帝王学の教科書 / 『貞観政要』 呉競



名君として誉れ高い唐の太宗(李世民)と臣下との政治問答を集めた書で、

太宗の没後五〇年に史家の呉兢が編纂したもの。

本書は七十篇訳出して収められているが、本来は二百八十篇もある。

漢文、読み下し文、現代文が併用されているので現代人には読み易くなっている。

「貞観」とは、太宗の年号であり(六二七~六四九)、太宗の治世を「貞観の治」といわれてい

る。

唐・第二代皇帝 太宗 (李世民) 在位期間 六二九年~六四九年

中国では、歴代皇帝が『貞観政要』を尊崇するものが多い。

宋の仁宗、遼の興宗、金の世宗、唐の憲宗、文宗、宣宗、元の世祖、明の神宗、

清の高宗など(漢人以外の異民族にも)。

日本でも、清和天皇の御代(八五九~八七七)に太宗にあやかって「貞観」を使っており、

武家の方でも、北条氏、足利氏は代々この書を読み、徳川家康は関ヶ原の七年前の文禄二年(一

五九三)に藤原惺窩から講義を受け、八代将軍吉宗も学んでいる。

僧侶では、道元や日蓮などが愛読し、日蓮にいたっては、全十巻を書写しているぐらいだ。

さらには、歴代天皇も伝統的にご進講を受けているのも目を引く。

一条天皇、高倉天皇、土御門天皇、後鳥羽院、後堀河天皇、後嵯峨天皇、後光厳院、

後円融院、後小松天皇、後光明天皇、光格天皇、明治天皇、大正天皇など。

その他にも、順徳天皇、花園天皇、後土御門天皇も愛読された記録が残っており、

九歳で践祚した幕末の光格天皇は、近習の公家を御前に集め勉強会を催し、

明治天皇は侍講の元田永孚から進講を受けている。

そして、明治国家を創業したといっても過言ではない大久保利通も、

「第一期の十年は『創業』、第二期の十年は現在の『緊要』、

第三期の十年は『守成』で後進に継承させて『大成を待つ』時期である」

と、語っており、『貞観政要』の影響を受けていたのは明白だろう。

中国では無論のことだが、日本でも読み継がれている帝王学の教科書が『貞観政要』。

本書の帯には、“発行年代別 ベスト”と、でかでかと書かれているので、

売れているのだろうと予想する。

「ビジネスに生かしたい」と思っている方が多いのも予想する。

まずは、稀代の歴史学者である、岡田英弘氏の言葉を頭に入れといたほうが良いので、

引用する。

「この時代の王朝である隋も唐も、

その帝室は鮮卑系(せんぴ)の王朝であった北魏・西魏・北周・のもとで実現した、

鮮卑族と、鮮卑化した漢族の結合した集団のなかから出てきたものである」

『中国文明の歴史』岡田英弘

「「鳥丸」と「鮮卑」は、

大興安嶺山脈の東斜面からモンゴル高原にかけて分布した遊牧民である」

『日本史の誕生』岡田英弘

上の言葉は重要なので載せておく。純粋な漢族ではなかったことが重要。

唐王朝の創業者でもあり隋の武将だった、父・高宗(李淵)から譲り受けて、

第二代皇帝の座に就いたのが太宗(李世民)。六二六年のことで、太宗二十九歳の時。

唐は九〇七年に後梁の朱全忠(漢人)に滅ぼされている。第二十代皇帝哀帝の時。

ちなみに当時の日本は、舒明天皇の時(六三〇年) に第一回遣唐使を派遣し、

宇多天皇の時(八九四年)に廃止。

遣唐使は十九回にも及んでいたのは有名な話かもしれない。

敵対勢力を平定し、創業の時代を終え、これからどうやって国家を運営していくか、

守成の時代をどうするのかを語ったのが『貞観政要』の中心テーマ。

角度を変えて見るならば、それは、支配者のイデオロギーという見方にもなる。

その『貞観政要』で有名な問答がある。長くなるが引用する。

   草創と守成といずれか難き

貞観十年に、太宗が側近のものにたずねた。

「帝王の事業のなかで、創業と守成といづれが困難であろうか」

宰相の房玄齢(ぼうげんれい)が答えた。

「創業の初めにあたっては、天下麻のごとく乱れ、各地に群雄が割拠しております。

天下統一の大業を成しとげるには、それら群雄との争奪戦に勝ち抜かねばなりません。

そのことを考えますと、創業のほうが困難であると思います」

魏徴(ぎちょう)(諫議大夫)が反論した。

「新しい帝王が天子の位につくためには、必ず前代の衰乱の後をうけ、

ならず者どもを撃ち平らげなければなりません。

人民は新しい帝王を喜び迎え、 こぞってその命令に服します。

そもそも天子の位というのは、天から授かり、人民から与えられるもので、

それを手にするのは困難であるとはいえません。

しかしながら、一旦、天下を手中に収めてしまえば、気持ちがゆるんで、

自分勝手な欲望を抑えることができなくなります。

人民が平穏な生活を望んでも、賦役の止むときがありません。

人民が食うや食わずの生活を送っていても、

帝王の贅沢三昧のため労役が次から次へと課せられます。

国家の衰退を招くのは、つねにこれが原因になってます。

このような理由で、わたくしは、守成こそ困難であると申しあげたい」

太宗が言った。

「房玄齢は、むかし、わたしに従って天下を平定し、つぶさに艱難をなめ、

九死に一生を得て今日あるを得た。

そなたにしてみれば、創業こそ困難であると考えるのも、もっともなことである。

一方、魏徴はわたしとともに天下の安定をはかりながら、

今ここで、少しでも気をゆるめれば、必ずや滅亡の道を歩むにちがいないと心配している。

だから、守成こそ困難であると申したのであろう。

さて、翻って考えれば、創業の困難はもはや過去のものとなった。

今後そちたちとともに、心して守成の困難を乗り越えて行きたい」

長い引用になってしまったが、

これが有名な「草創(創業)と守成いずれか難きか」を述べた問答。訳は守屋洋。

簡単に言えば、身を正し、マインドチェンジしてその先を見ろ、ということで、

中国は易姓革命の国で、“仁の徳”を持たない皇帝は弑(しい)される。

「民を貴しと為し、社稷之に次ぎ、君を軽しと為す。

是の故に丘民(衆民)に得られて天子となり…」

は、孟子の核心思想。(孟子は機会があれば紹介します)

現代語訳は、「人民がいちばん貴い。次が社稷(国家の守護神)、君主はその下」。

ある意味においては、民主思想だともいえる。今の中国で孟子は教えられてないみたいだが。

そして、

「君に大過あれば諫む。これを反復して聴かれざれば、位を易(か)う」

は、孟子の革命思想。

現代語訳は、

「君主に重大な過失があれば、諫めます。

たびたび諫めても聞きいれられないときは、君子をとりかえるのです」。

なので、失政は許されない。“仁” “義” の関係だ。

“第五章 名君の条件 林深ければ鳥凄む”の中で、太宗は、

「林が深ければ、たくさんの鳥が凄みつき、川幅が広ければ、

魚は群れをなして集まってくる。

それと同じように、仁義をもって心の通った政治を行えば、

人民は自然に慕い寄ってくるものだ。

            (中略)

そもそも仁義の道は、片時も忘れることなく、常に肝に銘じておかなければならぬ」

と語っているので、孟子を意識しているのが分かる。

ちなみに「仁」は愛、「義」は道理にかなうこと。

では、その民を治める正統性はどこからくるのか。

在野の歴史家だった山本七平によれば、

「天子とは北極星を中心に整々とめぐる天の秩序を地上に再現すべき存在であり、

最も徳の高い者にそれが可能だから、天がその者を天子に任命する。

これが『天命』で、この孔子・孟子の思想から唐の時代まで、すでに千年近い歳月が流れ、

一つの伝統となっていた」。

「隋唐以降の中国人は政治を至上の仕事と考えた。

すなわち人間の救済を政治に求め、皇帝が天命を受けた聖人で、

その下の官僚が聖人の教えを完全に身につけた君子なら、民は救済されるはずであり…」。

ということで、帝王学が発達したのだろうと思われる。

これが底流に流れているのを頭に入れておく必要がある。勿論今にも通用する見方。

その他に語られていることは、

「組織内の風通しをよくしろ」、「長所をみて、適材適所に人材を配置しろ」、

「どんな時代にも人材はいる」、「多くの臣下の諫言に耳を傾けろ」、

「言葉を大切にしろ」、「欲望に流されるな」、「私心を抱くな」、

「想定外のことを考えておけ」、「無理に兵を動かすな、だが平和ボケもするな」、

「法を大切にしろ」、「読書をしろ」など。

今から眺めると、当たり前のことを述べている、と思う面もあるが、

この時代にこういった事に気を配り、太平の世を築こうと奮闘していた様子も

伝わってくるので、味わい深く読める。

『貞観政要』がビジネスに役立つかどうかは知らないが、ご参考までに。

まあ、ビジネスマンより中国共産党政府が一番読んだほうが良いと思うが。

そんな太宗でも、後継者選びには苦心したみたいだが。