ジョージ・F・ケナン回顧録 II



戦争はいまでは終わっていた。

われわれの態度や政策の真価が問われるのは、まさにこれからであった。

私の知り得たすべての点から見て、アメリカ軍当局はいまなお、戦争中、

一部のわが軍部指導者が抱いていた反英・親ソという奇怪な偏見としかいいようのないものに、

深く影響されていた。

『ジョージ・F・ケナン回顧録 II』ジョージ・F・ケナン

Ⅱ巻は、V-Eデー(ヨーロッパ戦勝の日)からモスクワからの「長文の電報」、

ワシントンに帰り新設されたナショナル・ウォー・カレッジの外国事情担当副指揮官や、

国務長官がなすべきことについての計画案を作成する政策企画部本部長や国務省参事官などの

要職に就き、マーシャル・プランや「X-論文」、日本とマッカーサー、ドイツや北大西洋同

盟、ヨーロッパの将来などに言及し、ワシントンの外交の中枢から去るまでが綴られている。

主に欧州終戦から1950年までで、ヨーロッパをどう復興させるかが最大の焦点となっている。

ジョージ・F・ケナン (1904年2月16日 – 2005年3月17日)

終戦直後の期間、依然としてアメリカはソ連を利する政策を採用していたのだが、

ケナンは一貫して、ヨーロッパが勢力圏に分割されることを、一刻も早く明確に認識するべき

だと主張している。

「ソビエトは、ヨーロッパの再建にわれわれと実際に協力しても何の利益もないことを知って

いた。

しかしそのような協力の可能性が、満更ないこともないように見せびらかし、

その実体がはっきりするまでわれわれの建設計画実施を遅らせれば、彼らにとって利益は大き

いというものであった。

西側の苦悩が続くことは、それだけ西側諸国で虎視眈々と機会を狙っている共産党の思うつぼ

にはまるだけであろう」(本書)

ポツダム会談や戦犯裁判についてもケナンは手厳しく批判して次のように指摘している。

「ポツダム会談の成果が発表されて、私を少なからず失望させたのは、東プロイセンをドイツ

から分離し、その州をロシアとポーランドに割譲し、さらにケーニヒスベルク(現在のカリーニ

ングラード)の行政中心区と港湾を、ソビエト連邦に割譲するという最初の決定を、承認し純化

している点である」(本書)

「この裁判が明らかにすることができたただ一つの意味は、一つの政府指導者たちが、一つの

特定の状況下で犯した犯罪は正当化され、許されたが、しかし他の特定の政府指導者たちが、

他の特定の状況下で犯した犯罪は正当化されず、許されなかった、ということであった。

これ以外にどのような解釈もできなかった」(本書)

そんな中、モスクワ大使館にアメリカ政府からある文書が届く。それは、ソビエトが世界銀行

および国際通貨基金への加入を渋っている、ということを伝える文書であり、ソビエト側のこ

のような行動は、どう説明できるのか? その背後に何があるか? といった内容でアメリカ財務

省から送られてきたものだった。

この頃のアメリカ財務省は、未だにソビエトとの戦後協力を希望していたというから驚く。

そしてケナンは、このチャンスを利用し、世界銀行や国際通貨基金などに関するソビエトの見

解を、通りいっぺんの文章で解説するのではなく、今度こそ真実が示されるべき時であったと

して、八千語からなる長文の電文を書き上げ送信した。それは本書の付録として収録されてい

る。その長文の電報は、五つに大きくまとめられている。

(1)ソビエトの戦後の情勢の基本的特質

(2)その情勢の背景

(3)公式の政府政策面に現れたその情勢の反映

(4)非公式な政策面、すなわち“前衛”組織およびあらゆる種類の補助組織を通じて実施される、

政策面に現れたその情勢の反映

(5)アメリカの政策にとって、これらのすべてが意味するもの

この文書をケナン自身に言わせれば、ドーターズ・オブ・アメリカン・レボリューション(愛国的

な女性団体)から発行された共産主義の陰謀の危険を市民に訴えた入門書の一つにそっくりであ

るとしている。

そして、そのモスクワから送られた電報がワシントンで受け入れられ評判となる。

海軍長官のジェームズ・フォレスタルは、それをコピーして軍の高官たちの数百のものに必読を

命じ、国務省も賞賛の言葉を送った。

この長文電報によって、ケナンは名声をものにし、ケナンの声は大きく広がることとなり、官

界での孤独は終止符を打たれることにもなった。

ただ、このワシントンの体質に対して、ケナンは疑問も感じており、数年間自身を悩まし続け

た問題であったと述べている。

それは、この文書で述べられている現実は、ほぼ十年間は本質的に変わりなく存在していたも

のだし、またこれからさき五年以上は引き続いて存在するかもしれないものであるのに、

六か月前なら闇に葬られていたのが、今になって急に評価されたことに一貫性もなく、疑問に

感じたということだった。

モスクワから発信した長文電報が、意外なほどに評価され、ケナンの名はワシントン中に知ら

れるようになった。

ケナンはワシントンに帰り、新設されたナショナル・ウォー・カレッジの“外国事情担当副指揮

官”に任命されることにもなった。

そこでの任務は、総合軍事・政治教育課程のうち、政治関係部門の計画、指導にあった。

さらには、アメリカ各地に講演旅行にも出かけている。

その講演旅行の印象として、ケナンは次のように述べている。

「西部海岸地方の学界人の中には、たとえ共産党員でないとしても、共産党側から強い影響を

受けていたはずと思われるような人々がたくさんいる、という印象を受けざるをえなかった。

こういう状況に私が敏感になったのは、最近のモスクワ勤務以来だと思う。

いずれにせよ、私は政府の治安上の関心についてはよく知っていたので、心配になった」

(本書)

この頃に、イギリス首相のチャーチルがトルーマンの故郷であるミズーリ州のフルトンで鉄の

カーテン演説をしているが、ケナンは、鉄のカーテンがかけられた、ロシア側の背景を総括し

て次のように述べている。

「ロシアの基本的な後進性、その特異性、東洋への親近性、西方世界に対する愛憎の複雑なコ

ンプレックス、西方世界が優越しており、何かうまくしてやられはしまいかといった不安等々

から来ていたのである。

そして同時に、ロシア人には、ロシア人なりに・・・・・・貧困と悲惨さの背後に、われわれに教え

ることのできる何ものかを持っているという基本的信念からきていたのである。

従って彼らは、その鉄のカーテンを失いたくないと思っているのだ」(本書)

ただ、ケナンはこの時点では、ソビエト指導者は西側諸国とは対決しようとは望んでいなかっ

た。そのことは確かだったと主張している。

その後ケナンは、当時の国務次官だったディーン・アチソンに呼ばれ、ギリシャ、トルコに対す

る援助問題(トルーマン・ドクトリン)を全般的に検討するために設置されようとしている特別委

員会の審議に、参加するよう要請される。

しかし、その援助問題をめぐる場面で目にしたのは、アメリカ人は特定の問題について特定の

決定をすることには先天的に嫌悪感を持っており、かつ特定の行動を意義づけて正当化するよ

うな普遍的な方式ないし原則を探し求める執拗な衝動を抱いていることであり、次のように指

摘する。

「この傾向の根源が何であれ、それは不幸なことである。それは重要な国際問題に対する世人

の理解を助けるどころか、むしろ混乱させている。

それは政策決定の過程を妨げ、ゆがめるものである。それは問題の決定を、関連のない、ある

いは部分的にしか関連のない基準で行われる結果になる。

それは大国の政務の遂行を成功させる上に必要な、幅の広い判断と慎重な言葉使いを種々な面

で妨げるものである」(本書)

この普遍を求め、過度に単純化してしまう傾向は、現在のアメリカにも脈々と受け継がれてい

ることでもある。ケナンはトルーマン・ドクトリンにも激しく反対していたみたいだ。

そしてケナンは、ジョージ・マーシャル国務長官に呼ばれ、ヨーロッパはいま混乱の中にあ

る、何か手を打たねばならないとして、すぐに政策企画本部をこしらえてくれ、と命じられ

る。

「私たちの組織ができ上がったのは、ほとんど偶然としか言い様がないのに、私たちの肩には

恐ろしいほどに重大な責任がのしかかっていた。

私たちはみんな全力をしぼってヨーロッパ問題を調査し、わが国のヨーロッパに対する援助の

可能性について検討を続けたのであった」(本書)

その時のスターリンの思惑を次のように述べてもいる。

「彼らはただ辛抱強く待ちさえすればよいのだ。これらの地域の我慢できなくなった経済情勢

の救済をアメリカが失敗して、これらの地域の諸国が目に見えなかった網のつなを強く引かざ

るを得なくなって、結局ヨーロッパの西側も、すでにその東側を覆ってしまっている影の下に

引き込まれる日が来るのだ、という具合に彼らは考えているのだ」(本書)

当時のイタリアもフランスも共産党に勢いがあった。

問題は焦眉の急を要する経済計画で、数千万の人々が生死にかかわる問題として、その成果を

待ちかまえている問題であり、ヨーロッパの勢力均衡に決定的な影響を持つはずの計画なので

あるとして、ヨーロッパ復興計画に関する進言書をまとめ上げマーシャル長官に提出する。

「そう遠くない内に明らかになることだが、ヨーロッパにおける同盟諸国に慈悲深い援助を与

え、ドイツにおける占領政策を今日まで包んできた戦時下の親ソビエト主義、希望的観測、イ

ギリス嫌い、独善的な自虐意識などから起因する混乱を切り開き、最終的には建設的で、分別

のある道、しかも以後六年間にわたり役に立った道をわれわれに示してくれたのは、

他ならぬマーシャル・プランそのものであった」(本書)

ケナンには珍しいことだが、マーシャル・プランによるアメリカ側の貢献が三点あった、として

少し自慢げに書かれている。

(a)ヨーロッパ諸国民が計画作成のイニシアチブをとり、それについての中核的な責任をとるべ

きだという原則を樹立した。

(b)援助はヨーロッパ全体に対して与えられるべきだ。もしヨーロッパ大陸が分割されねばなら

なくなったとすれば、それはソビエトの側がそうした形の反応をみせたのであり、こちらから

仕かけたわけではない。

(c)ドイツ経済の復元に決定的な重点を置き、ドイツの復興こそヨーロッパ全体の復興の基礎だ

という概念を導入した。

マーシャル・プランから二年後にケナンはマーシャル元帥から直筆の手紙を貰い、その時のこと

も嬉しそうに書いているのも印象に残る。

ケナンは長文電報がワシントンで取り上げられて以来、注目される人物にまでなるのだが、

なかでも海軍長官ジェームス・フォレスタルは、ケナンの論文にはとくに個人的な深い関心を持

つようになっていた。そんな長官にケナンは個人的な資料を書いたりもしていた。

ある日、ケナンはニューヨークの外交関係評議会で非公式に講演を行っていた。

その講演には雑誌『フォリン・アフェアズ』の編集長ハミルトン・フィッシュ・アームストロング

も参加しており、編集長がケナンに、評議会で話した内容のものを、雑誌に掲載できるような

形でまとめたものはないかと聞いてきた。

ケナンは講演のテキストはないが、フォレスタル長官のために書いたものがあることに気づ

き、長官や国務省などにも許可を取り、論文に署名してあるケナンの名前を消して、代わりに

匿名のしるし「X」を書き入れて、その論文をアームストロングに送った。

そのことを忘れていたある日のこと、『フォリン・アフェアズ』誌にその論文が「ソビエトの行

動の源泉」という題で掲載されていた。

これが世評の渦の中心となった「X-論文」の経緯であり、岩波現代文庫『アメリカ外交50年』

の第二部に収録されている。

「「封じ込め(コンテーメント)」という語は、新聞全体の合意によって、とくに取り上げられ

て、一種の「理念(ドクトリン)」めいたものにまで高められ、さらに政府の外交政策と一体の

ものと見られるようになっていた。

このようにして―私たちの目には―容易に破ることのできない、歴史家を毒するような神話の

一つが作り上げられたのである」(本書)

ただ、この論文には重大な欠点が幾つかあり、最も重要な欠点は「封じ込め」についての解釈

であり、ケナンは次のように指摘している。

「私がソビエト勢力の封じ込めについて述べる際に、私が言っているのは、軍事的手段による

軍事的脅威の封じ込めではなくて、政治的脅威の政治的封じ込めのことだ、という点を明確に

していないことである」(本書)

さらに、何のために封じ込めるのか、ということなどもはっきりと書かなかったので、その封

じ込めの目的についても述べている。

「私は会議や講演で、近代的な軍事力が量産できるのは、世界で五つの地域―アメリカ、イギ

リス、ライン流域を中心とする隣接工業地帯、ソビエト、日本―に限られるとの見解を繰り返

してきた。この五つの地域のうち一つだけしか共産支配下に属していない。

従って「封じ込め」の主要な仕事というのは、残りの四つの地域どれもが共産主義の支配下に

入らないように注意することだと私は指摘した」(本書)

「ヨーロッパの分割が恒久化する危険を、私以上に強く意識しているものはいなかった。

当時考えられていた「封じ込め」の目的は、第二次世界大戦の軍事作戦と政治工作が作りあげ

た現状を恒久化することではなかった。

「封じ込め」が意図したものは、われわれに困難な時期を乗り切らせ、この現状の中に介在す

る欠陥や危険について、ソビエト側と効果的に話し合いができるようにし、そしてそのような

現状の代わりに、よりよい、より健全な状態を平和的に実現できるよう、ソビエト側と準備を

進めることにあった」(本書)

ヨーロッパ復興計画が一息ついたころ、世界情勢を見渡し、最大の危険、最大の責任、最大の

可能性をはらんだ舞台は、西ドイツと日本という二つの占領地域であることが、まざまざと目

に映ってきた。この両国は最大の工業基地群の中核であり、共産主義の圏外に確保し、その巨

大な資力を、建設的な目的のためにフルに活用できるようにすることが是非とも必要であった

と。ただ、国務省の立場から見たら、ある種の不安が、いつとはなしに忍び込んでいた、とし

て次のように指摘している。

「第一に、この両地域は、その重要性とわれわれの統制力から見て、世界政治のチェス盤上で

は、われわれの側の一番重要な駒には相違なかったが、実際には国務省にいるわれわれでも動

かすことができず、大統領ですら不完全な権限しかもっていないような駒であった。

この両国にいるアメリカの司令官は、実際には、高度に独立性を持った地位に就いていたので

ある。

彼らは自分ではそれを認めなかっただろうが、事実上、自分の思い通りに振る舞っていた」

(本書)

ドイツに関しては、ロバート・マーフィという大使が頻繁に国務省などと連絡を取っていたのだ

が、日本の場合は、マッカーサーが国務省の助言に耳を貸そうともしなかった。

司令官たちは、事実上、昔の君主に等しい役柄を楽しんでいた、とケナンは指摘し、占領政策

についても次のように述べている。

「それらは、多くの点で、見せかけだけの寛大さ、福音主義的自由主義、独善的な懲罰主義、

親ソ的な幻影、そしてすでに周知のように、戦時中連合諸国の政策の中に浸透していた大国間

協力という根拠のない願望の戦後版、そういったものへの愛着を反映したものであった」

(本書)

極東では、中国が急速に共産主義の支配下に落ちてゆくことは間違いないことであり、情勢が

悪化していた。企画本部のケナンたちは、この頃に日本の情勢と占領政策の状況に注目しはじ

めている。

「日本は共産主義の浸透や政治的圧力に対抗する効果的な手段は何も持っていなかったのに、

すでに共産主義者は占領下に強力な宣伝を展開し、もし占領が終了し、アメリカ軍が撤退しさ

せすれば、たちまちにその圧力は増大することが目に見えていた。

このような情勢に直面しながら、その時までにマッカーサー総司令部が遂行してきた占領政策

の本質は、ざっと見るだけでも、日本の社会を共産主義の政治的圧迫に抵抗できないほど弱い

ものとし、共産主義者の政権奪取への道を開くことを目的にして立てられた政策の見本のよう

なものでしかないことがわかった」(本書)

この問題は、国務長官とも話題となり、ケナン自身が日本におもむいて直接現地で検討し、マ

ッカーサーと具体的に話し合うことになる。

「厄介な占領軍当局は、多くの点で寄生虫的存在であった。

日本人に対して種々の名目で不当な強奪が行われたが、その中には占領軍要員の個人的な金儲

けのためのものもないとは必ずしも言えなかったものがあったのは残念である」(本書)

「SCAPが指導してきた改革と、その改革を指導してきたやり方が、日本人の生活全体に当時

深刻な不安感をかもし出していたのである」(本書)

「共産主義者が権力を奪取するのに、これほど好都合、好条件の舞台装置は滅多にあるもので

はない。

同じこの時期に、日本の共産主義者たちは、政治活動の自由を与えられ、その力を急速に増大

しつつあった。

当時、SCAPがこのような奇怪なことをやっているのは、一つには総司令部内に共産主義者が

潜入していたからだ、との噂がささやかれていた。

マッカーサー元帥は、こういう非難には気づいていた。共産主義者が私たちの話し合いにも加

わっていたということであった」(本書)

ケナンはワシントンに帰り、日本政府に対するSCAPの支配体制はゆるやかなものであるべき

だ、と進言している。勿論、世界情勢を踏まえた上で。

「しかしながら、私がマッカーサー元帥を訪ね、会談し、最後にワシントンから指令が発せら

れたこと、これらが一体となって、一九四八年から一九四九年初めにかけて行われた占領政策

の改革に大きく寄与した。

そして私はこの変革をもたらした私の役割は、マーシャル・プラン以後私が政治上に果たすこと

ができた最も有意義な、建設的な寄与であったと考えている。

これをただ一つの例外として、私はこれまでこのような大きな規模と重要性を持った献策を試

みたことはかつてなかった。

そして、私の献策がこのように広く、ほとんど完全といえるくらいに受け入れられたこともか

つてなかった」(本書)

ケナンの進言によって、それまでの共産主義的な占領政策から、方針を改めさせるきっかけと

なった。さらに朝鮮戦争が勃発したことにより、SCAPは大きな衝撃を受け、アメリカ軍の日

本駐留に反対していた人たちも転向することになる。

「日本の中立化と非軍事化を基礎に、この地域の諸問題について、米ソ間に了解が成立する余

地があるのかもしれないという一筋の希望は、朝鮮戦争によって粉々に破砕されてしまった。

その後、中国で起こる事態が、両国間にこのような了解が絶対に存在しないことを、不幸にも

二重に裏づけることとなった」(本書)

アメリカの第一の重要計画だった北大西洋同盟(NATO)についても言及しているが、当初のケ

ナンは、この条約には反対だった。

「一九四七年末と一九四八年初めにかけて、西側諸国の首都を驚きあわてさせた共産主義者の

行動―フランスとイタリアにおけるストライキ、チェコの激変、およびベルリンの封鎖―

のどれにも、私にとって予期しなかったもの、異常なもにはなに一つ見出しえなかった。

この一連の事件は、いずれも予想された牙の露出であった。

また、この行動に対処するために、われわれがなぜ軍事力を増強しなければならないのか、

とくになぜわが国がヨーロッパ諸国が新しい同盟関係を結ばなければならないのか、私にはわ

からなかった」(本書)

それには理由があって、まとめると次のようになる。

第一に、ロシアは、西側諸国に対して正規の軍事力を行使する意思など持っていなかった。

それなのになぜ、西側が弱くロシア側の強い地域に、直接の関心を向けなければならなかった

のか。

第二に、ケナンは、文書となった同盟条約などにはほとんど何の価値も信頼もおいていなかっ

た。

「現実には危険など存在しないのに、軍事的均衡について必要以上に口ばしり、

軍事的敵対関係をこれみよがしに刺激したりすればいやでも現実的なものとなりかねない危険

を強調して、彼らを今では十分に現実性があり、先の見通しも生まれてきた経済復興計画から

注意をそらそうとするようなことをなぜするのか?」(本書)

本書を執筆している時点でも、今日でも我慢がならない、と書いている。

「当時、国務省にも、とくに欧州局の紳士たちの間には、この同盟をできるだけ広げる

―言ってみれば、ソビエトの国境のできるだけ近くまで同盟国をたくさん作ることを望む傾向

があった。

私の記憶が正しいとすれば、この条約に加入するようスウェーデンに若干の圧力がかけられた

ことさえあった。こういうことは、不必要なだけでなく、きわめて望ましくないと私には思わ

れた。(中略)

またそのような形で、ソビエト勢力の限界が実際に拡大されるという結果を容易に招くことに

なったであろう」(本書)

ただ、晩年に書かれた『二十世紀を生きて』の中では、北大西洋条約と対日安全保障条約は、

両方とも極めて重要な誓約である、と述べているが。

本書の後半では、自身が何度も滞在した経験があるドイツや、ヨーロッパの将来などが書かれ

ている。

「私は戦争終結以後二度ドイツを訪れていた。そのたびに、私の同胞とその家族の大群の光景

をみて、私は文字通りおそろしい気持ちになって帰ってきた。

占領軍は、破壊された国の廃墟のなかで、ぜいたくな営舎生活を送っていた。

彼らは過去の歴史を知らず、自分たちの周囲のいたるところに現代の悲劇の証拠がおびただし

く存在することを忘れていた」(本書)

そして、政策企画本部を退くことになるが、ワシントンでの最後の数か月にも言及し、

この頃、超爆弾と呼ばれていた水素爆弾の存在を耳にし、その報告書を個人的覚書として国務

長官に提出している。これは公表されていないが、ケナンは否定的に次のように述べている。

「潜在敵国がわれわれを痛めつけるためには手段を選ばないだろうなどと考えて、その敵国の

能力だけを基礎にしてわれわれの計画と計算を組み立てたり、またその敵国の本当のねらいを

全体的な問題として考慮することは、正確な判断を狂わせるものだとして、考察の対象から除

いたりした当時のワシントンで支配的だった傾向(ソビエトの原子兵器生産能力がはっきりして

きた現在、それは二重にも重大性をもった傾向であった)とも相容れなかった」(本書)

さらには、朝鮮戦争が勃発し、ケナンは国務長官の事務室での毎朝の会合で、ソビエトの動向

とその意図について解説もしている。

ただ、ケナンを含む多数の専門家たちは、朝鮮戦争が始まる前にソビエトの情勢を徹底的に調

べていて、朝鮮が危ないということは認識していたみたいだ。

「北朝鮮の攻撃は間もなく、ワシントンの非常に多くの人々には、ソビエトが力の行使によっ

てその勢力を世界の他の部分に拡大するための、当時の流行語を用いるならば、「大構想」の

最初の動きの一つにすぎないと思われるようになっていた。

この攻撃の唐突性―事前の警告が全く期待できなかったという事実―は、敵方の意図(敵対的な

ものと見るのが安全というものだ)を抜きにして、予想ずみの敵方の能力だけから結論を引き出

そうとする陳腐な軍事専門家たちを喜ばすだけであった。

このことが、冷戦全般をただ軍事面からだけ考える傾向を強め、ソビエトの意図について特に

慎重に評価することを好まず、また許そうとしない態度をわれわれに押しつけることになっ

た」(本書)

そしてケナンは、

「この信じられないほどの混乱を解きほぐし、これにまつわる種々な要因と問題の真の姿を明

らかにすることのできるのは、後日に世俗から離れ、思いのままに研究に没頭できる外交史家

だけであろう・・・」

と自身のノートに書きとめ、ワシントンを去り、プリンストンに移ることになる。

プリンストンでは、ロバート・オッペンハイマーが高等学術研究所に手厚く迎えたみたいだ。

第Ⅱ巻は、ここで綴じられている。

日本人からしたら第Ⅱ巻のハイライトは、日本について語られている箇所であり、

その占領政策は、ケナンの目から見ても偏った共産主義的な政策であり、占領軍の中には共産

主義にシンパシーを感じている者も紛れており、マッカーサーもそのことを把握していた、

ということを指摘している箇所だろう。

ケナンは、ソ連やその共産主義に批判的なのは勿論なのだが、アメリカに対してもかなり批判

的で、ケナンを通してアメリカの思考パターンなども見えてくるので、それはそれで参考には

なる。


深くしみこんだアメリカ式の考え方によると、われわれの敵方はつねに悪魔的であり、怪物で

あり、計り知れない、不可解なものでなければならなかった。

その敵方が時にはわれわれの行動に反作用的に行動したことを認めて敵方の行動の責任の一半

を負うことを自認するなどということはとても考えられないことであった。

『ジョージ・F・ケナン回顧録 II』ジョージ・F・ケナン

それを当時の大日本帝国やソ連に対して行ったように、現在の中国にも適用されたみたいだ。

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ジョージ・F・ケナン 中央公論新社 2017-01-19