『キッシンジャー超交渉術』ジェームズ・K・セベニウス、R・ニコラス・バーンズ、ロバート・H・ムヌーキン



最高の結果を得るためのキッシンジャー流「交渉の基本3原則」

1、戦略へのズームアウトと、交渉相手へのズームインを繰り返し、絶えず両方の見方を統合

する

2、基本的前提を何度も見直す

3、交渉のテーマに精通する(あるいは、テーマに精通したチームを持つ)

『キッシンジャー超交渉術』ジェームズ・K・セベニウス、R・ニコラス・バーンズ、

ロバート・H・ムヌーキン

本書は、他に例を見ない著作なのだ。

私の交渉術と交渉哲学を深く探求した、初めての著作と言っていい。(中略)

国務長官および国家安全保障問題担当大統領補佐官としての私の外交政策をテーマとする本は

多いが、私の戦略的交渉について深く分析した本は、私の知る限り本書の他に存在しない。

(中略)

本書の意義は、私自身、在職中から今に至るまでそれほど意識していなかった行動原理と実践

の神髄を、明らかにしたところにある。

(ヘンリー・A・キッシンジャーによる序文)『キッシンジャー超交渉術』

ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー(1923年5月27日~)

1974年6月に行なわれたハリス世論調査によれば、アメリカ人の85パーセントという驚くべき

数の人がキッシンジャーは「素晴らしい」働きをしていると考え、88パーセントが彼を「非常

に優れた交渉者」だと考えていたという。

40年後の2014年に、国際関係学を教えている1375大学の1615人の学者を対象としてアンケ

ートを行なったところ、大半がヘンリー・キッシンジャーを過去50年間で最も有能な国務長官

と見なしていることもわかっている。

回答者をリベラル、中道、保守、男性、女性に分けて見ても、その評価は変わらなかったとい

う。

キッシンジャーに手厳しい伝記作家でさえ、「(20)世紀で最も重要なアメリカの交渉者」だと

評価している。

公職にあった間、キッシンジャーは『タイム』誌の表紙を15回以上飾り、1972年にはリチャ

ード・ニクソンと共に同誌の「マン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれている。

1973年には、ベトナム戦争を終結に導いた功績により、レ・ドゥク・ト(受賞を辞退した)と共に

ノーベル平和賞を受賞した。キッシンジャーは後にそれを辞退しようとしたが。

1977年には、民間人に贈られるアメリカ最高位の勲章である大統領自由勲章を授与されてい

る。

ジョン・F・ケネディ以降のアメリカ大統領の誰もが、キッシンジャーに助言を求めた。

世界中のCEOや政治指導者もそれは同じであり、外交政策、国政術、世界秩序に関するキッシ

ンジャーの洞察は、多大な影響力をふるっている。

本書は、これまでに交渉者としてのキッシンジャーの記録を真剣に、かつ総合的に、考察した

人はいなかった。

キッシンジャーの重要な交渉を総覧し、共通する特徴を見つけ出すことによって、キッシンジ

ャーの交渉アプローチと、その背後にあるロジック、戦略、戦術を批判精神を忘れずに探究し

ようとするのを目的としている。

本書の著者は三人いる。ニック・バーンズ、ボブ・ムヌーキン、ジム・セベニウス。

ニック・バーンズは、ハーバード・ケネディスクールで外交術と国際政治を教え、それ以前まで

は27年間アメリカ国務省で外交官として働いていた。

ボブ・ムヌーキンは、調停と法律交渉の経験が豊かで、ハーバード・ロースクールで交渉につい

て教えている。

最後のジム・セベニウスは、数年をウォール街で働き、取引と論争の専門家として、数十年にわ

たって世界中のクライアントにアドバイスし、今はハーバード・ビジネススクールで交渉につい

て教えている。

左からジェームズ・K・セベニウス、R・ニコラス・バーンズ、ロバート・H・ムヌーキン


本書「解説」を書かれている田村次郎氏(慶応義塾大学教授/交渉学協会理事長)によれば、

著者たちは、世界的に有名な交渉学の研究機関であるハーバード大学交渉学研究所を拠点とし

て活躍する交渉学の研究者。

キッシンジャーの交渉哲学と業績について書くことを思いついたのはジム・セベニウスであり、

本書の骨格を築いた。

ちなみに、キッシンジャーもハーバード大学と大学院を修了した後、教授に任命され、終身教

授の地位を得ている。

もうひとつちなみにだが、そのハーバードの教授を務めながら、ニューヨーク州知事だったネ

ルソン・ロックフェラーの私的外交顧問も務めている。

ロクックフェラーは、共和党の大統領候補指名争いでリチャード・ニクソンと三回戦った人物。

大統領に就任したニクソンは、キッシンジャーがロックフェラーを支持していたにもかかわら

ず、キッシンジャーを国家安全保障問題担当大統領補佐官に選んでいる。

「本書の主たる目的は、歴史的記録の間違いを正すことでもなければ、政治的論争に終止符を

打つことでもなく、交渉の効果を高めるのに役立つ方法を見つけることである」(本書)

著者たちは、キッシンジャーの交渉の経験や著書を丹念に研究し、長時間にわたってインタビ

ューするうちに、キッシンジャーのアプローチが非常に洗練され、一貫していることに気がつ

いた。

この発見に突き動かされ、著者たちは二つの目的を果たすために本書を書くことを決意してい

る。

一つ目の目的は、過去の重要な交渉を振り返って、「交渉者キッシンジャー」の特徴を明らか

にすること。交渉相手は中国、ソ連、ベトナム、中東や南アフリカの諸国。

キッシンジャーはニクソン、フォード政権の、国家安全保障問題担当大統領補佐官および国務

長官として重要な役目を果たした。

「交渉者キッシンジャー」の特徴を探究した後、アプローチを支える一連の特徴を明らかにし

ている。

二つ目の目的は、将来に目を向けたもの。

著者たちは、キッシンジャーのアプローチの価値と限界を見極め、そこから現代の外交官やビ

ジネス、金融、公共政策、法律の世界で交渉をする人びとに役立つ手引きを導き出している。

永続的な価値があり、幅広く応用できる交渉の原則と技術を見出している。

本書冒頭では、国家安全保障問題担当大統領補佐官および国務長官として「交渉者キッシンジ

ャー」が関わった数々の外交上の業績が列挙されている。

「冷戦」「敵対する米中関係」「ベトナム戦争」「第四次中東戦争」「南部アフリカ」など。

以下、掻い摘んで載せたい。

【冷戦】


1969年にニクソン大統領の国家安全保障問題担当大統領補佐官に任命されたキッシンジャーだ

ったが、過去数十年にわたって米ソが繰り広げてきた冷戦は、危機のピークを迎えていた。

3万7000超の核兵器の大半が互いに照準を定め、いつでも発射できる状態にあった。

ヨーロッパはベルリンと同じく二分され、ワルシャワ条約機構とNATOが東西の軍事同盟に分

かれてにらみ合っていた。

同時に、ベトナムでは悲惨な戦争が続き、ソ連が北ベトナムに提供する大量の兵器が、何万人

もの米兵の命を奪っていた。

この様な状況下で、キッシンジャーは「デタント」に基づく交渉を重ね、ソ連との関係を改善

した。

デタントは、広い分野で米ソ間の緊張を緩和しようとする政策で、超大国間で初の戦略兵器制

限条約(SALTⅠ)の締結を導いた。

「キッシンジャーは早い段階から、デタント政策によって米ソの緊張を緩和しようとしてき

た。対して、ソ連側はいくぶん理解を示したものの、相変わらずその壁は厚かった。

ところが突然、米中関係が改善に向かったため、モスクワに激震が走った。

クレムリンは、米中提携の可能性を懸念したはずだ。

キッシンジャーは、中国との友好的な関係を発展させたから、ソ連という前線(フロント)にあ

らためて注力した。程なく成果が得られた。」(本書)

【敵対する米中関係】


キッシンジャーが語っているように、1949年に中華人民共和国が建国されて以来20年間、ア

メリカの政策担当者は中国を陰気で、無秩序で、狂信的で、理解しがたく、揺さぶりをかける

こともできない異質な国と捉え、中国を認めなかった。

中国は、朝鮮戦争で米軍と戦い、ベトナム戦争では北ベトナムに軍事物資を送り、顧問団を派

遣した。さらには、頻繁にアメリカを脅し、そうした印象が正しいことを立証してきた。

ニクソンが大統領に就任した年に、毛沢東は「世界中の人々が結束し、侵略国アメリカとその

犬たち(手先の国々)を打ち負かせ」ということを書いていた。

キッシンジャーはニクソン大統領の側近として働きながら、1971年にひそかに中国の指導者、

毛沢東、周恩来との交渉を始めた。

キッシンジャーの行動は、アメリカの保守派などに批判されたが、このプロセスを土台とし

て、1972年、アメリカは中国との関係正常化の第一歩を踏み出し、中国を認め、関わりを深め

る道へとつながった。

「ニクソンとキッシンジャーは、中国との関係改善は、ベトナムとの和平会談への影響はどう

あれ、それ自体に価値があると考えていた。

しかしアメリカの対中外交は、ベトナム戦争を終わらせるための交渉に三つの影響を及ぼし

た。第一に、中国軍が直接米軍と戦った朝鮮戦争と違って、ベトナムでの戦闘に中国軍は加わ

らないことを、中国はキッシンジャーに暗黙のうちながら確約した。

第二に、その程度については今も議論されているが、中国はハノイへの物質的な支援を消滅

し、北ベトナムを外交的に孤立させるのに一役買った。

第三に、米中の連携という脅威が、ソ連にハノイへの支援を控えさせた」(本書)

【ベトナム戦争】

パリでキッシンジャーとレ・ドゥク・ト

1969年までにベトナムでは残忍な戦闘により、多くのアメリカ人の命と、さらに多くのベトナ

ム人の命が奪われていた。

リンドン・ジョンソン大統領は辞任を余儀なくされ、ベトナム戦争に反対する学生のデモと抗議

活動が、時には暴力を伴いつつ、国中に広まっていた。

ニクソンは、国内の強い圧力を受けて、インドシナ半島の米軍を速やかに縮小することを約束

し、大統領就任時には約55万人いた米軍兵士のうち、20万人超が1969年から1970年の間に引

き揚げた。

1972年には、ベトナムにいる兵士の数は2万5000人を切り、ピーク時のわずか5パーセントに

なった。キッシンジャーが交渉を始めると、撤退は加速し、北ベトナムもそれを認識した。

1969年に始まった一連の交渉において、北ベトナムは一貫して、アメリカが同盟国である南ベ

トナム政府を倒して撤退することを求めた。

一方、南ベトナムの指導者は、米軍の撤退を約束する協定のすべてに、断固として反対した。

キッシンジャーはパリで、北ベトナムの交渉者であるレ・ドゥク・トと直接、取引をし、また、

中ソ両国との関係を改善し、共産主義を奉じる二大国に、北ベトナムへの支援を縮小するよ

う、直接的にも間接的にも圧力をかけた。

1973年に結ばれたパリ和平協定は、戦争終結、戦争捕虜の解放、米軍の撤退、南ベトナム政府

の存続と新たな選挙への参加を約束した。

しかし、ウォーターゲート事件を受けて1974年にニクソンが辞任し、アメリカはこの協定を実

行することができず、北ベトナムは協定を破り、内戦は続いた。

1975年4月にサイゴンが陥落し、南ベトナムは北ベトナムに敗北した。

「・・・ニクソンとキッシンジャーは早期の完璧な勝利という目標を捨てた。

彼らはアメリカの重要な目標を以下のように見定めた。

北ベトナムに軍事的に対抗する確かなチャンスを、反共産主義の南ベトナムに与える。

南北ベトナムに自らの政治的運命を多少なりとも平和的に決めさせる。

アメリカの軍隊をインドシナから撤退させる。そして、捕虜になったアメリカ人を帰国させ

る。

南ベトナムから北ベトナムを撤退させ、べトコンを平和的な政治プロセスに組み入れれば、こ

れらの目標はかなえられると思われた」(本書)

【第四次中東戦争】

(上)シナイ半島方面(南部戦線)の戦況。 左:1973年10月6日 – 13日、右:同14 – 15日

赤:エジプト軍、青:イスラエル軍

1973年10月、ユダヤ教徒にとって1年で最も神聖な日であるヨム・キプール(贖罪の日)に、

エジプトとシリアによるイスラエルへの奇襲攻撃が決行される。

エジプト軍はスエズ運河を渡るなど、アラブの軍勢は前例のない進行を成功させた。

キッシンジャーが国務長官だったアメリカは、緊急行動によってイスラエル国防軍を支援し、

劣勢を立て直して反撃できるようにした。

一方、ソ連は当時、エジプトやシリアを含むアラブの主要な国々と通商し、中東に強い立場に

あった。

そのためソ連はアラブの同盟国を支援し、イスラエルがカイロやダマスカスへの進軍を続ける

のであれば、直接介入し攻撃を拡大する、と脅迫した。

1973年末から1974年初めにかけて、キッシンジャーは当事国間を何度も行き来し、エジプト

およびシリアとイスラエルとの兵力引き離し協定をまとめるために尽力した。

キッシンジャーは、中東におけるソ連の影響力を大幅に縮小するという明確な目的を持って、

これらの交渉に当たった。

「第四次中東戦争の後、キッシンジャーは1974年にはエジプトと、1975年にはシリアと、

イスラエルにおける大々的な兵力引き離しについて交渉した。

双方とのシャトル外交は、三国間を安定させる協定をもたらし、それらの協定は2018年現在ま

で持ちこたえている」(本書)

【南部アフリカ】

ローデシアの位置とイアン・スミス

1970年代半ば、ソ連は、ポルトガルからの独立を目指すアンゴラを支援し、キューバ軍も同じ

目的でアンゴラに侵攻した。

当時、南部アフリカの鉱物資源の豊かな国々はソ連の勢力下に入り、冷戦の最前線に立たされ

ているように見えた。

対してアメリカは、ベトナムでの苦い経験もあり、軍事行動を起こすどころか、支援する気に

もなれなかった。

アメリカ議会もソ連とキューバの武力行使に自国がひそかに応じることを早々に禁じた。

問題は非常に複雑な様相を呈しており、ソ連とキューバの動きに対抗するための要となるロー

デシア(後のジンバブエ)と南アフリカは、少数の白人が支配し、アメリカの保守勢力から強い

政治的支援を得ていた。

ローデシアというのは、1965年に南ローデシアの白人政権が英国からの独立を一方的に宣言

し、ローデシア共和国を設立した。

英国は初代首相のイアン・スミスを説得し、30万人弱の白人が600万人の黒人を支配する状況

を、黒人多数支配へと移行しようとしたが、失敗に終わっている。

1976年の構想(イニシアチブ)において、キッシンジャーはアフリカのさまざまな国と交渉し

た。ローデシアとの交渉では、黒人多数支配を2年以内に受け入れることを納得させた。

特にキッシンジャーは、ローデシアと同様に白人が支配する南アフリカを説得して、

南アフリカにとって不都合なはずであるにもかかわらずローデシアに強い圧力をかけさせた。

これらの交渉は、アンゴラにおけるソ連とキューバの影響力を弱め、ローデシアが最終的に独

立するための地固めをし、また、この地域で懸念された「人種間戦争」を回避させ、さらには

南アフリカを黒人多数支配へと一歩前進させた。

「キッシンジャーがこの任務に着手したのは、明らかに冷戦に絡む理由があったからだ。

しかし、最終的な目的は、南部アフリカで民主主義を推進し、かつ、民族紛争を避けることだ

った」(本書)

「彼は交渉を成功させるために、地政学のグランドマスターとして冷静にチェスの駒を動かす

だけではなく、個々の当事者を鋭く洞察していた」(本書)


本書では、これらのキッシンジャー(ら)の外交上の業績を一つ一つ丁寧に掘り下げて分析して

いるのだが、著者らは、その分析を通してキッシンジャーの交渉術の核心を導き出している。

冒頭で引用した、キッシンジャー流「交渉の基本3原則」は大きな枠組みだが、15の教訓とし

てもまとめている。

①戦略へのズームアウトと、交渉相手へのズームインを繰り返し、絶えず両方の見方を統合す


普通の交渉者は「戦略」か「面前の人間」のどちらかに焦点を絞りがちだが、

キッシンジャーは「ズームアウト」として自分の戦略全体を見据え、地域や地球規模のチェス

ボードでチェスの名手のように巧妙に駒を進めながら、常に交渉相手に「ズームイン」した。

戦略が明確になり、交渉相手との関わりが深まるにつれて、その二つの視点を行ったり来たり

しながら、目指す合意へと、交渉を徐々に後押ししていく。

②基本的前提を何度も見直す

キッシンジャーの交渉術を研究するにあたって、著者たちが最初に分析すべき対象としたの

は、キッシンジャーの包括的な目的と世界観だった。

それらの前提が正しかった時、交渉はスムーズに進化し、いくつかは目覚しい結果をもたらし

た。対照的に、前提が間違っていた時には、成功には至らなかった。

キッシンジャーは「戦略的に考え、臨機応変に動く」をモットーにしていた。

③交渉のテーマに精通する―あるいはテーマに精通したチームを持つ

ある国(あるいは交渉相手)の歴史、文化、経済、政治を深く知っていなければ、有能な交渉者

になるのは難しい。キッシンジャーが国際関係の現状と歴史に通じていたことは、キッシンジ

ャーの交渉能力を大いに高めた。

キッシンジャーの交渉相手の多くは、新しい課題を理解しようとするキッシンジャーの意欲の

高さと、尋常ではない速習能力を称賛している。

④長期的な視野に立つ

キッシンジャーは、交渉を「個々の価値」で評価するという、ありがちな習慣を常に批判して

いたという。

キッシンジャーは、交渉の即時的な影響よりも、どうすればその交渉をより大きなパズルに組

み込むことができるかを常に自問した。

信頼性は、長期的視野についてのこの議論の中心にある。ある交渉で信頼を築くことができた

か否かは、後の交渉に影響し得る。

キッシンジャーは次のように述べている。

「交渉に向かうかどうかを決める際に、私が基準にしていた一つのルールは、

その成功に80パーセントの確信を持てない時は、首都ワシントンを離れないというものだ。

(中略)国務長官である限り、一度の勝算に賭けるべきではない。さもなければ、信頼は容易に

失墜してしまうだろう」

「国家の信頼は、人間にとっての人格に等しい。

いずれも信頼されていればこそ、その確約を友人は頼り、脅しを敵対者が真剣に受け止める」

⑤広角的な見方を取り入れる

長期的な視点と深く関連するのは、著者たちが「広角レンズ」と呼ぶもの。

キッシンジャーのアプローチの中で目立つ特徴の一つは、まだ不明瞭だが将来は役立ちそうな

つながりを探し、働きかけることを、彼が常に意識していたこと。

広角レンズは、目前の交渉相手に集中しすぎて不利な状況に陥ることを防ぐ。

キッシンジャーは強調して次のように述べている。

「公式の立場を進展させる前に、すべての当事者の立ち位置を注意深く調べることが必要だ。

それをしたとしても、一方と交渉する前に、もう一方の立場について語る際には注意が必要

だ。その内容次第で、相手は譲歩を取り下げ、新たな要求を持ち出す恐れがあるからだ」

⑥現実主義になる―合意・不合意のバランスの変化を常に考える

どんな交渉でも、キッシンジャーは常に、自分の側の利害と、合意に至らなかった場合の選択

肢をはっきりさせていた。併せて、相手側の利害と、相手が合意・不合意の結果をどう評価する

かということにも気を配っていたという。

著者たちが推奨する「現実主義」とは、合意を得るために最低限必要な条件が整っているかど

うか、相手にとって合意か、行き詰まりや不合意より魅力的かどうかを慎重に評価すること。

⑦交渉の要素を不変と見なさない―ゲームの流れを変える一手を探し、合意・不合意のバラン
スを有利に傾ける

これは、状況を有利に変えるために、関係者や要素を「加える」あるいは「除外する」ことを

意味する。

相手が不承不承、交渉の席に着き、「イエス」よりも「ノー」を選びそうな場合、キッシンジ

ャーは合意を導くためにゲームを変えた。

その手段は、当事者を巻き込む、あるいは排除する、検討中の問題を変化させる、あなた自身

の不合意の選択肢をより良くする、相手の不合意の選択肢をより悪くする。

「歴史的に見て、交渉者が言葉による説得だけに頼ることはまれだ」とキッシンジャーは断言

し、また次のように述べている。

「一般における一国の立場は、提案の論理だけではなく、相手が拒んだ時に、いかなるペナル

ティーを課すかによって決まる」

「私が外交で学んだ一つの基本的原理は、外交と軍事行動の結果は分けられないということ

だ。行動に伴う報酬や代償なしに、大学院のセミナーのように外交ができるという考えは、

幻想にすぎない」

⑧「ホーム・フロント」によく注意しながら、合意を得るため、マルチ・フロントの交渉キャン
ペーンの可能性を探る

多くの事例においてキッシンジャーは、マルチ・フロントでの「交渉キャンペーン」によって、

ゲームの流れを変えた。

一般に交渉キャンペーンでは、まず最終的な目標を定め、続いてすべての関係者とその利害を

把握し、似通った関係者同士をグループ(「前線(フロント)」と呼ぶ)にまとめ、目標からさか

のぼって、各段階で重点を置くべきポイントを明らかにし、キャンペーンを組み立てていく。

キッシンジャーの交渉キャンペーンは、国内より国外において、より巧妙で、洗練されていた

という。

⑨多者間交渉での洞察力と機敏さを磨く―連携のダイナミクス、順位づけ、情報

キッシンジャーは三角外交によって、アメリカをソ連や中国より多くの選択肢を持つ立場へと

導いた、と指摘する。タイミングが重要だった。

「シャトル外交」は、プロセスに弾みをつけただけでなく、情報の流れにフィルターをかけて

管理することを可能にした。

キッシンジャーの交渉キャンペーンの本質は、順位づけの巧みさにあった。

キッシンジャーは、複数の関係者を器用に扱う手腕をさまざまな形で披露した。

情報開示や順位づけなど、多者間交渉における戦術的選択はいくつもあるが、総じてその目的

は「勝つための同盟」を形成するところにあった。

キッシンジャーは、多くの当事者が関わる重層的な交渉においては、交渉者であると同時に、

連携の構造と力学の分析者であり建設者であったと。

⑩戦略的に考え、臨機応変に行動する

キッシンジャーの行動が示すように、交渉者は計画された戦略を、順番通りにこなすべきレシ

ピとか着々と実行すべき計画書と見なしてはならない。

妨害された場合のキッシンジャーは、目標を維持しつつ、段階的な戦略に基づく純粋な外交に

切り替えた。

キッシンジャーの外交スタイルは、緻密な計画というよりも、軸となる戦略的テーマの周りで

繰り広げられる即興のジャズと考えるのが最善だとしている。

⑪自分たちの要求と利益を主張しつつ、相手の考えの理解に努め、親密さやつながりを築く

キッシンジャーはよく交渉相手に、その人の考えを自分がどう捉えているかを伝えた。

著者たちはこの動きを、「共感」を示すことと呼んでいる。

同意や同情を示すのではなく、相手の考えを自分がどう理解しているかを伝える。

そうすることで、交渉のコミュニケーションを向上させ、親密さを形成し、つながりを強化す

ることができる。

交渉の場で相手の共感を示すことはきわめて有益だが、裏表のある人だという評判を立てられ

ないよう注意する必要がある。

共感と主張は必ずしも対立するものではない。

キッシンジャーは強調して次のように述べている。

「同じ交渉者が繰り返し顔を合わせるのだから、言い逃れや二枚舌を使う人物だという評判が

立てば、交渉はうまく進まなくなるだろう」

⑫伝統的な交渉アプローチである「強気でスタート、徐々に譲歩」を見直す

交渉のテーマに踏み込んで提案したり自分の立場を述べたりする前に、まず交渉相手の話に耳

を傾け、よく調べ、相手の真の利害や周囲の状況を深く理解するべきだとキッシンジャーは言

う。

さらに、交渉者は、最初の段階で、自らの最終的な目標を大まかに、かつ冷静に述べておくべ

きだと。

キッシンジャーは次のように言っている。

「交渉の第一段階では、私は常に相手の主張を聞くことにしていた。

自分から提案することは、まずなかった。むしろ、相手の主張の背景を理解し、どこまで譲歩

できるかを見極めようとした」

⑬表現力を磨く―「建設的曖昧さ」は便利だが、リスクを伴う。「暗黙の合意」は価値ある選
択となり得る

キッシンジャーは国益を自分のこととして考える冷静な交渉者として、一度ならず、洗練され

た言葉によって停滞していた交渉を前進させた。

巧みに選ばれた言葉や行為は、洗練された交渉者にとって有用なツールになる。

有能な交渉者は言葉を巧みに組み立てたり、あえて曖昧にしたり、相手によって異なる側面を

伝えたり、何も語らず暗黙のうちに合意を交わしたりと、臨機応変に表現方法を変える。

⑭秘密交渉を選択する際には、細心の注意を払う。役立つが諸刃の剣でもある

ホワイトハウスが交渉を集中管理することによって、キッシンジャーは「面倒な省庁間プロセ

ス」と自らが呼ぶものを避けて、迅速に動くことができた。

しかし、秘密にすることにはいくつかのリスクが伴う。まず、発覚し、非難を浴びるリスクが

ある。

また、近い支持者、政府高官、関係機関など、蚊帳の外に置かれた人々の面目を失わせ、怒り

を買う恐れもある。

また、独力で秘密裏に交渉をするということは、締め出した関係機関や専門家の助力を得られ

ないことを意味する。

加えて、正規のルートで交渉しながら、その陰で秘密交渉を進めると、すべての当事者に混乱

と矛盾をもたらす危険性がある。

⑮根気強く努力し続ける

キッシンジャーの経験は、他の多くの第一級の交渉者の経験とともに、根気強くやり通すこと

の大切さを教えてくれる。

キッシンジャーは懸命に知恵を絞って、根気強く働き続け、絶望的なまでに接点のないピース

をつなぎ合わせて合意を導いた。

その決して諦めない姿勢こそが、キッシンジャーの交渉に学ぶべき重要な教訓であるに違いな

い。

かなり長くなってしまったが、以上が15の教訓を要約したもの。

本文ではもっと長く丁寧に書かれている。

本書はご覧のとおり、キッシンジャー礼賛で書かれている。

上の教訓の⑬番目の秘密外交に関してだが、エドワード・ルトワックは、

「当時、連邦議会は、民主党が多数派を占め、ニクソン大統領と対立していた。

行政府(ホワイトハウス)と立法府(連邦議会)が分裂状態にあり、ニクソン大統領は、

正攻法の外交を実行できず、秘密外交に頼らざるを得なかったのである」

と指摘していて、はじめから意図して秘密外交を行なったかどうか疑問符が付く。

ちなみに、ニクソンはキッシンジャーを過度にプライドが強い自惚れ屋で、

自分の誤りを認めようとしない「子供みたいなやつ」と評し、精神分析医に行くことを勧めて

いる。

『ニクソンとキッシンジャー』(中公新書)の大嶽秀夫氏によれば、

「ニクソンとキッシンジャーには、アメリカの力には限界があるとの認識があり、

もはや世界で唯一の警察官にはなれないとの判断があった」

と指摘している。この認識はジョージ・ケナンも同じで、キッシンジャーは『国際秩序』の中

で、ケナンを高評価している。しかし、先程引用したルトワックによれば、

「一九七〇年代のソ連に対する「デタント」の推進・・・ところがこれによって彼は国務長官の辞

任を余儀なくされ、それ以降、アメリカの政権の公職にいっさい就いていない。

彼は当時のジェラルド・フォード大統領を説得し、一九七四年一一月、「G2」としてウラジオ

ストクでレオニード・ブレジネフ書記長との会談を開催したのだが、それを見たアメリカの連邦

議会がキッシンジャーを排除するように動いたのである」

と指摘している。さらに続けて、

「たしかに「ソ連とのデタントの必要性」についての議論は、当時でも、そして現在でも、一

定の説得力がある。(中略)

核戦争は、人類が絶対に避けるべきものであり、だからこそ米ソは関係を築かなければならな

い。トップの二国が互いに連携・協議することが、核戦争を避けるための唯一の方法だ、と。

しかしそれでも、ソ連とのG2論は、アメリカ国民にとってはなかなか受け入れがたいものだっ

た。一般国民だけではない。外交や戦略の専門家でさえそうだったのだ・・・」

この話は中国の「G2」について説明している箇所で、過去のソ連の例を出して説明している。

ちなみに、この中国の「G2」のアイディアに最初に賛同したのもキッシンジャーだった。

日本人のキッシンジャーの印象は、日本の頭越しに中国と国交を結び、パンダハガー筆頭で食

えない奴だと思われる。

日本との関係で、なにがあったのかは知らないが、最初のキッシンジャーの訪中の際には、

アメリカが日本から撤退すると、日本が独自の軍事大国となり、中国にとって脅威となること

を周恩来に指摘せよ、とのメモをニクソンが渡している。

本書で言及されていたが、キッシンジャーは後に、発表の数時間前に、佐藤栄作に使者を送っ

て報告しておけばよかった、と後悔している。

その周恩来との会談では、「米国がアジアからすべての軍隊を撤退させれば、アジアをコント

ロールする前衛として日本を強化するのが米国の目的ではないか」と周恩来が述べると、

キッシンジャーは、「日本とアメリカとの防衛関係は、日本が攻撃的政策をとることをふせい

でいる」と「ビンの蓋」論を披露している。そのことは、1989年に沖縄海兵隊司令官が、

「悪魔(日本)がビンから飛び出さないように繋ぎ止めるために日米同盟が役割を果たすのだ」

と述べていたことに繋がっていると思うし、1995年に沖縄県北部で起きた米兵による「女児拉

致・強姦事件」にも同様だと感じる。

キッシンジャーは、中国に対する以上に日本に対する強い不信感をもち、周恩来にもこれを繰

り返し、「日本の指導者は概念的に考えられず、長期的ヴィジョンがない」と批判的であっ

た。

それ以降の米中関係をキッシンジャーは、『キッシンジャー回想録 中国』のなかで述べている

が、「米中関係が特別だったのは、パートナーが互いに協調して行動することを公式には義務

化しないまま、協調することを求め合ったことだった」「実際には、米国と中国は多くの情報

を交換し、多数の分野で協力した」ということだった。

筑波大学名誉教授で中国が専門の遠藤誉氏の言葉に従えば、

「キッシンジャーの外交戦略は当時の冷戦構造の基礎を成していた米ソ対立のなかに中国とい

う第三の国家を入れることによって、新たな国際秩序を形成しようというものだったと高く評

価されることが多い。しかし、その中国を大国にすることによって、彼が甘い汁を吸い始めた

ことは、誰も否定しないだろう」

ということであり、先に引用した『ニクソンとキッシンジャー』の大嶽秀夫氏の言葉に従え

ば、

「国際政治を米中ソという三極の枠組みで捉えようとするのは限界であり、

ニクソン・キッシンジャー外交の負の側面の表出であった」

ということかもしれない。あまり揚げ足を取りたくはないがね。


しかし、交渉者としてのキッシンジャーは、第一級であったことは間違いないだろう(学者とし

ても)。

「平和構築」を専門にする国際政治学者の篠田英朗氏が、読売新聞の書評欄で本書を取り上

げ、高く評価していたが、本書はキッシンジャーの交渉術を学べる素晴らしい内容になってい

るのも間違いない。

キッシンジャー本人は回顧録のなかで、「私が行ったすべての交渉の中で、最も複雑だったの

は、南部アフリカの黒人多数支配に関する交渉だった」と述べている。

国際秩序の存続力は、それが確定した正統性と力の均衡や、

それぞれの相対的な重みに左右される。

『国際秩序』ヘンリー・キッシンジャー

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ジェームズ・K・セベニウス、R・ニコラス・バーンズ、ロバート・H・ムヌーキン 日経BP 2019-1-11