あまり知られていないキッシンジャー の生涯 ②・・・|『キッシンジャー 1923-1968 理想主義者 1』ニーアル・ファーガソン


ヘンリー・キッシンジャーは、復員兵援護法、通称GIビルのおかげで大学に進学することがで

きた復員兵の一人。一九四四年に成立したGIビルは、学ぶ意志のある復員兵の学費を負担する

もので、二〇〇万人以上が利用し、連邦政府の政策の中では戦後期の社会的移動に最も貢献し

たという。これがなければキッシンジャーは働く他なく、ハーバード大学は夢のまた夢で終わ

った可能性が高かった。ハーバードは入学を許可し、その年のニューヨーク市民に与えらえた

奨学金の受賞者にもキッシンジャーを選んだ。帰国したその二ヵ月後には二年生として学ぶこ

とになった。

学問の入り口では師のクレーマーの熱心な後押しを受けている。クレーマーもアメリカに戻

り、ワシントンで陸軍次官補の政治・経済顧問となり、連合国救済復興機関主任研究員の上級

リサーチアシスタントを務めていた。「キッシンジャーは卓越した資質を備えていると断言で

きる」という推薦状もクレーマーは書いている。


ハーバードでのキッシンジャーの友人の数は少なかった。このことを調べた記者たちはその友

達の少なさに驚いているという。しかし、周囲の者は気がつかなかったみたいだが、キッシン

ジャーはハーバードの外で二つの生活を送っていたという。一つは復員兵としての生活。大学

の友人よりも第二次世界大戦をともに戦った者にとって、軍での絆ははるかに大切だった。

学部生時代のキッシンジャーは対敵諜報部隊(CIC)の予備将校でもあり、そちらに余暇のかなり

の時間を注ぎ込んでいた。ワシントンにいたクレーマーを訪ねたこともあった。クレーマとは

手紙のやりとりも頻繁にしている。キッシンジャーのもう一つの生活であるプライベート・ラ

イフはニューヨークにあり、そこに婚約者がいた。長くは続かなかったみたいだが、一九四八

年後半にキッシンジャーはドイツ系ユダヤ人で正統派ユダヤ教徒であったアン・フライシャー

と婚約している。ちなみに、ドイツにいた頃のキッシンジャーはユダヤ教徒でない女性と付き

合って両親をヤキモキさせていた。キッシンジャーは女好きである。つい数年前に来日したと

きに片山さつき氏とニヤケながら手を繋いだ写真を見たことがある。弟のワルターによれば、

キッシンジャーは大学生活の軽薄さには適応できなかったという。ただ生計を支えていたのは

妻だった。

ハーバード時代のキッシンジャー (1950)

ハーバードでのキッシンジャーは、最初の学期にはフランス語、政治、歴史、数学の入門課程

を受講し、それぞれAを取得しているという。しかし、哲学や論理学なども受講したが成績は

芳しいものではなかったという。全体的に学業成績は素晴らしかったが、ずば抜けていたわけ

ではなかった。

キッシンジャーは政治学を専攻する。ファーガソンはなぜ歴史学ではなく政治学だったのだろ

うかという疑問を投げかけている。政治学を専攻するにあたり、指導教官はウィリアム・ヤン

デル・エリオットだった。ファーガソンはこの選択にも疑問視している。

マックス・ウェーバーの弟アルフレートに師事したカール・フリードリヒもいたのにと。

キッシンジャーは政治学部のお役所的な割り当てに従い、エリオットの指導を受けることにな

った。

ウィリアム・ヤンデル・エリオット

人格形成期のキッシンジャーにとってウィリアム・ヤンデル・エリオットは、第八四歩兵師団

の時に知り合ったフリッツ・クレーマーに続く、良い意味でも悪い意味でも影響を受けた師で

ある。クレーマーが第一段階とすれば、エリオットは第二段階にあたる。ファーガソンはキッ

シンジャーが国家安全保障問題担当大統領補佐官に指名されるまで、影響を受けた師を四段階

あることを示している。ファーガソンは「メンター」という言葉を用いているが、個人的にこ

の言葉が嫌いなので師にした。

ウィリアム・ヤンデル・エリオットは早くに父を亡くしているが、一九一七年〜一八年に陸軍

第一一四砲兵連隊に中尉として所属している。その後はヨーロッパに留学して各地の大学で学

び、イェイツらと交流もした。最も影響を受けたのは、スコットランドの哲学者であったA・

D・リンゼイだったという。帰国後はカリフォルニア大学バークレー校で一時期准教授を務め

たのち、ハーバード大学政治学部の講師兼チューターとなる。順調に昇進し、一九四二年には

冠教授(寄付によって創設される特別な教授職)になった。これはハーバードでの通常の教授職

以外では最高の出世であるという。エリオットの評価をさらに高めたのが、一九二八年に発表

された『政治におけるプラグマティストの反乱』であったという。

さらにエリオットは教授が政治的プレーヤーになりうることを体現していた人物でもあった。

エリオットは一九四〇年後半まで、CIA計画本部副部長フランク・ワイズナー(前身のOSS時代

には有能な諜報員だった)の非常勤顧問を務めている。その他にも、民主党下院議員ウィリア

ム・M・コルマーが委員長を務める戦後経済政策・計画委員会のアドバイザーとなったほか、

下院外交委員会および、共和党下院議員クリスティアン・ハーターが委員長を務める対外援助

特別委員会(いわゆるハーター委員会)の事務方としても活動。戦後ヨーロッパの状況に関する

ハーター報告の大半を執筆している。これは、マーシャル・プランの重要な資料となった報告

書。エリオットが初めてリチャード・ニクソンと出会ったのも、この委員会だった。ニクソン

がフランク・リンゼイと、さらにCIAと初めて接触したのも、ハーター委員会の場だった。

そんなエリオットはクレーマーのように、キッシンジャーの才能を見抜いた。キッシンジャー

を西洋哲学だけではなく、古典文学にも導き、ヘーゲルなどと平行してホメロスからドストエ

フスキーに至る幅広い課題を与えている。

キッシンジャーが四年生になる頃には、エリオットは自身の原稿についてキッシンジャーに意

見を求めるようになる。エリオットは、国家安全保障会議の活用を提言してもいたが、エリオ

ットの弟子であるキッシンジャーが、一六年後にまさにこの役割を果たすことになる。

エリオットは早くから大西洋同盟を支持した人物でもある。

「過去三年間の私の精神的成長の多くは、エリオット教授の賜物である。教授の指導は、大学

での権威を笠に着ることなく有望な方向性を示唆するにとどめるものだった」

キッシンジャーの卒業論文「歴史の意味」は、学部生としての最高の成果を誇示すると同時

に、エリオットの影響力を示す揺るぎない証となっているという。ハーバードの歴史に残る作

品となっている。学部生が提出したものとしては最も長く、現行の長さ制限導入の契機となっ

た論文でもあるという。この制限は今でも「キッシンジャー・ルール」と呼ばれている。キッ

シンジャーの論文は三八八ページあった。論文の相当を占めるのはシュペングラー、トインビ

ー、カントについての詳細な分析であり、ホメロス、ダンテ、ゲーテ、ヒューム、スピノザ、

ホワイトヘッドなどが論じられているという。その卒論には「物質主義的な冷たい知性が空想

家の感受性に取って代わるようになると、人生は単なる技術的な問題と化す。社会的な解決や

経済的な万能薬を必死に追求する精神の空虚さを示すものだ・・・」ということも記されてい

る。

ともかく、戦略理論から心理戦の実行にいたるすべてのことにキッシンジャーは魅せられてい

た。それはキッシンジャー だけではなく、一流大学を卒業した連中は、こぞって新たな「グレ

ート・ゲーム」に憧れていたという。キッシンジャーはハーバードを一九五〇年六月二二日に

卒業する。しかし、それから三日後の一九五〇年六月二五日未明、北朝鮮軍が三八度線を越

え、朝鮮戦争が始まる。

キッシンジャーは卒業後に、エリオットを倣いオックスフォードの大学院で政治学を学ぼうと

していたが最終的に断念している。その理由は「残念ならが、国際情勢により私はアメリカを

離れることを許されていない。予備役として、現役復帰を期待されている」からだった。

これは一九五〇年卒業生の多くが抱える現実だった。

キッシンジャーは朝鮮戦争勃発の三ヵ月前に、九〇日間の「現役任務訓練」に志願した。

訓練はボルティモア郊外のキャンプ(のちのフォート)・ホラバードにある対敵諜報部隊(CIC)の

情報学校で行われ、反逆・煽動・政府転覆行為の探知、破壊活動・スパイ活動の探索と防止と

いった内容であった。かくしてキッシンジャーは、心理戦を含む冷戦期の情報活動に、ハーバ

ードではなく陸軍を通じて関与した。

そして一九五一年初めに陸軍オペレーションズ・リサーチ・オフィス(ORO)の顧問となった。

OROは、もとはジョンズ・ホプキンス大学の一部だったが、ワシントンのフォート・マクネア

陸軍基地に本部を置くハイブリッド機関であった。当時進行していたOROのプロジェクト一七

件の一つは「占領地域における軍政府の行動」に関するもので、陸軍はアメリカ占領軍が韓国

軍に与える「心理的影響」のフィールド調査を望んでいた。キッシンジャーは東アジアの専門

家ではなく、太平洋方面で戦った経験を持つ退役軍人のほうが適任だったが、なぜかキッシン

ジャーに白羽の矢が立った。

キッシンジャーはその韓国での任務開始前に日本に立ち寄っている。軍用機のルートの関係

上、東京経由となったためで、東京で専門家、ジャーナリスト、国会議員などから話を聞い

た。一九五一年夏に韓国に入ると、キッシンジャーはいつものように思慮深くアメリカ人と韓

国人を対象に聞き取り調査を実施した。

韓国に関する報告書がうまくいって気を良くしたキッシンジャーは、『どこにでもある前線』

を書いたウィリアム・キントナー大佐に手紙を書き、「極東における心理戦」の一部となる

「日本向けプログラム」の原稿書きを申し出ていたという。

その頃のクレーマーは、アヴェレル・ハリマンの強い推薦により心理戦略委員会のドイツ関係

の顧問となっている。この仕事は、のちに国家心理戦略計画のパネルFに吸収された。ほどな

くキッシンジャーもクレーマーに続いて同委員会の顧問となり、ドイツへ行く機会が得られる

ことになった。数週間ドイツ滞在後に書かれたメモでは、誕生したばかりの西ドイツに広がる

アメリカ不信が分析されているという。キッシンジャーにとって、心理戦とは、人々が語った

不満や怒りのヴェールを剥ぎ、本音を見抜くことを意味していた。キッシンジャーは大学を懐

かしむどころか、軍の情報活動への復帰を心から楽しんでいたという。

そんなキッシンジャーはOROの常勤ポストを提示されるが、一九五二年末までに「ワシントン

での仕事を最小限まで」減らし、OROの顧問からも退いている。そして、最も寛大な庇護者だ

ったエリオットの指導の下で哲学博士の習得を目指すことにした。

その後のキッシンジャーは、一九五四年に博士論文「平和、正統性、均衡(カースルレイ子爵と

メッテルニヒの政治的手腕の考察)」で哲学博士号を習得し、さらにチャールズ・サムナー上院

議員賞も受賞する。同賞は、「戦争防止と普遍的平和を実現する手段または方策を法学、政治

学、歴史学、経済学、社会学、倫理学的アプローチから論じた」という。その年の最優秀の博

士論文にハーバード政治学部から授与されている。この論文は、三年後にほとんど修正なしで

『回復された世界平和』として出版され、キッシンジャーの政治的業績の前奏曲として読み継

がれている。当初は出版してくれる大学出版局はアメリカでは見つからず、名乗りを上げたの

はロンドンの野心的な出版者ジョージ・ワイデンフェルトだったという。今の日本では原書房

から出版されている。

ファーガソンはこの論文に関して深くまで分け入って説明しているが、「軍事力よりも心理的

要因である・・・心理的要因は当時のキッシンジャーにとって主要関心事だった」とも記して

いる。

一九五四年の夏にキッシンジャーは一九世紀初期の外交史研究で博士号をとったものの、その

後何の進展もなかった。ハーバード大学では、博士課程の優秀な学生に、博士論文の完成から

ほどなく准教授の地位が与えられる例が少なからずあった。自身も准教授になれるものと思い

込んでいたが、そうは問屋はおろさなかった。エリオットも併走したにも関わらずである。

シカゴ大学からもオファーがあったが受ける気にはならず、ペンシルベニア大学がよこしたの

は「報酬はよいが地位の低い」オファーだった。キッシンジャーはロックフェラー財団から少

額の奨学金を得てなんとかやりくりし、博士論文を切り分けて専門誌に投稿しようと時間を無

駄に費やしていた。

しかし、その三年後には、核戦略の専門家、ベストセラー作家、トークショーの花形ゲスト、

ワシントンでは議論の的、モスクワでは非難の的となっていったという。

キッシンジャーはアーサー・シュレジンジャー・ジュニアと政治的立場は違っても親しく付き

合っていた。ある時には、シュレジンジャーが持ち歩いていた元空軍長官トーマス・フィンレ

ターからの手紙をキッシンジャーに見せた。フィンレターはアイゼンハワー政権の大量報復戦

略を擁護していたが、これに納得できないキッシンジャーは、「アメリカの政策と予防戦争の

行き詰まり」と題する小論を書き上げる。そして、この小論が戦略研究という新しい領域での

キャリアの第一歩となったという。一九五四年には「軍事政策と〈グレーゾーン〉の防衛」と

題する論文がフォーリン・アフェアーズ誌に掲載され、キッシンジャーは戦略研究という萌芽

期の領域に、公式に名乗りを上げる。

ファーガソンによれば、戦略核の使用を是とする論文がハーバードで博士号をとった外交史の

専門家によって書かれ、フォーリン・アフェアーズ誌に掲載されたのはかなり衝撃的だったと

いう。

その後のキッシンジャーは外交問題評議会にまでたどり着く。ファーガソンによればイギリス

の王立国際問題研究所のアメリカ版に相当するシンクタンクだと述べている。外交問題評議会

の仕事は、象牙の塔を離れて新聞で読むだけだった世界へとキッシンジャー を招き入れた。

そこで名だたる重鎮たちと顔をあわせる。

そして、キッシンジャーはアメリカで最もよく知られたロックフェラーに近づいていく。

ロックフェラーはアイゼンハワーから大統領の特別補佐官として一九五四年にホワイトハウス

に呼ばれ、政権内の相互理解と協力の促進および作戦調整委員会(一九五三年に心理戦略委員会

の後継として設置された)の仕事を任される。さらにロックフェラーは次の一手として「アメリ

カの未来戦略の心理的側面」という研究プロジェクトを発足させる。ここにキッシンジャーは

招かれる。プロジェクトの報告書の提出先は大統領をはじめとする政府高官だが、資金源はロ

ックフェラー兄弟財団であった。ここでもまたキッシンジャーは政界の大物とワシントンで直

接接触することになる。キッシンジャーがロックフェラーから受けた印象は芳しいものではな

かったという。

ロックフェラーを委員長とする「政策企画調整委員会」が新設されると、ダレスは兄とともに

水面下であれこれ工作し、うまいことアイゼンハワーに「アメリカの戦略の心理面」の提言を

却下させる。ロックフェラーは政権を去り、それを知ったキッシンジャーはがっかりし、努力

が水泡に帰したことに腹も立てたという。

一九五七年六月二六日には『核兵器と外交政策』が出版されベストセラーとなる。

ファーガソンはその要因をいくつか挙げているが、その一つに、アイゼンハワーとダレスに対

する批判が効果的だったことを指摘している。

Nelson RockefellerとHenry Kissinger(1975)

Nuclear Weapons and Foreign Policy(1957)

外交問題評議会との契約期間が終わりに近づいてきていたキッシンジャーは、シカゴ大学のオ

ファーを断っている。そんなキッシンジャーに接近してきたのがネルソン・ロックフェラーだ

った。ロックフェラーはキッシンジャーの業績に感銘を受けて、ロックフェラー兄弟財団で新

しい特別研究プロジェクトを率いる仕事をフルタイムでやらないかと持ちかける。野心的なプ

ロジェクトであった。シカゴ大学からオファーなどもあるので断ろうとしたキッシンジャー だ

ったが、ロックフェラーは全部知っていて根回し済みであったという。これにはキッシンジャ

ーは驚愕した。結局妥協して一九五七年三月まで、特別研究プロジェクトを務めることにな

る。

これと他にハーバードから「追い払われる」寸前に新設された国際問題研究所(CFIA)の手伝い

に戻ってこないかと誘われる。政治学部は全会一致で、キッシンジャーを講師として採用する

ことを承認し、期間は三年または四年だった。それと同時に新研究所の副所長にも任命され

る。キッシンジャーがすごいのは、これら二つ以外にもペンシルベニア大学に新設された外交

政策研究所(FPRI)の研究員として契約を結んでいる。

Henry Kissinger(1958)

ロックフェラーのところの特別研究プロジェクトは、キッシンジャーにとって人生観が変わる

ような大きな体験だったという。途中から編集、最後は全体のまとめが仕事の中心であった。

一九五八年一月六日に発表された「ロックフェラー報告」は、世論の動向に完全にフィット

し、本人が驚くほどの成功を収めたという。ハーバードの国際セミナーを除き、キッシンジャ

ーは生まれて初めて大きな仕事の運営管理を任された。

一九五七年七月にはフォード財団の寄付で、ハーバードの政治学部に二つのポストを設けた。

一つはキッシンジャーのためであった。終身在職権付きの准教授。キッシンジャーは大学院の

ゼミで指導するのが好きだったという。さらに学部生も教え、キッシンジャーの「国際政治原

論」は人気の講座だったという。

一九五〇年代後半のキッシンジャーは、第三世界の戦争についてほとんど知らなかった。

しかしそれでも、冷戦下で第三世界の位置付けが次第に重要性を増していくことには気がつい

ていたという。この頃に展開した外交政策批判も、後に政府部内に入り「最高機密」文書に関

与するようになって初めて、多くの点で無知だったと気がついていく。

キッシンジャーがテレビに初めて登場したのは、一九五七年一一月一〇日放送のCBSの「フェ

イス・ザ・ネイション」。日曜午前の報道番組であった。本書第1巻の末尾には、一九五八年

七月に行われたABCの三〇分のインタビュー番組でのやりとりを活写して閉じられている。

下の画像はその時の様子を写したものだが、この時のインタビューは今でもC-SPANで視聴す

ることができる。

Mike Wallace interview with Henry Kissinger(1958)

政治信条としての理想主義をキッシンジャーが最も明確な形で表明したのは、一九五八年にマ

イク・ウォレスのインタビューに応じたときである。

このときキッシンジャーは、アメリカが「世界の中でもっと思想的攻勢を仕掛ける」べきだと

し、アメリカは自分たちをポスト植民地時代の革命家と考えるべきであって、反革命勢力を気

取るべきではないと述べている。

『キッシンジャー 1923-1968 理想主義者 2』ニーアル・ファーガソン

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