『裏切られた自由』 ハーバート・フーバー



なんせ1000ページを超える大著なもんで、読み終えるまで1週間以上掛かった。

(メモも取っていたから)

2017年の暮れから年明けは、本書をひたすら貪り読んでいた。

大戦開始前の共産主義国家はわずか一国であった。…

それが一九四六年には、二三の国または国の一部が共産主義に支配されることになった。

『裏切られた自由 上・下』ハーバート・フーバー

レーニンが生きていた頃、

共産主義は世界の人口のわずか五~六パーセントを占めるに過ぎなかった。

しかしその人口は三〇パーセントは超えている。

自由主義諸国の間にも共産主義化の動きは活発である。

『裏切られた自由 上・下』ハーバート・フーバー

本書は、自らをセオドア・ルーズベルト元大統領の伝統を引く政治家だと見なしていた、

第31代アメリカ大統領ハーバート・フーバーが、

「過去に起きた真の事実を基にした判断なくして、我々は将来を考えることはできない」。

「その目的は、いつ、どこで、いかにして、誰が、道を誤って第二次世界大戦となったか、

そして、なぜ、いま第三次世界大戦の危機を迎えているのかを順に追って明らかに

することである。このような状況に陥ったことは、自由が裏切られたからである」。

として、戦後に共産主義を跋扈させた第二次世界大戦の過程を検証し、

約20年の歳月をかけ完成させたもの。

編者のジョージ・ナッシュは、それを「大事業」と呼んでいる。

2011年にアメリカで刊行され、従来の見方とは違う歴史観なので、議論を呼んでいるらしい。

そのためか、長年、公にされることはなかった。

ハーバート・フーバー (1874-1964), 第31代アメリカ大統領 1929-1933

ルーズベルトには、左翼的メンタリティーがあった。

同じ傾向の政府高官が政権内に多かった。

彼が戦争への道に徐々に歩みを進めたのはそれも大きな要因である。

ルーズベルト自身は共産主義者ではなかった。

しかし彼の左翼思想によって、政権内には多くの社会主義者、共産主義者シンパが

入り込んだ。

なかには共産党メンバーもいた。彼らはルーズベルト政権内の一大勢力であった。

スターリンがヒトラーと手を握る前の六年間もそうだが、手を握ってから(真珠湾攻撃までの)

二二ヵ月間もその力は強大だった。

『裏切られた自由 上・下』ハーバート・フーバー

このように、フーバーが「裏切られた自由」を招いたとして激烈に批判を展開しているのが、

ソ連共産主義(スターリン)に取り込まれ、

その拡張をアシストしたフランクリン・ルーズベルトの外交政策で、

本書冒頭で、いきなり共産主義の歴史から論じ、クレムリンによるアメリカ国内の浸透工作

までを暴いている。

読んでいてここが一番、目から鱗が落ちる思いがしたし、フーバーも一番伝えたかった

ことだとも感じた。

フランクリン・ルーズベルト(1882-1945), 第32代アメリカ大統領 1933-1945

初期の段階のロシアの共産主義者は、二つのグループに分裂した。

ボルシェビキは暴力革命を指向し、メンシェビキはむしろ非暴力的な革命を指向した。

結局レーニンの指導するボルシェビキが勝利し、一九一七年十一月、権力を掌握した。

メンシェビキの多くはボルシェビキに加わり、そうでない者は粛清された。

『裏切られた自由 上・下』ハーバート・フーバー

ルーズベルト氏が大統領となった時期にも、共産主義者が我が国への工作を仕掛けている

ことははっきりしていた。

それを示す二つの大きな事件があり、ルーズベルト氏もそのことを知っていた。

一つは、一九三二年のいわゆる「ボーナス行進」と呼ばれるデモであり、

もう一つは、モスクワで作られた偽ドル札のバラマキである。

偽札は共産主義の活動のために使用された。

『裏切られた自由 上・下』ハーバート・フーバー

ハーディング、クーリッジ、フーバーの歴代大統領はソ連と国交を持とうとしなかったが、

このような状況下で、ルーズベルトは大統領就任してから早々に、

ワシントンで国交を結ぶ協議を求め、ソ連に特使を派遣している。

メッセージを受けたソ連は、七日後に人民委員のマクシム・リトヴィノフを特使として

派遣し、一九三三年十一月十六日、(国家承認の条件として)ソビエトの方針(約束)を

提示する。

〈以下の諸点がソビエト社会主義連邦政府の変わらぬ方針である。

アメリカ合衆国の内政には一切関与しない。

アメリカ合衆国の平穏、繁栄、秩序、安全を傷つける行為やアジテーション、

プロパガンダを一切しない、そしてさせない。

アメリカ合衆国の領土および所有する権利を侵したり、政治的変化をもたらした

社会秩序を乱すような行為はしないし、させない。

アメリカ政府を転覆させたり、社会秩序を混乱させる目的を持つ団体や組織を

作るようなことはしない。〉

これに加えて世界各国に対しても平和的態度を取ることを表明した。

『裏切られた自由 上・下』ハーバート・フーバー

若手の外交官だったジョージ・ケナンは、ソ連の国家承認に対して、

「われわれは彼らと一切関係をもつべきではない……

その時も、それ以後のいかなる時期にも決して私はソ連をこの国のための実際的あるいは

潜在的な、よき同盟国あるいは仲間とはみなさなかった」。

と回想している。

当時のアメリカ大使館、公使館の多くがルーズベルトではなく、フーバーの写真を壁に掲げ、

国務省のキャリア職員の大多数は、ソ連承認に反対し、大統領とその政策に対して、

根強い反感があった。

ルーズベルトはこのキャリア外交官たちを警戒し、反ソ連の傾向が強い東欧局を

解体もしている。(本書では言及されていないが)

極端かもしれないが、今の韓国の大統領、文在寅みたいなことをルーズベルトは行っていた。

両国が協定に調印してからわずか四八時間で、アメリカ共産党は、革命を目指す活動を

継続する旨の声明を発した。

ベンジャミン・ギトローは、自著の中で、リトヴィノフはアメリカ共産党幹部と

ニューヨークで会談し、彼の調印した文書はアメリカ共産党の活動を拘束しないと伝えた、

と書いている。

アメリカ共産党は第三インターナショナルのメンバーであったが、

リトヴィノフは、自分が署名した文書は、

ソビエト政府だけを拘束するもの(アメリカ共産党を束縛しないもの)だと説明した。

『裏切られた自由 上・下』ハーバート・フーバー

リトヴィノフは、長年ロンドンに大使として駐在し、妻は英国人。

そして、次のようにも述べている。

「心配無用だ。あんな調印文書は紙切れ同然だ。

ソビエトとアメリカの外交関係の現実の中ですぐに忘れられる」

と。

我が国がソビエトを承認したことは、国家としての信頼性のお墨付きを世界各国に

与えたようなものだった。

我が国の決定に他の国々も追随した。(共産主義の)陰謀を抑えていた蓋がこうして開いた。

そして、その結果がもたらした状況に世界はいまでも苦しんでいる。

『裏切られた自由 上・下』ハーバート・フーバー

その結果、アメリカ共産党員の数は承認前は、一万三〇〇〇人だったが、

一九三八年には八万人を超えるようになり、

ソビエトの国家承認を受け、共産党はアメリカ人メンバーを政府の重要機関の職員に就かせ、

国家安全保障に関わる情報にアクセスできるようになった。

その結果、国家の重要な意思決定に大きな影響を与えることになった。

『裏切られた自由 上・下』ハーバート・フーバー

としている。

レーニンが権力を奪取した時から、ソ連はアメリカに目をつけていた。

一九一九年の元日に開催された人民委員会議で、次の文書が採択されている。

われわれと米国との問題について、ソヴィエト・ロシアは包囲されている

鉄の輪の中から自己を開放すべきである。さもなければ、滅亡する……

ソヴィエト政府を助けてくれる可能性があるのは米国だけである。

なぜなら米国は、その内外政策の利益のために共和制ロシアとの友好を必要としている

からである。

米国が必要としているのは、

第一に、国内工業製品のための市場である。

第二に、その資本を有利に投資するための機会である。

第三に、ヨーロッパにおける英国の影響力を弱めることである……

米国と日本の関係は誠実ではない……両国間の戦争は不可避である……

米国と関係を樹立することがまず必要である……それは国家として最重要課題であり、

ソヴィエト・ロシアの命運はその首尾よい解決にかかっている。

『ローズベルトとスターリン テヘラン・ヤルタ会談と戦後構想』スーザン・バトラー

ちなみに、上の引用した

スーザン・バトラーの『ローズベルトとスターリン テヘラン・ヤルタ会談と戦後構想』は、

本書と対極をなす歴史観で、ルーズベルトやソ連礼讃で書かれている。

そんなレーニンは、次のようにも述べている。

「我々は資本主義国家間の利害対立を利用しなくてはならない。

一方を他方にけしかけるのである。……

共産主義者は無関心を装いつつ、ひたすら、そうした国において共産主義プロパガンダ工作を

進めればよい。ただそれだけで終わってはならない。

共産主義者の合理的な戦術とは、互いの敵意を煽って利用することである」。

一九二四年のレーニンの死以来、スターリンがソ連を統治する。

そしてその承認を数十年間、首を長くして待っていたスターリンは、

一九三四年にブリット大使に次のように語っている。

「ルーズべルト大統領は今日、資本主義国の指導者であるにもかかわらず、

ソ連で最も人気がある人物の一人である」

と。独裁者のスターリンがレーニン以外に褒めちぎった人間はいなかったらしい。

一九二四年には、

「プロレタリアート国家に敵対するブルジョア国家間における矛盾、いがみ合い、

あるいは戦争といったものは、革命に至る準備的要素である」。

と述べ、承認後の一九三九年にも、

「同志諸君。私は全身全霊、必要なら我が血を流しても、労働者階級プロレタリアート革命と

世界の共産主義のために尽くす。この言葉に嘘はない」。

として、リトヴィノフが示した「国家承認の条件としての約束」を

まったく守る気がなかった。

フーバーは、その共産主義者のやり口を具体的に提示してくれている。

クレムリンは情報組織の構築には次のようなやり方を取った。

まず細胞(cells)となる共産党員に、政府内に忍ばせた情報提供者をまとめあげさせた。

このような細胞を、知識人団体、大学構内、労働組合あるいは新聞社や出版関係にも

潜入させた。

細胞ができると次に「フロント(fronts)」となる人間を選び出した。

必ずしも党員でなくてもよかった。

共産主義思想に共鳴する者が細胞となり、共産党員によって選び出されたフロントたちが、

プロパガンダ工作活動あるいは資金調達活動にあたった。

『裏切られた自由 上・下』ハーバート・フーバー

そして、一九六一年十二月までに、一〇〇〇を超える「フロント」が、立法府や司法などに

よって工作機関であることが公になっていると。

「フロント」組織を作る場合、まず組織の中心に共産主義者を据え、

その周囲に、一群のリベラル思想を持つ同調者(シンパ)を配置する。

「フロント」周辺部にいる者は罪の意識を持たず、悪賢さもない。

なかにはただ何かの活動に参加したいだけの者もいる。

『裏切られた自由 上・下』ハーバート・フーバー

さらに具体的に

共産主義者は、労働組合運動を乗っ取り、操ろうとしていたが、

それを本格化させたのはジョン・L・ルイスであった。

彼は鉱山労働者組合の指導者だったが、CIO(産業別組合会議)の組織化に成功した

(一九三五年から三六年)。

彼はすでに知られていた共産主義者を補佐につけた。

ルイス自身は共産主義者ではなかったが、権力や維持のためにあらゆる手段を使った。

CIOは設立当初から政治運動に関わり、PAC(政治活動委員会)なるものを作らせた。

目的は、ワシントン議会の議員候補や、大統領候補の中で、組織に都合の悪い者を

葬ることであった。

下院非米活動委員会は彼らの活動を次のように報告している。

(CIOの幹部委員会はPACを組織した。四九人の委員がいたが、少なくとも一八人は、

アメリカ共産党に絶対の忠誠心を持つ者だった。)

PAC委員会はシドニー・ヒルマンだった。

ルーズベルト政権では、労働問題の有力顧問であり、戦時生産統制委員会に対して

強い影響力を持っていた。

ロシア生まれのヒルマンは、ロシアの初期の革命を経験した。

一九〇七年にアメリカにやって来ると、労働者の組織化に関わった。

一九一四年には、強力な組合であるアメリカ衣料産業合同労働組合の委員長となった。

後に上院で証人喚問を受けているが、一九二二年にはアメリカ共産党の党員であった。

この年に彼はいったんモスクワに戻っている。

ソヴィエトロシアを擁護する論文を執筆し、共産党活動にも積極的に関わった

(下院非米活動委員会報告)。

『裏切られた自由 上・下』ハーバート・フーバー

その結果

CIOそしてPACは、選挙の際にはどの候補に組織的に反対すべきかのリストを作成している。

リストは実質的に共産党が作成した内容と同じであった。

一九四四年の民主党(大統領候補選出の)大会におけるヒルマンの影響はきわめて大きかった。

その年のランニングメイト(副大統領候補)の選択にあたって、ルーズベルトが、

「シドニーと調節してくれ」と言ったことはよく知られている。

『裏切られた自由 上・下』ハーバート・フーバー

わかりづらいが、本書付属の史料21で、まとめて提示している。

我が国民に対するモスクワの工作は四つの方法で行われた。

一 アメリカ共産党による(親ソ)国民世論の形成活動。

二 国内の主要な労働組合の支配。

三 本来であれば何の害もない組織の乗っ取り

  (たとえば太平洋問題調査会:The Institute of Pacific Relations)

四 共産主義者や共産主義シンパをルーズベルト政権の各組織上層部ぬ潜り込ませ

  政策決定に関与。

これらの証拠は、編者序文でジョージ・ナッシュが

「すでにヴェノナ文書によって、ワシントンに潜入したソビエト・エージェントの

戦時における驚くべき活動の様子は、歴然としてきた」

と述べている。

ヴェノナ文書は、翻訳もされていたみたいだが、今は絶版になっているみたいだ。

ルーズベルトとは、そういう人物だった。

そんなルーズベルトは、ホワイトハウスのキャビネットルームのマントルピースの上に

第28代大統領のウッドロウ・ウィルソンの肖像写真を飾っていた。

友人でもあり、スピーチライターでもあった、ロバート・E・シャーウッドは、

「ウィルソンの悲劇はいつもどこか、彼の意識の端にひっかかっていた。

ローズヴェルトには決してウィルソンの失敗を忘れることができなかった」

と、演説草稿を練りながらその写真をよく見上げていたと回想している。

ウッドロウ・ウィルソン(1856-1924), 第28代アメリカ大統領 1913-1921

そのウィルソンとは、神に託された使命を果たしていると唱え、理想主義者であり、

第一次世界大戦後のパリでの講和会議で、民族自決原則を強く主張した人物。

「民族自決を求める声は尊重されなくてはならない」。

「いかなる民族も搾取されるようなことがあってはならない」。

「自らの意志と同意によってのみ統治される」。

だが、こうした主張が適応される国は限られた。

パリ講和会議(冊子を持って座っているのがウィルソン)

オスマントルコ帝国やオーストリア・ハンガリー帝国領土内の民族だけが対象となった。

ヨーロッパ諸国の植民地には適用されなかった。

『ダレス兄弟』スティーブン・キンザー

ウィルソンの二枚舌的な主張は各地に暴動の種を播いた。

一九一九年春、世界各地でそれが起きた。

エジプトでの反英運動、朝鮮での反日運動(三.一万歳事件。ウィルソンが一九一八年一月に

発表した「十四ヵ条の平和原則」を受けて起きた)、

インドではガンジーによる反英運動が起きた。中国では反帝国主義運動が激しくなり、

指導者であった孫逸仙(孫文)は「大国の民族原則は欺瞞だ」と訴えた。

― 列国首脳は各地で発生した抗議の動きを無視した。

彼らにとっては植民地を維持するほうが民族自決の原則より重要であった。

そうして姿勢がその後数十年にわたる動乱の種となった。

『ダレス兄弟』スティーブン・キンザー

植民地もどうかと思うが、他にやり方があっただろう、ということだろう。

そのウィルソンが掲げた、有名な十四原則(Fourteen points)は、

一九一八年の年頭演説で述べたもの。

(1) 秘密外交の禁止 (2) 海洋の自由 (3) 可能な限りにおける経済障壁の放棄

(4) 軍備の削減   (5) 植民地側の要求の公平無私な調整

(6) ロシア領土からの占領軍の撤退 (7) ベルギーの主権回復

(8) アルザス=ロレーヌ地方のフランスへの返還

(9) 明らかに判別できる民族の分布を基準とするイタリア国境の再調整

(10) オーストリア=ハンガリー連合国内の諸民族の自治

(11) ルーマニア、セルビアおよびモンテネグロからの外国軍隊の撤退

(12) オスマン・トルコ帝国の内部における非トルコ系諸民族の自治ならびに

   ダーダネルス海峡の自由通航権

(13) 自由で安全な海への通路をもった独立ポーランド国の創設

(14) あらゆる諸国の政治的独立を保証する目的をもった包括的な国際組織の設立

アメリカもフィリピンやカリブ海などに植民地を持っていたが、

パリを発って帰国する時にウィルソンは、

「自由と正義、そして人間として尊厳を、未だ啓蒙されざる人々に伝えなければならない。

我がアメリカの理想とする理念の中で彼らが生きられるようにしなくてはならない」

と述べている。

(14)は講和会議後に「国際連盟」として実現したが、

アメリカ自身は連邦議会(上院)の反対で加盟できず、二つ三つしか実現しなかった。

ルーズベルトもこの講和会議に海軍次官としてパリにいた。

そして、アメリカの上院でこの法案が否決されたときに、ルーズベルトは精神的に

ひどく落ち込み、ウィルソンが無力になり、その理想が実現されなかったことを、

欲求不満を高めながら見守っていたらしい。

ちなみに、ハンス・モーゲンソーは『国際政治』のなかで、

「旧帝国秩序が崩壊するや、なお自決の名の下に、

ただちに新しい帝国主義が呼び起こされた」。

「この原則は、第一次世界大戦の終了から第二次世界大戦の終了に至るまで、

これら諸国の最も有力なイデオロギー的武器であった」

と述べている。

第一次世界大戦終結のベルサイユ会議で、

日本の主張する人種差別廃止宣言に強硬に反対して流産させたのはウィルソン大統領である。

一九一九年、国際連盟の結成が決まり、その規約作成の場で、日本代表の牧野信顕が、

「連盟に参加している国家は、人間の皮膚の色によって差別を行わない」

という内容の条文規定に入れるよう提案した。

日本としては長い間、日本人移民が米国で不当に差別される問題に悩まされていたので、

それを国際的レベルで改善したいと考えたからであった。

賛成多数であったが、議長の米大統領ウィルソンは

「かような重大な問題は、全会一致にすべきだ」

として否決した。

『ルーズベルト一族と日本』谷光太郎

ちなみに、戦後に昭和天皇は、日米戦争の遠因を次のように述べている。

「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦後の平和条約に伏在している。

日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、

黄白の差別感は依然残存し、加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは日本国民を

憤慨させるに充分なものである。

かかる国民的憤慨を背景にして一度、軍が立ち上がった時には、之を抑えることは

容易な業ではない」。

その他にも、ポルシェビキ思想を恐れる空気が強かったが、

ウィルソンはこれを害毒だと主張してもいる。

(帰国後、慌てて「治安法」に基づいて国外追放しているが)

口では綺麗事をペラペラと述べ、裏では人種差別主義者で、ビジネス重視の側面を

強く持っていたのがウィルソン。

ウィルソンの理想主義はビジネス重視の側面を強く持っていた。

彼は聖書の福音のごとくに民族自決の原則を説きながら、一方で自国の商業的利益を

忘れなかった。

「我が国産業の将来的な利益は諸外国の工業化に大きく依存する」

「私はアメリカ産業の利益について責任を持つ」と語った。

アメリカ外交はアメリカのビジネス上の利益推進を目指すべきだとの理念を

表明したのである。

                (中略)

ウィルソンの考えの中には「 家父長的温情主義」があることを忘れてはならない。

彼は南部貴族階級の出身であった。クー・クラックス・クラン(kkk)すら信奉していた。

したがった彼にとって黒人隔離政策は、黒人の利益になりこそすれ、

けっして黒人を侮辱するものではなかった。それがウィルソンの歪んだ温情主義だった。

連邦政府組織やワシントン交通局に黒人隔離制度を導入した大統領だったことからも、

彼の「温情主義」の性格がよくわかる。

ホワイトハウスで新作映画「國民の創生(The Birth of a Nation)」が先行上映されたことが

あった。

黒人が暴力的な類人猿のように描写されていた場面について、

「実態は映画のとおりだ」とウィルソンは述べている。

彼は、二期八年の任期中、歴代のどの大統領よりも海外に派兵した。

キューバ、ハイチ、ドミニカ、メキシコ、ニカラグア。

革命が起きたロシアにも対ポルシェビキ戦に軍を出した。

彼以前の大統領も海外に派兵することはあった。

しかし、ウィルソン大統領の派兵の理由はふるっていた。

抑圧された人々に民主主義をもたらすためであると主張したのである。

それまでの大統領の派兵理由とは逆であった。

有色人種には自治能力がなく、他者や統治されなければ混乱は収まらない。

それが海外派兵の理由であった。

『ダレス兄弟』スティーブン・キンザー

そんなウィルソンの肖像写真をホワイトハウスのキャビネットルームに掲げ、尊敬し、

同じような行動をとっていたのが、ルーズベルトだった。

ルーズベルトはスミソニアン博物館の自然人類学担当のアレシュ・ヘリチカ博士と

親交があり、博士から次の二つを学んだ、と語った。

① インド人が白人と同種だということ

② 日本人が極東で悪行を重ねるのは、頭蓋骨が未発達で、白人と較べ、

二〇〇〇年以上も遅れているのが原因。

ルーズベルトの駐米英公使サー・ロナルド・キャンベルへの話は続く。

この①と②により、

アジアに文明の火を灯すには、アジア人種を(白人種)交配させユーラシア系(欧州白人系)、

欧州・アジア系、インド・アジア系を作り出し、それらによって、

立派な文明とアジア社会を産みだしていく。

但し、日本人は除外し、元の島に隔離し、次第に衰えさせて行く。

日米開戦五年前(一九三六年)に、ルーズベルトは対日有事を想定して、

ハワイの日系人を強制収容所に収監する計画を検討していたことも、

指摘しておきたい。

『ルーズベルト一族と日本』谷光太郎

本書に話を戻すとフーバーは、

そんなルーズベルトのニューディール政策(スターリンはこの政策を評価していたみたいだが)

や、親ソ的な傾向でドイツや日本に対抗するためにソ連と手を組み、

第二次世界大戦へ参戦し、中国共産党を育てたことも痛烈に批判をしている。

アメリカはドイツとソ連の間で戦争が勃発したとき、放っておけばよかった。

日本に対しても、経済が困窮していたので、勝手に自壊すると。

ルーズベルトは、天才的な能力で、頑迷で腰を上げようとしない国民に国家の義務を

果たさせたのだ。

これがルーズベルト支持者の解釈である。

そうではなくルーズベルトは国民をまっあく必要もない戦争に巻き込み、

とんでもない厄災を招いた。

エゴイズム、悪魔的な陰謀、知性のかけらもない不誠実さ、嘘、憲法無視。

これが彼のやり方に際立っていた。反ルーズベルトの人々はこのように解釈する。

どちらの解釈にしろ彼が用いた方法に変わりはない。

彼の不誠実さをはっきり示しているのは、

三年間にわたって、アメリカ国民に若者を戦争に送り出すことはないと約束し続けて

いながら、実際は参戦に向けた外交を繰り広げていたことである。

ドイツには憲法に違反する宣戦布告なき戦いを始めていた。

真実とは違う説明で、国民に(ドイツへの)恐怖と憎しみを煽った。

武器貸与法の不当の意図を隠した。

日本の反撃を確実にする対日経済制裁を行なった。

近衛からの和平提案を拒否した。

英国との軍事協定でポルトガル(領土)と日本への攻撃を、議会の承認なく決定した。

国民に対して(第一次大戦に続く)第二の自由を守るための「十字軍(second crusade)」を

要求した。

彼の要求した四つの自由は結局は世界のあざけりの対象となり、

大西洋憲章は我が国民の彼に対する信頼を裏切るものになった。

どちらもテヘラン会談においてスターリンを喜ばせるために犠牲にされた。

その結果一億五〇〇〇万の人々は奴隷状態に追いやられ、夜も昼も恐怖におののきながらの

生活を余儀なくされた。

ヤルタ会談では、右記の犠牲を国民に隠し通し、さらなる譲歩をした上その事実を

否定し続けた。

アメリカ国民もアメリカ議会も、真珠湾攻撃までは圧倒的に我が国の参戦には反対であった。

このことはあまりにも自明であった。非公式な世論調査の結果もそれを示している。

そして何よりも、ルーズベルト自身が、繰り返し若者を戦場に送らないと約束していた

ことや、対独戦争のための軍事増強、武器貸与法、英国船団の護衛、対日経済制裁などの

政策を、すべてアメリカが戦争に巻き込まれないための方策だというごまかしの説明を

せざるを得なかったことからも明らかなのである。

アメリカ国民が、我が国を戦争に巻き込んだすべての男たちが激しく嫌悪するときが

必ず来る。

そうした連中を神格化しようとする試みは失敗しているのである。

『裏切られた自由 上・下』ハーバート・フーバー

これらのことを、本書で具体的に述べられている。

1月15日の読売新聞の書評で、京都大教授の政治史学者・奈良岡聰智氏が本書を取り上げ、

「本書に関心を持つ読者には、ぜひ同時代人の他の著作と読み比べ、

多様な歴史観を養って欲しいと思う」

と述べられている。

その通りだと思うのだが、フーバーが示した事を不問に付しているのも問題だとも思う。

あと、本書で個人的に気になったのは、

「米国政府内で、毛沢東の共産党と連合政府をつくるよう蒋介石に圧力をかけることに

直接的あるいは間接的に関わっていたのは誰だったかを、もう一度確認しておきたい」

として、具体的に名前まで載せ提示している箇所。

まだ語りたいことがたくさんあるが、長くなったので別の機会ということで。

わかりづらかったかもしれないが、気になった方は是非本書を。


テヘラン会談は、ローズヴェルトの最も大切な目的を推進するために計画された。

それは、すべての国がメンバーとなるもっと実効的な形の「国際連盟」を設立する

ということだった。

そのような機関こそ、平和な世界を維持するための最良の、まさに唯一の道であると

彼は信じていた。

この機関は、どの加盟国でも苦情を申し立てることができ、すべての国家が意見を交わす

ことのできるようなフォーラムになるだろう。

場合によってはこの機関は行動の権限も手に入れるだろう。

ローズヴェルトの計画では、世界の四人の警察官として行動する四つの超大国が出現する

ことになっていた。― アメリカ、ソ連、英国、中国である。

これらの四ヵ国は、他の諸国よりも大きな力を持っているので、戦争に勝利したあかつきには

世界の秩序を守ることになるだろう。

『ローズベルトとスターリン テヘラン・ヤルタ会談と戦後構想』スーザン・バトラー

核兵器の存在によって、米国とソ連は冷戦期を通じて直接戦火を交えることを互いに

思い止る一方、その敵意は同盟国、属国、代理国家による戦争にはけ口を求めた。…

それゆえ前例のない大国間の平和の裏で、小国間の絶え間ない熾烈な戦争があり、

1948~91年の冷戦期の間に144回もあった。

『エドワード・ルトワックの戦略論』エドワード・ルトワック

created by Rinker
スティーブン キンザー 草思社 2015-11-19
created by Rinker
谷光 太郎 中央公論新社 2016-02-09
created by Rinker
エドワード・ルトワック 毎日新聞社 2014-04-30