“アメリカの良心”ジョージ・ケナン。学究・歴史家としての後半生が知りたくて・・・ | 『評伝 ジョージ・ケナン』ジョン・ルカーチ


作家であり思想家でもあるケナンは、政治的な意見を述べるケナンよりもはるかに重要であ

り、そうであるはずだということだ。

アメリカについて語るケナンは、ロシアについて語るケナンよりもはるかに価値あるものを残

してくれている。

『評伝 ジョージ・ケナン』ジョン・ルカーチ

アメリカを代表する大外交官であったジョージ・ケナン。

対ソ「封じ込め」政策を提唱し冷戦下のアメリカ外交に決定的影響を与えたジョージ・ケナン。

政策企画室の主導のもと成立した欧州復興計画(マーシャル・プラン)は、ケナンが提唱した「封

じ込め」政策の具体化であり、一九四八年以降、対日占領政策の重点を民主化・非軍事化から経

済復興へと転換させたのも、ケナン率いる政策企画室であった。

ただ、自身が提唱した「封じ込め」政策が、軍事政策として捉える傾向が強まったことに対し

て、ケナンはずっと懸念を抱いていた。

また、一九四七年、政策企画室長であったケナンは、新設の中央情報局(CIA)が秘密工作に着

手することを推奨している。後年、このことを振り返り、おそらく自分の最大の失敗であった

と述べている。

そんな三十有余年に及ぶ外交官生活は、六十歳になった年に執筆した『回顧録』で表現力豊か

に詳述されている。

『回顧録』では主に、一九二五年から六三年―外交官試験を受けるところからユーゴスラビア

大使として勤務、そして引退―までを対象にしている。

ケナンは同書を出版した目的を次のように語っている。

「公共の事柄全般およびとくに外交についての考え方の発展を記述することにある」

晩年のジョージ・F・ケナン

ジョージ・ケナンは一〇一歳(一九〇四年-二〇〇五年)の長寿をまっとうした。

上述の『回顧録』で書かれている外交官としてのケナンは、その長い人生の前半部でしかな

い。

ジョン・ルカーチ『評伝 ジョージ・ケナン』を訳されているのは菅英輝氏だが、その「訳者解

説」ではケナンの生涯を二つの時期に等分している。

最初の五〇年間は学生、外交官、国務省政策企画室長の時期、残りの五〇年は学究、歴史家の

時期。

ケナン『二十世紀を生きて』(原題は『Around the Cragged Hill』)に一文を寄せている佐々

木卓也氏は三つの時期に分けている。

国務省の外交官の時代、ワシントンの政権中枢にあった一九四〇年代後半、そして国務省を辞

め、プリンストンで学究生活を送った時代。

原著『George Kennan: A Study of Character』とジョン・ルカーチ

著者のジョン・ルカーチは歴史家である。付言すれば一九二四年にハンガリーで生まれ、共産

主義の脅威から逃れるために四六年に渡米し、アメリカに帰化した歴史家である。

三〇冊を超える著書を著し、冷戦に関係するものも多数著している。

本書はケナンに関する包括的な伝記ではなく、ジョージ・ケナンという人物についての伝記風の

研究を意図している。伝記風で年代記的であるがケナンの性格に焦点を合わせ、それを浮き彫

りにしている。もしくは“しよう”としている。

ぼくは“外交官としてのケナン”ではなく、“歴史家・思想家としてのケナン”に惹かれている。

いうなれば「人間はひび割れた器」だと喝破したケナンに惹かれている。このことに関して

は、歴史家・思想家としてだけではなく宗教家として発せられたものだとは思うが。

むしろ、後者のケナンを理解しなければ、前者のケナン―人並みなずれた洞察力―も理解する

ことができない、とぼくは思う。

特に外交官を引退してからの後半生から、その稀有な思索や洞察力に磨きが掛かっていったの

だろう、と感じていたので本書を手にした。タイトルのとおりである。

しかし、ルカーチが主に『回顧録』に依拠して書き出したケナンの前半生もまた面白く、『回

顧録』には出てこないエピソードも記されている。

たとえば、ケナンが祖先から受け継いだと思われる特徴に目を向けている点などだ。

ルカーチはそれを四つ挙げている。

ひとつは、身体的な類似点であり、淡青色の目、意思の強そうな口元、自己抑制的な寡黙さ、

広い印象的な前頭部。

第二の特徴は、自分自身や家族の誇り。より正確にいうと、ケナンが生涯をとおして持ち続け

た自立心。ケナンは内気であったが、それは感情を押し殺していたからではなく、ケナンの人

柄によるものであり、ケナンが控えめだったのは、劣等感によるものではなく、他人に左右さ

れないケナンの自尊心のゆえであった、とルカーチは見ている。

第三の特徴は、ケナン自身、少し誇張しながらも、祖先の美徳の源泉をニューイングランドに

求めている点。ケナン家の人々は、スコットランドのダンフリーズ出身で、ジェームズ・ケナン

は一七二〇年ごろアメリカに移住し、ニューイングランドの女性と結婚している。

ケナン家はスコットランド人の血を引き、宗派はご存じのとおり長老派協会である。全員が小

さな町で農業に従事した。

祖父のトーマス・ケナンもその一人で、彼は長老派教会の牧師として奉職し、妻の死後には農業

に従事した。

ケナン家の人々はしだいににニューイングランドからニューヨーク州北部、そしてウィスコン

シンと、西に移動していった。

祖父のトーマスは、ウィスコンシンでケナン家としては初の専門職業に就いた。市民としての

名望もある弁護士だった。

ケナンの祖先の多くに典型的なものではないかもしれないが、祖先から継承したと思われる第

四の特徴は、女性的ともいえる、非常に細やかな感受性。それは非常にしばしば実直で、とき

おり融通性に欠けるが、青臭さの残る男らしさと矛盾することなく、調和を保ちながら共存し

ていた。ケナンの人となりを構成する決定的な要素である、とルカーチはいう。その通りだと

思う。

有名であり特筆すべきなのが、祖父にはジョージ・ケナンという同名の従弟がいたことだ。彼は

ケナンの父より六歳上であった。

このジョージ・ケナンは、アメリカでもっとも偉大な最高のロシア研究者、学者、作家であっ

た。若きケナンは父親と彼を訪ねている。

その時のことをケナンは、老ジョージ・ケナンの語る声と話、その家に飾られたロシアのお土産

や工芸品に非常に強い印象を受けたという。

「ケナンはときおり、一八世紀の遠い祖先に見られた厳格な資質を理想的とみなした。

だが他方で、しばしば、二〇世紀に生きる宿命を負っていると語ったり考えたりした。

ジョージ・ケナンが受け継いだもの(よくわからないが、おそらく母方から受け継いだもの)は、

ロマンティックな想像力である。それはときおり、彼を明晰な暗い予感へと導いた」(本書)

ケナンは生まれてまもなく母親に先立たれている。母の死は、ケナンの心を長いあいだ萎縮さ

せることになった。

若いころのジョージ・ケナンは内気で、真面目で、引っ込み思案であったが、そうした気質は生

涯をとおして、ケナンの性格を特徴づけるものとなった。

ここにも「人間はひび割れた器」という考えに至った源泉みたいなものを感じる。

ルカーチは「後者の場合、最初の半分の時期よりも彼に合った、より多くの自由が与えられた

場所と環境にあった」。

続けて「残りの半分の人生において、彼は国の宝となり、幾人かの人たちによってそのように

認められた」と書いている。ぼくもそう思うし、そのようなことを先程書いた。

さらに続けてルカーチは「第一幕と第二幕を結びつけるものは、彼の作家としての衝動であ

り、国家とその将来に対する関心であった」と書いている。

『回顧録』などでその萌芽みたいなものは垣間見れるが、それに磨きが掛かるのは、ケナンの

後半生からだった。

特にルカーチが注目しているのは一九六三年と一九八八年の期間。

前者はケナンが最後の公務(ユーゴスラビア大使)を終えた年であり、後者は、ケナンにとって

冷戦が終焉を迎えた年である。

この二五年間はケナンの人生のなかでも非常に活動的な期間であったとルカーチはいう。

この二五年間にケナンは多くの旅行に妻と一緒に出かけている。その間もケナンは日記を付け

続けている。

一九六〇年半ばには講演のため日本にも来ているが、その時に国際政治学者であった高坂正堯

と会っている。

高坂は、この時ケナンと会話した様子を「ケナン博士の人生と仕事」の中で描写している。

ふとしたきっかけでチェーホフの話に及び、ケナンは最後に高坂に次のように述べたという。

「私は外交官として偉くなりそうもなかった。それでまだ下っ端だったころからチェホフに関

心を持ち、資料を集め、やがて引退してチェホフの伝記を書こうと思っていたことがあったん

だよ。それが“X論文”のおかげで、生涯がまったく変化してしまった」

この高坂のケナンに関しての一文は『二十世紀を生きて』の中に収録されている。

ルカーチによれば、ケナンは生涯のうちで一、二度、自らが崇拝するチェーホフの本格的伝記

を執筆したいと思ったことがあるという。これも有名な話だ。

ケナンら夫妻は一九八〇年には中国を訪問し、南アフリカには三度訪れている。

モスクワへの入国を禁じられてから二〇年後の一九七三年にはロシアに戻り、レニングラード

も訪れている。

そして、一九八七年にはモスクワとリガを訪れ、五〇年以上も前から知っている場所や家々を

訪ね、それらについて思いをめぐらせている。

その八七年のロシアへの旅までには、ケナンは、ロシアのソヴィエト体制と米ソ冷戦は終わっ

たということを十分予見していたという。いや、わかっていたという。

一九八七年末、ケナンはメジャーではないアメリカの雑誌から短いインタビューを受けてい

る。そのインタビューでは「冷戦の死亡記事」と題されていた。

この記事が発表されたのは、米中央情報局(CIA)やワシントンの他の機関が予見も予期もして

いなかったベルリンの壁の崩壊の二年前、そしてソ連崩壊の四年前のことであった。

一九八五年にケナンは、ゴルバチョフという人物はソ連を解体しはじめた、とルカーチに語っ

ていたという。

二年後の一九八七年一二月にゴルバチョフはワシントンを訪問したが、このときケナンはソ連

大使館に招待されてもいる。

冷戦はケナンを有名にしただけでなく、ケナンの人生を形づくり、そしてケナンの主要な関心

事であった。

「それでもケナンは冷戦について書いた。

なぜなら、彼は自国の行動と米国民の考えのなかに、断層線とアメリカ文明のもろさに対する

深い、変わることのない関心を見いだしたからだ」(本書)

一九八九年にケナンは、冷戦以上の何かが終わったことを見抜いてもいた。それは終焉を迎え

つつあるのは二〇世紀そのものであった。

ケナンは一九九二年一〇月にニューヨーク・タイムズに寄稿して、

「冷戦に“勝った”者など、国、党、個人を問わず、だれもいはしない・・・」

と書いている。

ケナンはこの二五年間に数回、上院外交委員会に出頭し、委員会では敬意をもって迎えられ、

意見を聞かれたが、まったくといってよいほど効果はなかった。

さらにこの四半世紀間で、少なくとも七二本の記事を書いている。ケナンは九八歳になるま

で、公衆のために執筆し続けている。

これも有名で、ある程度予想できるが、ケナンはヴェトナム戦争にも反対していた。

その理由をルカーチは三点挙げている。

第一に、ヴェトナムに米軍が駐留する必要はないと確信していたこと。

第二に、ヴェトナムで起きたことは国際共産主義といったようなものではなく、アジアのナシ

ョナリズムの一種だということを理解していた。

第三に、ソ連はインドシナにまったく関与していなかったから。

そしてヴェトナム戦争の背後には、より大きな、より重要な問題、すなわちロシアと中国の関

係が存在していたが、ケナンは誰よりも早く、共産主義国であるか否かに関係なく、中ソ間に

は明らかな相違と将来の対立の可能性が存在すること、また、米ソ関係は米中関係より重要だ

ということについて予見し、発言し、筆をとってきたという。

さらにケナンは、アメリカ人の生活、風俗、道徳観が急速に崩壊するさまを目撃したとき、苦

悩した。

一九六〇年代と一九七〇年代には、「若者の反乱」が惹起する不快な行為や間違った基準に対

して、痛烈に非難の声をあげた。これらの学生集団は計画というものを持っていない反逆児で

あると公言し、もちろん誤解された。

核兵器とその将来についても苦悩し警告もしていたが、それは土地や資源の保存という、自然

保護に対するケナンの強い信念と結びついていた。

「ケナンを尊敬する人は、彼を伝統主義者だとみなした。そのとおりだが、それだけではなか

った。彼は「進歩主義者」ではなかった。人びと、なかでも米国民は、「進歩」という観念そ

のものを再考し、修正しなければならない時期にきている、と彼は信じた。

そのことだけをとっても、ケナンが単なる知識人でも、保守主義者でもなく、また伝統主義者

ではないということができるかもしれない(あえてそうだと断言はしないが)。

それは予言者の孤独な声、アメリカの良心というべきだろう」(本書)

「保守派の」政治評論家や作家たちは、ごく少数の例外を除けば、ケナンを非難攻撃したり、

真剣な考慮に値しないとして片づけたり、無視したりし続けた。

「リベラル」たちは、あれこれの戦争に対する反対で立場を同じくするときにはケナンを尊敬

した。しかし、ケナンを本当に理解した人は少なかった。

ルカーチは歴史家としてのケナンにフォーカスし一章を割いている。

そこでは、一九五一年春にシカゴ大学でおこなわれた六回におよぶ連続講義から構成されてい

る『アメリカの外交』、ソ連がドイツおよび同盟国との条約を批准するにいたるまでの米ロ関

係に関する、ケナンによる歴史的再構築である『ロシア、戦線を離脱する』、五ヵ月間の米ソ

関係を扱ったもうひとつの不屈の名著である『介入する決定』、オックスフォード大学とハー

ヴァード大学で学生におこなった講義から集められ、構成された『レーニンとスターリン下の

ロシアと西欧』、予想だにしなかったケナンの傑作であり、欧州における第一次世界大戦の起

源に関する二巻本、一八七五年から一八九四年にかけての露仏同盟の起源についての『ビスマ

ルクのヨーロッパ秩序の衰退』、などを取り上げている。

特に歴史家であるルカーチの評価が高いのは、『ビスマルクのヨーロッパ秩序の衰退』であっ

た。

この著作に関してケナンは、多くの文献を読み、調査し、計画を練り、七〇歳でこの第一巻を

執筆し、八〇歳前に第二巻を完成させている。

公文書館や図書館にある非常に多くの史資料を渉猟するために、ケナンはコペンハーゲン、ウ

ィーン、ブリュッセル、ボン、モスクワ、ヘルシンキ、パリに旅している。それらの訪問地で

何ヵ月も過ごした。ルカーチはこの時のケナンの利点を三つ挙げている。

そのひとつは、ほぼ完璧といってよいほどの、ロシア語、ドイツ語、フランス語の知識。

二つ目は、一九世紀ヨーロッパの国際史の知識。

三つ目は、外務省や大使館だけでなく、ロシアとドイツの宮廷や社会、そしてこれらの国で生

活を営み、物を書き、言葉を交わす男女たちに関する詳細、状況、および環境についての鋭敏

な知識。

ルカーチの目から見てケナンの歴史研究には、歴史を文学作品とみなしていたことを指摘して

いる。その通り。

場所や周囲の状況についての叙述は、ケナンの著書の章のなかでももっともすぐれ、かつ魅力

的である。その叙述方法は印章論的で、動機はロマンチックで、しかもその結果は読者の記憶

を喚起するようなものである、とルカーチは述べる。

『回顧録』でもそのケナンの特長が遺憾なく発揮されている。

一九八五年にケナンは八五歳になっていたが、ケナンの威信は頂点に達していた。

大統領はケナンに大統領自由勲章を授与した。ソ連の指導者はケナンの手を握り、感謝の言葉

を浴びせかけた。冷戦は終わり、ケナンは冷戦期の「アメリカ外交政策の立役者」として認め

られ、その功労は全面的に、ほぼ世界中で認められるところとなった。

しかし、ケナンはこれらの賛辞にまったくといってよいほど興味を示さなかった。

ケナンは、すでに完全に過去のものとなった二〇世紀を生きた人間であるということを理解し

ていたという。

ケナンの著書『二〇世紀の終わりに』の初めには、「私は一九一四年に一〇歳となり、一九八

九年には八五歳であった」と書いているという。

それは第二次世界大戦を生んだ第一次世界大戦に始まり、第二次世界大戦は冷戦につながり、

一九一四年から一九八九年まで続いた。

ケナンはまた、自分の人生も終わったと考え、かつまた家族や友人には非常にしばしばそう語

っていたという。

しかし、ケナンは間違っていた。健康にも恵まれ、その後一〇年以上も生きることになり、ケ

ナンの思考もまったく衰えることはなかった。

ケナンはさらに二冊の新著を執筆し、二冊ないし三冊の本を編集した。また一二の論文と書評

を書き、数回の講演をおこなった。

日記を付け続け、ときおり手紙も書いた。その質は九〇歳代になっても、それ以前と同様すば

らしかったという。ケナン夫妻は九九歳になるまで旅行も続けている。

さらにケナンは、二〇〇一年に九八歳に達しようとする年齢まで、一週間に数日は研究所にあ

る自分の研究室を訪れている。

二〇〇一年九月一一日はケナンと妻アネリーズの七〇回目の結婚記念日で、子供たちがそれを

祝っている。

ケナンは重要な出来事の推移を終始注視し続けていたが、一九八八年の手紙に「いわゆる『精

神分裂病』とでも呼べる症状が、ソ連に対する態度やアメリカ政治の全構造に行きわたってい

る」と書いている。

その翌年にはケナンの旅行日記の一部が、『人生のスケッチ』という題名で出版されている。

友人の勧めがあって出版を決心したみたいだ。

一九九一年九月、ケナンは手紙のなかで「私は数ヵ月前に、軽い気持ちで、何気なく、この仕

事を開始した。作業が進むにつれて、着手した仕事にますます真剣になり、かつ重要だと思う

ようになった・・・」と書いている。

これが一九九三年に刊行された『二十世紀を生きて』(原題は『Around the Cragged Hill』)

に結実した。

それはケナンの個人的・政治的な哲学の集大成で、そのことは長年の懸案であると考えていたも

のであり、人生の終わり近くになって、書かなければならないものでもあった。

そしてルカーチはいう。より重要で後世に残る著作は、一九九六年に刊行された『二〇世紀の

終わりに』であると。残念ながら同書は翻訳されていない。

この著書の最後に収められた「隣人としての新生ロシア」のなかで、ケナンは次の文章を残し

ていたという。

「われわれと似かよった、政治的・社会的・経済的な諸制度という意味で、ロシアが『デモクラ

シー』を実現するということは期待できない。

そして、たとえロシア流の自治の形態がわれわれのそれと非常に異なっているとしても、この

ことは全体として、悪いことだと考えるべきではない。

われわれの多くが同感に思うが、われわれ自身のモデルは、それほど完全ではない。

そして、今日と同様に、今後も米ロ関係には良いときも、悪いときもあるだろう」

『二〇世紀の終わりに』の刊行後まもなくして、クリントン大統領、国務長官、国防総省は、

東欧諸国に北大西洋条約機構(NATO)を拡大することにした。

ケナンはその事を観察し、『ニューヨーク・タイムズ』に次のように書いている。

「この「北大西洋」同盟の無分別な拡大は、ここ数十年のアメリカ外交政策のなかで最大の過

誤となるかもしれない」

ケナン最後の著書は『アメリカの家族―ケナン家、最初の三世代』だった。

二〇〇〇年一〇月に刊行されている。

その数週間後、ケナンは娘のジョアンに宛てて一六ページの手紙を送り、ケナン自身の信仰に

ついて語っていたという。

ケナンは福音書を繰り返し読み、しばらくのあいだ、キリストの教えと聖パウロの教えの違い

とみなしていることについて思考をめぐらしていた。

しかし、ゆっくりとケナンの思考は一〇〇歳を迎えた時点で衰えはじめていった。

それでもケナンは、二〇〇三年の最初の数ヵ月間は、手紙を書いたり、口述したりしていた。

ケナンは自国の運命について頭を悩ませながら、生き続け、世界に対する覇権を拡大させよう

とするアメリカに驚愕を覚えた。ジョージ・ブッシュ大統領について、「非常に浅薄だ」と語っ

ている。

二〇〇三年二月に書かれた手紙には、これから何が起きようとしているのかを予見した。

ケナン最後の手紙はその年の九月に口述され、二〇〇四年二月一六日には一〇〇歳の誕生日だ

った。

プリンストン大学は「ジョージ・F・ケナンの一〇〇歳記念」会議を催したが、ケナンは出席す

ることができなかった。そのとき病床に伏していた。

ケナンは二〇〇五年三月一七日に永眠した。ケナンの一〇〇歳の誕生日から数えて、一年一ヵ

月と一日後のことであった。

ケナンの死亡記事は、ケナンが成し遂げた業績を十分に紹介していたという。

そして、それはケナンが当然受けるべき賞賛をともなっていた。

そのような記事のなかには、ジョージ・ケナンはいまや取り戻すことのできない過去の一部とな

った、という感覚が感じられるものもあったという。

ルカーチは、ケナンは「堅忍不抜の意志を持った信念の人」、人格の勝利、アイディアの人と

いう以上に原則の人であった、と述べている。

ケナンが最晩年に珍しくテレビ出演したものを観ると、その眼差しは優しくもあるが、「堅忍

不抜の意志を持った信念の人」という印象を受ける。

そして、ルカーチは結びで次のように述べている。

「彼は偏見も持っていたし、そうした偏見のなかには奇妙なものもあった。

しかし、ケナンは、心の鏡を覗き込むことでそうした偏見を認識することができた。

さらには、非常に善良で、思いやりがあり、寛大な心の持ち主であったため、そうした偏見を

正すことができた。

中西部からそのようなすばらしい思考と人格を持った人物が誕生したことは、この国にとっ

て、なんと幸運なことであったことか」(本書)

ケナンは八〇年ものあいだ、日記、手紙、旅行日記、自分のための覚書を書き続けた。

ケナンはルカーチに対しても、一九五二年から二〇〇三年までの五一年間に二〇〇通の書簡を

書いている。ルカーチはケナンの史資料が多すぎて大変だったと述べている。

本書には「さらなる研究のための提言」という附録みたいなものも収録されているが、

そこでは、

「ケナンが書き残したものの範囲はあまりにも広範であるがゆえに、

刊行された文書と刊行されていない文章を含む完全な伝記は不可能かもしれない」

さらに本文でも、

「現在のところ、ケナンの著作の完全なリストは存在しない。

あえていうが、今日コンピュータ化されたデータ処理の時代でさえ、遺漏やその他のミスなく

彼の著作のリストを作成することは、不可能ではなくとも困難であろう」

と指摘している。

『George F. Kennan:An American Life』とジョン・ギャディス

しかし、2011年にはジョン・ギャディスが三十年近く掛けて完成させた『George F. Kennan:

An American Life』が出版され、ピューリッツァー賞を受賞している。これは残念ながら邦訳

されていない。

二〇一四年には『The Kennan Diaries』も刊行されている。プリンストン大学図書館が所蔵す

るケナン文書は数年前に全面的に公開され、一般の研究者の利用に供されているという。

(佐々木卓也氏による)

そして最近では、ケナンの娘であるグレース・ケナンが『Daughter of the Cold War』を出版

している。

このことと関連してか、グレースさんは約一年前にウッドローウィルソンセンターでスピーチ

されている。

『Daughter of the Cold War』とグレース・ケナン

本書はケナンの性格にフォーカスして簡潔に書かれたケナン論となっている。

ケナンの主著である『回顧録』を読む時間がないという方は、本書を読めばその一連の流れや

内容も理解できるようにはなっている。

だが、ケナンが直接書いたものに目を通すことをお勧めしたい。それは以下でルカーチが述べ

ているように。ケナンは若いころに一日中、起きたことを説明するメタファー(隠喩)を見いだ

そうと、もがいていたこともあるのだから。それだけ素晴らしい文章で書かれている。

彼の文章は非凡であり、言葉づかい、色彩と形状、野花と家々、曇った天候と町の雰囲気、

男女の身なりや表情、といった事柄の説明は、たんなる印象論的な描写をはるかに超えたもの

である。

こうした記述は、景色、場所、人間についての、深い、洞察力に富んだ、鋭い、高度な理解を

示しており、過去についての知識に十分な裏づけを持ち、したがって画家の作品には存在しな

い、そして他の作家の文章にもめったに見られない歴史的広がりを表現している。

それゆえ、真面目な伝記作家にとって、ケナン自身が書いた文章を引用したり、

そっくりそのまま再現したりする以外に方法がない。

『評伝 ジョージ・ケナン』ジョン・ルカーチ

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ジョン・ルカーチ 法政大学出版局 2011-6-27