『徳川家康』 山本七平



私は、家康は人類史上でも稀に見る最高レベルの戦略家だったと評価している。

なぜなら、彼は政治的に安定した幕藩体制を築き上げたからだ。

これこそまさに同盟関係によって「敵」を消失させる最高度の大戦略であり、

その有効性は二百五十年にも及んだ。これが出来た人物は世界史上でもきわめて少ない。

エドワード・ルトワック

と、アメリカの戦略家、エドワード・ルトワックは評しているが、

本書のなかで山本七平も、

「関ヶ原は『作戦の戦い』でなく『政略の戦い』であった」

と述べている。

ルトワックのほうが、抽象度が高く論じられてはいるが、

家康を幾多の同時代人より、「視座が一段高かった」として捉えているのは同じだろう。

さらに、山本七平は政治学者のガエターノ・モスカを引用して、次のように評している。

「政略家とは、あらゆる権謀術数を弄して権力獲得に至る最短の道を知っている者である。

 そこで政略家は権力は得るであろうが、人民の欲する政策を立案する能力はない。

 一方、政策家とはこの逆で、人民の潜在的な願望を知り、

 最も少ない犠牲と苦痛でその願望を実現しうる手段を立案できるが、

 これを実施するために権力を入手する能力がない。

 従って人民にとって、次善の幸福とは、

 政策家と政略家が密接なコンビを組んだ場合である」

として、この基準で見れば、満点ではないが、

家康を両方を合わせ持つ珍しい政治家だったとしている。

ちなみに、中江兆民も

「『俊偉』の観があり、有限実行であり、『真面目』な人物である」と、

大久保利通と共に、家康を大政治家だったと評している。

(東照大権現 徳川家康)


家康は勉強家で、学問を重んじたが、公家の文化や禅僧的な詩文などの影響を受けず、

専ら実学を重んじた。

そのなかでも政治教科書としたのが、『吾妻鏡』と『貞観政要』

師としたのは源頼朝


両者を比べてみると、性格的には必ずしも同じといえないが、

頼朝と家康にはさまざまな共通点がある。

まず急がずに内をかためること。

富士川で平家の大軍を撃破しながら京都へと追撃せず、

立ち返って鎌倉にもどってまず関東で足場をかためたこと。

そして鎌倉から動かず、義仲に先を越されても慌てる気配がない。

軍を動かすときは必ず何らかの大義名分を掲げ、

戦闘の決着は必ずつけて止めをさすこと等々…。

さらに幕府を関東に置いて朝幕をはっきりと分け、

純然たる政治の部分だけを抽出してこれを幕府が握り、

その他のことは朝廷にまかせたこと等々も、頼朝の行き方と同じである。

… 問題は反面教師としての頼朝であり、

源家は三代で亡び、実権は北条氏に移ったことである。

『徳川家康』 山本七平

文禄二年(一五九三)に、藤原惺窩から『貞観政要』の講義を受けているのは有名な話。


家康にとっての学問とは、法律・政治・軍事・財政等について学ぶことであり、

一言で言えば「統治者の実学」すなわち広義の政治学であったと言える。

そして信長・秀吉・家康のうち、法治に最も重点を置いたのは家康だった。

『徳川家康』 山本七平


なので、現代から眺めてみても、他の戦国武将と比べて、家康は派手さがなく、

地味な印象を抱く一因なのかもしれない。

「秀吉は接客業も出来たであろうが、家康は絶対にできまい」、

「家康は日本で成功するタイプの典型」、

とも述べられていて、

家康に欠けていたのは「ユーモア」と「温かみ」と「サービス精神」だったとしている。

「大義名分」を重んじる「律儀」な家康らしいともいえる。

山本七平は、家康の有能さを培ったものとして、三つあげている。

第一、家康は「海道一の弓取り」で、最も有能な第一線の指揮官であった。

第二、彼の統治能力と部下への統率力。

第三、財政能力。

端的に言えば、軍事、外交、経済のバランスがよかったんだろう。

そしてこれらを培ったものは、「学問」であったとし、

  
いわば決して教養主義的な学問にとらわれず、学ぶべきことと、

それを学びとりかつ活用する方法を探究していった点、

ここに彼の特質があり、この点では確かに天才と言える。

信長・秀吉・家康の三人の中で、家康ほど深く日本の法制史と

中国的な政治学に関心をもった者はいない。

『徳川家康』 山本七平

としている。

徳川時代といったら鎖国のイメージが強いが、

家康は積極的な開国主義者で、等距離外交、近代的な経済外交を展開していた。

それは、「来るを拒まず去るものを追わず」で、視座が高く、

「土下座外交」も「いいわけ外交」も「謝罪外交」もしなかった。

中立の位置に立ち続けていた。もちろん、武力や財力や情報を背景にして。

「中立外交」はともかくとして、その他の事は、今からでもすぐに実行できることだろう。


いずれにせよ家康の残した教訓は、

外交とは常に名よりも実を取る正攻法しかないということであろう。

そしてこれがわからない者は常に、家康との対応を誤るのである。

『徳川家康』 山本七平


面白がって側近に、ウィリアム・アダムス(按針町)とヤン・ヨーステン(八重洲口)を

召し抱えたのをみれば、肯けることなのかもしれない。

アダムスを厚遇したのは、造船技術と航海術を知っていたからで、

さらには、西欧の数学、幾何学、地理学などを聞き、「耳学問」も楽しんでいたらしい。

そして、この外交能力と自信は何処から湧いてくるのかというと、

戦国以来の対内的外交によって培われたとしている。そりゃそうだろうね。

以上。ぼくの気になった箇所を抽象的に載せた。

詳細が気になる方は、独自で紐解いていただけたら幸いです。

本書は徳川家康の伝記ではなく、山本七平氏の家康論なので、

歴史学者が読んだら、史実と違っている箇所を多々指摘されそうだけど、

それはそれ、これはこれ、として読者が解釈すればいいだけのこと。

歴史学者が書いた、何冊かの徳川家康の伝記を読んだことあるが、

時系列に沿って、史実を淡々と述べられているだけで、

ぼくには、山本七平の『徳川家康』のほうが、有益に感じられた。

山本七平氏は、一九九一年十二月十日に亡くなられている。

本書は、遺稿として息子さんの手元にのこり、

最終チェックをして出版されたもので、かなり苦労されたみたいだ。

(あとがきに詳しい)

山本七平は『徳川家康』を通して、戦後の日本人に伝えたいことがあったのではないかと、

ぼくは勝手に解釈している。

なので、本書の方に魅力を感じたのかもしれない。

家康は、大坂の役の直後に発布された、

十三ヵ条の「武家諸法度」の最後に次のように記している。

「国に善人無ければ、則ちその国必ず亡ぶ。これ先哲の明誠なり。」


厭離穢土 欣求浄土