人間はひび割れた器 / 『二十世紀を生きて – ある個人と政治の哲学』 ジョージ・ケナン 



ケナンは、モスクワのアメリカ大使館政治課長をつとめていた。

世界におけるアメリカの役割の議論をそれほどまでに煮詰めた外交官は、

前代未聞だった。

ヘンリー・キッシンジャー

周恩来との会談で、

「日本とアメリカの防衛関係は、日本が攻撃的政策をとることをふせいでいる」と、

「ビンの蓋」論を展開した、特別補佐官で国務長官であった、

親中派のレッテルを貼られている、ヘンリー・キッシンジャーからは、

傲慢で自分に酔っている印象を抱くが、

( ニクソン元大統領は、キッシンジャーを過度にプライドが高く、自惚れ屋で、

自分の誤りを認めなようとしない、「子供みたいなやつ」と言い、

精神分析医に行くことを勧めたことがある。ある意味ニクソンショック。)

しかし、ジョージ・ケナンからは、自国の国益も大切だが、

それ以上に、世界全体がより良い方向に進むためには、どうしたら良いのだろうか、

ということを、ペシミズムの立場ではあったが、真剣に考えていた印象を抱く。

本書でもそれが顕著だ。

1947年のジョージ・ケナン


ジョージ・ケナンは、アメリカの外交官で、

歴史家でもあり、哲学者でもあり、評論家でもあった。

一九〇四年二月のウィスコンシン州ミルウォーキー生まれで、

二〇〇五年三月十七日、一〇一歳で長逝した。

一九二五年にプリンストン大学を卒業し、

国務省に入り、ジュネーブ、ハンブルク、ベルリンに勤務し、

当時としては数少ないソ連の専門家として訓練を受けるため、

エストニア、ラトヴィアに派遣され、

一九二九年より二年間、ベルリン大学でソ連に関する専門教育を受けた。

そして、一九三三年に外交官としてモスクワに赴き、

一九四六年まで三回にわたり約七年モスクワの大使館で過ごした。

一九五三年に国務省を辞し、亡くなるまでプリンストン高等研究所で学究生活を送った。

(詳細は省いた)

本書の“解説”を書かれている佐々木卓也氏は、

ケナンの人生をわかりやすく三期に分けている。

①国務省の外交官時代

②ワシントンの政権中枢にあった一九四〇年代後半、

③国務省を辞め、プリンストンで学究生活を送った時代

もっとも有名なのは、

②の「ワシントンの政権中枢にあった一九四〇年代後半」時の「長文電報」。

それは、後に『フォーリン・アフェアーズ』に匿名Xで発表し、発展させた「X論文」。

『アメリカ外交50年』(岩波現代文庫)の第二部に収められている。

当時のアメリカ政府中枢に蔓延していた、対ソ協調路線に警鐘を鳴らした論文で、

(フランクリン・ルーズベルト政権下での、ソ連国家承認にもケナンは反対していた。)

その後に、

ウィンストン・チャーチルがミズーリ州フルトンで「鉄のカーテン」演説をおこない、

ソ連を激しく非難した。

そして、本書は一九九三年に、ケナンが八十九歳の時に出版したもの。

哲学・思想集でもあるし、文明批評でもある。

自国アメリカに対して容赦なく批判を展開してもいるし、

現在噴出しているアメリカの内外の問題にも言及しているので、色々と示唆に富む。

現代人はケナンのペシミズムに耐えられそうにもないと思うが、

目に留まった箇所をピックアップ。

人間は、自分の行動を文明の必要に合わせて形成しようと試みる限りでは、ひび割れた器だ。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

後の人生で私は、他人の判断のみに頼って自分を評価する人間を目のあたりにして、

その自信のなさを憐れむことになる。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

真の栄光は目に見えた成功の見通しよりも、その戦いに内在する価値にある。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

我々がこれから人間と政治の哲学の、定かならざる領域に出発するにあたり、

一切のユートピア的志向や期待を持つなという警告であろう。人間は完全にはなり得ない。

人間の精神のこうした亀裂は深くて基本的なものである。

文明生活が何とか続く限り、これらの亀裂につきまとわれ、

その制約から逃れることはできない。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

移民の目的地としてのアメリカの魅力の一つは、

アメリカ社会にはこれら先祖伝来の区別がなく、

ここで生まれた子はすべて、

社会参加の条件を形成するのに平等なチャンスを持つという認識だった。

これが、アレクシ・ド・トクビルが一八三〇年代に、

アメリカ社会の際立った特徴と見た平等感の基盤であった。

彼はこれこそ、何にも増して、アメリカ文明形成の重要な要因とみなし、

これが彼のこの国へに興味の基礎となった。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

人間が自分の支配下に置こうと決してしてはならぬものが二つある。

一つは天候、一つは遺伝だ。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

人間一人一人の存在そのものに、ある程度の悲劇が内臓されているのであり、

人間の経済、人間の社会関係に、どんな思い切った手を加えても、

それを克服することはできない、ということだ。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

下劣な衝動を抑制し、行き過ぎないようにしておくのが政府の仕事である。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

民主的であろうとなかろうと、すべての政府に変わらぬ特徴の一つは、

政府というものは、先鋭化した野心、対立、過敏性、不安、猜疑心、

困惑、反感の空気を呼び、その中で機能しているということで、

これは、控え目にいっても、関係者の最良の面を引き出さないで、

時には最悪面を刺激する。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

つまり「民主主義」と「民主的」という言葉は、やたら乱用されたため、

はっきりした意味をすべて奪われてきたのだ。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

歴史上、都市の暴徒が「人民」を代表すると称して、その明確な権限もないのに、

政府を倒しては交替させた例があまりにも多いことを思い出させる。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

ナショナリズムが出現してから米国民が経てきた二世紀の間に、

それは当代最大の感情的・政治的勢力となった。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

大衆感情の高揚で、特に民主社会の何百万もの人々が染まりやすい。

それはショービニズム(排外主義)と呼んでも間違いはなかろう。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

正常なナショナリスト、まともな愛国者は自分の社会の短所も長所も認めるが、

ショービニストは長所しか認めない。

前者は誇りと憐れみを合わせた見方をするが、ショービニストが味わうのは誇りだけで、

それも誇張した形でだ。

正常なナショナリストは自分の国の素顔を見るだけなのに、

ショービニストは ― 常に自意識にとらわれ、常にてらい ―

自国を主として他国との関係で、その特質の競争的、比較的側面を見る。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

集団的反応は知的でなく、本質的に感情的で、寛容な感情となる時もあるが、

決して考え抜かれたものではなく、最小公分母の一切の弱点を抱えざるをえない。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

いまの頭文字語「ワスプ」(Wasp’ White Anglo-Saxon Protestant)と普通呼ばれているが、

もはや少数派であり、しかも減退しつつある少数派なのだ。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

差別強制かと問われれば、もちろん否だ。だが差別撤廃強制もあってはならない。

人々を自然の成り行きのままに行動させてやるべきだ。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

教育上以外の理由で人種混合を強制するのは、どうか願い下げにしてもらいたい。

社会を平準化する試みは一つ残らず、決して頂点へではなく、

底辺への平準化に終わるというのが、結局歴史の教訓である。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

ある国が強制的な内政干渉によって、よその国に大いに尽くすことができると思うのは、

そもそも幻想であるし、そんな夢を抱くことは、ことわざのように、

地獄へ通じる善意で舗装した道の一例に過ぎないのが普通である。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

テレビ視聴の最大の欠点は、受動的になり、そうさせられることだ。

視聴者はせいぜい受け身の目撃者、無関係な観察者でしかない。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

ブラウン管は気晴らしになるが、何も要求しない。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

映像が読書― そして思考を随分妨げていることだ。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

アメリカが世界で救世主的役割を果たすことには、私は全面的に、断固反対だということだ。

つまり我々が自分を人類の教師と救済者に擬することに反対、

自分が特異の、他より優れた美徳があるとする幻想に反対、

マニフェスト・デスティニー(明白な運命)とか「アメリカの世紀」などと口走って、

建国以来、いやそれ以前から、

すべての世代のアメリカ人を引き付けてきたビジョンに反対だ、ということだ。

正直にいって、我々はただの人間、人間の子孫、そして先祖同様、

人間のありふれた弱点をすべてかかえた者なのだ。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

自分の尊厳を失わずに命令に服すこと、

相手の尊厳を損なわずに命令を下すことを学んだことのない者は、

自己管理に成功するとは思えない。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

国の状態が手に負えなくなっていると私は思っている。

自分の国にこうした考えを持つことは、自分の帰属意識を問うものとなった。

『二十世紀を生きて― ある個人と政治の哲学』ジョージ・ケナン

トクヴィル、ニーバー、バーク、ミルトン、ゲーテ、チェーホフなどの引用が多く、

引用はなかったが、背後にオルテガやパスカルを感じた。

そして、大衆、モータリゼーション、オートメーション、テレビ、

過度な平等主義、過度な人口増、諸外国に対する「法律家的・道徳家的アプローチ」、

核兵器などに、辛辣に苦言を呈している。

最近、中公文庫から『ジョージ・F・ケナン回顧録Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』が出版されている。

まだ未読だが、こちらも楽しみにしている。


“人間はひび割れた器”という認識が、キッシンジャーとの違いを生んでいる。

そして、その認識が、ケナンの最大の魅力であり、重要な概念でもある。

こういった人物は、もう二度と生まれてこないだろう。

と、思うと寂しいかぎりである。

【その他のジョージ・ケナン関連の記事】

『アメリカ外交50年』

『ジョージ・F・ケナン回顧録 I』

『ジョージ・F・ケナン回顧録 II』

『ジョージ・F・ケナン回顧録 Ⅲ』