あまり知られていないキッシンジャー の生涯 ③・・・|『キッシンジャー 1923-1968 理想主義者 2』ニーアル・ファーガソン


一九五八年の時点で、ヘンリー・キッシンジャーはただの「教授兼顧問」ではなくなってい

た。知識人の中でも有名人になっていたし、次期大統領を狙う政治家たちは、演説の中でキッ

シンジャーを引き合いに出すようにもなっていた。そんなキッシンジャーの評判はアメリカ国

内だけでなく、海外でも高まっていた。一九五九年六月にはNATO一〇周年を記念する「大西

洋会議」に出席するためにイギリスを訪れ、重鎮たちと会談している。

なかでも最大級のインパクトを与えたのが、母国であるドイツを訪問したときであったとい

う。ミュンヘン、ボン、ハンブルク、そして生まれ故郷のフュルトで講演を行った。

キッシンジャーの国内の活動に目を転じると、ハーバードに戻ってからずっとロックフェラー

のために尽力している。ロックフェラーは一九五八年から一九六八年にかけての三回の大統領

選挙戦において、アメリカ大統領の共和党候補指名に最も近いとされていた人物であった。

キッシンジャーはそのロックフェラーの演説の草稿を書き、他のスタッフの書いたポジション

ペーパー(政策表明書)に手を入れ、必要な時にはいつでも相談に乗り、忠誠を尽くしていた。

また、ロックフェラーの顧問の中でも最も信頼されていると自負していた。だが、一九六〇年

半ばには、ロックフェラーが共和党の指名を勝ち取るチャンスは日に日に薄らいでいたが、キ

ッシンジャーはそのことに気がつかなかった。

それらと平行して一九五九年にすでにケネディを含む民主党の候補者たちから声をかけられて

いる。キッシンジャーもケネディ政権で働こうとハーバードから大挙して押し寄せた学者たち

の一人にすぎなかったが、ロックフェラーに忠誠を尽くし続けた点で異色の存在だった。勝利

が決まって数日と経たないうちに、ケネディの政権移行チームがキッシンジャーに接触してき

て、国務長官のポストはどうかと打診される。当惑したキッシンジャーだったが、提案したの

はパートタイムのアドバイザーだった。

「私は戦争に反対したが、キッシンジャーは賛成した」とハンス・モーゲンソーの言葉が示す

ように、当初のキッシンジャーは南ベトナムを共産主義の攻勢から守る必要があると考えてい

た。しかしキッシンジャーは誰よりも早く、ケネディ=ジョンソン政権が南ベトナムの防御に

失敗しつつあることに気づく。発言を求められることはなかったが、それでも公の場ではジョ

ンソン政権を擁護した。だが保存された資料によると、プライベートではきわめて批判的だっ

たという。

一九六五年にキッシンジャーは、国務省顧問としてベトナム入りしている。これを含めて三回

ベトナムの地を踏んでいる。最初の訪問からしてキッシンジャーの結論は悲観的だった。

キッシンジャーは現地のアメリカ人がベトナム人に対して抱いている偏見にも眉をひそめた。

ベトナム人に敬意を払うキッシンジャーの姿勢はベトナム人も気づいており、帰国する日には

南ベトナムの外相が自発的に空港へ見送りに来ていたという。一九六六年八月からほぼ九年後

のサイゴン陥落まで、キッシンジャーは時間とエネルギーの多くをこの問題に注ぎ込むように

なる。

その後のキッシンジャーはパリで和平工作にあたるように指示されるが、思うように事が運ば

ない。パリでは外交における駆け引きや芝居や騙しとはどういうものかを学んだ。

そして、リチャード・ニクソンから思い掛けず国家安全保障問題担当大統領補佐官に指名され

る。キッシンジャーは受けるべきかどうか躊躇した。


なぜ、ファーガソンはキッシンジャーを「理想主義者(アイデアリスト)」として位置付けたの

か。ファーガソンがキッシンジャーにあてはめる「アイデアリスト」とは、ウィルソン流の理

想主義ではなく、カント流の観念論者(アイデアリスト)を指している。キッシンジャーはマキ

ャベリ流の現実主義者どころか、そのキャリアの出発点からして理想主義者、あるいは観念論

者だったとファーガソンは指摘する。

キッシンジャーは大学院時代に、ハンナ・アーレントのようにイマヌエル・カントに傾倒し

た。キッシンジャーは自分自身を「カント以上にカント的」だと考えていた。未刊行の卒業論

文「歴史の意味」はカントの歴史哲学を誠実に論評しているという。この論文を書いてから四

半世紀が経っても、キッシンジャーは対外政策における「二つの道徳的義務の衝突」を説明す

るのにカントを引用しているという。二つの義務とは、自由を守る義務と敵との共存の必要性

であった。さらに九一歳で発表した『国際秩序』でもカントが長々と引用されてもいる。

ファーガソンは、多くの研究者はキッシンジャーのこの理想主義を見誤ったせいで、彼に対す

る歴史的評価において、致命的とは言わないが重大な過ちを犯すことになったと指摘する。

アメリカの外交は「力」を国家的法規や国際機関に従わせようとする伝統があり、これを表現

するために「理想主義的」という言葉をよく使っている。しかし、ファーガソンのいう若い頃

のキッシンジャーがこの意味での理想主義者だったとしているわけではない。

ファーガソンは「理想主義」あるいは「観念論」(どちらも英語はidealism)という言葉を哲学

上の意味で、正確にはギリシャのアナクサゴラスやプラトンを源流とする西洋哲学上の意味で

使用している。

「カントの記述を借りるならば、西洋哲学における観念論とは「外的経験だと憶測されている

ものが単なる想像でないとけっして確信できない」とする考え方である。なぜなら、「外界の

事象の実在性は厳密な立証を拒む」からだ」(本書)

ファーガソンは、キッシンジャーが理想主義者から現実主義者になった瞬間はこれだ、と言う

ことはできないと述べている。しかし、アメリカをベトナムにはまり込ませた罠を解除しよう

とキッシンジャーは戦略を模索したが、この過程で次第にビスマルク流の発想をするようにな

っていくと指摘する。ただファーガソンは、キッシンジャーは「アメリカのビスマルク」にな

り、冷戦中の世界に「政治的リアリズムで立ち向かいたい」と思ったことは一度もないとも述

べている。

キッシンジャーは結果的には完成させなかったが、一九六一年までにビスマルクの外交政策を

論じた著作を半分まで書き進めていた。未完成原稿は半世紀以上もプライベートな書類の中に

埋もれていたという。そこでは、ビスマルクを賞賛するのと同じくらい(そこから学び、ベトナ

ムの問題を理解する事ができた)、その「悪魔的」な部分を手厳しく非難していた。

それとファーガソンは、キッシンジャーが明確に理解していた外交政策における推定の問題を

指摘する。これはBS1の番組に出演した時も触れていたが、そこでは「予測の問題」と訳され

ていた。キッシンジャーは次のように述べている。

「政策担当者は、前例のない状況に直面したとき、指針となるような既知の事柄がほとんどな

く、自分自身の確信しか頼るものがないというジレンマに陥る・・・

どんな国家指導者も、確実性をとるか、自分の状況判断においてはつねに自分の状況判断に基

づいて行動することが正しいというわけではない。このことが意味するのは、単に、実証可能

な証拠を求めようとする人には実際に起きたことに囚われざるを得ないということだ」

あらゆる戦略的選択は不可避的に不確実性に取り囲まれているという指摘。さらにキッシンジ

ャーは、「歴史家が扱うのは・・・成功した要素、とりわけ大成功した要素だけだ。歴史の当

事者にとって重要だったのは選択を構成する要素であり、それが成功か失敗かを決定づけたの

だが、選ばれなかった要素について歴史家は知る術を持たない」と歴史家が直面する最大の哲

学的難題を指摘している。

Aを選択したら、Bを選んだ時に何が起きていたかを政策決定者は知ることができないのと同じ

ように、歴史家も知ることができない。それでも歴史家は、政策決定者の過去の考えを再構成

するに当たって、決定前の瞬間を想像しなければならない。それは、まっさらな二つの選択肢

が目の前にあり、それぞれが選ぶに値し、どちらを選んだらどうなるかがわかっていない状

況。

ファーガソンは、ヘンリー・キッシンジャーの前半生を自己形成の物語だとし、ゲーテの『ウ

ィルヘルム・マイスターの修行時代』に当てはめる。そして、ウィルヘルム・マイスターの修

行は七つの段階に分かれていたが、キッシンジャーの教育には五つの段階があるとする。

第一は、ドイツの専制政治、アメリカの民主主義、そして世界大戦を経験する段階。

第二は、ハーバードで哲学的観念論と出会い、さらに歴史の知識を身につけ、その後に学識を

携えて核戦略という新分野に足を踏み入れ、政界に関わるまで。

第三は、ケネディ政権に参画し、ワシントンで政治的現実を知る段階で、ここで過酷な試練を

受ける。

第四は、ベトナム戦争という新種の戦争にどっぷり浸かるという、まったく新しい経験をする

段階。

第五は、パリで外交における駆け引きや芝居や騙しとはどういうものかを学ぶ。

そして、第五段階を除き、それぞれの段階にはキッシンジャーには師がいた。

第一段階では、フリッツ・クレーマーでありメフィストフェレスの役回りだった。

第二段階では、アメリカ西部出身のオックスフォードの文化に染まった理想主義者ウィリア

ム・エリオット。

第三段階では、ケネディ政権、ジョンソン政権で国家安全保障担当大統領補佐官を務めたマク

ジョージ・バンディ。

第四段階では、ネルソン・ロックフェラーであった。

どの師もそれぞれのやり方でキッシンジャーの理想主義を励ましたが、その中でもフリッツ・

クレーマーの存在は大きい。キッシンジャーの理想主義は、ハーバード時代の純粋なカント哲

学から、ロックフェラーの演説を拡張高く見せるスローガンへと変貌を遂げ、最後の段階に至

って、キッシンジャーは一人でベトナムのジレンマと格闘した末に、ビスマルク、ドゴール、

モーゲンソーそれぞれの個性豊かな現実主義を尊重するようになったという。

本書は1、2巻併せて1000ページを超える大著である。ファーガソンはよく描き切ったと思う

が、総じて好意的な内容になっている。歴史学者グレッグ・グレンディは新しい著作の中でキ

ッシンジャーを痛烈に批判しているという。

「近代の政治家の中で、ヘンリー・キッシンジャーほど毀誉褒貶の甚だしい人物はいない。

すくなくともアメリカの歴代国務長官の中で、これほど評価が相半ばした人物はいまだかつて

いない」(本書)

本書は決定打とまではいたっていないが、キッシンジャーがどのように自己形成していったの

かということは叙述されている。しかし、それでもキッシンジャーを捕まえることは難しい。

モーゲンソーはキッシンジャーをオデュッセイウスにたとえ、「いくつもの顔を持つ」と語っ

たといわれている。正しくキッシンジャーとはそのような人物だ。

ものごとは善と悪にきっぱり分かれるのではなく、広いグレーゾーンがある・・・

人生における本当の悲劇は、善か悪かを選ぶことではない。

悪と知りつつ悪を選ぶのは、よほど冷酷な人間だけだ。

ヘンリー・キッシンジャーから両親へ 一九四八年七月

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