謫仙・酒仙・詩仙・侠仙の李白 |『李白詩選』


 峨眉山月の歌

峨 眉 山 月 半 輪 秋  峨眉山月 半輪の秋

影 入 平 羌 江 水 流  影は平羌(へいきょう)の江水に入りて流る

夜 発 清 渓 向 三 峡  夜 清渓(せいけい)を発して三峡に向かう

思 君 不 見 下 渝 州  君を思えども見えず 渝州(ゆしゅう)に下る

ー峨眉山の夜空にかかる半輪の秋の月よ。

その影は、ここ平羌地方の長江の水にさし入り、江水とともにきらめき流れてゆく。

舟は夜半、清渓の駅を発ち、遠く三峡に向かうのだ。

君を思いつつ見ることもかなわず、むなしく渝州へと下ってゆく。

 黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る

故 人 西 辞 黄 鶴 楼  故人 西のかた黄鶴楼を辞し

煙 花 三 月 下 揚 州  煙花 三月 揚州に下る

孤 帆 遠 影 碧 空 盡  孤帆の遠影 碧空(へきくう)に尽きる

唯 見 長 江 天 際 流  唯だ見る 長江の天際(てんさい)に流るるを

ー黄鶴楼で、孟浩然が広陵にゆくを見送る。

わが親しき友は、いま西のかた黄鶴楼に別れをつげ、

春がすみに花々の煙る三月、遥かな揚州へと下ってゆく。

ぽつんと一つ、遠ざかりゆく帆影は、碧玉のような青空に吸われて消えた。

のこされたわが目に映るのは、天空の果てまでつづく万里の長江の流れだけ。

「峨眉山月の歌」の詩は、開元一三年(七二五)、李白が二五、六歳のころ、初めて蜀を離れる

時の作と考えられている。ここから長江を下り、諸国遊歴の旅が始まった。旅立ちの歌であ

る。「峨眉山」は後漢の頃から道教の寺院が建てられ、神仙が住まい治めるとされる「三十六

小洞天」の一つに数えられる仙山であり、六朝時代になると仏教寺院も建つようになり、唐代

の頃には仏教の一大聖地ともなっていた。

もう一つの「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」は、これも李白が二〇代後半の時期の作

とされている。「黄鶴楼」とは江黄(湖北省武漢市)の黄鶴磯にあった高楼の名であり、長江に

臨んで眺めがよく、仙人と黄色い鶴に関する伝説で有名。「孟浩然」とは自然詩人・隠逸詩人

として名高く、李白より一〇歳ほど年長の友人。李白はあまり過去の人への敬意を表に出さな

いと言われているが、その例外が孟浩然であり、もう一人は謝眺だった。

李白は絶句の名手と謳われ、どちらも七言絶句の代表作でもある。

李白の生涯ほど、様々な伝説的逸話を生み出している詩人は未だ嘗て存在しないだろう。

生誕伝説では、生まれる直前に母親が宵の明星の金星を夢に見て、その直後に李白が生まれた

ので、金星のことを太白星ともいうのにちなんで「白」という名にしたということが伝わり、

終焉伝説では、当塗(とうと)の北西にある長江の景勝地の采石磯(安徽省馬鞍山(ばあんざん)市)

で、月の美しい夜に錦の衣を着て夜釣りし、酒に酔って水面に映った月を捉えようとして溺死

し、さらに大魚の背に乗って天上に昇ったという。それにちなんで、采石磯には後に促月台が

建てられてもいる。

李白はその生涯をかけて神仙の世界に強い憧れを抱き続けていた。

荘魯迅『李白と杜甫―漂泊の生涯』では、幼い李白は、眉州(四川省眉山の付近)の象耳山(しょ

うじ)の道観で学習するよう父親に命じられ、五歳から干支や陰陽五行の書をそらんじ、一〇歳

になると諸子百家の典籍を読み漁る傍ら、道教の武術の練習に励んでいたという。

一八歳の頃には戴天山の大明寺に下宿して読書にふける傍ら、道士や隠者たちと交際してい

た。また二〇歳の年に成都に出てくるが、古跡を訪ね、道士たちと老荘思想を探究し、金を散

じて人の困窮を解したりもしていた。文名や狭気に富んだ奇行が地方の長官に聞こえ、出仕す

るよう召されるが、李白は一顧だにしなかったという。蜀の国は昔から道教の気風と同時に、

任侠の気風も強かった。その後の李白は、実際神仙になるべく各地で道教の霊場を訪ね、道士

の免許ともいうべき符籙(ふろく)を受けたりもしている。

都の長安に出た三〇歳の時には、賀知章(がちしょう)という有名な官僚文人がいたが、李白の

才能を見抜き、「子は謫仙なり」「天上謫仙人」、君は天界から流されてきた仙人のようだ

ね、と褒め称えた。李白も非常に喜んで、自分のことを謫仙と言っていた。

これは岩波文庫版には収録されていないが、李白が朝廷を追放されて間もなくの四四歳の時

に、次の「感興」と題する五言古詩を詠んでいる。

 感興 八首 其の五

十 五 游 神 仙  十五にして神仙に游び

仙 游 未 曾 歇  仙游(せんゆう) 未だ曾(かつ)て歇(や)まず

吹 笙 坐 松 風  笙(しょう)を吹いて松風に坐し

汎 瑟 窺 海 月  瑟(しつ)を汎(うか)べて海月を窺う

西 山 玉 童 子  西山の玉童子

使 我 錬 金 骨  我をして金骨を錬らしむ

欲 逐 黄 鶴 飛  黄鶴を逐(お)うて飛び

相 呼 向 蓬 闕  相呼(あひよ)んで蓬闕(ほうけつ)に向はんと欲す

李白墨筆画 梁楷 南宋時代・13世紀


大体において「黄鶴を逐うた」李白の生涯は、五つの時期に分けられているのが通説である。

第一期は出生から二五歳で、蜀で過ごした青春時期である。第二期は二五歳から四二歳まで

で、蜀を出て、江南や中原の各地を訪ね、さらに北辺にまで旅をした歴遊の時期。第三期は四

二歳から四四歳までで、長安で玄宗皇帝の朝廷に仕えた時期。第四期は四四歳から五六歳まで

で、長安を去って各地を旅した、再度の歴遊の時期である。この時期の初めには、杜甫とも旅

を共にしている。第五期は五六歳から六二歳の没年までで、安史の乱に際して永王璘(えいおう

りん)の軍に参加したものの、この軍は賊軍と見なされ、李白も流刑になったが、赦免され、そ

の後の旅先で没する晩年の激動の時期である。ちなみに、李白は生涯四回も結婚をしている。

李白の生涯に関しては、本書に収録されている松浦氏の解説や、宇野直人氏と江原正士氏との

対話形式の『李白―巨大なる野放図』、一冊で網羅できるように工夫された『李白と杜甫の事

典』でもこの五つの区分けで説明されている。

李白の生涯は伝説的逸話に彩られているが、家系や出生に関してはいまだに謎のままである。

そしてそれには二つの説がある。①漢民族という説、②西域の少数民族であるという説。

李白の臨終に当たって草稿を託された李陽冰(りようひょう)『草堂集序』や范伝正(はんでんせ

い)『新墓碑』などでは、李白は、隴西成紀(ろうぜいせいき・甘粛省秦安県)を本籍とし、五胡

十六国の一つ西涼の武昭王李暠(りこう)の九代後の子孫に当たり、その祖先は、罪を得て条支

(じょうし・西域の地名)に流謫されたという。また隋末に砕葉(さいよう・スイアブ。キルギス

共和国トクマク付近)に流謫され、姓名を変えていた。その後、唐・中宗の神竜年間(七〇五

−七〇七)の初め、李白の父が蜀(今の四川省)の地に移り住んだ。そしてこの地で李白が生ま

れ、また姓を李と改め、父の名は客(かく)とされる。これは『新唐書』の李白伝にも継承さ

れ、ほぼ通説になっていた。先ほど言及した荘魯迅『李白と杜甫―漂泊の生涯』でもこの流れ

で記述されている。要するに李白は蜀生まれの漢人だとされてきた。

しかし、②の西域の少数民族であるという説も呈されている。

この説の根拠は、砕葉や条支が隋代には漢民族の支配地域ではなく、ここが流刑の地となるこ

とはなかったということと、父の名である客は、西域少数民族の名が漢民族にはなじみがなか

ったため、このような通称で呼ばれたと考えられることである。李白は少数民族の出身であ

り、西域で生まれ、その後に一家は蜀に移り住んで李姓を名乗ったとされる。六朝隋唐におい

て蜀は西域の商人による交易が行われていた地域であり、さらに、李客自身も西域の貿易を行

う富商であったともいわれている。科挙は刑罰を受けた者の子、職人と商人、それと漢民族以

外の異民族は受けられなかったが、李白は他の多くの唐代詩人とは異なって士人の出身ではな

く、少数民族の商人の息子であったとするならば、その生涯にわたる特異な行動にも説明がつ

きやすいとも指摘されている。

李白の生地については諸説あるが、生年が則天武后の長安元(七〇一)年であるのはほぼ確かな

ようである。李白の生誕伝説は先述した通りなのだが、後年の詩を見て、李白の心の故郷は西

域ではなく、蜀の地にあったことは間違いない。

一〇代後半の李白は、剣術と神仙世界への傾倒を深めていた。

荘魯迅『李白と杜甫―漂泊の生涯』では、長江流域に伝わる道教の武術である青蓮派−老子の

「柔を以て剛を制す」という思想に従い、気を重んじる−の使い手として描写されている箇所

もある。二〇歳前後になると、蜀中の各地を訪ね、峨眉山などの景勝地に遊ぶ一方、様々な人

物と交わった。それらの人物の中には、宰相の地位に登り、その後は益州大都督府長史となっ

た文人政治家蘇頲(そてい・六六九−七二七)、渝州(ゆしゅう・重慶市)の刺史(しし)であった李

邕(りよう)のもとを訪ねている。

李白は科挙を受けられなかった可能性が高く、李白自身も受ける気はさらさら無かったと思わ

れるが、朝廷の中での地位を得るためには試験とは別に有力者の推薦を受けるルートもあり、

出世の糸口をつかむためであった。

李白・島田友春 (1865-?)

二五歳で蜀を離れる以前の数年には、戴天山に隠棲して読書に励み、道士や隠者と交わり、趙

蕤(ちょうずい)という任侠の気概を持った人物からは一年余り教えを受けた。また、東巌子(と

うがんし)という隠者と一緒に岷山(みん)に数年こもり、珍しい鳥を千羽も手なずけていたとい

う。このような神仙的世界への傾倒は、科挙受験の道を閉ざされていた李白にとっては、社会

的栄達を求めるための準備という側面もあった。唐代には、帝室の姓の李と、道教の開祖とさ

れた老子の姓が同じであることから、道教が皇帝によって保護されていた。道教に熟達するこ

とは、政界の中央へ近づくための手段でもあった。功名と退隠。この矛盾する二つの事柄を一

つの理念として李白は生涯求め続けた。

唯一現存する李白の真筆(北京故宮博物院所蔵)《上陽臺帖》

釋文:「山高水長,物象千萬,非有老筆,清壯何窮。十八日,上陽臺書,太白」

そして、開元一三(七二五)年二五歳の時に、李白は蜀を出て行く。その時詠まれた詩が「峨眉

山月の歌」である。岷江(びんこう)の船着場の清渓を発して渝州(重慶)へ向かい、三峡を越えて

蜀を出るという、長江を川下りする行程をたどった。さらに長江を下り、江陵(こうりょう・湖

北省荊州市)・洞庭湖・金陵(きんりょう・江蘇省南京市)・揚州などを歴訪した。

江陵では、歴代の皇帝にも尊崇され、時の皇帝玄宗(在位七一三−七五五)もまた宮中に召し

た、道士の司馬承禎(しばしょうてい・六四三−七三五)の知遇を得ている。李白は後にこの時

の感慨によって「大鵬賦」を作っている。大鵬は、荘子が『逍遥遊』で描いた、背の大きさが

数千里もある巨大な鳥。後に「大鵬賦」は長安や洛陽では工人なら誰もが愛読したという。

それからの李白は、蜀の友人でもあった呉指南と洞庭湖で遊び、金陵から揚州へも行き、ここ

では金三〇余万を散じて、落魄した公子を救ったという。約二年間、長江を下りつつ各地で豪

遊した。また、この時期には詩人の孟浩然(もうこうねん・六八九−七四〇)と出会った可能性

が高いという。孟浩然は襄陽(湖北省)の人で、李白より一〇歳ほど年長。何度か科挙を受験し

たが及第せず、故郷で隠棲した。その後長安に行って玄宗皇帝に拝謁したが、仕官には失敗し

た。李白が孟浩然に会ったのは、その後であった。そしてこの孟浩然が揚州に旅立つのを、江

夏(湖北省武漢市)の黄鶴楼で見送った。その時、別れの寂しさを表したのが冒頭に掲げた名作

「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」である。


李白はその後また長江をさかのぼって、安陸(あんりく・湖北省)に至り、寿山に落ち着く。

そしてここで最初の結婚をする。その妻となった許氏は、高宗の時の宰相であった許圉師(きょ

ぎょし)の子孫という名家の女性であった。この妻との間に、一女一男をもうける。

女子は平陽、男子は後に伯禽(はくきん)と名づけられた。いわゆる安陸十年である。

しかし、安陸を本拠としつつも、相変わらず李白は各地を旅をする。

「静夜思(せいやし)」はその頃に詠まれたとされている。

 静夜思(せいやし)

牀 前 看 月 光  牀前 月光を看る

疑 是 地 上 霜  疑うらくは是れ地上の霜かと

擧 頭 望 三 月  頭を挙げて 山月を望み

低 頭 思 故 郷  頭を低れて 故郷を思う

(五言絶句)

−寝台の前に月の光が射しこみ、白く輝いているのを見た。

地面に降りた霜かと見まごうばかりの白い月の光だった。

顔をあげて光の射す方を眺めやると、山の綾線に月が懸かっている。

いつしかうなだれて故郷に思いを寄せる。

李白は生涯のほとんどを漂白の旅に過ごしたが、都の長安に初めて入ったのもこの頃である。

この最初の長安上京の時には、終南山(陝西省秦嶺山脈にある)に一〜二年の間隠棲していた可

能性が高いという。終南山は長安の南にあるが、高潔な隠者としての世評を高め、長安の皇帝

にその名を知られる目的で、この地に隠棲する者は多かった。また、この時の李白は西北の邠

州(ふんしゅう・陝西省)や坊州にも赴いて、地方官に援助を求めている。

しかし目立った成果もなく、長安を後にする。その時の胸中を詠った「行路難」の詩がある。

 行路難 三首 其の一

金 樽 清 酒 斗 十 千  金樽(きんそん)の清酒 斗十千(とつじつせん)

玉 盤 珍 羞 直 万 銭  玉盤の珍羞(ちんしゅう) 直万銭(あたひばんぜん)

停 盃 投 筋 不 能 食  盃を停(とど)め 筋(はし)を投じて食(くら)ふ能(あた)はず

抜 剣 四 顧 心 茫 然  剣を抜き 四顧(しこ)して 心 茫然

欲 渡 黄 河 氷 寒 川  黄河を渡らんと欲すれば 氷 川を塞ぎ

将 登 太 行 雪 暗 天  将(まさ)に太行に登らんとすれば 雪 天を暗くす

閑 来 垂 釣 坐 渓 上  閑来(かんらい) 釣(つりばり)を垂れて渓上(けいじょう)に坐し

忽 復 乗 舟 夢 日 辺  忽(たちまち)復(ま)た舟に乗って日辺(じっぺん)を夢む

行 路 難          行路難(かた)し

行 路 難          行路難(かた)し

多 岐 路          岐路(きろ)多し

今 安 在          今 安(いづ)くにか在る

長 風 破 浪 会 有 時  長風 浪を破る 会(かなら)ず時(とき)有り

直 挂 雲 帆 済 滄 海  直ちに雲帆(うんぱん)を挂(か)けて滄海(そうかい)を済(わた)らん

(雑言古詩)

「私の行く道は難しい、本当に難しい、そのうえ分かれ道が多い。今私が行くべき道はどこに

あるんだろうと迷うばかり」「いい風が必ず吹いてくるだろう、遠くから吹く風が荒波を破っ

て開いてくれる、そういう時は必ず来る」「私は大きな帆を上げて舟に乗り、広い海をどこま

でも渡って行くぞ」(後半第三段の大意)。

李白三一歳の時に詠んだ詩であるといわれている。

「行路難」は楽府題(がふだい)、民謡や民歌の題名で、漢代くらいからある歌で、さらに李白

が替え歌を作った。当時の李白の心境がよく表れている。

酔李白図・高久隆古 (1801-1859)・江戸時代

長安上京と前後して、李白は嵩山(河南省登封市の西北)や洛陽(河南省洛陽市)も訪れている。

その嵩山では元丹丘と会う。元丹丘は李白の最も親密な友人の一人であり、元丹丘に贈った詩

は数多く残されている(岩波文庫版では収録されていない)。元丹丘は以前からすでに李白と知

り合っていたみたいだが、この頃には穎陽(穎水の北の地域をさす)に家を置き、嵩山のそばに

山居を建てていた。李白はこの山居を訪問し、共に神仙の境地に遊んだ。そしてまた、洛陽で

は元演(げんえん)と知り合い、随州(湖北省)に遊び、道士の胡紫陽のもとを訪問する。

李白は隠逸の士と交わる一方、有力者に自分を売り込むことも忘れなかった。

李白は安陸を中心にして長江流域から長安近辺までの各地を歴訪していたが、開元二三年から

二四年、三五歳から三六歳の時には、元演の父を頼って、大行山脈を越える旅をし、太原(山西

省)にまで足を伸ばす。そして李白は、北方の雁門関(がんもんかん・山西省の北)にまで赴いた

後、太原を離れる。

 元丹丘の歌

元 丹 丘          元丹丘

愛 神 仙          神仙を愛す

朝 飲 潁 川 之 清 流  朝には潁川(えいせん)の清流を飲み

暮 還 嵩 岑 之 紫 煙  暮れには嵩岑(すうしん)の紫煙に還る

三 十 六 峰 長 周 旋  三十六峰 長(とこし)へに周旋す

長 周 旋          長へに周旋す

躡 星 虹          星虹を躡(ふ)む

身 騎 飛 龍 耳 生 風  身は飛龍に騎(の)つて耳に風を生じ

横 河 跨 海 与 天 通  河は横ぎり 海を跨いで天と通ず

我 知 爾 遊 心 無 窮  我知る 爾(なんぢ)の遊 心の窮(きは)まり無きを

(七言古詩)

その後も李白は、安陸を本拠としつつ襄陽・揚州・荊州(湖北省)などに旅を繰り返す。

開元二八(七四〇)年、四〇歳の時、李白は安陸を離れて東魯(山東省南部)の沙丘に家を移す。

安陸に拠点を置いていた一〇年は、「兼済天下」の志ともう一つの志向性「独善一身」、道教

徒としての修養を積むことであった。魯の地では、姓名不詳の一婦人を側室とし、男子をもう

けたとされる。この地では「竹渓の六逸」と称される者共と徂徠山にて隠逸の遊びをなした。

玄宗

天宝元(七四二)年、四二歳の時、李白は玄宗皇帝の宮廷に召し出されることになる。

この年の正月、玄宗は儒学・文辞・軍略のそれぞれの方面に優れた才能を持つ人材を推薦せよ

との詔勅を下した。李白は、この詔勅によって上京した。推薦者は玄宗の妹で、道士の司馬承

禎に従って修行していた玉真公主(ぎょくしんこうしゅ)とする説が有力視されている。

李白は終南山に隠棲していたが、玉真公主の別館もこの山にあった。

春夜宴桃李園图、取材李白《春夜宴桃李园序》清代画家冷枚、(台北國立故宮博物院)

李白は東魯を発ち長安に向かう。問題となるのは子供たちだが、この時には安陸に住む正妻の

許氏は死去しており、彼女が生んだ平陽と伯禽は、南陸の側室であった劉氏のもとにあったと

いう。長安に入った李白は、紫極宮(老子廟)に逗留した。道教の寺院である道観は、宿泊施設

を兼ねていた。李白の推薦者が女道士の玉真公主であったことから、ここが長安滞在のための

場所とされた。そしてここで李白は、賀知章の来訪を受ける。賀知章は当時太子賓客、秘書監

の官にあるとともに、李白よりも四〇歳以上年上の詩壇の長老であった。さらに玄宗の深い愛

顧を受けていた。その賀知章が李白の人柄と詩文を見て「謫仙人」と評したのは冒頭で書い

た。そして賀知章は、身に付けた金亀の飾りを解いて、酒に換えて大いに楽しんだという。

それからの李白は玄宗に拝謁し、翰林供奉(かんりんぐぶ)の官職を与えられる。この官は詔勅

の起草がその主要な職務であり、皇帝の側近に常に侍るものとされていた。皇帝の温泉宮への

行幸や宴遊に従い、そこでの李白は宮廷詩人として皇帝の耳目を楽しませるために詩を作っ

た。皇帝の気まぐれな要求に応えることができた李白だったが、酒浸りになったりして、その

自由奔放さによって宮中の反感も買っていた。宦官の高力士には靴を脱がせることまでしてい

たので、李白の「清平調詞」を口ずさむ楊貴妃に対して、その内容は彼女を謗ったものだと告

げ口されている。さらにこの頃の私生活においては、賀知章らの「飲中八仙」の仲間らと花の

都長安で交遊した。杜甫は後に「飲中八仙歌」を作っている。この他、日本の阿倍仲麻呂(晁

衡)とも交際した。そんな李白は、天宝三(七四四)載、四十四歳の春に宮廷を去ることになる。

宮廷詩人としての日々は、華やかなものであったが、一方で宮廷を離れて隠棲したいとも願っ

ていた。さらには、李白の放縦な振る舞いは殿上人たちの反感を買うようになっていた。

そんな宮廷生活は一年余りで終わった。

 清平調の詞 三首 其の二

一 枝 濃 艶 露 凝 香  一枝の濃艶 露 香を凝らす

雲 雨 巫 山 枉 断 腸  雲雨巫山(うんうふざん) 枉(ま)げて断腸

借 間 漢 宮 誰 得 似  借間(しゃもん)す 漢宮(かんきゅう) 誰か似たるを得(う)る

可 憐 飛 燕 倚 新 粧  可憐の飛燕(ひえん) 新粧(しんしょう)に倚(よ)る

(七言絶句)

楊貴妃がこの詩を口ずさんでいたところ、宦官の高力士が「趙飛燕は身分の卑しい女でした。

そんな女にたとえるというのは、あなた様に対する侮辱ではありませんか」と耳打ちした。

その後、玄宗皇帝が李白をさらに高い官職につけようとしたが、楊貴妃が反対してやめさせた

という。李白が失脚した一つの原因と伝えられている。ちなみに、李白はしょっちゅう酒を飲

み、玄宗の面前で多量の嘔吐をしたという。玄宗は自らその吐瀉物を拭い取ったという。

力士脫靴,贵妃研墨,清代の作 (李白が高力士に靴を脱がせる場面)

 子夜呉歌 四首 其の三

長 安 一 片 月  長安 一片の月

万 戸 擣 衣 声  万戸 衣(ころも)を擣(う)つの声

秋 風 吹 不 尽  秋風 吹きて尽きず

総 是 玉 関 情  総て是れ 玉関(ぎょくかん)の情

何 日 平 胡 虜  何れの日にか胡虜(こりょ)を平(たひ)らげ

良 人 罷 遠 征  良人 遠征を罷(や)めん

(五言古詩)

−長安の夜空にひとひらの月が上がると、その光に照らされたあちこちの家々から、砧(きぬ

た)の音が聞こえてくる。秋風はいつまでも吹きやまない。風が吹く月夜に響く砧の音、これら

すべて玉門関にいる夫を思わせるものばかりだ。いつになったら、えびすを平定し、いとしい

夫は遠征から帰ってくるのか。「楽府題」を李白がアレンジを加えたもの。

そして、ここから再び歴遊の日々をおくる。

長安を離れた李白は、東へ向かって旅をし、商州(陝西省)から洛陽に至る。この洛陽で杜甫に

出会う。これは天宝三載の夏から秋のことであった。この時杜甫は三十三歳、斉・趙を旅して

洛陽に戻ってきたところであった。杜甫は官僚を目指して試験勉強の最中であり、いまだ詩人

としての頭角も現していなかった。

李白は開封(河南省)に行き、陳留採訪使の李彦允(りげんいん)のもとへ行く。そこへは杜甫や詩

人の高適(こうせき)も訪ねてきて、梁宋の地を遊覧する。酒を飲みつつ議論を交わし、高台に

上って晩秋の風景を眺めたことを、杜甫は後に「懷ひを遣る」や「昔遊」の詩に記している。

李白はさらに斉州(山東省)へ向かうが、杜甫も李白に従った。斉州では、紫極宮にて道士の高

如貴から道籙を授かり、本格的な道士の資格を得た。そして杜甫とはここでいったん別れ、東

魯に帰るが、次の年には再び杜甫は李白に合流し、魯の各地を遊び歩き、魯郡の石門にて別れ

を告げる。杜甫はここから洛陽を経て長安へ向かう。その後二人は再会することはなかった。

天宝五(七四六)載、四六歳の時に李白はしばらく病の床につくが、回復するとまた旅に出る。

呉越の地に至るが、宋城・揚州・金陵を経て、天宝六載には越中に至る。そしてまた金陵から

さらに長江をさかのぼり、廬山・潯陽(じんよう)を訪ねて、天宝九載、五〇歳の冬に魯郡へ帰

る。この旅においては、廬山の東林寺や潯陽の紫極宮などの寺院や道観を訪れる一方、廬江(安

徽省廬江県)の呉王祗(ごおうし)のような有力者を訪ねた。ここでも李白が宗教に沈潜する隠遁

の志を持つ一方、いまだ世俗的な権力への志向も失っていなかった、ということであろう。

また、この旅の途上で、金陵にて「東魯の二稚子に寄す」という詩を作り、娘の平陽と息子の

伯禽に送っている。平陽と伯禽は、最初の妻である許氏の生んだ子であるが、許氏の没後、南

陵にいた側室の劉氏に預けられていた。推測されているのは、それがこの時には、東魯に住む

側室である姓名不詳の婦人のもとに預けられていたという。その魯の婦人との間には、男児が

あったが、李白の関心は正室の生んだ嫡子である平陽と伯禽の方にばかり向けられていた。

 山中にて幽人と対酌す

兩 人 對 酌 山 花 開  両人対酌して山花開く

一 盃 一 盃 復 一 盃  一盃 一盃 復(ま)た一盃

我 酔 欲 眠 卿 且 去  我れ酔て眠らんと欲す 卿(きみ)且(しばら)く去(さ)れ

明 朝 有 意 抱 琴 來  明朝 意有らば 琴を抱いて来れ

−山の中で隠者と対酌する。

ふたり対いあって酒を酌(つ)ぐ傍らに、山の花が美しく咲いている。

一盃、一盃、 もう一盃。

私は酔って眠くなってきた。あなたは、ひとまずお帰りください。

明日の朝もまた、お気持ちが有れば、琴をかかえて来てください。

朝廷を追われて気持ちが整理できない中で詠まれた詩である。

この詩は酒を酌み交わす情景を描いた詩として、特に有名なものの一つである。

酔李白図 ・池大雅筆・江戸時代・18世紀

天宝一〇(七五一)載には、今度は北方の幽州(北京市周辺)へと旅立つ。

北方へ行ったのは、三五歳から三六歳の頃の太原から雁門関への旅と、今回の幽州への旅の二

回だけである。李白はまず、旧友の道士元丹丘が汝州の石門山(河南省葉県の西南)に隠棲して

いるのを知って、訪ねている。その後、開封で黄河を渡り、翌年の天宝一一載の一〇月に幽州

に着く。そして年が明けると間もなく幽州を去って南下する。この後に李白はまた南へ赴き、

宣州(安徽省宣城市)を中心として、金陵・秋浦(安徽省池州市)・当塗(安徽省当塗県)・南陵など

の各地を旅する。また、この頃、李白は宋城(河南省商丘市)の地で妻を娶った。最後の結婚で

ある。この妻は則天武后の時の宰相であった宗楚客(そうそかく)の孫娘であった。後のことで

あるが、宗氏は廬山の女道士である李騰空(りとうくう)を訪ねたことがある。その時、李白は

「内(つま)が廬山の女道士李騰空を尋ねるを送る 二首」の詩を作っている。

天宝一三(七五四)載、五四歳の時には、後に「李翰林集序」を作る魏万(ぎばん)に会っている。

魏万は進士に合格していたが、仕官せずに隠逸の生涯を送った。魏万は後に魏顥(ぎこう)と改

名している。李白はこれまでに作った詩文の全てを魏顥に与え、文集を作らせた。

 廬山の瀑布を望む

日 照 香 爐 生 紫 煙  日は香炉を照らして 紫煙を生ず

遙 看 瀑 布 挂 長 川  遥かに看る 瀑布の長川を挂(か)くるを

飛 流 直 下 三 千 尺  飛流 直下 三千尺

疑 是 銀 河 落 九 天  疑うらくは是れ 銀河の九天より落つるかと

−日の光が香炉峰を照らして、紫の煙が立ちのぼる。

遥かに目を凝らせば、瀑布が長い川をさし掛けたように流れ落ちてゆく。

飛沫をあげて直下すること、三千尺。

まるで銀河が、九天の高みから落ちてきたかと疑われるほど。

秋浦を出て潯陽に着いた李白は、名山の廬山を訪れた。この山は古く周の時代から隠者や道士

とゆかりが深く、南朝時代には仏教や道教の聖地とされていた。陶淵明が隠居したのも、この

山の麓だった。廬山にはいくつもの峰があり、有名なのは香炉峰。「廬山の瀑布を望む」の詩

はその峰を眺めて印象を述べたもので、二首連作の第二首。日本人はこの詩が好きなようで、

室町時代から色々と描かれている。

左から、紙本墨画淡彩李白観瀑図 ・惟肖得巌の賛・室町時代・15世紀

観瀑図 ・式部輝忠の筆 景筠玄洪の賛・室町時代

詩哥冩真鏡・李白・葛飾北斎の筆・江戸時代・19世紀

 秋浦の歌 其の四

両 鬢 入 秋 浦  両鬢(りょうびん) 秋浦(しゅうほ)に入り

一 朝 颯 己 衰  一朝 颯として已に衰う

猿 聲 催 白 髪  猿声 白髪を催し

長 短 盡 成 絲  長短 尽く糸と成る

−両方の耳ぎわの毛は秋浦にきて、たちまち乱れ衰えてしまった。

猿の悲しげな鳴き声にせきたてられるように白髪が増え、

長いのも短いのもすっかり白くて細い糸のようになってしまった。

「秋浦」唐代の県名。現在は安徽省貴池市。秋浦河や清渓河の流れる長江南岸の水郷地帯。

「秋浦の歌、十七首」の第四首で、李白が秋浦に滞在した五四歳の頃の作と考えられている。

本詩は叙情詩であり、叙情されるのは、老いへの嘆きである。

天宝一四(七五五)載の一一月、范陽(はんよう・河北省)にて安禄山が反乱を起こした、反乱軍は

急速に南下し、一二月には洛陽を陥落させ、さらに長安防衛の要衛であった潼関(どうかん・陝

西省)に迫った。李白晩年の激動期であり、安史の乱である。

李白はこの時に当塗・宣城あたりにいて戦況を見守っていたが、翌天宝一五載(七月に至徳に改

元)の春、宗夫人とともに南方に避難する。その一方で、門人の武諤(ぶがく)という者をつかわ

して、東魯の子供たちの安否の確認をした。さらに李白は長江をさかのぼり、至徳元載(七五

六)の秋には潯陽(じんよう)からその南の廬山に入って、五老峰の下の屛風畳(へいふうじょう)

に落ち着き、ここに隠棲する。この時、五六歳であった。

一方、安禄山の軍勢は、天宝一五載六月には、潼関を破り、玄宗は蜀へ逃れる。その途中で別

れた皇太子は霊武(寧夏回族自治区霊武市)に行き、帝位につく。これが粛宗(しゅくそう)であ

る。そしてその直後に反乱軍が長安に入城した。安禄山は大燕皇帝を僭称し、長安に自らの朝

廷を開こうとしていた。

安禄山・父親はイラン系ソグド人で、母親は突厥族の巫女だったと伝わっている。

玄宗の第一六子であった永王璘(えいおうりん)は、安禄山が反乱を起こした時、荊州大都督の

任にあった。天宝一五載の六月、蜀に避難する玄宗は、その途上で永王璘を山南・江西・嶺

南・黔中(けんちゅう)の四道の節度使に任命し、長江中流一帯の防衛を命じた。この命を受け

て永王璘は九月に江陵に至って軍勢を整えた。

粛宗の即位は玄宗の意に添ったものではなかったので、二人の間には反目があった。そのため

粛宗は、玄宗が信任した永王璘に対して、天下の実権を掌握して帝位を奪取するのではないか

との危惧を感じた。粛宗は永王璘に蜀の玄宗のもとへ行くように命じたが、永王璘はこれを聞

かず、同年一二月、水軍を率いて長江を下った。そして長江をはさんで北に粛宗側、南に永王

側の両軍が対峙する。

李白は至徳元歳の年末に永王璘軍に加わった。廬山の李白に使者が派遣され、李白はその招聘

に応じた。李白は永王璘が粛宗の命に反して進軍したことは知らず、あくまでも玄宗に任命さ

れた正規の官軍とみなしていた。しかし、永王璘の軍は粛宗によって反乱軍として討伐されて

しまう。李白は敗残の永王軍から離れるが、彭沢(江西省)にたどり着いた時に捕らえられ、潯

陽の監獄につながれてしまう。妻の宗氏も李白を救うため尽力したが、江南宣慰大使の崔渙(さ

いかん)と御史中丞の宋若思(そうじゃくし)の力によって、李白は釈放される。

李白はいったん潯陽の獄を出たのだが、その後、朝廷では李白を夜郎(貴州省西北部)へ流罪と

する判決が下される。一方、安史の乱の状況であるが、安禄山は、至徳二載一月に息子の安慶

緒(あんけいしょ)に殺される。その後に安慶緒も部下に殺されるが、粛宗は長安と洛陽を奪還

する。

李白は至徳三(七五八)載に、潯陽から長江をさかのぼって、流刑地の夜郎へ赴くこととなっ

た。李白五八歳の時である。この流刑の旅はさほど先を急がされているようでもなく、罪人で

あるはずの李白にしても、厳しく束縛されてはいなかった。五月には江夏に至って、黄鶴楼な

どの名勝を訪ね、この地の役人の宴席にも加わっている。李白は行く先々で宴席に招かれてい

た。船旅もゆっくりしており、潯陽から三峡に至るまで、一年三カ月をかけている。

李白はさらに長江を遡上し、冬には三峡を越えて巫山(重慶市)に至る。年が明けて乾元二(七五

九)年三月には、李白のもとに恩赦の知らせが届く。この時期、朝廷は何度も恩赦を与えてい

る。巫山の地で放免された李白は、直ちに長江を下り、江夏から洞庭湖あたりにしばらく逗留

する。この地で一年あまり過ごした後、長江を下り、妻の宗氏が待つ予章へ戻る。この時、李

白は六〇歳になっていた。そして、妻を伴ってふたたび廬山・潯陽へ行き、ここで妻の宗氏

は、女道士の李騰空が修行をする廬山の屛風畳に赴いた。一方の李白は、金陵・宣州などの江

南の各地を放浪する。

 南のかた夜郎に流されて内(つま)に寄す

夜 郎 天 外 怨 離 居  夜郎の天外 離居を怨み

明 月 棲 中 音 信 疎  明月の楼中 音信疎(そ)なり

北 雁 春 帰 看 欲 盡  北雁(ほくがん) 春に帰って 看々(みすみす)欲(ほっ)す

南 來 不 得 豫 章 書  南来に得ず 豫章(よしょう)の書

−南のかた夜郎に流されて、遠く妻に寄せる。

わたしは天の涯なる夜郎へと流されて、おまえと離れた暮らしを嘆いている。

明月の照る高楼から、おまえの音信(たより)は途絶えたまま。

春の雁が北に帰ってゆく姿も、まもなく見られなくなるというのに、

南の旅を続けるこの日々に、豫章からの手紙は届かない。

永王の水軍の敗戦に連座して、夜郎(貴州省西北部の正安県。唐代の珍州)に流される途上、内

(つま)の宗氏に送った詩。夜郎は当時、遙な西南の僻地と意識されていた。

乾元二(七五九)年、五九歳の春の作。

李白は反乱の知らせを聞いて、この軍に加わって再び参戦しようとするが、病気のため断念

し、滞在してた金陵から当塗の李陽冰のもとへ赴く。ここに至って李白の病気は重篤になり、

ついに臨終の床に臥ることになった。時に代宗の宝応元(七六二)年一一月、六二歳であった。

最晩年に至るまで、李白は自由で孤独な旅人であった。そして、晩年にもなお政治参加への希

望を持ちつつも、それを果たせないままに世を去った。李白は二五歳の時に蜀を去ってから、

再びこの地に戻ることはなかった。臨路(りんろ)の歌は、辞世の歌だと伝えられている。

 臨路の歌

大鵬飛兮振八裔  大鵬飛んで 八裔(はちえい)に振(ふる)ひ

中天摧兮力不済  中天に摧(くだ)けて 力 済(すく)はず

余風激兮万世   余風は万世に激し

遊扶桑兮挂袂   扶桑に遊んで 石袂(せきべい)を挂(か)く

後人得之伝此   後人 之を得て此れを伝ふるも

仲尼亡乎誰為出涕 仲尼(ちゅうじ)亡(ほろ)びたるかな 誰か為に涕(なみだ)を出(い)ださん

(雑言古詩) ※「石袂」の「石」は「左」の間違いだという。

「大鵬は大空を飛んで、四方八方に存分に羽ばたこうとしたが、中空で翼が折れて、自力でそ

れを助けられなかった」「私の仕事の名残りは末永く後世まで刺激し、励まし続けるだろう」

「左の袖を引っ掛けて墜落してしまった」「孔子のような、見る眼のある人はもういないん

だ。じゃあ誰がこの大鵬、私に同情して涙してくれるだろうか」

李白ははじめ当塗の竜山の東の麓に葬られたが、元和一二(八一七)年に当塗の青山に改葬され

た。青山は李白の敬愛する六朝の詩人謝眺にゆかりの山であった。范伝正『新墓碑』によれ

ば、李白自身がこの地を墳墓の地として選んだという。

これが「黄鶴を逐うて」「大鵬」のように飛んだ、漂白の旅人李白の生涯である。

李白と杜甫を比べる「李杜優劣論」という見方は、早くは五代の後晋の劉昫(りゅうく)らによ

る『旧唐書』から見えるという。ここでは杜甫が李白より優れているとする論が展開されてい

る。宋代になると「李杜優劣論」はますます盛んに行われるようになり、杜甫を李白より優位

に置く見方が圧倒的であった。ただ、例外もあり、欧陽脩(おうようしゅう)は李白が杜甫より

優れていると論じた。しかし、宋の「李杜優劣論」は、いずれかに加担しようとするものばか

りではなかった。「優劣」をつけること自体を否定し、それぞれの長所を見るべきであるとす

る意見もあった。南宋の厳羽(げんう)がそうであった。その論はきわめて穏当なもので、明清

の時代にもこれを継承する論も出ている。明の胡応麟(こおうりん)や清の何日愈(かじつゆ)らで

あった。これらの論では、李白は歌行、もしくは絶句、杜甫は近体の律詩が得意であるとされ

た。この見方は今日でもよく行われるものであるという。

ぼくもそれにひっそりと同調したい。どちらも魅力にあふれた詩人であった。


今回漢詩をあまりたくさん載せなかったが、岩波文庫版では李白の主要作品一二〇首を選び、

詩型・文体によって類別している。宇野直人、江原正士『李白―巨大なる野放図』は対話形式

で、李白の生涯を噛み砕いて追い、その合間に詩を付けて説明されている。こちらは李白の生

涯と詩の関係性が容易に理解できるようになっている。

中国出身の荘魯迅『李白と杜甫―漂泊の生涯』では李白や杜甫の生涯だけではなく、唐の政権

内部にも主眼を置き、 李白とその係りも丹念に言及されている。体裁は小説のようでもある。

これは日本人には無い感覚で描かれている。

座右として置いておくべきなのは、『李白と杜甫の事典』である。執筆者は一〇人以上で、制

作にあたっては別の八人で行っている。生涯や詩の世界はもちろんのこと、唐代の歴史・政

治・行政・地理・文化を掘り下げ、唐詩の形式や李白と杜甫を読むために古漢語文法の基礎や

李杜詩の語法と助字までもを範囲に収めている。同書一冊で充分である。

生涯、山という山に登り、仙人に憧れ、または自称し、神仙思想に傾倒した李白。

下のお三方のように、神仙タオイズムを理解しなければ、本当の謫仙・李白を捉えることはで

きない。しかし、それには時間が掛かるし行路難し。なぜなら、いつでも李白は、酒に酔って

水面に映った月を捉えようとし、大魚の背に乗って天上に昇ってしまうのだから。

仙山楼閣圖 仇英

 遊仙詩 郭璞(かくはく) (部分)

京 華 遊 侠 窟 山 林 隠 遯 棲  京華は遊侠の窟(すみか)、山林は隠遯の棲(すまひ)

朱 門 何 足 栄 未 若 託 蓬 莱  朱門 何ぞ栄えとするに足らん、未だ蓬莱に託するに若かず

−繁華な都は、伊達者たちが集まる巣窟。人里離れた山林は、隠遁者たちの 棲み家である。

朱塗りの門の御殿などは、誇るに足りない。仙人が住う蓬莱に身を寄せるには及ばないのだ。

仙人とは、ふしぎな術により、また魔法の霊薬の発見により、永遠に生きる力を得たもので、

鶴の背に乗って白昼の空を飛行し、神秘的な仲間同士の秘密の会合に加わって日を暮らしてい

るものである。

『東洋の理想』岡倉天心

神仙たちは自由に名山から名山を移動し、各地に伝説を残す。

なるほど李白が謫仙人、地上に追放された仙界の人といわれるのも肯ける。

ともかく、中国のすべての山は神仙の住む聖なる山であったということもできるのである。

『花鳥・山水画を読み解く』宮崎典子

神仙タオイズムは仙道や錬丹術を重視しつつも、どこかで老荘思想につながっているタオイズ

ムのことをいう。他方、陰陽タオイズムのほうは陰陽五行の思想を前提に、森羅万象を自然界

であれ人為界であれ、現象論的に解読してしまおうという、それなりに実用的なタオイズムで

ある。いわば「オーバーコードの神仙タオイズム」「アンダーコードの陰陽タオイズム」とい

うことになる。二つは截然と区別できるわけではない・・・

『山水思想』松岡正剛

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松浦友久 岩波書店 1997-1-16
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宇野 直人、江原 正士 (著) 平凡社 2009-2-1
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向嶋成美 (著, 編集) 大修館書店 2019-11-8
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荘 魯迅 大修館書店 2007-1-1