憂愁の「詩史」、憂鬱の「詩聖」、百憂の杜甫 |『杜甫詩選』

 百憂集合行

憶 年 十 五 心 尚 孩  憶う 年十五にして心尚ほ孩(がい)に

健 如 黄 犢 走 復 来  健なること黄犢(こうとう)の如く 走つて復(ま)た来る

庭 前 八 月 梨 棗 熟  庭前(ていぜん) 八月 梨棗熟(りそうじゅく)すれば

一 日 上 樹 能 千 廻  一日 樹に上ること 能(よ)く千廻(せんかい)なり

即 今 倏 忽 已 五 十  即今 倏忽(しゆくこつ)として已に五十

坐 臥 只 多 少 行 立  坐臥(ざが)のみ只(た)だ多くして 行立(こうりつ)少(まれ)なり

強 将 笑 語 供 主 人  強ひて笑語(しょうご)を将(もつ)て主人に供し

悲 見 生 涯 百 憂 集  悲しみ見る 生涯に百憂の集まるを

入 門 依 旧 四 壁 空  門に入れば旧に依って四壁(しき)空(むな)し

老 妻 睹 我 顔 色 同  老妻の我を睹(み)る 顔色同じ

痴 児 未 知 父 子 礼  痴児(ちじ)は未だ父子の礼を知らず

叫 怒 索 飯 啼 門 東  叫怒(きょうど)して飯を索(もと)め 門東に啼く

(七言古詩)

上述の「百憂集合行」の詩は、杜甫が成都に落ち着いた時に詠まれた詩である。

杜甫の家族思いの気持ちがよく出た詩であり、自身の生涯にありとあらゆる心配事が集まって

いるのを悲しく眺めもている。百憂の杜甫の姿が浮かび上がってくる。

李白がアイディアリストであるならば、杜甫はリアリストだった。李白は神仙タオイズムに傾

倒し仙界を目指したが、杜甫は堯舜禹を理想とし民に寄り添う儒者だった。李白が瑞々しい詩

を詠めば、杜甫は枯れた詩を詠んだ。李白はほぼ一人で漂泊の旅をしたが、杜甫は家族を伴っ

ての旅であった。それは過酷な旅の連続であった。

二人は詩のスタイルも対照的である。李白は絶句や古詩など、自由度の高い詩が得意だっが、

杜甫は正反対で、漢詩の中でも一番定型性が強く、厳密な詩形である律詩が一番得意だった。

いきなりだが、朝日新聞に『行人』を連載中だった夏目漱石は、胃潰瘍が再発して一時中絶し

た。この病臥した期間に漱石は、杜甫の詩を一通り読んでいる。大正二年三月から五月までの

ことである。漱石に杜甫の集を贈ったのは橋口貢氏であったが、その橋口氏との手紙の中で

「杜詩はえらいものに候」という言葉も残している。漱石はある時から漢詩を作ることを毎日

の日課にしていたが、最晩年に到って律詩の数が多く、その契機となったのは杜甫の律詩への

共鳴であったのではないか、ということも指摘されている。その漱石の友人であり、若い時に

漢詩を作りあっていた正岡子規は、杜甫の「三吏三別」の「石壕の史」を翻案したような形で

歌にした。「石壕の村に日暮れて 宿借れば 夜深けて門を 敲く声誰そ・・・」。

漱石は少年時代から漢籍に親しみ、漢詩文を嗜んでいたのは有名だが、子規もまた松山藩儒の

大原観山の影響で、十二歳の時に最初の漢詩を作っている。石川啄木も杜甫の詩を読んでい

て、杜甫の影響を指摘されている。

杜甫から影響を受けたということで、最も有名なのは松尾芭蕉だろう。歯切れは悪いがその理

由を幸田露伴は次のように述べている。「第一の詩人だから、それで芭蕉が杜詩を手にしてゐ

たといふよりも、芭蕉が杜詩を好いてゐたから、又は杜甫に啓発さるゝところが多かったか

ら、又は或る意味で杜詩を學ぼう意があったから、と云った方が、當る當らぬは別として少し

親切な解釋であろう」。奈良平安朝は白楽天のような綺麗なものが好まれたが、鎌倉時代以降

になると禅僧を通して杜詩などが好まれた。露伴は続けて、「芭蕉の正しい詩眼批評眼とが、

杜詩を選んで芭蕉の一生の友とさせたのだろう」「芭蕉が杜甫を詩聖とする世に會って、杜詩

を一生の友としてのは實に幸であった」とも述べている。

儚くも憂えて散った杜甫の詩を愛でるのがみんな好きなのだ。

杜甫の詩は、よく「詩史」ということばで評される。「詩史」とは、詩による歴史記述という

ことであり、杜甫の詩には、時事に触れるものが多く、尚且つフラジャリティにあふれてい

る。その点が日中両国で李白より杜甫を上に位置付ける所以なのかもと思うことがある。それ

とその証拠といっては何だが、日中両国で李白の参考書より杜甫のものの方が圧倒的に多い。

杜甫騎驢図賛 ・一休宗純筆・室町時代・15世紀

この作品は、驢馬に乗った詩人杜甫の図に七言絶句の賛を書いたたものである。


杜甫の生涯に関しては、四期に分けて語られることが多い。これは中国でもそうだ。

①洛陽での青年期を経て長安にあって仕官活動に日々を過ごしていた四十四歳までの第一期。

②四十四歳の時に勃発した安禄山の反乱に巻き込まれて、抑留と脱出、任官と左遷、棄官と秦

州・同谷を経ての蜀への移住というように、動乱の渦中にあって杜甫の境遇も激しく揺れ動い

た四十八歳までの第二期。

③成都郊外での比較的平穏な生活が中心を占める五十四歳までの第三期。

④庇護者の死をきっかけに成都を去って、長江を下り、夔州(きしゅう)での滞在を経て湖南の

舟中で五十九歳の死を迎えるまでの第四期である。

そんな杜甫が生まれたのは、玄宗の先天元年(七一二)であった。

「武韋の乱」の混乱を収拾して善政を行った玄宗は、翌年には開元と改めている。

杜甫の生地については諸説あるが、河南の鞏県(きょう・河南省鞏義市)が通説となっている。

しかし、近年では杜甫の詩に鞏県に言及したものがほとんどなく、洛陽を故郷とする詩が多く

見られることから、出生地を洛陽とする説も提出されている。

杜甫の父は杜関(とかん)といい、兗州(えんしゅう・山東省の西南部)で司馬(州や都の知事の補

佐官)という職に就いていた。母は唐の太宗の孫にあたる義陽王李琮(りそう)の娘が崔某に嫁し

て生まれた女性であったというが、この実母の崔氏とは幼少期に死別したため、杜甫は父方の

姑母(おば)によって育てられている。この幼少期の母との永遠の別れが、杜甫の人格形成に大

きな影響を与え、詩にも表出したというのは想像に難くないが、「人間はひび割れた器」だと

喝破した、アメリカの外交官でありヒストリアンであったジョージ・ケナンと境涯が似てなく

もない。しかし、杜甫にはフラジャリティにあふれた出来事がもう一つある。そんな姑母に育

てられた杜甫だったが、ある時、姑母の子どもとともに病気になってしまった。困難な決断を

迫られた姑母だったが、実子よりも杜甫の治療を優先したため、杜甫は一命をとりとめたが姑

母の実子は亡くなってしまった。そしてその話は、杜甫が物心ついた頃に使用人に聞かされた

という。

杜甫は生涯儒者として通したが、父方の家系には西晋に仕えて鎮南大将軍・当陽県候となり、

『春秋経伝集解』の著者としても名高い杜預(どよ・二二二−二八四)がいる。杜甫は儒者とし

て名高いこの杜預を遠祖に持つことを誇りとしており、自身の家系を代々儒学によって官に仕

える家と認識していた。そしてもう一人、杜甫の家系で誇るべき人物がいる。それは祖父の杜

審言である。「文章四友」の一人であり、則天武后の時代に宮廷詩人として活躍した。だが、

傲慢な性格が災してか、官は修文官直学士などで終わっている。杜甫はこの祖父も誇りにして

おり、詩中に「吾が祖 詩は古に冠たり」とも詠じ、次男の宗武には「詩は是れ吾が家の事」と

述べている。家訓として受け継がれてきたのは「奉儒守官」であり、儒学の礼法や道徳観を遵

守し、皇帝を助けて国家から万民を治める官吏になるということであったという。

しかし、遠祖杜預以来の伝統を誇るその家も、唐代に入ると官界では振るわなくなっていた。

ちなみに、杜甫は七歳で詩作を開始したという。

杜甫の「壮遊」の詩によれば、十四、五歳の頃には「翰墨の場」すなわち文壇に出入りし、そ

の詩文を班固や揚雄に似ていると称賛されたという。そんな杜甫は二十歳前後から三十歳にか

けて、何度か長期の旅に出る。山に登る以外は、李白が旅に出た目的と大筋同じであるが、名

所旧跡を訪ねて詩を作る修練を積み、将来の科挙の受験のため、見聞を広めて名士の知遇を得

ることがその旅の目的だった。

杜甫の最初の旅は、郇瑕(しゅんか・山西省臨猗(りんい))への旅で、開元八年(七三〇)のことと

推定されている。そして、翌開元一九年(七三一)から数年をかけて、今度は呉(江蘇省)・越(浙

江省)の地を漫遊する長い旅に出る。その旅では顧愷之(こがいし)筆の維摩詰の壁画があった瓦

官寺や六朝の名族王謝ゆかりの鳥衣巷(江蘇省南京市)などを訪れたが、科挙の地方試験に応ず

るため洛陽に帰還する。洛陽に帰った杜甫だったが、その年の秋に行われた河南府の府試に合

格はしたが、翌春の本試験(省試)には落第してしまう。落第後は兗州司馬の任にあった父を訪

ね、斉(山東省)・趙(河北省)の各地を旅した。この旅は四、五年にわたるものであり、その足跡

は任城(山東省済寧市)・青丘(山東省広饒(こうじょう)市)・叢台(河北省邯鄲(かんたん)市)にまで

及んだ。泰山に登ったかはわからないが、この時期の代表作「岳を望む」の詩を詠んだのもこ

の頃であった。

 岳を望む

岱宗夫如何 岱宗(たいそう)夫(そ)れ如何

斉魯青未了 斉魯(せいろ)青未(せいいま)だ了(おわ)らず

造化鍾神秀 造化は神秀を鍾(あつ)め

陰陽割昏暁 陰陽は昏暁(こんぎょう)を割く

盪胸生曾雲 胸を盪(うごか)して曾雲生(そううんしょう)じ

決眥入帰鳥 眥(まなじり)を決して帰鳥(きちょう)入る

会当凌絶頂 会(かなら)ず当に絶頂を凌(しの)ぎて

一覧衆山小 一たび衆山の小なるを覧るべし

(五言律詩)

−秦のみやまは一体いかなる山であるかといえば、斉のくに魯のくにまでその山の青さが終わ

ろうとはしない。万物のつくり主が神妙な霊気をあつめ、陰気と陽気がこの山に働いて昼と夜

とを分割する。重なった雲が湧きたってわがこころをとどろかせ、山に帰りゆく鳥をまぶたも

裂けよと目をこらす。いつかはきっと絶頂によじのぼり、足もとに山々の小さくみえるのを眺

めるであろう。

開元二九年(七四一)、三十歳になった杜甫は、洛陽に帰って遠祖杜預を祭り、首陽山(河南省)の

ふもとに室を築く。それは窰洞(やおとん)形式の住居であったといわれている。窰洞とは崖や

地面に掘った穴を住居として利用したもの。ちなみに、若き日の習近平も窰洞で生活したこと

がある。そして杜甫は、ここで生涯の伴侶として苦楽を共にする、司農小卿陽怡(ようい)の娘

である陽氏を妻に迎える。しかし、翌天宝元年(七四二)には、養育してくれた姑母が洛陽の仁

風里で亡くなり、また、父が亡くなったのもこの頃だとされている。

天宝三載(七四四)の夏、宮廷を追われて長安から洛陽に来ていた李白と出会う。

時に李白四十四歳、杜甫三十三歳であり、李白がすでに「謫仙人」の称をほしいいままにした

有名詩人であったのに対し、杜甫はまだ駆け出しの無名の詩人であったが、二人はたちまち意

気投合した。そこに高適(こうせき)を加えた三人は、梁・宋(河南省開封市・商丘市一帯)地方へ

気ままな旅をする。高適と別れた後も杜甫と李白は、二人で斉州(山東省済南市)や魯郡(山東省

兗州区)に足を伸ばすが、二人に別れの時が訪れる。杜甫は洛陽に帰り、李白は杜甫を見送った

のち、江東に旅立つことになる。魯郡の石門での離別が、二人の今生の別れとなった。

なお、李白が杜甫に寄せた詩は数首が残るのみであるが、杜甫は折に触れて李白を思い出して

詩に詠じている。有名な「春日 李白を憶う」の詩はその翌年に詠まれたもであり、長安にいる

杜甫が旅の空にある李白を想って作った詩である。李白の詩を踏まえた表現ともなっている。

 春日 李白を憶う

白也詩無敵  白や 詩 敵無し

飄然思不群  飄然(ひょうぜん)として思ひ群ならず

清新庾開府  清新(せいしん)なるは庾開府(ゆかいふ)

俊逸鮑参軍  俊逸(しゅんいつ)なる鮑参軍(ほうさんぐん)

渭北春天樹  渭北(いほく) 春天の樹

何時一樽酒  何れの時か一樽(いっそん)の酒

重与細論文  重ねて与に細かに文を論ぜん

(五言律詩)

−白よ、君の詩は敵うものとてなく、自由闊達としてその詩の発想は他者と一線を画してい

る。その清々しさ溢れる新奇さは庾信(ゆしん)さながらだし、きらめく才能の卓越ぶりは鮑照

(ほうしょう)を想起させる。この都に近い渭水(いすい)の北岸では春の空に梢をのばす樹木、君

がいる長江の下流あたりは夕暮れ空に浮かぶ雲。いつの日か、一つの樽を囲み、もう一度ふた

りして文学を詳しく論じあいたい。

李白と別れて洛陽に帰った杜甫は、家族を洛陽に残したまま、自身の生活の拠点を長安に移

す。本格的に仕官の道を探るためである。長安に出た杜甫は、著名な文人や皇族を含む高官と

交際し、引き立てを願って朝廷に「献賦」を行う日々を送る。しかし、こうした引き立てを願

っての高官との交際には、気位の高い杜甫にとって屈辱的なことも多かった。このような仕官

を求めて苦闘する日々のなかで、天宝九載(七五〇)には、長男の宗文が、天宝一三載には次男

の宗武が生まれたとされている。

また、交友関係を見れば、終生の友となる広文館博士の鄭虔(ていけん)などと出会っている。

飲中八仙図・高岡初の町絵師・堀川敬周・江戸後期。

「飲中八仙歌」は長くなるので載せなかったが、開元・天宝の間のさまざまな人物のエピソー

ドをもとに詠じている。恐らく杜甫が長安にいた時期、天宝四載(七四五)、五載(七四六)頃の作

かといわれている。桃山時代に海北友松も描いている。いまは1隻が残って4人の酒仙が描か

れているだけだが、本来は向って右側に画面がつながって1双をなしていたもの。


飲中八仙図・海北友松・桃山時代

天宝一〇載(七五一)四月、剣南節度使の鮮于仲通が八万の兵を率いて南詔(雲南省)を討伐した

が、瀘水の南で大敗を喫し、六万の兵を失った。楊国忠はかつての自分のパトロンであった鮮

于仲通をかばって事実を隠蔽し、再び南詔を討伐するために強制的に農民を徴兵する。

そして、この頃に詠まれたのが「兵車行」であり、杜甫が社会詩人として第一歩を踏み出した

記念碑的作品であり、代表作の一つでもある。かなり長いが重要なので載せたい。

 兵車の行(うた)

車 轔 轔 馬 蕭 蕭      車は轔轔(りんりん) 馬は蕭蕭(しょうしょう)

行 人 弓 箭 各 在 腰    行人の弓箭(きゅうせん)は各(おのおの)腰に在り

耶 娘 妻 子 走 相 送    耶娘(やじょ)妻子走りて相送り

塵 埃 不 見 咸 陽 橋    塵埃(じんあい)に見えず咸陽橋(かんようきょう)

牽 衣 頓 足 欄 道 哭    衣を牽き足を頓(とん)し道を欄(さえぎ)りて哭(こく)す

哭 声 直 上 干 雲 霄    哭声(こくせい)は直に上りて雲霄(うんしょう)を干(おか)す

道 傍 過 者 問 行 人    道傍(どうぼう)の過ぐる者 行人に問ふ

行 人 但 云 点 行 頻    行人但(た)だ云ふ 点行頻(てんこうしき)りなりと

或 従 十 五 北 防 河    或いは十五より北のかた河に防ぎ

便 至 四 十 西 営 田    便ち四十に至るも西のかた田を営む

去 時 里 正 与 裏 頭    去(ゆ)きし時には里正(りせい)の与に頭を裏(つつ)みしに

帰 来 頭 白 還 戍 辺    帰り来たりて頭白きに還(な)ほ辺を戍(まも)る

辺 亭 流 血 成 海 水    辺亭の流血は海水を成せども

武 皇 開 辺 意 未 巳    武皇辺(ぶこうへん)を開く意は未だ巳(や)まず

君 不 聞 漢 家 山 東 二 百 州 君聞かずや漢家山東の二百州

千 村 万 落 生 荊 杞    千村万落(せんそんばんらく) 荊杞(けいき)を生ずるを

縦 有 健 婦 把 鋤 犂    縦(たと)ひ健婦(けんぷ)の鋤犂(じょうり)を把(と)る有るも

禾 生 隴 畝 無 東 西    禾(いね)は隴畝(ろうほ)に生じて東西無し

況 復 秦 兵 耐 苦 戦    況(いは)んや復(ま)た秦兵は苦戦に耐ふとて

被 駆 不 異 犬 与 鶏    駆らるることは犬と鶏とに異ならず

長 者 雖 有 問        長者の問ふ有り雖(いへど)も

役 夫 敢 申 恨        役夫は敢(あ)へて恨(うら)みを申(の)べんや

且 如 今 年 冬        且つ今年の冬のごときは

未 休 関 西 卒        未だ関西の卒を休(や)めず

県 官 急 索 租        県官は急に租を索む

租 税 従 何 出        租税は何くにより出でんや

信 知 生 男 悪        信に知りぬ男を生むは悪しく

反 是 生 女 好        反(かへ)って是れ女を生むは好しと

生 女 猶 是 嫁 比 隣    女を生めば猶ほ是れ比隣に嫁(か)せしむ

生 男 埋 没 随 百 草    男を生めば埋没して百草に随ふ

君 不 見 青 海 頭      君見ずや 青海の頭(ほとり)

古 来 白 骨 無 人 収    古来白骨人の収(おさ)むる無く

新 鬼 煩 冤 旧 鬼 哭    新鬼は煩冤(はんえん)し旧鬼は哭(こく)し

天 陰 雨 湿 声 啾 啾    天陰(くも)り雨湿(うるほ)ふとき声の啾啾(しゅうしゅう)たるを

(七言古詩)

−車はゴロゴロ、うまはヒヒーン。出征兵士は弓と矢をそれぞれ腰に帯びている。

父や母、妻や子も走って兵士を見送り、それによって舞い上がる塵やほこりのために咸陽橋は

見えない。見送りの人々は兵士の衣服を引っ張り、地団太を踏んで、道を遮るように大声で泣

き叫び、その叫び声はまっすぐに上がって大空を凌ぐほどである。

道端を通りかかった者が兵士に尋ねると、兵士はただ「徴兵がしきりなのです」と言った。

ある者は十五歳から北方で黄河の上流を守り、そのまま四十歳になるまでずっと西方で屯田兵

として農業を営んでいます。先に出征するとき、村長は自分のために頭を包んでくれました

が、帰ってきた時にはすでに白髪頭になっているのに、また辺境防衛に送られるのです。

国境の宿駅では、兵士の血が海水のようにおびただしく流れているのに、武皇の国境の版図を

拡張しようとの意向はまだやみません。あなたは聞かないでしょうか。漢王朝の山東の二百州

では多くの村々で田畑ににんじんぼくやくこばかりが生じていると。

たとえけなげな婦人がすきやくわを取って耕したとしても、稲は畝にまったく秩序なく生えて

います。ましてや秦の兵は苦しい戦いにも耐えると言われて、駆り出されることはまるで犬や

鶏とことなりません。

あなた様はお尋ねくださいますが、私はどうしても恨みを申し上げましょうか。

今年の冬に至っては、関西ではまだ戦争がやまず兵士は帰郷しておりません。

にもかかわらず国は急に租税を厳しく取り立てますが、女の子を生むほうがかえって好ましい

のだと。女の子を産めばまだしも近所に嫁にやれますが、男の子を産めば戦死して草原に埋没

するだけです。

あなたはご覧にならないでしょうか、青海湖のほとりでは、古来戦死者の白骨が人の手で埋葬

されることなくそのままになっており、新しい死者は悶え恨み、古い死者は声を立てて泣き、

空が曇り雨がしとしと潤す折には、しくしくとむせび泣く声が聞こえるのを。

「兵車」は戦車、「行」は楽府体の詩を呼ぶ言葉。この詩は天宝一〇載(七五一)冬の作か(ある

いは天宝一一載)といわれている。天宝中、玄宗は西域へ版図を広げ、吐蕃は唐に侵攻し、唐と

の間に戦争が打ち続き、間断のない徴兵が必要になっていた。このことがこの詩の背景にあ

る。この詩は、楽府体の詩であるが、伝統的な楽府題によるものではなく、杜甫が新たに作っ

た新題の楽府であるという。古来、楽府体の詩においては、民衆の政権への批判や諷刺が盛ん

に盛り込まれることが伝統となっている。その批判・諷刺の伝統を踏まえつつ、杜甫は現在生

起している問題を表現するのに新たな楽府題を必要とし、新たに創作したと考えられている。

出征兵士の口吻(こうふん)に託して語られた人民の生活の疲弊ぶりがリアルに描かれ、加えて

このような惨状を招いた皇帝の際限をしらない版図拡大策が批判されている。

この点から、杜甫の社会批判詩の嚆矢というべき作品となっている。

天宝一三載(七五四)に杜甫は、家族を洛陽から呼び寄せ、長安南郊に居を構える。

しかし、この年の秋、長安一帯は六〇日余にわたる長雨に見舞われたために物価は暴騰して食

料も欠乏した。生活に苦しんだ杜甫は、やむなく妻子を妻の親類がいる奉先県(陝西省渭南市浦

城県)に預け、自身は長安で仕官のために奔走する日々を送ることになる。その甲斐もあり、翌

天宝一四載の一〇月、杜甫は四十四歳にしてようやく任官することになる。最初に内示された

官職を断ったが、最終的に右衛兵曹参軍(正八品下)という東宮の兵員管理に関する事務を取り

扱う官を引き受けた。しかし、ささやかな官職も、ほどなく吹き飛んでしまう。唐王朝を揺る

がす大乱、安史の乱が勃発し、杜甫も否応なくその渦に巻き込まれてしまったからである。

杜甫は家族に乱の危険が及ぶのを避けるため、長安から奉先に往き、家族を引き連れて奉先県

の北の白水県(陝西省渭南市白水県)に身を寄せる。ここは母方の崔氏が県の役人を務めてい

た。さらに潼関が陥落すると、避難民に交じってさらに北へと逃れる。杜甫は家族を伴って、

粛宗の行在所がある霊武に向かおうとしたみたいだが、家族を伴っての長途の逃避行は難し

く、家族をひとまず三川県の羌村(きょうそん・陝西省)に落ち着け、身を窶して単身霊武を目

指す。しかし、不運にも途中で反乱軍に捕らえられ、長安に送られてしまう。約八カ月間、杜

甫は反乱軍の支配する長安での抑留生活を余儀なくされることとなる。杜甫は無名であったか

らか長安に留め置かれ、時に曲江に出かけたり、西市に南隣する懐遠坊の東南隅にあった大雲

寺に宿泊したりするなど、行動は比較的自由であった。

至徳二載(七五七)一月、洛陽にあった安禄山が息子の安慶緒に暗殺され、安慶緒が即位する。

しかし、安慶緒には反乱軍を統率するだけの器量はなかった。

杜甫の代名詞ともいうべき「春望」詩が作られたのも、この春のことである。

 春望(しゅんぼう)

国 破 山 河 在  国破れて山河在(さんがあ)り

城 春 草 木 深  城春(じょうはる)にして草木深し

感 時 花 濺 涙  時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ

恨 別 鳥 驚 心  別れを恨んでは鳥にも心を驚かす

烽 火 連 三 月  烽火(ほうか) 三月に連なり

家 書 抵 万 金  家書 万金に抵(あた)る

白 頭 掻 更 短  白頭 掻けば更に短く

渾 欲 不 勝 簪  渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す

(五言律詩)

−都はめちゃくちゃになってしまったが山や河はむかしのままであり、長安には春が訪れて草

や木が深々と生い茂っている。世の中のありさまに心を動かされてはおもしろかるべき花を見

ても涙をはらはらとこぼし、家族との別れを恨んでは楽しかるべき鳥の声を聞いても心を傷ま

せている。うち続くのろし火は三月になってもまだやもうともせず、家族からの便りは万金に

も相当するほどに思われる。白髪頭は掻きむしるほどに抜けまさり、まったくもってかんざし

を受け留めるにも堪えかねそうだ。

杜陵詩意図・伝倪瓚筆・明・16~17世紀・賛は同じく杜甫のもの。

国が乱れて街には人影もまばらで、橋には板なく、倒れた柳からは新枝が芽吹いている、とい

う杜甫の詩と、画の内容が見事に一致したことが志賀直哉の共感を得たといわれている。

粛宗は行在所を彭原から鳳翔(陝西省)に移す。これ以後、長安を脱出して鳳翔に逃れるものが

多くなった。杜甫も長安の金光門から脱出して鳳翔の行在所に至り、粛宗に拝謁する。

粛宗はその忠誠心を嘉し、杜甫に左拾遺の官を授ける。杜甫はついに念願かなって末端ながら

政治の中枢に参画する地位を得た。しかし、その喜びも長くは続かなかった。長安奪還作戦に

失敗した房琯(ぼうかん)の宰相罷免に反対する意見書を奉り、粛宗の逆鱗に触れてしまったか

らであった。杜甫は激怒した粛宗によって、死刑になる可能性すらあったが、粛宗の側近のも

のがとりなしたため許された。だが、粛宗の心証は容易には戻らず、鄜州(ふしゅう)の家族の

もとに帰省を命じられる。実質的な謹慎処分であった。

そしてこの頃に詠まれたのが「北征」であった。

 北征

皇 帝 二 載 秋  皇帝二載の秋

閏 八 月 初 吉  閏八月初吉

杜 子 将 北 征  杜子将に北征して

蒼 茫 問 家 室  蒼茫 家室(かしつ)問はんとす

維 時 遭 艱 虞  維れ時に艱虞(かんぐ)に遭ひ

朝 野 少 暇 日  朝野 暇日(かじつ)少なし

顧 慙 恩 私 被  顧(かへり)みて慙(は)づ 恩私の被(こうむ)りて

詔 許 帰 蓬 蓽  詔(みことのり)もて蓬蓽(ほうひつ)に帰ることを許さるるを

拝 辞 詣 闕 下  拝辞(はいじ)せんとして闕下(けっか)に詣(いた)り

怵 惕 久 未 出  怵惕(じゅつてき)して久しく未だ出でず

雖 乏 諫 諍 姿  諫諍(かんそう)の姿に乏しと雖(いへど)も

恐 君 有 遺 失  君に遺失有らんことを恐る

君 誠 中 興 主  君は誠に中興の主なれば

経 緯 固 密 勿  経緯 固より密勿(みつふつ)たり

東 胡 反 未 已  東胡反(とうこはん)して未だ已まず

臣 甫 憤 所 切  臣甫(しんほ)の憤り切なる所なり

揮 涕 恋 行 在  涕を揮(ふる)ひて行在(あんざい)を恋ひ

道 途 猶 恍 惚  道途(どうと)猶ほ恍惚たり

乾 坤 含 創 痍  乾坤創痍(けんこんそうい)を含む

憂 虞 何 時 畢  憂虞(ゆうぐ)何れの時にか畢(をは)らん

(五言古詩)

−皇帝至徳二載の秋、閏八月の初めの吉の日。私杜甫は今まさに北に旅立ち、慌ただしく家族

の安否を尋ねてゆこうとしている。今は安史の乱に遭遇し、朝廷も民間も暇な日はほとんどな

い。皇帝の特別のご恩寵を受け、詔勅によっていぶせき我が家に帰ることを許されたことを顧

みると恥ずかしく思われる。

お暇を告げようと行在所の門下に至ってはみたが、天子のことを思うと心穏やかならず長くと

どまって、すぐに出かけることができなかった。私は、天子をお諌めする者の資質として十分

ではないといっても、天子に見落としがありはしないかと心配でならない。皇帝は誠に中興の

英主であり、国家の運営にもとよりつとめ励んでおられる。

それでも、安史の反乱軍がまだ収束していないことは、臣下杜甫の切に憤慨するところであ

る。こぼれる涙を振るいつつも、粛宗のおられる行在所に後ろ髪を引かれ、旅路を進む心はな

おぼんやりしている。天地は戦乱の深い傷を受けており、国家の行く末についての心配や憂い

はいつ終わるとも知れない。

「北征」北への旅。家族の疎開している鄜州(ふしゅう・陝西省延安市富県)へ行く。

この作品は、杜甫の長編詩の代表作であるといわれている。まず、この詩が公的・私的両側面

への言及に渡っている点があげらている。国家騒乱の中、王朝の立て直しに杜甫自身力を尽く

したいと願いながらも、政治上では杜甫は無力に等しかった。それでも、何かの役に立てない

かという切実な葛藤と願望も根本にあると説明されている。また目下の具体的政策に対する建

言を併せて述べている。杜甫は国家存亡の時に、詩によって為政者に向けて政治の正常化への

道筋を示したいと考えていたとされている。

唐王朝が長安を奪回し、ついで洛陽も回復されると、鄜州から鳳翔に戻った杜甫も入京する粛

宗に扈従(こしょう)して長安に戻る。しかし、皇帝の杜甫を疎んずる気持ちは解けず、朝廷内

部の軋轢もあって、杜甫は華州(陝西省渭南市華州区)に転出することとなってしまう。明らか

に左遷であった。

乾元元年に粛宗は安慶緒討伐を命じ、緒戦に勝利した唐王朝軍は安慶緒の拠る鄴城(ぎょうじょ

う・河南省安陽市)を囲んでいた。しかし、乾元二年に史思明が大軍を率いて安慶緒救援に駆け

つけるに及んで事態は大きく動き、鄴城会戦において当王朝側は大敗を喫し、後退を余儀なく

される。洛陽一帯に緊張が走るなか、杜甫も慌ただしく洛陽を去って華州に戻る。その旅の途

次、杜甫は役人によって駆り立てられる人民の悲惨な姿を目の当たりにすることになる。

この時の見聞に基づいて作られたのが、名作「三吏三別」(六首)の連作だった。

その中でも有名で、岩波文庫にも収録されている「石壕の吏」と「新婚の別れ」を取り上げ

る。これも長くなるがご了承ください。

 石壕の吏

暮 投 石 壕 村  暮れに石壕の村に投ず

有 吏 夜 捉 人  吏有り 夜 人を捉ふ

老 翁 踰 牆 走  老翁 牆(かき)を踰(こ)えて走り

老 婦 出 門 看  老婦 門を出でて看る

吏 呼 一 何 怒  吏の呼ぶこと一に何ぞ怒れる

婦 啼 一 何 苦  婦の啼(な)くこと一に何ぞ苦しき

聴 婦 前 致 詞  婦の前(すす)みて詞(ことば)を致すを聴くに

三 男 鄴 城 戍  三男は鄴城(ぎょうじょう)の戍(まもり)

一 男 附 書 至  一男 書を附(ふ)して至り

二 男 新 戦 死  二男 新ち戦死すと

存 者 且 偸 生  存する者は且く生を偸(ぬす)むも

死 者 長 已 矣  死せる者は長(とこしへ)に已みぬ

室 中 更 無 人  室中 更に人無く

惟 有 乳 下 孫  惟だ乳下の孫有るのみ

有 孫 母 未 去  孫の母未だ去らざる有るも

出 入 無 完 裙  出入するに完裙(かんしゃく)無し

老 嫗 力 雖 衰  老嫗(ろうう) 力衰ふと雖(いへど)も

請 従 吏 夜 帰  請ふ 吏に従ひて夜 帰せん

急 応 河 陽 役  急ぎ河陽の役に応ずれば

猶 得 備 晨 炊  猶ほ晨炊(しんすい)に備ふるを得んと

夜 久 語 声 絶  夜久しくして語声絶え

如 聞 泣 幽 咽  泣きて幽咽(ゆうえつ)するを聞くがごとし

天 明 登 前 途  天明 前途に登りしとき

独 与 老 翁 別  独り老翁と別れしむ

(五言古詩)

−日暮に石壕村に宿をとった。夜中に役人が人をつかまえにやってきた。

宿の爺さんは土塀をこえて逃げ、婆さんは門口に出て役人に応対している。

役人のはりあげた、どなり声のなんと怒りに満ちていることか。それに対して泣きながら答え

る老婦の声はなんと苦しげなことか。

老婦が進み出て役人に訴える言葉に耳を傾けると「三人の息子達はみな鄴城の守りにとられて

しまいました。そのうち一人から手紙を人にことづけて送ってきましたが、他の二人の息子は

ついこの頃戦死してしまったということです。生きている子は、まあ、かりそめの命を生きな

がらえているだけでございましょうし、死んだ子はもう永久にもどってきません。家の中には

もう男は誰もおりません。ただ乳飲み子の孫がいるだけです。孫の母はまだ里に帰っておりま

せんが、外に出るのにも満足な着物もないのです。このおばあは力こそ衰えておりますが、ど

うかお役人様のお伴をして今夜から(戦地に)まいりましょう。すぐに河陽でのお仕事につきま

すなら、これでもまだ朝飯の仕度のお役には立ちましょうから」と。

夜がすっかりふけて、人の話し声も途絶えた。その後に、誰かのむせび泣く声が聞こえたよう

であった。夜明けにわたしは旅立つ時に、ただひとり爺さんと別れを告げただけであった。

ここでは役人によって徴兵・徴発を受ける家族のありさまが描かれている。

 新婚の別れ

兎 糸 附 蓬 麻  兎糸(とし) 蓬麻(ほうま)に附す

引 蔓 故 不 長  蔓を引くも故(もと)より長からず

嫁 女 与 征 夫  女(むすめ)を嫁して征夫(せいふ)に与ふるは

不 如 棄 路 傍  路傍(ろぼう)に棄つるに如かず

結 髪 為 妻 子  結髪(けっぱつ) 妻子と為り

席 不 煖 君 牀  席は君が牀(しょう)を煖(あたた)めず

暮 婚 晨 告 別  暮れに婚して晨(あした)に別を告ぐ

無 乃 太 匆 忙  乃(すなわ)ち太だ匆忙(そうぼう)たること無からんや

君 行 雖 不 遠  君が行は遠からず雖(いへど)も

守 辺 赴 河 陽  辺を守りて河陽に赴く

妾 身 未 分 明  妾が身は未だ分明ならず

何 以 拝 姑 嫜  何を以てか姑嫜(こしょう)を拝せん

父 母 養 我 時  父母 我を養ひし時

日 夜 令 我 蔵  日夜 我をして蔵せしむ

生 女 有 所 帰  女を生まば帰する所有り

鶏 狗 亦 得 将  鶏狗(けいく)も亦(ま)た将(ひき)いるを得るがごとし

君 今 往 死 地  君今 死地に往く

沈 痛 迫 中 腸  沈痛 中腸(ちゅうちょう)に迫る

誓 欲 随 君 去  誓ひて君に随ひて去(ゆ)かんと欲するも

形 勢 反 蒼 黄  形勢 反って蒼黄(そうこう)たらん

勿 為 新 婚 念  新婚の念を為す勿(な)かれ

努 力 事 戎 行  努力して戎行(じゅうこう)を事とせよ

婦 人 在 軍 中  婦人 軍中に在らば

兵 気 恐 不 揚  兵気 恐らくは揚がらざらん

自 嗟 貧 家 女  自ら嗟(なげ)く 貧家の女(むすめ)にして

久 致 羅 襦 裳  久しく羅襦裳(らじゅうしょう)を致せしを

羅 襦 不 復 施  羅襦 復た施さず

対 君 洗 紅 粧  君に対して紅粧(こうしょう)を洗はん

仰 視 百 鳥 飛  百鳥の飛ぶを仰ぎ視るに

大 小 必 双 翔  大小 必ず双(なら)び翔(かけ)る

人 事 多 錯 迕  人事 錯迕(さくご)多し

与 君 永 相 望  君と永く相望(あいのぞ)まん

(五言古詩)

−かわらよもぎやあさにまつわって伸びた根なしかずらは、どんなにつるを伸ばしたとして

も、よもぎやあさより長くは伸びられません。それと同じように、娘を(夫婦寄り添える時間が

短い)出征兵士に嫁がせるくらいなら、みちばたに棄てたほうがましなくらいです。

お下げ髪をあげて結びあなたの妻となりましたが、あなたのベッドの敷物を暖めるひまもあり

ません。日暮れに婚礼をあげたかと思うともう翌朝には別れを告げなければならないとは、あ

まりにもあわただしくはありませんか。あなたの出征なさるところは遠くはないとはいって

も、賊軍との境界を守るために河陽へと赴かれるのです。

嫁入りしたとはいえ、嫁としてのわたしの身分はまだはっきりと定まっておりませんのに、ど

のようにしゅうとめやしゅうとさまにご挨拶すればよいでしょう。

父や母がわたしをそだててくださったとき、昼も夜もそれはわたしを大切にしてくだいまし

た。

娘を生み育てては、犬は犬づれ、鳥は鳥づれと言われるように、ふさわしい相手に嫁に行くの

がよいというお考えでした。それなのにあなたは今まさに死地へと出征なさるのです。それを

思うと深い痛みがおなかの中まで迫ってきます。あなたについていこうと心の中に誓ってはみ

たものの、今の情勢はあわただしくそれを許さないようです。

どうか新婚生活のことなど心にかけることなく、軍務に励んでください。

おんなが軍中にいるということでは、士気はおそらくふるわないことでしょう。

じぶんでも悲しく思うのは、わたしは貧しい家のむすめですので、長い時間をかけてやっと薄

絹の上着とスカートを準備したことです。しかしその薄絹の上着もふたたび身につけることは

いたしません。あなたの前でこの紅のお化粧も洗い落としてしまいましょう。

さまざまの鳥が大空を飛ぶのを仰ぎみれば、大きな鳥も小さな鳥もきっとおすとめすがならん

で飛んでいます。それに比べて、人の世のいとなみはなんと思うようにならないことが多いの

でしょう。これからずっとあなたと遠く離れ離れでみつめあうことになりますとは。

この作品には、新妻の内面のとまどい、悲しみ、寂しさ、決意など様々に揺れ動く心もよう

や、葛藤が生き生きと語られており、それが読むものに臨場感を以て迫ってくると説明され

る。本来新婚の者には、出征が免除されるはずであるが、ここにはそのような民衆の生活への

配慮など微塵もなく、当時の過酷な政治の現実が映し出されている。

華州に戻った杜甫だったが、突如として職を辞する。理由は今ひとつ明らかにされていない。

職を辞した杜甫が家族とともに向かったのは長安ではなく、それよりさらに三〇〇キロも西方

に離れた秦州(甘粛省天水市)の地であった。その秦州は隴右道(ろうゆうどう)に属し、中都督府

が置かれて周囲の一二州を監督する中心都市であり、吐蕃(チベット)との交通の要衝でもあっ

た。そこに赴くには、途中、二〇〇〇メートルを超える隴山山脈を越えねばならなかった。な

ぜ、杜甫がそのような苦難を冒してまでこの地を目指したかといえば、隴山の西のこの地には

反乱軍の勢力が及んでいなかったことに加えて、甥の杜佐や旧知の賛上人がいたことも大きく

関係していた可能性が高いという。しかし杜甫は、秦州での暮らしを三カ月で切り上げ、そこ

から一二〇キロほど南の同谷県(甘粛省成県)へと移る。期待を抱いて移り住んだその同谷も、

残念ながら杜甫の思い描いたような土地ではなかった。かくて杜甫は、一カ月も経たぬうちに

同谷を去る決意をし、成都(四川省成都市)を目指す。それは名だたる難所の蜀の桟道を越える

旅でもあった。

中国西部に位置する蜀(四川省)の地は、沃野が広がり物産は豊富で、古来「天府の土」と称さ

れてきた。その首都である成都は、唐代では剣南道に属し、西南地域の政治・軍事・経済・文

化の中心地であった。乾元二年(七五九)の一二月一日に同谷を旅立った杜甫は、年末に成都に

たどり着き、ひとまずは成都西郊の草堂寺に身を寄せた。明けて乾元三年(七六〇、閏四月に上

元と改元)春、四十九歳の杜甫は、草堂寺にほど近い浣花渓(かんかけい)のほとりに茅葺の居を

構える。これが世にいう「浣花草堂」である。

杜甫が草堂を造営するにあたっては、当時、成都尹兼剣南西川節度使の任にあった裴冕(はいべ

ん)などの財政的支援があったとされる。とりわけ大きな支えとなったのは、上元二年(七六一)

に成都尹・剣南西川節度使として赴任してきた厳武であった。杜甫とは古くから親しい関係に

あった。こうして生活の拠点を得た杜甫は、旺盛な創作活動を示し、諸葛孔明を祀る武侯祠に

出かけて感慨を詠じた「蜀相」や、夏の草堂での穏やかな日常生活を描いた「江村」などの成

都時代を代表する作を残した。

浣花草堂・杜甫草堂ともいう。杜甫が建てた草堂は戦火に見舞われ、現存する建物の多くは明と清のものである。

 蜀相(しょくしょう)

丞 相 祠 堂 何 処 尋  丞相の祠堂(しどう) 何れの処にか尋ねん

錦 官 城 外 拍 森 森  錦官城外 拍森森(はくしんしん)

映 堦 碧 草 自 春 色  堦(かい)を映(おほ)ふ碧草(へきそう)は自ら春色

隔 葉 黄 鸝 空 好 音  葉を隔つる黄鸝(こうり)は空(むな)しく好音

三 顧 頻 繁 天 下 計  三顧頻繁なり天下の計

両 朝 開 済 老 臣 心  両朝開済す 老臣の心

出 師 未 捷 身 先 死  師を出(い)だして未だ捷(か)たざる身は先ず死し

長 使 英 雄 涙 満 襟  長(とこしへ)に英雄をして涙襟(なみだきん)に満たしむ

(七言律詩)

−丞相の祀る廟はどこに尋ねゆけばよいか。それは錦官城のかなた、拍樹のこんもりと茂るあ

たり。階段を覆い隠すように生える緑の草は自然と春の色をたたえ、葉陰のこうらいうぐいす

は聞く人もいないのに好い音色で囀っている。

かつて先主劉備は三たび草廬を訪ねて幾度も天下統一の大計を問い、孔明は先主・後主の二代

に仕えて広い度量で事に当たり、重臣としての真心を尽くした。

しかし北伐の軍を出しながら勝利を得ぬうちにその身は先に没してしまい、いつまでも後世の

英雄たちに涙で襟もとを濡らさせるのだ。

浣花草堂からそれほど遠くない場所に、蜀漢の丞相諸葛亮を祀る廟があった。詩は、その武侯

祠を初めて訪ねた折の感慨を詠じたものである。諸葛亮の生涯への杜甫の愛惜の念が示されて

いるとも指摘されている。

霊応元年(七六二)四月、太上皇となっていた玄宗と粛宗が相次いで崩御し、代宗が即位する。

朝廷は厳武を都に召喚し、二つの皇帝領の造営に当たらせる。杜甫は都に帰る厳武を綿州(四川

省綿陽市)まで見送り、泰済駅で別れた。ところがその留守中、成都小尹兼剣南西川兵馬使の徐

知道が反乱を起こしたため、成都は大混乱に陥り、杜甫も帰路を阻まれて戻れなくなってしま

う。杜甫は梓州(ししゅう・四川省綿陽市三台県)に向かい、成都一帯の混乱が収まると、杜甫

は成都に赴き、家族を伴って梓州に戻った。

宝応二年(七六三、七月に広德と改元)正月、反乱軍を率いていた史思明の子・史朝義が追い詰

められて縊死し、賊将の多くは投降した。ここに、八年にわたって唐王朝を揺るがした安史の

大乱はようやく終結を見た。しかし、時局はいまだ安定せず、この年の七月には吐蕃が河西・

隴右の地を占領し、一〇月には長安が吐蕃に占領され、代宗は陝州(河南省三門峡市)に避難す

るという事件も起こっている。

広徳二年(七六四)正月、朝廷は厳武を再び成都尹・剣南節度使に任命する。閬州(ろうしゅう)で

厳武の成都尹再任を聞いた杜甫は、蜀を去る計画を変更して成都に戻ることにした。こうして

再び浣花草堂に帰ってきた。

厳武は杜甫を節度参謀として自身の幕府に召し、朝廷に奏請して検校工部員外郎(従六品上)と

いう中央官の肩書を帯びさせる。しかし杜甫は、役所の生活の窮屈さや同僚たちとの関係、そ

の上、風痺(中風)の症状が出て長く座っていると下肢が痺れることもあった。永泰元年(七六五)

正月、五十四歳になった杜甫は、節度参謀の職を辞して草堂に帰ることを許される。ところが

思いがけないことに、厳武が急逝してしまう。最大の庇護者を失った杜甫の衝撃は大きかっ

た。もはやこの地に留まる意味を見出せなくなった杜甫は、成都を離れ、五年余りを過ごした

蜀を去るべく、岷江(びんこう)に舟を浮かべた。

成都時代は波乱に満ちた杜甫の生涯の中では比較的平穏な時代であった。

この時代の杜甫には細やかな自然の景物に目をとめた穏やかな作風の詩が多くなる。

また、七言律詩の多作と絶句の連作が試みられている。七言律詩は、初唐以来、宮廷の社交の

場で作られる応制詩などに用いられ、集団で共有される情緒をうたう詩形であった。しかし、

杜甫はその七言律詩を個人の抒情を託す詩形へと転用した。絶句に関しても、連作による詩論

ともいうべき作品を残しており、従来の詩人には見られなかった試みであるといわれている。

この時期の杜甫は、表現の可能性を広げるべく、実験的な試みに意欲的に取り組んでいた。

 閣夜

歳 暮 陰 陽 催 短 景  歳暮 陰陽 短景を催(うなが)し

天 涯 霜 雪 霽 寒 宵  天涯 霜雪 寒宵(かんしょう)に霽(は)る

五 更 鼓 角 声 悲 壮  五更(ごこう)の鼓角(こかく) 声悲壮

三 峡 星 河 影 動 揺  三峡の星河 影動揺

野 哭 千 家 聞 戦 伐  野哭(やこく) 千家 戦伐(せんばつ)聞こえ

夷 歌 幾 処 起 漁 樵  夷歌(いか) 幾処(いくしょ) 漁樵(ぎょしょう)より起こる

臥 竜 踊 馬 終 黄 土  臥竜 踊馬 終に黄土

人 事 音 書 漫 寂 寥  人事 音書 漫(みだ)りに寂寥(せきりょう)

(七言律詩)

−年の暮れ、陰陽二気の移り変わりが日を短くするようにせきたてており、天の果てのごとき

この地では、霜雪降りやんで、寒々とした夜空は晴れ渡っている。

明け方を告げる太鼓と角笛の音は悲壮を極め、三峡の空にかかる天の川の星影が揺れ動いてい

る。

野塚で死者を悼んで泣き叫ぶほうぼうの家から聞こえて戦争の悲惨さを伝えており、異民族の

歌は、きこりや漁師達の集落にどれだけのところからわき上がっていようか。

諸葛孔明も、公孫述もついには黄泉路の土に帰ってしまった。人の世の営みも親しい者からの

たよりも、ただいたずらに虚しい。

杜甫は西閣をうたった詩を少なからず残しているが、この「闇夜」はそれらの中でも特に名作

の誉れ高い作品といわれている。大暦元年(七六六)冬、杜甫五十五歳の作。

八句全対で、厳格緻密な対句構成をとりつつ、時代に対する鋭い批判とこの世に対する尽きせ

ぬ慨嘆があふれているとされている。

永泰元年(七六五)五月、五十四歳の杜甫は、妻子とともに舟で岷江を下りはじめた。

途中、雲安(重慶市雲陽県)まで来たところで、持病の肺疾(喘息)に消渇(糖尿病)も加わって旅を

続けるのが困難になっていたが、永泰二年(七六六、一一月に大暦と改元)の暮春、杜甫は夔州

(重慶市奉節県)に居を移すことにした。

杜甫が移り住んだ夔州は、唐代では山南東道に属し、三峡の一つである瞿塘峡(くとうきょう)

に近い山間の田舎町だが、蜀の入り口に位置しその喉元を扼(や)くする水運や軍事の要地でも

あり、貞観一四年(六四〇)には都督府が置かれている。諸葛亮を祀る武侯廟や劉備を祀った先

主廟などの史跡も近くにあった。

杜甫は、当初は山中の客堂に住み、秋になって城内の西閣に移り住んだとされている。どちら

も山の中腹にあり、眼前に長江を望む位置にあった。土地は険しい岩山のために井戸がなく、

作業には現地の少数民族が当たってくれた。

しかし、翌大暦二年(七六七)春、杜甫は白帝山の中腹の西閣から赤甲山(現在の子陽山)のふもと

に居を遷し、次いで瀼西にも居を移している。夔州での生活は比較的安定していたが、杜甫の

健康は衰えが目立つようになっていた。肺疾(喘息)・瘧疾(ぎゃくしつ・マラリア)・風痺(中風)

の持病に加えて消渇(糖尿病)を患うようになっていたが、左耳も聞こえなくなり、歯も半分が

抜け落ちるという状態であった。しかし、このような状態にも関わらず、この時期の杜甫は旺

盛な創作意欲を示し、わずか二年足らずの滞在中に、四三〇首余りの作品を残し、これは現存

する杜甫の全作品の約三分の一に近い数であるという。とりわけ七言律詩に高い完成度を見

せ、「秋興八首」「詠懐古跡 五首」「登高」などの杜甫の七言律詩の代表作は、すベてこの時

期の作品である。

 秋興八首 其の一

玉 露 凋 傷 楓 樹 林  玉露凋傷(ぎょくろちょうしょう)す 楓樹(ふうじゅ)の林

巫 山 巫 峡 気 蕭 森  巫山巫峡 気蕭森(きしょうしん)たり

江 間 波 浪 兼 天 湧  江間の波浪は天を兼(か)ねて湧き

寒 上 風 雲 接 地 陰  寒上の風雲は地に接して陰(くも)る

叢 菊 両 開 他 日 涙  叢菊(そうきく) 両(ふた)たび開く 他日の涙

孤 舟 一 繋 故 園 心  孤舟 一に繋ぐ 故園(こえん)の心

寒 衣 処 処 催 刀 尺  寒衣(かんい) 処処 刀尺(とうせき)を催(うなが)し

白 帝 城 高 急 暮 砧  白帝城高くして 暮砧(ぼちん)急なり

(七言律詩)

−白い玉のような露が、楓の林を痛めつけ枯らしていく。巫山、巫峡のあたりには、秋の気配

が静かに厳しく張りつめている。

長江の荒波は天に届く勢いでわきたち、とりでの上の風雪は地上を覆い尽くすように垂れ込め

て、周囲を暗く閉ざしている。

蜀の地を立ち去って以来、菊の群れが二度目の花を咲かせるのを見て、私は去年も流した涙を

再び流している。

一艘の小舟をひたすら岸に繋いだまま、望郷の念はつのるばかり。

ふゆに備えて、ほうぼうでは冬着の裁縫に大忙し。夕暮れの中、白帝城は高くそびえ、あたり

には砧(きぬた)の音がせわしげに響き渡る。

「秋興」は秋の風物に寄せて自己の感慨を述べた詩。「秋興 八首」は杜甫の連作の中で、最も

高い評価を受けているものの一つ。杜甫の律詩の最高峰を示す作品といわれている。八首は

「異郷の地で長安を思う」というテーマにつらぬかれている。杜甫五十五歳、大暦元年(七六

六)秋の作。成都を離れ、長江流域を漂泊してはや二年、深まりゆく秋、迫り来る冬の気配を異

郷の凄絶な風景の中に感じながら、杜甫は故郷長安のおもかげを追い求めては泣き続ける。

 詠懐(えいかい)古跡 五首 其の一

支 離 東 北 風 塵 際  支離たり東北風塵の際

漂 泊 西 南 天 地 間  漂泊す 西南天地の間

三 峡 楼 台 淹 日 月  三峡の楼台 日月淹(ひさ)しく

五 渓 衣 服 共 雲 山  五渓の衣服 雲山を共にす

羯 胡 事 主 終 無 頼  羯胡(かっこ) 主に事えて終(つひ)に無頼(ぶらい)なり

詞 客 哀 時 且 未 還  詞客(しかく) 時を哀しみて且つ未だ還らず

庾 信 平 生 最 蕭 瑟  庾信(ゆしん)は平生 最も蕭瑟(しょうしつ)

暮 年 詩 賦 動 江 関  暮年の詩賦(しふ) 江関(こうかん)を動かす

(七言律詩)

−東北の長安兵乱の際に一族が離散してから、西南の天地の間を私は漂泊している。

ここ三峡の楼台にもう長い間逗留しており、五色の色の装束を身にまとった五渓の異民族と雲

のかかる山の間に暮らしている。あの蛮人は天子に仕えているように思わせて、結局はやくざ

ものであった。詩人の私は時世を悲しみながらも、いまだ故郷に帰ることはできない旅人のま

ま。庾信は日々この上なく寂しい思いで暮らしていたが、晩年の詩や賦は江南や関中の人々の

心を揺り動かしたのだ。

大暦元年(七六六)夔(き)州の作。この五首の連作は、夔州周辺に点々とする古跡にちなんで己の

思いを述べてものである。「秋興八首」とともに、杜甫最晩年の双璧をなす作品と目される。

その第一首は六朝末期の詩人、庾信についてうたったもの。庾信は祖国を捨て蛮族に仕えて生

き延びているという倫理的挫折に、魂を引き裂かれながら望郷の詩を作り続けた。一方、杜甫

にとって唐王朝は形式上は保たれてはいる。だが、蛮族に蹂躙されかつての繁栄の日々を取り

返すことはできない。なにもかも失われてしまったのである。そして杜甫は国を助けることも

ままならず、都から遠く離れて流浪するばかり。二人の詩人の絶対的な孤独が、幾重にも重な

り合って読む者に迫ってくると説明される。

 登高

風 急 天 高 猿 嘯 哀  風急に天高くして猿嘯哀(えんしょうかな)し

渚 清 沙 白 鳥 飛 廻  渚清(なぎさきよ)く沙白(すなしろ)くして鳥飛(ちょうひ)廻る

無 辺 落 木 蕭 蕭 下  無辺の落木は蕭蕭として下(お)ち

不 尽 長 江 袞 袞 来  不尽の長江は袞袞(こんこん)として来る

万 里 悲 秋 常 作 客  万里 悲秋 常に客と作(な)り

百 年 多 病 独 登 台  百年 多病(たへい) 独り台に登る

艱 難 苦 恨 繁 霜 鬢  艱難 苦(はなは)だ恨(うら)む 繁霜(はんそう)鬢(びん)

潦 倒 新 亭 濁 酒 杯  潦倒(ろうとう) 新たに亭(とど)む濁酒(だくしゅ)の杯

(七言律詩)

−風は急に天は高く猿のなき声が哀しくひびき、渚は清く砂はまは白く鳥が輪を描いて飛ぶ。

はてしもない落ち葉はざわざわと音を立てて舞い狂い、尽きることを知らぬ長江はぐらぐらと

水をおし流してゆく。

都を去ること万里の地にわたしは秋を悲しみながら来る秋も来る秋もいつも旅人であり、生涯

をやまいがちに過ごしてきたわたしはただひとりこの山上の高台の上に立っている。

あいつぐ難儀のためにびんの霜がめっきり増したことをはなはだ恨めしく思うわたしは、なげ

やりな気持ちになって口に運ぶ濁酒の杯を今しおしとどめて感慨にふけるのである。

九月九日、重陽の節句にあたり、丘に登って感慨を述べている。ぼくが一番好きな詩である。

七六七(大暦二)年九月、夔州(きしゅう)にあっての作と推定されている。

大暦三年(七六八)正月中旬、五十七歳になった杜甫は、約二年を過ごした夔州を去り、三峡を

下って荊州(湖北省荊州市)へと向かった。この地には旧知がいたが、空しく数カ月を荊州で過

ごした杜甫は、秋の末にこの地を離れ、翌大暦四年(七六九)には、洞庭湖に舟を入れ、潭州(た

んしゅう・湖南省長沙市)に着いた。潭州では岳麓山の岳麓寺とふもとの道林寺に遊び、官吏の

送別の宴席に招かれて詩を作ることも少なくなかった。そうした機会を通じて、玄宗時代の高

名な歌手であった李亀年(りきねん)に再会し、「江南に李亀年に逢ふ」詩を詠じた。

大暦五年(七七〇)の暮春のことであった。

この年の四月、湖南兵馬使の臧玠(ぞうかい)が反乱を起こしたため、杜甫は難を避けて衡州に

逃れ、そこからさらに湘水の支流である耒水(らいすい)を遡って、母方の親類に頼ろうとして

郴州(ちんしゅう・湖南省郴州市)に赴こうとするが、耒陽(らいよう・湖南省耒陽市)の方田駅ま

できたところで洪水のため進めなくなり、五日間も食料が手に入らないという危難に見舞われ

る。耒陽県令の助けもあり餓死を免れた杜甫は、乱の終息を聞き潭州に引き返し、さらに晩秋

に潭州を発って北へと向かった。杜甫は長安に帰還することを考えていたみたいだが、その願

いがかなうことなく、潭州から岳州へと向かう舟の中でその生涯を終えたと推定されている。

五九年の苦難に満ちた短い生涯であった。

唐の時代から杜甫には終焉伝説があり、耒陽で県令から贈られた白酒と牛肉を飲食し過ぎて死

亡したという伝承があるが、今ではこれは虚構とされている。

杜甫の死後、家族にはその柩を故郷に運ぶだけの財力がなかったため、柩は岳州にとどめ置か

れていた。杜甫の柩が遠祖杜預などの眠る首陽山のふもとに帰葬されたのは、孫の杜嗣業の時

のことであったという。その死から四三年後の、元和八年(八一三)のことであった。


李白の律詩は往々にして前半後半に分けられ、前半が描写で後半が感情表現になっているとい

われている。しかし、杜甫はそうではなく、最初の二句が導入、続く四句、真ん中の二つの聯

が描写、そして最後の句で結ぶと指摘されている。年がら年中漢詩を嗜んでいるわけではない

ぼくが読んでも、成都時代の杜甫の七言律詩は美しく儚さを感じるし、「兵車の行」や「北

征」や「三吏三別」の古詩には、民に寄り添った杜甫の姿が明確に浮かび上がり、胸を打つも

のがある。今の中国はこれらの杜甫の詩を憶いだすべきだろう。

李白の詩は天才的なひらめきを堪能でき、それはそれとして楽しませてくれるが、杜甫の詩は

読めば読むほど味わいが増してくる。生涯の友とすべきなのは、杜甫の詩である。

「詩聖」と評されるのも頷ける。ただ、個人的には自由奔放に生きた李白の方が好むかな。

岩波文庫版では杜甫の代表作のほとんどが網羅されているし、時系列に配置されているので理

解しやすい。まだ覗けてはいないが、最近では講談社学術文庫から『杜甫全詩訳注』(全四巻)

が出版されている。李白の時もそうだったが、詩やその生涯、李杜の評価や唐の政治制度まで

網羅されているのは、『李白と杜甫事典』向嶋成美 (著, 編集)である。

これは大変お世話になった。今回載せた漢詩の現代語訳はほぼ同書による。

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杜甫(著), 黒川洋一(編集) 岩波書店 1991-2-18
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宇野直人(著), 江原正士(著) 平凡社 2009-2-1
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向嶋成美(著,編集) 大修館書店 2019-11-8
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荘魯迅(著) 大修館書店 2007-1-1
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高島俊男(著) 講談社 1997-8-8
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松原朗(著) 大修館書店 2014-11-19
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下定雅弘、松原 朗(著) 講談社 2016-6-11