武道の極意として

語られることが多いが、兵法や政治にたいしても「過剰」を戒め、その流れのなかで語られて

いることに、最初読んだときは驚いた。

「道」は語りえないけれども、不変で永遠の存在。

そして、その名づけがたいものが天地のはじめだともしている。

ちなみに「道」ということばは全部で七十六回、「徳」は四十四回現れている。

(小川環樹による)

全てにおいて老子は逆説的で、矛盾し反転する。

何かが消えると何かが生じ、止められ、離れられ、捨てられ、手放され、否定される。

白川静は「逆説は、人の原点に近づける修辞法である」と説明している。

『無心のダイナミズム「しなやかさ」の系譜』のなかで西平直氏は、

「『無心』という言葉は逆方向の意味合いを内に秘め、その言葉自身の内側に反転する勢いを

持っている。あるいは、常に外側にはみ出てゆく可能性を秘めているから、その全体像を、

一息の内に視野を収めることができない」

と、もの凄いことを書いている。

鈴木大拙は『禅と日本文化』のなかで、知識は三種類あるとし、

①「読んだり聞いたりすることによってうるものである」

②「科学的と普通いわれているものである」

③「直覚的な理解の方法によって達せられるものである」

としているが、老子は③に当てはまる。その内容は

「直覚的知識はあらゆる種類の信仰、とくに宗教的信仰の基礎を形成しており、

最も効率的に危機に応じて能うのである」

としていて、鈴木大拙の例に照らせば、危機の時代のなかで『老子』は著されたということ

だろう。

老荘思想から影響を受けて「中国禅」を生み、日本に入り大成された背景もあるように、

もっと注目するべきだし、その奥にある「タオ」に向かわないと、と個人的には思っている。

そして、今現在の国際政治を考慮すれば「大成は欠くるが若(ごと)く」や「大国は下流なり」

から学ぶ必要があるだろう。特に中国に当てはまることだ。(受け入れないだろうが)

「呼ぶことは即ち易く、遣ることは即ち難し」が老子でもあるのだ。

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金谷 治 講談社 1997-04-10
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小川 環樹 中央公論社 1997-03-01
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老子 岩波書店 2008-12-16
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鈴木 大拙 岩波書店 1940-09-01