時代の潮流は変わったが・・・| 周恩来・キッシンジャー機密会談録


およそ六〇年間にわたる公人としての生活の中で、私は周恩来よりも人の心をつかんで離さな

い人物にあったことはない・・・

米中関係改善は冷戦の一つの戦術的側面として始まったが、新たな世界秩序の展開にとって中

核をなすまでになった・・・

『キッシンジャー回想録 中国』ヘンリー・キッシンジャー

1960年代には、アメリカでは中国をソ連以上に、より切迫した脅威とみなす見方が一般的で

あった。中国の文化大革命は狂信的なものであり、ベトナム戦争は何よりも中国の拡張主義の

現れとみなすこともしばしば存在した。しかし、1971年7月、リチャード・ニクソンの国家安

全保障問題担当大統領補佐官であったヘンリー・キッシンジャーは、パキスタンのイスラマバ

ードで「胃腸を悪くして休む」と称して秘密裏に訪中した。政権内でさえまったく極秘裏に進

められたこの計画は世界中に衝撃を与えた。ニクソンは自分が最初に北京入りしたかったの

で、キッシンジャーと周恩来との会談はパキスタンでさせたかったが、中国の意向でこの会談

は北京で行われたとも言われている。

「交渉の成り行きを知っている人が多いほど、とくに善意から手を貸そうとする人が多いほ

ど、その交渉がうまくいく確率は低くなる」(キッシンジャー)

本書はそのニクソン訪中を準備した、キッシンジャーの二回の訪中(1971年7月、10月[事前

に世界に知らされた])、キッシンジャーの側近アレクサンダー・ヘイグ准将の訪中時の周恩来

との会談記録、そして72年2月のニクソン大統領の訪中に際しての米中共同コミュニケ(上海コ

ミュニケ)を翻訳したものである。

1971年7月の北京でヘンリー・キッシンジャーと周恩来。

キッシンジャーがニクソンの国家安全保障問題担当大統領補佐官になったのは1969年1月。

この任命は重要な外交政策の決定から国務省を排除することを狙ったものという指摘もある。

その何年も前から、アメリカは中国とほぼお定まりの会談を行なってきた。会談はワルシャワ

で定期的に開かれ、総数は134回にのぼったが、一向に進展は見られなかった。人民共和国建

国からほぼ一〇年の一九六二年までに、中国は朝鮮でアメリカと戦い、台湾の沖合の島々をめ

ぐって、アメリカを巻き込んだ二度の軍事対決に関わっていた。膠着の主な理由は、アメリカ

が台湾独立を支援することに中国が激しく反発したことだった。米中は、お互いに相入れない

立場、変えようのない立場を延々と主張していた。

さらには論争を重ねるにつれて、互いとの距離はますます開くという悪循環に陥っていた。

1960年代後半から1970年代半ばにかけて公職に就いていた間、キッシンジャーはアメリカの

安全を確実にするために、三つの目的を重視していたといわれている。平易にかつ肯定的に捉

えれば、(1)核戦争を防ぐこと、(2)ソ連の拡大を抑え、冷戦におけるアメリカの優勢を保つこ

と、(3)中国、ソ連、アメリカの間でより安定した「平和構造」築くこと。

キッシンジャーは、ニクソン政権のソ連へのアプローチを成功させるには、まず米中関係を改

善しなければならないと考えた。さらにキッシンジャーの言葉に直せば、「同時のベトナム戦

争を解決したいとも考えていた。我々が望んていたのは、小さな勝利ではなく、土台からの改

革を願っていた」ということである。ハーバード三人衆が著した『キッシンジャー超交渉術』

によれば、「キッシンジャーとニクソンは、ソ連とのデタント、とりわけ軍縮と首脳会談を実

現しようとしたが、ソ連は徐々に、中国に直接的な脅威をもたらすようになった。

この脅威のせいで中国は、キッシンジャーが練り上げたアメリカの提案に対して、より前向き

になった」。これらのことは容易に察しが付く。

ちなみに、デタントとは、米ソにとって中心(とりわけヨーロッパ)における対決は全面的核戦

争になるという強い恐怖心を前提に、中心の安定(軍備制限、平和のマネジメント)を確保し、

周辺における米ソの対立が中心に影響を及ぼさないようにするメカニズムであった。

(大嶽秀夫『ニクソンとキッシンジャー』の説明による)

1950年代から60年代にかけて、アメリカの外交政策は、西側の民主主義に対抗するソ連と中

国を、一枚岩の共産主義陣営と見なしていた。ジョージ・ケナンが批判していた短絡的な見方

である。しかし、1960年代の早い時期から、中国とソ連の関係は悪化していた。1968年8月

にソ連がチェコスロバキアに侵攻すると、この動きにアメリカは危機感を募らせ、中国も憤慨

した。ソ連が仲間の共産主義国家への侵略を始めたと解釈した。1968年10月、ソ連はチェコ

への侵攻を正当化するために「プレジネフ・ドクトリン」を発表した。それは、ソ連には反対

勢力を抑えるために共産主義国に介入する権利がある、という公式の宣言だった。

このドクトリンは中国の疑念を裏付けた。

「毛沢東はスターリン後のソ連に対し、修正主義だという非難をますます強めていた。

毛沢東によれば、共産主義国家は官僚主義的社会に変わってはならなかった。

共産主義国家を動かす力は、階層構造より、むしろイデオロギーでなければならなかった」

(『キッシンジャー回想録 中国』)

1969年3月に、相互の疑念が高じてついに、中ソ国境になっているシベリアのウスリー川沿い

で衝突が起きる。国境を守るという意思表示のために中国が反撃すると、緊張が高まった。

二つの共産主義大国は軍事的膠着状態に陥った。ソ連の65万8000人の兵士を擁する40個の近

代的な師団と、中国の81万3000人からなる軍勢が、ウスリー川を挟んで睨み合った。この緊

張の中、あちこちで衝突が起き、双方に多数の犠牲者が出た。後にわかったことだが、当時、

毛沢東はこのソ連の軍事的脅威を極めて深刻に捉え、閣僚の大半を秘密裏に北京から脱出させ

ていたという。

当時、キッシンジャーとニクソンは、中ソ対立に対するアメリカの立場を問われているが、当

然彼らの第一の目標は、ソ連の影響の拡大を抑えることだった。そのため中国に味方すること

を彼らは支持したが、ニクソンは1969年からすでにその方向に進み、その年の11月の国家安

全保障会議では、もし中国が中ソ戦争で「粉砕」されれば、米国の国益に反するという、当時

としては衝撃的な主張を表明している。キッシンジャーは「一九六五年を境にして毛沢東は、

米国に対する口調を若干変更し始めていた」(『キッシンジャー回想録 中国』)と認識してい

た。毛沢東は地政学的状況を分析し、ソ連と戦争になることを恐れ、アメリカを組み入れて三

国の連携を築こうと考えた。中国の国内構造も大躍進で経済が、その十年後の文化大革命で社

会秩序が徹底的に破壊されていた。

「米中国交再開に向けた米国側の動機は、わが国民の前に、ベトナム戦争の苦痛と冷戦の不吉

な展望とを乗り越える、平和のビジョンを示すことにあった。

中国は、形のうえではソ連の同盟国だったが、モスクワの脅威に対抗するため巧みに動く余地

を模索した」(『キッシンジャー回想録 中国』)

「米中首脳は異なった観点から、自らの共通目標を考えた。

毛沢東は関係改善を戦略的責務と受け止め、ニクソンは外交政策と国際的リーダーシップに関

する米国のアプローチを再定義する機会ととらえた」(『キッシンジャー回想録 中国』)

キッシンジャーは、中国の指導者のメッセージをはっきり伝えるには、少数の信頼できるメッ

センジャーが必要だと考えた。そしてその白羽の矢を立てたのは、共産主義のルーマニアと、

共産主義ではないパキスタンであった。いずれもアメリカとは同盟を結んでいなかったが、中

国とは国交があり、一方、ソ連の同盟国ではなかった。事前の交流では、アメリカはルーマニ

アとパキスタンを通して連絡し、中国はノルウェーとアフガニスタンを通してこれに応じた。

そして秘密裏に少人数でキッシンジャー一行は訪中する。次のことは毛沢東のドキュメンタリ

ーで確認したことだが、1970年の国慶節に毛沢東はアメリカのジャーナリストであり『中国

の赤い星』で著名で、毛沢東の神話化に加担したといわれているエドガー・スノーを招いてい

る。さらにその後には会談をし、その時の記録がアメリカの雑誌『ライフ』に発表された。

1971年7月の第一回周恩来・キッシンジャー会談の冒頭にはエドガー・スノーと『ライフ』の

話が出てくる。これは中国側からのシグナルであったと見なした方が妥当だろう。

ニクソンも注意深く読んだという。

7月と10月のいずれの会談を併せて周恩来とキッシンジャーは14回も会談を重ねている。

大きな論点は二つあり、台湾とインドシナ。その他の主要国との関係も扱っているが、ソ連と

日本、北朝鮮や南アジア。それと大統領の訪問、大統領訪中時に予定されている共同コミュニ

ケの草案、米中の今後の連絡方法などについて突っ込んだ話し合いを行なっている。

日本人として瞠目させれる箇所は、日本について論じられている箇所であり、有名な「ビンの

蓋」論は何回も飛び出している。第一回会談からキッシンジャーは次のように語っている。

「強い日本は強力な軍事機構を創造し、やろうと思えば膨張主義的な目的のためにそれを行使

する経済的社会的土台を持っています。在日米軍はこの点ではまったく意味がないのです。

それは日本の潜在能力と比べればなんの役にも立ちません。実際、在日米軍はパラドックスを

作り出しています。何故ならば、我々と日本との防衛関係が日本に侵略的な政策を追求させな

くしているからです」

このキッシンジャーの発言に至る前には、周恩来が佐藤内閣下での第四次防衛計画のことに触

れ、「日本人は膨張に熱中しています。彼らの経済はそこまで拡大しました。経済の拡大は必

然的に軍事的拡大をもたらします」と述べている。この後の会談でも周恩来は日本に関しては

このような発言を繰り返す。周恩来を高評価していたキッシンジャーでさえ、日本についてだ

け「周恩来の演説は彼らしくなく・・・いつも常套句に戻ってしまいます」という言葉を残し

ている。そんな周恩来だが、7月の第四回の会談では日本に関して面白い発言をしている。

「[日本の]野党の人たちがどうすべきかと我々に尋ねました。私は彼らに対して、日本が軍

国主義を復活させないことを証明し、日本の人民は日米安全保障条約に反対しているのだから

それを廃棄すべきだと言いました」

やはり一番揉めたのは台湾に関しての文言であり、それは10月会談でも合意できなかった。

ニクソン大統領が訪中した時、1972年2月28日に発表された米中共同コミュニケ(上海コミュ

ニケ)では次のように表記されている。

「合衆国は、台湾海峡の西側のすべての中国人が、中国でただ一つであり、台湾は中国の一部

であると主張していることを認識する。合衆国政府はその立場に異議を申し立てない。(中略)

合衆国政府は、すべての米軍および米軍事施設を台湾から撤去するという最終目標を確認す

る。その間に、合衆国政府は、この地域における緊張が減少するに従って、台湾における米軍

および米軍事施設を漸減させるであろう」

米中が国交樹立したのはカーター政権の1979年1月。その年の4月には米国の軍事的コミット

メントを決めた台湾関係法が制定されている。なお、10月会談は、国内では林彪事件の直後に

行われ、国際的には国連総会で中国の代表権問題が最終段階を迎えていたその時に開かれてい

る。


「秘密訪問から七ヵ月後の一九七二年二月二一日、ニクソン大統領は底冷えのする北京に到着

した」(『キッシンジャー回想録 中国』)

この中国との関係改善は、ベトナムとの和平会談への影響はどうであれ、ベトナム戦争を終わ

らせるための交渉に三つの影響を及ぼしたという指摘もある。(『キッシンジャー超交渉術』)

第一に、中国軍が直接米軍と戦った朝鮮戦争と違って、ベトナムでの戦闘に中国軍は加わらな

いことを、中国はキッシンジャーに暗黙のうちながら確約した。第二に、その程度については

今も議論されているが、中国はハノイへの物資的な支援を消滅し、北ベトナムを外交的に孤立

させるのに一役買った。第三に、米中の連携という脅威が、ソ連にハノイへの支援を控えさせ

た。ただ、先述した大嶽秀夫『ニクソンとキッシンジジャー』が指摘している通り、北ベトナ

ムの全面的勝利は、中国の南隣に反中国感情の長い伝統をもち、軍事供給を全面的にソ連に依

存する北ベトナムという国家が存続するという脅威を、一段と強化することを意味していたと

いう面もある。

キッシンジャーは早い段階から、デタント政策によって米ソの緊張を緩和しようとしてきた。

対して、ソ連側はいくぶん理解を示したものの、相変わらずその壁は厚かった。ところが米中

関係が改善に向かったため、モスクワに激震が走った。キッシンジャーによれば、モスクワは

ブレジネフとニクソンの首脳会談の準備を1年以上、引き伸ばしていたが、極秘裏に訪中する

と、ひと月もたたないうちにクレムリンは方針を変え、ニクソンをモスクワに招待した。

さらにキッシンジャーはこの新たな状況下で、北ベトナムに対する外交的・軍事的支援を大幅

に削減するようクレムリンを説得した。そうしなければデタントを中止し、それに伴う利益を

捨てることになる、と脅したという。

「上海コミュニケに反覇権条項を取り入れたことは、事実上の同盟関係への移行を意味した。

(中略)中国と米国との協議は、正式な同盟国の間でもまれな濃密なレベルに達した」

(『キッシンジャー回想録 中国』)

『キッシンジャー回想録 中国』の第10章ではもっとあからさまに書かれている。

章のタイトルは「擬似同盟関係」。多くの日本人は気がつかなかった、もしくは気がつかない

フリをしていたのかもしれないが、キッシンジャーは次のように書いている。

「米中関係が特別だったのは、パートナーが互いに協調して行動することを公式には義務化し

ないまま、協調することを求め合ったことだった」(『キッシンジャー回想録 中国』)

それを裏付けるかのように、キッシンジャーの側近アレクサンダー・ヘイグ准将が1971年1月

に訪中した時に、周恩来との会談の中で次のように述べている。

「人民共和国からの見返り無しに我が一方的に行う準備ができていることの一つは、それは人

民共和国に対して存在するソ連の脅威に関して、我々の情勢判断を、我々の技術的能力が及ぶ

限りで、中国側に提供することです。

これらは無条件で実施されるものであり、見返りは不要であることを強調しておきます」

『キッシンジャー回想録 中国』に話を戻せば、キッシンジャーは「実際には、米国と中国は多

くの情報を交換し、多数の分野で協力した」と少々自慢げに書かれている。ニクソン訪中以降

の米中関係は、準同盟のような関係であったということは間違いないだろう。「パンダハガー

(親中派)」の一人だったマイケル・ピルズベリー『China 2049』の言葉に直すならば、

「1971年にリチャード・ニクソン大統領が中国との国交回復に向けて動き出して以来、アメ

リカの対中政策を決めるのは主に、中国と「建設的な関係」を築き、その発展を助けようとす

る人々だった」。

エズラ・ヴォーゲル『現代中国の父 鄧小平』では、「ソ連に反対する(暗黙の)同盟国であった

両国の軍部の間では、一九八三年から八九年にかけ、アメリカが中国に航空電子工学機器、ミ

サイル、魚雷を売却する協定が結ばれていた」という指摘もある。最大の品目はF-8戦闘機用

のレーダー・システムだったが、中国はシコルスキー社製のブラック・ホーク・ヘリコプター

も購入したという。しかし、89年の天安門事件以降、アメリカの制裁で中国への部品売却が中

断され、シコルスキーのヘリコプター用の部品が対象になると使えないことになった。

ニクソン大統領と握手をしているのがアレクサンダー・ヘイグ(1973年)

ちなみに、キッシンジャーの側近であるアレクサンダー・ヘイグは、キッシンジャーの師であ

るフリッツ・クレーマーから推薦され、キッシンジャーは即座に彼を軍事補佐官に指名してい

る。ヘイグはベトナムから帰還したばかりであったが、クレーマーはペンタゴンにいたときか

ら彼に目をつけていた。ヘイグはキッシンジャーに倣うかのように、12年後には国務長官にな

っている。

先程触れた大嶽秀夫『ニクソンとキッシンジジャー』では、「ニクソン・キッシンジャーは、

明示的な国際政治観としては、米・ソ・中・西欧・日本の「多極的世界」を構想した。これを

表現したのが、「グアム(ニクソン)・ドクトリン」であった」、「ニクソンとキッシンジャー

には、アメリカの力には限界があるとの認識があり、もはや世界で唯一の警察官にはなれない

との判断があった」、「軍事的三極構造は、西欧が独自の軍事的主張をしないことが前提とな

っていることに注目しなければならない。つまりアメリカへの軍事的従属が前提なのである」

などと書かれている。グアム・ドクトリンは1969年7月にグアムで発表されたもの。

「極」の数がいつから減ったのかは知らないが、ニクソンとキッシンジャーの頭の中で描いて

いた国際秩序は多極的世界であったことは間違いないということだろう。

キッシンジャーは1968年に大統領候補指名獲得を目指す、ネルソン・ロックフェラーの選挙戦

を手伝っている。そこではキッシンジャーは「外交政策の立案に関する政府組織」と題する演

説を用意し、ロックフェラーのために外交政策の基本原則も用意している。

アメリカは世界の警察官として行動することはできない、アメリカのコミットメントは無制

限、一方的、無期限であってはならない、同盟国を支援するのであって肩代わりするのではな

い、アメリカの単独介入は最後の手段、などが語られている。ベトナムを意識していることは

間違いないが、大きな観点から捉えれば多極的世界を表明しているとも受け取れる。

しかし、大嶽秀夫氏の「「五大国」「多極化」というイメージは、一番でないと気が済まない

アメリカ人にとっては受け入れがたいものである」という指摘を想起する。

キッシンジャーは1969年1月20日から75年11月3日までニクソン政権、次にジェラルド・フ

ォード政権で安全保障問題担当大統領補佐官を、73年9月22日から77年1月20日には国務長官

を務めた。しかしそれ以降、アメリカの政権の公職にいっさい就いていない。

エドワード・ルトワック『中国4.0』によれば、「彼は当時のジェラルド・フォード大統領を

説得し、一九七四年一一月、「G2」としてウラジオストクでレオニード・ブレジネフ書記長と

の会談を開催したのだが、それを見たアメリカの連邦議会がキッシンジャーを排除するよう

に」動いたという。その理由は、アメリカ国民の感情があり、自国を独裁国家と同じにされる

ことを嫌うからだという。それと戦略的な理由もあるとルトワックは指摘している。


2020年7月23日、マイク・ポンペオ米国務長官はカリフォルニア州のニクソン大統領記念図書

館で「共産主義の中国と自由世界の未来」と題した演説を行い、中国との対決姿勢を鮮明にし

た。2018年10月にはハドソン研究所でマイク・ペンス副大統領が対中演説を行っている。

ペンスの演説に関してルトワックは、「米中冷戦の開始を決めたこの演説は、「鉄のカーテ

ン」を訴えた、一九四六年のチャーチル演説に匹敵する異議を持つだろう」と評している。

今回のポンペオの演説では、中国が繁栄すれば民主主義に転換するとの期待の下で続けていた

従来の関与政策は失敗だったとした。その上で、演説の冒頭と最後で、1970年代の米中国交正

常化を主導したリチャード・ニクソン元大統領の「中国が変わらない限り、世界は安全にはな

らない」との言葉を引用した。

建設的な関与からルトワックが90年代に提唱した「地経学(geo-economics)」的封じ込めへと

潮流は変わった。シカゴ大学のジョン・ミアシャイマー『大国政治の悲劇』の最後の章で述べ

ていた言葉も思い出す。「北京の周辺国のほとんどは、アメリカとともに中国の力を封じ込め

ようとする」。これは2000年代初頭に指摘されたものである。


キッシンジャーは最初の訪中以降、50回以上中国を訪れているという。

1982年には「キッシンジャー・アソシエイツ」というコンサルティング会社を設立してい

る。中国に進出したいアメリカ企業だけでなく、アメリカに進出したい中国企業もキッシンジ

ャーに相談するようなり、仲介料として莫大な資産をキッシンジャーは手にするようになった

という。対象国は中国だけではない。遠藤誉『習近平vsトランプ』の中で、キッシンジャーの

ダークな一面を取り上げて糾弾している。

キッシンジャーはネゴシエーターとしては優秀だったと思う。それはハンナ・アーレントが

『全体主義の起原 1― 反ユダヤ主義』で取り上げていた、「仲介者としてのユダヤ人」を彷彿

とする。しかし、周恩来の方が一枚も二枚も上手だった。

周はまったく違ったタイプで、いつも笑顔を浮かべ、魅力的で頭の回転が速かった。

彼は丁寧すぎ、そのため胡散臭く思われた。

『ダライ・ラマ自伝』ダライ・ラマ

ここ何十年にもわたり中国人が、彼らとなんらかの関係にあったアメリカ人―

とくに長期間中国に居住していたアメリカ人の大半を堕落させたその手腕と、それに成功した

事実を見て、私は全く驚いた。

『ジョージ・ケナン回顧録 II』ジョージ・ケナン

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毛里 和子,増田 弘 (翻訳) 岩波書店 2004-2-26
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ヘンリー・キッシンジャー 岩波書店 2012-3-29
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ジェームズ・K・セベニウス、R・ニコラス・バーンズ、ロバート・H・ムヌーキン 日経BP 2019-1-11
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エドワード・ルトワック 文藝春秋 2016-3-18
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エドワード・ルトワック 飛鳥新社 2019-12-13
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マイケル・ピルズベリー 日経BP 2015-9-3
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エズラ・ヴォーゲル 日本経済新聞出版 2013-9-3
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ジョン・ミアシャイマー 五月書房新社 2019-4-1