日本人の忘れもの・・・| 横井小楠『国是三論』


明堯舜孔子三代之道。盡西洋器械之術。何止富国、何止強兵。布大義於四海而己。

「録ニ語送左大ニ姪」横井小楠

文化六年(一八〇九)熊本城下内坪井町に生まれた横井小楠は、ペリー来航の嘉永六年(一八五三)

には数え年で四十五歳。暗殺されたのは明治二年(一八六九)数え年六十一歳であった。

研究者によってまちまちであると思うが、幕末というのは、ペリー来航(一八五三)から明治維

新(一八六八)のわずか十五年間を指すことが多い。藤田覚氏『幕末から維新へ』のなかでは大

きく二つに分けて、第一段階は十八世紀末からペリー来航直前までの約五十年間、第二段階は

ペリー来航から維新までの約十五年間として、より広義に捉えている。

幕末・近現代史が専門であり、元内閣官房参与(東アジア外交問題担当)を務めた故・松本健一

氏は、幕末に活躍した志士たちを『宋名臣言行録』(朱熹)に当て嵌め、独特な見方を提示して

いる。これは個人的にも好きな見立てで、佐久間象山の箇所でも紹介した。

能く見る、一なり。見て行なう、二なり。当に行なうべくんば必ず果決す、三なり。

一の「能く見る人」が、思想家の佐久間象山と横井小楠。二の「見て行なう人」が、見者にし

て実行家の勝海舟や高杉晋作や坂本龍馬。三の「果決の人」が、西郷隆盛や大久保利通。

松本氏の見方に従えば、幕末の志士の多くは、この佐久間象山と横井小楠のどちらかの弟子、

もしくは、松蔭や龍馬のように両方の弟子だった。小楠と象山はほぼ同世代だが、小楠が二つ

ほど上である。小楠は薩摩藩主であった島津斉彬と同い年であった。

そんな小楠に関しては勝海舟が恐れたのは有名だが、元田永孚、井上毅、三岡八郎(由利公正)

が慕い、吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬が面会に訪れた。川路聖謨、藤田東湖、橋本左内と交

わり、桂小五郎が「横井の舌剣」と惧れ、松平春嶽(慶永)、岩倉具視が頼りにし、一橋慶喜が

感心した。若き日の明治天皇は小楠の暗殺に「大に驚きたまひ」、治療費を下賜した。

松蔭は物凄く書くことが好きで、若くして亡くなったのに、大判にして十巻にもなる分量の全

集を遺したが、小楠は一生の間、書いたもの、述べたもの、手紙を含めて少量しか遺されてい

ない。小楠は自分が講義をしている時に、学生達がそれを筆記するのが大嫌いだった。

そういう点では自分が書いたものをいちいち記録に残すという事をあまりやらなかった。

そういうことはあまりやらなかった小楠であるが、大変な大酒呑みで数々の失敗談は遺されて

いる。これも小楠の魅力の一つであると解釈している。

なので体系的に書かれたものは遺されておらず、江戸思想や日本文化論が専門で、小楠研究を

50年にわたるライフワークとしてきた源了圓氏の言葉に直すならば、「小楠の思想というの

は・・・非常に魅力があるけれども研究の対象としては余り楽な対象じゃありません。分かっ

たようで分からない。難しいんです」(『横井小楠研究』)ということになる。

そんな捉え難い小楠ではあるが、本書は代表作として四篇を選び収録されている。

小楠の代表作として謳われ、越前藩の藩政改革を述べた『国是三論』(万延元年・1860)、

新政府について構想を発表した『新政に付て春嶽に建言』(慶応三年・1867)の政策論二篇。

若き日の井上毅(時習館の居寮生)が、沼山津にいた小楠の意見をたたきそれを筆記した『沼山

対話』(元治元年・1864)、若い時に小楠に師事した元田永孚が、沼山津にいる小楠を訪ね、小

楠の発言だけを筆記した『沼山閑話』(慶応元年・1865)。

この二篇は晩年の小楠の思想をまとめたものとして貴重なものとなっている。

そして最初に断っておきたいのだが、横井小楠という傑物は“これまでの日本”−特に幕末とい

う非常で特異な時間−において大変重要で貴重な存在であったが、“これからの日本”にも小楠

が研磨したその思想が活かされるべきであると強く感じている。

ですので、小楠の生涯に迫りながら『国是三論』に収録されている四篇を捉えるように心掛け

た。そうしたものですから分量もかなり長くなってしまった。もし、お読みになられて、小楠

の真意や真骨頂や醍醐味が伝わらなかったとしたら、それはすべてぼくの責任にあります。

予めご了承ください。

横井小楠 文化6年(1809)-明治2年(1869)

先述したように横井小楠は、文化六年(一八〇九)熊本城下内坪井町に生まれた。

名は「時存(ときひろ)」、通称は「平四郎」。父は大平(時直)、二つ上の兄は左平太(時明)。

横井家は、鎌倉最後の得宗執権北条高時の二男、北条時行の系統となっている。

歴史の流れの中で姓を横井に変え、尾張・肥後ともいくつも分家があり、そのどれもが「時」

を通字としている。父の大平は肥後藩の中級役人であり、勤勉で諸役を歴任したが、天保二年

(一八三一)五十三歳で病死する。その後兄が家督を継いだ。小楠二十三歳の時である。

横井小楠生誕地と「清正公井」跡

「異斎」や「沼山」などの号もあるが、世間に流通している「小楠」という号は、楠木正成(大

楠公)に倣って「小楠」という号をつけた。使用し始めるのは三十代半ば以降であるが、その当

時の小楠は気概に富み、熱烈な「攘夷」論者でもあった。

小楠は幼い頃から聡明機敏で、たびたび周囲の人々を驚かせたという。後世の小楠を思えばす

ぐに納得する。

熊本城下町の南田迎の騎射場に通っていた時に、実学党の同士となる下津久馬(休也)と出会っ

た。久馬とは時局を語り、将来国事の振興に当たろうと固く誓った。驚くばかりである。

小楠が藩校時習館に通ったのは八歳の頃であった。

学業は進み、成績最優秀ということで藩主からしばしば紋付や賞金を下賜されたという。

そんな時習館では、学生のうちで特に優秀のものを選抜して居寮生として、校内の寄宿舎に入

れて人材の育成を図った。小楠も居寮生に選抜され、城内二の丸にあった時習館中の菁莪斎(せ

いがさい)に寄宿して、昼夜、学に勤しんだ。天保八年(一八三七)の二十九歳の時には居寮長と

なる。そこでの小楠は文字章句の暗誦だけでなく、史書を深く読み、中国の廿二史や古今の歴

史を読み耽った。歴史を語る時には、自分が実際にその場に立ち会ったかのような臨場感があ

り、常に常人を驚かしたという。

時習館跡

順風満帆に己の道を歩んでいた小楠だったが、居寮生となった二年目の天保六年に、時習館訓

導阿部仙吾宅が放火によって全焼するという事件が発生する。そしてその犯人捜査がきっかけ

で、藩士の子弟や近郷の百姓等による一大反乱計画が明らかとなる。文政年間から天保にかけ

ては凶作が酷かった。藩の政治に対する不満が充満していた。

危機感を抱いた藩では、子弟の爆発を防ぐために時習館改革を計る。小楠もそれとは無関係で

はなかった。

この事件は時習館はおろか藩全体にも非常な衝撃を与えた。そりゃそうだろう。

そしてこのような事件を未然に防ぎ、藩士子弟の爆発を押さえるために時習館を改革しようと

乗り出すことになるのだが、そこで白羽の矢が立ったのが、天保七年に江戸詰から帰ってきた

家老の長岡監物(米田是容)であった。後に絶交することになるのだが、小楠と肥後実学党の中

心となる人物。

長岡監物は、中老の平野九郎右衛門や、先程触れた小楠と幼なじみでもある奉行の下津久馬と

協力して、時習館改革を進める。そのようにして時習館改革に内側から応えたのが、居寮生で

天保七年に講堂世話役から居寮世話役へ進む横井小楠だった。そしてここに、後に肥後実学党

を結成することになる長岡監物、下津久馬、横井小楠がつながる。三人の改革構想は、居寮制

度に的がしぼられ、選抜入寮制に切り替えた。そしてこの新制度の初代居寮長になったのが横

井小楠であった。そうして元田永孚がその年の夏に「学才志行」をもって選抜されて居寮生と

なり、続いて荻昌国(おぎ・まさくに)も加入して元田と同室に起居した。ここに実学党の中心

メンバーが出揃うことになる。

ちなみに元田は居寮長だった小楠のところへ挨拶し、学問の方法を問いたことがある。

小楠は元田に対して、歴史から直接学びとって、政治家としての器量を養い、文章も学ぶべし

と諭した。小楠二十九歳、元田二十歳の時であった。

しかし、居寮長としての小楠の評判は芳しいものではなく、退寮者が続出していた。

そのことは元田の『還暦之記』でも指摘され、細川家の史料によっても裏付けられているとい

う。実際のところは判断し兼ねるが、細川家の史料によれば「惣じて平四郎(小楠)方は酒を好

み申され、酒後些か気荒の由にて・・・」などと記されているという。

そして、そこにすかさず横槍をいれたのが、反対派の家老である松井の一派だった。

松井の一派は監物等の責任追及を続け、天保十年の二月、奉行の下津休也を辞任させ、次いで

三月、小楠は居寮長を辞めさせられた。監物も文武芸倡方を務めていたが、それも解任させら

れる。小楠は居寮長罷免と同時に、江戸遊学の命令を受ける。

天保十年に思い掛けず学問の中心地であった江戸に出た小楠だったが、林大学頭、佐久間象山

が学んだ佐藤一斎、渡辺華山が学んだ松崎慊堂(まつざき・こうどう)などの儒者、幕臣で勘定

吟味役だった川路聖謨と交際する。なかでも水戸藩の藤田東湖とは親しくなった。

小楠は前年の天保九年居寮長時代に書いた『寓館雑志』に水戸の徳川斉昭を批評して、わが藩

の霊感公に似ているのではないかと書いていた。当時の水戸藩は諸藩の間の政治的な中心だっ

た。東湖を訪問した際には漢詩を詠んでいる。

佐藤一斎と松崎慊堂(晩年) 筆・渡辺崋山

藤田東湖と川路聖謨

天保十年の暮れ、東湖は江戸に来ている諸藩の友人を招いて宴を張った。そこに小楠も招かれ

る。今でいう忘年会みたいなものだ。年が明ければ水戸に帰るので別離の宴の意味もあった可

能性もある。ここでの席上も小楠は長い漢詩を詠んでいる。しかし、宴会の席では相当量の酒

を呑み酔っぱらっていた。そしてこの宴会の帰り道、他藩の誰かと喧嘩をし、それがもとで翌

年初めに遊学を取消され、帰国を命じられることになってしまう。江戸詰奉行の名で正式に帰

国命令が出たのは、天保十一年二月九日のことであった。酒の上の過失を咎められて逼塞の処

分を受けたが、江戸での言動全体が疑惑の対象だったという。

そんな小楠は、天保十一年三月三日に江戸を出てゆっくりと帰国する。

居寮長のポストを失い、今度は遊学生の身分も失った。結局兄に寄りかかり生活していくこと

になる。しかしこの期間は、小楠の思想が全国的に影響力をもつ独自なものに育つ転機とな

り、この後数年間のうちに思想形成の母体となった肥後実学党も誕生することになる。

江戸から不名誉の帰国をした小楠だったが、兄の家の六畳の一室に謹慎する。

この時に小楠は、朱子によって高く評価された宋の程氏兄弟の兄にあたる程明道の「物就於用

不是(ものようにつくはぜならず)」という言葉に触れて、考え込むようになる。部屋の行灯や

襖に「物就於用不是」といっぱい書いて、毎日これを眺めながら、いったいこれはどういう事

かと考え続けたという。さらに朝鮮の李退渓の『自省録』を読んで自己の功名心を反省し、経

学(哲学)を基礎から学び返さねばならない必要を痛感した。そしてその経学のうち陽明学は偏

であるとして程朱の書の中に聖人の道はここにあるという確信をもつように変わっていった。

源了圓氏に従えば、「失意の中に思索と勉学を重ね、朱子学に転向した」(『横井小楠究』)時

期であった。小さかったかもしれないが、ある種の「悟り」を開いた。

ここが小楠に幾つか訪れるターニングポイントの一つである。

荻生徂徠『政談』『鈐録』、熊沢蕃山『集義和書』『集義外録』、『宋名臣言行録』などは、

当時の時習館の学生たちの共通の必読書であった可能性が高い。元田もこれらを通読して道理

の帰するところを求めたと『還暦之記』に記している。その元田は小楠が居寮長を去った後も

しばらく菁莪斎にとどまっていたが、後任の居寮長には心服できず、同室だった荻昌国ととも

に、天保十二年の二十四歳の時に寮を退いた。

小楠に話を戻せば、先程も触れたようにこの逼塞中に読んだ李退渓『自省録』や程明道の著作

は、小楠の関心を外的世界から自己の内面のあり方へと向かわせる大きな意味をもっていたと

源了圓氏は指摘している。

程明道(程顥)と李退渓(李滉)

荻生徂徠 (寛文6年(1666)−享保13年(1728))と熊沢蕃山 (元和5年(1619)−元禄4年(1691))

そしてその後まもなく、天保十二年には『時務策』を書いて、肥後の藩政を批判していく。

その『時務策』では、第一に、節倹について根本的に考え方を改めろとした。要約すれば、藩

財政などの手元が苦しいために一般士民に倹約を強制し、余裕分を藩政府がまきあげようとす

るものだったが、それを小楠は批判した。

第二に、貨殖の政をやめろと訴えた。肥後藩では、細川重賢の宝暦改革(十八世紀半ば)以来、

藩営金貸で藩の収入を確保することが始められたが、これは「貨殖の利政」であり、今日の大

弊害である。菅府を富ますのが富国だと考えるのは大変な間違いで、領内士民の利益になる道

を世話するのが富国の道なのだから、貨殖局などの諸機関はすべて撤廃しなければならないと

訴えた。松浦玲氏は『横井小楠』の中で、二つの点で重要だったと指摘する。一つは、宝暦改

革の名君として肥後で絶対的権威であった細川重賢の政策をはっきり批判したこと。

二つ目には、上を利するのではなくて下を利するのが富国だという考え方がすでに形成されて

いたこと。小楠はこの時点で、下の利益こそが本当の富国だという、この後の全生涯を通じて

維持される思想が展開されている。傑物・横井小楠の面目躍如といったところだろう。

それから二年後の天保十四年(一八四三)、いよいよ「実学の権輿(けんよ)」となる。実学党の発

足である。その集団は、肥後細川藩の家老の一人である長岡監物、三十二歳、下津久馬、三十

五歳、荻角兵衛(昌国)、三十歳、元田伝之丞(永孚)、二十六歳、横井小楠、三十五歳という構成

から成り立っていた。

五人の学問的立場は基本的には朱子学であったが、その思想は当時の日本や肥後藩の直面する

課題を解くという観点から読み解こうとする態度で朱子やその周辺の人々の著作を学んでいっ

た。さらには政治的には後期水戸学に通ずるところもあり、当時の政治状況においては改革派

であった。先ほども触れた肥後藩の筆頭家老・松井佐渡を中心とする主流派は、藩政だけでは

なく、藩校時習館の中枢部を占める一大勢力であり、その学問は朱子学を古学派の文献実証主

義的精神で研究するものであった。それに対して実学党の人々は、テキストの意味を正しく理

解するだけでなく、それを現実の課題解決に資するものとして理解した。そのため、多くの時

間を討論のために費やす必要があり、講学の熱気は弥増しに増していった。

実学党のスタンスをもっと分かりやすく言えば、朱子学の哲学的側面理解するだけではなく、

その現実的諸課題解決のヒントを得ようとして、真剣に率直に“討論”を闘わす自分達の講学の

態度こそ「修己治人」の教えにかなう真実の学問(実学)であるとした。

長くなるので詳しい説明は省くが、源了圓氏は、この当時「公論」という言葉は使われていな

いが、ここに「体験としての公論意識」と名付けるに値するものであろうとしている。

なので、藩や主流派の人々はこれを喜ばず、「横井の平四郎さん実学めさる。学に虚実がある

ものか」と揶揄し、このグループを「実学党」「実学派」と名づけ、これと交わりを絶った。

小楠の朱子学は肥後実学派の先蹤大塚退野(一六七六−一七五〇)、また退野が大きな影響を受

けた李朝朝鮮の大儒李退渓を通しての朱子学であった。

退野はその著作を通じて小楠に初めて「為己の学」の何たるかを教え、また「実心」というこ

とを教えてくれた。そんな退野には平野深淵(一七〇六−一七五七)という弟子もいたが、小楠

が退野を学んだ後に深淵の作品を読み、それを通して「堯舜三代の治」ということを教えられ

たという。ここもキーポイントだ。

二人とも優れた経世論者であったが、それを現実に生かす機会がなかった。小楠によって初め

て自己の考えを幕末日本の中で現実に生かすことができた。もちろんそのままの形ではなく、

小楠の経験や学習、そして小楠の思慮の中で新しい形で生かされた。

源了圓氏は、退野ならびにその弟子たちを第一次肥後実学党と仮称している。退野は陽明学的

概念を取り込んだ朱子学者であり、小楠も非自覚的に陽明学を通過し、内に取り込んだ朱子学

者として捉えられる。ちなみに、晩年の小楠は朱子学や陽明学にも捉われないで、両方の良さ

を生かす自由な立場に立った。

実学党の五人衆は、期せずして同じ志向の人となっていた。

まず初めに長岡監物が横井、荻、元田を呼んで『通鑑綱目』を読み始めた。史学の得意な小楠

がチューター役だった。監物は自分の不得意な史学を学び始めた。そこで小楠は自分が経学が

不得意だからと言って、長岡に就いて経学を学ぼうではないかと首唱し、『近思録』の会読を

始めることになる。この折の参加者は長岡、下津、小楠、荻、元田の五人であった。

これが幕末の肥後熊本藩における実学の始まりである。

実学党は天保十四年(一八四三)に始まったというのが今日の定説になっているが、この派が勢

いをもち、熱心な講学が行われたのは、弘化四年(一八四七)までの四年間であった。結成後一

年たった弘化元年(一八四四)頃から実学派に加わる者が激増していた。しかし、これを見た藩

の主流派が脅威を感じ、捲き返しを計り始めた。

主流派にチャンスを与えたのは、弘化三年(一八四六)の幕府による水戸藩弾圧であった。

彼らは、熊本実学派は後期水戸学派と気脈を通じ、斉昭を盟主とする水戸藩と連動する集団で

あるとみなし、これを圧えこまないと幕府との関係もまずくなると考えた。監物は家老を辞す

ることにもなる。

さらに監物の家老たちが、主君監物がここに至ったのは、小楠が主君の道を誤らせた為である

と信じ、小楠を討とうとする動きも出る。監物邸におけるこれまでの熱気ある講学は中断せざ

るを得なくなっていった。

しかし、その頃小楠はそれとは別に私塾を開いていた。いわゆる「小楠堂」の端緒である。

一番最初に入門したのが惣庄屋の嗣子徳富一敬、二番目も同じく惣庄屋の嗣子矢島源助であっ

た。徳富一敬は徳富蘇峰・蘆花の父である。

弘化三年(一八四六)には、それまで水道町にいた横井家は、相撲町に移った。そうして、転居

翌年の弘化四年には、粗末な普譜ではあったが家塾が新築されて「小楠堂」と名付けられる。

小楠三十九歳の時である。監物中心の実学党が挫折したちょうどその年に、小楠の家塾は発展

を見せていた。このあたりを境に、実学党は監物中心から小楠中心のそれへと切り替わってい

く。ただ、肥後藩の一般藩士の師弟が小楠塾に近づくのは難しかったといわれている。

小楠門下の四天王といわれた嘉悦氏房は、母の支持で父が寝てからこっそりと小楠のところへ

通い、もう一人の四天王であり、明治になって愛知県知事や北海道長官を務める安場保和にも

同様の話が伝わっているという。

しかし、肥後藩士より抵抗が少なかった藩外からは、隣の柳河藩の入門が多かった。小楠の実

学のことを柳川では肥後学と呼んだ。ことに重要な役割を果たしたのが、明治の柳川で教育に

尽くす池辺藤左衛門であった。小楠は後の安政年間ハリスとの日米修好通商条約締結問題が大

詰めに来た時期、この池辺を通じて柳川藩中枢部に結びつき、江戸の中央政局を動かそうとす

る。

嘉悦氏房(かえつ・うじふさ)と安場保和(やすば・やすかず)。安場の弟子は後藤新平である。

九州以外の土地から早い時期に小楠の門を叩いた人物として、記録がはっきりしているのは越

前福井藩の三寺三作(みでら・さんさく)であるという。小楠堂を建てた二年目の嘉永二年(一八

四九)のことだった。薄くではあったが、ここに越前藩との繋がりができる。

三寺は藩主松平慶永(のち春嶽)に、藩の政教刷新に関する建白をしたところ、慶永はその内に

あった天下の大儒を招いて学校を興せという案を受け入れ、遊学しながら「朱学純粋の儒者」

を探すよう命じた。

その三寺は嘉永二年の十月に熊本に来たが、京都の梅田雲浜から長岡監物の家臣笠隼太宛の紹

介状を持参していた。

笠はなぜか監物のところではなく、小楠の方へ連れていった。福井から遥々熊本にまで足を運

んだ三寺は、約二十日間、小楠の塾に滞在した。師礼をとったという。

小楠の方では別れにあたって、このころ小楠が特に尊重していた朝鮮の大儒李退渓の言葉を書

き与えた。三寺は非常な感銘を受けて福井に帰国した。

そして嘉永四年に、小楠は北陸路福井を含めた西日本各地の旅行を試みる。

旅の共は徳富一敬の弟の一義と笠の子供左一右衛門だった。岡山では池田光政の偉大さに認識

を新たにし、京都では梅田雲浜の世話になり、大阪では適塾にいた越前藩の橋本左内にも面会

した。名古屋では横井家の総本家があり挨拶し、越前福井には長期滞在し、越前を代表する朱

子学者吉田東葟と連日のように「学話」が続けられ、この時に三岡八郎(由利公正)が小楠の講

義を聞いた。藩主松平慶永は参勤出府中で不在だったが、慶永の人柄や君臣関係の情報も得て

いた。帰路では長州藩の藩校である明倫館を見学し、吉田松陰は江戸に出て留守だったので会

えなかった。柳川では立花壱岐と夜を徹して語りあい、久留米では真木和泉守と話し込んだ。

梅田雲浜と橋本左内(筆・島田墨仙)

熊本に帰国した小楠だったが、越前の儒者たちとは交流を続けていた。

そんな越前から学校について意見を求められ、嘉永五年の三月に『学校問答書』が書かれる。

これはペリー来航の直前、四十四歳の小楠が到達した思想の一局面が鋭く示されている。

『学校問答書』は「自問自答」で会話形式で書かれた「人材教育論」。小楠の他にも人材論を

説いた者もいるが、小楠を他の人材論者と区別させたのは、小楠が、人材を育成しようとして

学校を興さなかった明君はいなかった、しかしそれにもかかわらず学校から傑出した人材が出

た試しがない、という自己矛盾的事実を直視したところにあった。

学生たちは、自分こそが政治に有用な人材だと競いたち「己の為め」(『論語』憲問篇)の学問

という根本を忘れて政治運用の枝葉末節に走っている。これは「人材の利政」ではないか、と

小楠は説いた。小楠は「講学」を核として政教一致・学政一致を展開した。それは実学党の中

での「講学」「講習・討議」の過程で何らかの「公儀」が生まれる−この段階では小楠は「公

議」という言葉を使っていない−という原体験を藩という組織、さらには「国」という組織に

広げ、それらの集団に「学校」という教育機関をつくって、それを「講学」の場とするという

考え方が形成された。そしてこの学校は「教育」の場であるとともに、「公論形成」の場であ

った。ここでの「講学」・「講習・討論」は「公議」を生み出す唯一の手続きであり、政治改

革の原点であった。そのように源了圓氏は鋭い仮説をたてている。その通りだと思う。

松平慶永(春嶽)はこれを読んで非常に喜び、ここで小楠を招聘する決意をかためたと言われて

いる。後に福井を訪れた高杉晋作は、小楠の『学校問答書』と『兵法問答書』を筆写した。

ちなみに、高杉は小楠を長州に招くプランを練っていた。

松平慶永(春嶽)

嘉永六年(一八五三)にペリー艦隊が来ることを幕府は知っていた。前年にオランダの通報があ

ったからであった。その情報が洩れ小楠も知っていた。

ペリー来航の半年前の嘉永六年の正月に、小楠は『文武一途の説』という論文を書いて福井藩

に送っている。このなかでは、武だけによって国を興すことを警戒し、武は大切であるが、あ

くまで儒教国家の政治方針に従う武力でなければならなかった。

ペリーに続けてロシアの使節プチャーチンも国書をもって長崎にやってきた。江戸遊学の時に

知り合いになった幕吏・川路聖謨が交渉にあたった。吉田松陰は江戸で佐久間象山に激励され

プチャーチンの船に乗り込み密航しようとしたのは有名な話だ。

その松蔭が熊本に立ち寄った。宮部鼎蔵と同道して小楠を訪問、荻昌国も加わって話し込ん

だ。小楠の方からも松蔭の宿へ出かけ、この時には三回面会している。

小楠も川路と会うために長崎に行くが、プチャーチンも川路もそこには居なかった。

そこで小楠は書いていた『夷虜応接大意』を川路に渡すよう長崎奉行に頼んで帰国する。

『夷虜応接大意』では、アメリカやロシアの施設に応接する基本原則は「天地仁義の大道を貫

く条理を得るに有り」とし、「有道の国は通信を許し、無道の国は拒絶する二ツ也」と論じ

た。アメリカを拒否せよと、ペリーに関しても有道の国ではないと判定した。しかし、後に

『海国図志』を読んで、西洋列強に対する認識が変わる。特にアメリカに対してだ。

マシュー・ペリー(1794-1858)とエフィム・プチャーチン(1803-1883)

吉田松陰

ペリー来航の四ヵ月前に小楠は、数え年四十五歳で初めて結婚した。妻の名はひさ子である。

翌安政元年七月、兄で横井家当主だった時明が病死してしまう。兄の長男(左平太十四歳、次男

大平は五歳)がまだ幼かったため、小楠が兄の養子になって家督を継いだ。翌安政二年、小楠を

当主とする横井家は、城下を東へ二里ほどの沼山津に転居した。この頃小楠の身近にいたのは

医学修行生であった内藤泰吉であった。

小楠が引っ越した沼山津の家は、風光明媚で景色が良かった。そこで小楠は、四季様々に変化

する風光を愛でてこの家を「四時軒」と名づけた。しかし、沼山津転居後間もなく、生まれた

ばかりの男児、妻ひさ子が相次いで亡くなった。翌安政三年、小楠は後妻を向かえる。小楠門

人の矢島源助の妹つせ子である。翌年には後に同志社第三代社長に就任する時雄が生まれてい

る。ちなみに、つせ子の妹は徳富一敬に嫁していた。

四時軒。2016年熊本地震で大きな被害を受けた。公開は2021年度中を予定しているという。

四時軒の隣には横井小楠記念館が併設されている

安政二年(一八五五)は小楠の思想においても転機となり、交友関係においては長岡監物と不帰

の関係となった重要な年である。小楠四十七歳の時である。

まず後者の長岡との関係は、「明徳新民」の解釈で一週間論争し絶交してしまう。

「明徳新民」は−陽明学では新は親、民に親しむ。朱子学では民を新たにする−従来の伝統的

な解釈では、支配者・為政者が自分の中に存在する明徳という持って生まれたある根源的な一

つの徳を明らかにすると、それは周囲にだんだん拡がっていく。それは世の中を感化して、全

ての人がその感化を受けながら優れた生き方をするようになり、善い社会が実現されるという

朱子学の伝統的な解釈。しかし小楠は、その伝統的な解釈に反対して、新民という事が基本で

あり、民が現在非常に苦しんでいる、民の為にどうするか。そういう事を本気で考えた。

そしてそれらをやる事を通じて支配者・為政者というのは、いつの間にか自分の中に明徳とい

うのが身に付いていく、というように今迄とは全く違う解釈をした。

結局お互い論争して、長岡とはそこで「これ以上議論しても仕方が無いから、我々はもうこれ

から交際をやめよう」ということになった。小楠は常に、新民の為に儒教の基本的な概念の解

釈の仕方を変えながら、儒教の枠の中で、色々な自分の直面した問題を考えていこうとする。

そうして自分の孤独の道を歩き始める。

そしてもう一つの「思想の転機」というのは、この年に小楠は魏源の『海国図志』を読んで、

今迄の攘夷論から開国論へと転向したこと。小楠自身はこのことについて記録を遺していな

い。根拠とされる記録は小楠の弟子であった内藤泰吉『北窓閑話』と元田永孚『還暦之記』。

松浦玲『横井小楠』では、この頃の小楠の対外認識は、開国論に転向したことと、以前から基

底していた有道・無道の二筋ある事を示されている。

『海国図志』は清末の道光二十二年(一八四三)、魏源(一七九四−一八五七)の手によって編まれ

た世界地理の本であり、世界各国の歴史、政治、経済、宗教、教育についても記されている世

界事情でもあり、冒頭には魏源の書いた「籌海篇」がおかれ、軍事・外交が論じられている。

最初に刊行されたのは五十巻本であったが、その後立て続けに改訂増補して六十巻本、百巻本

が出版されている。日本に入ってきたのはこの六十巻本と百巻本であった。

日本で出版された経緯は省くが(川路聖謨の行動が素晴らしかった)、小楠は「籌海篇」「アメ

リカ篇」「イギリス篇」「ロシア篇」の四篇を読んだことは確か。しかし、佐久間象山や橋本

左内のように藩から貸して貰えるということは難しかったと思われ、自分が重要だと思われる

篇だけを読んだ可能性がかなり高いという。源了圓氏はそのように推察されている。

ちなみに小楠は、ケンペル『鎖国論』を天保十年(一八三九)の秋、江戸で読んでいる。

同書に関しては滝沢馬琴や渡辺華山、勝海舟なども読んでいる。

小楠は『海国図志』を通じて、西洋諸国がキリスト教を奉ずる「政教一致」の国であり、この

ことによってそれらは有道の国であるとともに、政治的にも経済的にも発展した文明の国であ

る事を知った。この解釈が第一段階。『海国図志』を読んだことによって西洋に対する認識が

変わったが、小楠はさらにそれを熟考させ、後の『国是三論』や西洋諸国の善悪両面を捉えて

井上毅との「沼山対話」、元田永孚との「沼山閑話」で結実される。後者二篇の時には等身大

の西洋像をつかみかけている。長くなるがそれらに関しては追々書く。小楠は橋本左内のよう

な日露同盟論、反対の日英同盟論もとらず、当時平和政策をとっていた唯一の国である米国と

協力して世界平和の実現を図ろうという独自の解釈にたった。

魏源と『海国図志』(光緒2年(1876)刊のもの)

その後の小楠は越前に行く。しかし、その交渉は難航した。

越前藩より招聘の交渉のため村田氏寿が来訪し、小楠は承知したが肥後藩が拒否して難航し

た。松平慶永が細川斉護に宛て再度直書してようやく許可がおりた。小楠は福井へ入る前に京

都で橋本左内に会っている。越前藩に登用された小楠の仕事は、会読の指導から始められ、日

が経つとともに盛んになっていった。小楠の旅館でも会読が始められ、熊沢蕃山『集義和書』

の会読には、重役陣も出席し、いつも明け方まで討論しあって、「憂愁中の楽事」だとみなが

喜んだという。熊本でやっていた事をそのまま越前で実行した。

しかし、母の実家に養子に行っていた実の弟が亡くなり熊本に一時帰国する。

その道中まで三岡八郎(由利公正)が付き添い、宿に泊まるとみんな早く寝かせたあと三岡だけ

呼ばれて、夜半過ぎまで講習していたという。沼山津に着いた時には元田と久々に再会した。

その翌年の安政六年(一八五九)に福井へ帰任する。この年の夏には長岡監物が熊本で亡くな

り、年末には沼山津の母が亡くなった。小楠は急いで一時帰国するが、その時には亡くなって

いた。そして万延元年(一八六〇)二月に再び福井へ帰任する。

この三度目の福井滞在時に『国是三論』が唱えられる。それは長崎貿易など藩の「利政」と

「仁政」をめぐる討論の過程で『国是三論』は生まれた。この前後には安政の大獄で越前藩の

いろんな政治上の政策決定の中心にあった橋本左内が亡くなっている。その後小楠がその役割

を引き継いだともいえる。そしてここで『国是三論』を打ち出す。これは直接的には越前藩の

「国是」としているが、その内容は日本国の「国是」を論じたものとなっている。

その『国是三論』は、(天)富国論、(地)強兵、(人)士道、の具体策が論じられている。

「富国論」は、海外貿易を目指し、半官半民の産業を興すことが主眼に置れている。

幕府が徳川家の安定のみを考えていて、天下人民の幸福というものを顧みておらず、これでは

ペリーが日本のことを「無政事」の国だと侮ったのも当然だ、と幕政批判を展開している。

小楠はまず鎖国をよしとする者の立場に立って、開国をすることにどのような害があるか検討

する。そして、鎖国の害はないのかという問題を提起し、自らその問いに答えていく。

小楠は言う、鎖国は二百年余りの「染習」となっているので、その害は最も大であるが、誰も

みな鎖国が害であることに気付いていないと。小楠はこの問題を根本的に解決するためには、

「公共の道」を以て国を開き、積極的に交易する以外にないと述べている。

そしてその後に、越前藩の経済政策を論じている。それは日本国を念頭に置いての経済政策で

あった。小楠はこの文脈の中で租税軽減なども述べているが、具体的な越前藩の政策として

は、港に大問屋を設けることなどを提唱している。

交易をするのには、売却すべき品物をつくる費用が要るが、藩にはそれだけのお金がない。

そこで小楠は一万金(藩札)をつくってこれを民に貸して養蠶(ようさん)の料に宛て、出来上がっ

た繭糸を官に納め、官はこれを開港場(長崎)にもっていって洋商に売り、一万一千金の正金を

得る。たった数ヵ月のうちに藩札は一万円は正金一万円となり、加うるに千金の利益を得る。

そしてただ、繭糸だけではなく、民間の生産品をこの方法でつくり出すことも提唱している。

この小楠の考えは三岡八郎らによって越前藩で現実化され、非常な利益を上げている。

越前藩士・三岡八郎(のちの由利公正)

この「富国論」の最後の箇所では、通商交易は天地間の根元の法則なのだとして、小楠独自の

理論が展開されている。独自の理論が何かといえば、『書経』を引いて、水・火・金・木・

土・穀の六府は、山川や海に地力・人力を加えて人間の生活に役立て人生を豊かにするという

自然の道理のことであって、堯舜の天下を治めるのもこれ以外ではあり得なかった。

また禹が水路を開き舟を通じ、民に食物を得させるという交易も政治であり、禹の事績が記さ

れてある『書経』禹貢にも、産業を起こし、交通の便を開いて物資の交易の利益をあげ、慎重

に税の制を定めたのも大交易の善政であり、その大成果である事を述べたものであると、大本

に立ち返って示した。また、アメリカでは初代大統領ワシントンの三つの政策−世界中の戦争

を止めさせるとか、知識を世界万国から採用するとか、大統領の権力は世襲ではない−を論

じ、それに続けてイギリス、ロシアの政治や教育制度に触れ、西洋の方が、古代中国の夏・

殷・周の三代の理想的時代の政治・教育に合致していると高らかに謳った。

小楠の面目躍如といったところであり、勝海舟が晩年に『氷川清話』の中で、小楠を高く評価

した所以でもあるだろう。

第二の「強兵」の主眼は海軍論である。

幕末の世界情勢や地政学を踏まえ、わが日本の「孤島」の位置を考えれば、海軍こそが強兵の

基である。そして「幕府もし維新の令を下し」諸改革を行い、統一国家としての実をあげれ

ば、数年で外国もわが国を見直すだろうとしている。

アメリゴ・ヴェスプッチがアメリカを発見したことや、イギリスの植民地拡大につとめた背景

やインドの重要性、それを起点として世界に勢力を拡張した大英帝国、ロシアの地政学的状況

やイギリスとのグレート・ゲーム、地政学的にイギリスと日本は似ているので、海軍の手本は

イギリスにした方がいいこと、などが論じられている。

なかでも瞠目なのは、「況や本邦は地球の中央に位し、環海の便四通八達、英に勝ること万々

なれば、幕府もし“維新”の令を下し・・・」と述べられている箇所である。

冒頭でも触れた松本健一氏は、ここで小楠が「維新」の文字を最初に使いはじめた人物だと指

摘している。維新という言葉は、紀元前六世紀から前五世紀に成立した『詩経』大雅・文王篇

に出てくる。「周は旧邦なりといえども、その命維(こ)れ新たなり」。

この言葉を分かりやすく使ったのが、小楠の弟子の坂本龍馬で「日本を今一度せんたく(洗濯)

いたし申し候」(文久三年・一八六三)だった。

三番目の「士道」は、為政者論であり、文といい武といい、要は「心」である。

堯舜三代の徳政にならうべく、心を尽くして、正しい政治をおこなうことが士道である。

そのためには学校をつくって「人材育成」をおこない、そうして政治に「人材登用」すべきで

あると提唱した。

松平慶永は、小楠との仲が一番悪くなっていた元治元年(一八六四)に藩主茂昭にあてた直書の

なかで、『国是三論』についてだけは「今に至るも廃すべからざるなり。是れを国是としてつ

とめずんばあるべからず」と書いている。

大塚退野の弟子であった平野深淵から「堯舜三代の治」を教えられた小楠だったが、それだけ

で終わるのではなく、自身で探究して『書経』を読み込んでいた。そして自分のものにしてい

った。朱子では西洋に対抗できず、より直接に堯舜三代に照らし合わせた。

上述のように「交易」についてそのように説明したが、中国古代の理想的君主堯は、自分の息

子にではなく、有能で衆望が集まっていた家来の舜に位を譲った。それが天命にかなっていた

からであった。それは世襲政治の否定でもあった。舜は格別に心の広かった人で、いろんな考

え方に耳を傾けながら、それを自分の中で受け入れて、そして善い面を生かしながら政治的な

決定をするというタイプの王であった。それをジョージ・ワシントンに重ね、ワシントンに高

い評価を下した。小楠の場合には為政者の思索という事に非常に大きな意味が置かれる。

小楠は「堯舜精一之心術」とも申していた。安政四年の春頃には次の漢詩も詠んでいる。

人 君 何 天 職  人君なんすれぞ天職なる

代 天 治 百 姓  天に代わりて百姓を治むればなり

自 非 天 徳 人  天徳の人に非らざるよりは

何 以 愜 天 命  何を以て天命に愜(かなわ)ん

所 以 堯 舜 巽  堯の舜を巽(えら)ぶ所以

是 真 為 大 聖  是れ真に大聖たり

迂 儒 暗 此 理  迂儒此の理に暗く

以 之 聖 人 病  之を以つて聖人病めりとなす

嗟 乎 血 統 論  嗟乎血統論

是 豈 天 理 順  是れ豈に天理に順ならんや

堯舜三代は小楠のテーゼであり代名詞である。勝も晩年の『氷川清話』のなかで、康有為と梁

啓超に対して「堯舜の政治だよ」と語っていたが、小楠から影響を受けた可能性もある。

小楠はのちに、勝からアメリカの選挙制大統領のことを聞かされて、即座に「それが堯舜の

政治だ」と応じたと、勝が語っている。

堯と舜

それからの小楠は江戸に出て、大久保忠寛と勝海舟と知り合いになる。

江戸に出たきっかけは、江戸に隠居していた松平慶永(春嶽)から、ぜひ出府するようにとの要

請が届いていたからであった。これだけの成果を挙げてくれている小楠に、慶永はまだ一度も

会っていなかった。

勝海舟が小楠の名を初めて聞いたのは長崎でのことであったが、越前の村田の紹介で小楠と近

くなった。面会は越前の屋敷だと言われているが、江戸を離れるときには、勝や大久保とも別

れを惜しむ仲になっていた。

大久保忠寛(一翁)と勝海舟

その後の小楠は、福井へいったん戻ったあと、沼山津へ帰る。しかし、沼山津では榜示犯禁事

件を起こす。熊野宮へ鳩打ちに行って帰りがけに村はずれの道で、こめたままになっている玉

を打ち放したら、藩主専用の狩猟場の榜示木(標識)が立っている近くで、榜示横目に見咎めら

れた。小楠はいつもここぞというタイミング失敗する。

その事件のほとぼりが冷めた後、小楠は再び江戸に出ることになる。それは福井に向かう途

中、春嶽から江戸へ急行するようにと指示を受けたものであった。そして江戸に到着すると、

慶永の政治総裁職就任を支持し、そのブレインとなる。文久二年(一八六二)のことであった。

慶永登城の前日、小楠は側衆になっていた大久保忠寛を訪問する。そこで小楠は持論を展開

し、「諸侯参勤を述職(政務の報告討論)に易へ、妻子国住居、諸侯御固め場御免」の三策を唱

え、大久保忠寛は殊の外感服したという。この延長線上に『国是七条』がある。日時もこの日

からあまり隔たぬうちに、慶永に提出された可能性が高い。

そこでは、大将軍上洛し列世の無礼を謝せ、諸侯の参勤を止め述職と為せ、諸侯の室家を帰

せ、外藩譜代を限らず賢を撰び政官と為せ、大いに言路を開き天下と公共の政を為せ、海軍を

興し兵威を強めよ、相対交易を止め官交易と為せ、などの七条が進言されている。

これは一橋慶喜の耳にも届き、その日の夜に慶永のところへ手紙で、参勤を廃して述職に代え

ることなどすべて小楠の言うとおりに改革したい。また全部の改革を手落ちなくやるためには

小楠を幕府が直接召抱えるのが好いと思うがどうだろうか、とよこしたほどであった。

その直後に慶喜は初めて小楠と面会し、将軍上洛はじめ当面する政治課題につき話し合い、そ

の小楠の卓見にひどく感心したという。さらに幕府は小楠を登用しようとするが、小楠はそれ

を断った。

一橋(徳川)慶喜

その年の暮れ、小楠は肥後藩江戸留守居役吉田平之助と吉田の妾宅で会い、同じく肥後藩の都

筑四郎・谷内蔵允も加わって酒を呑んでいた。谷内が先に帰り三人が呑み続けていたその場

に、覆面抜刀の者が二人、怒声をあげながら二階座敷へ切り込んできた。上り口ぎわに坐って

いた小楠は、刀を取るひまなく、侵入者と行違いに階段を駆け下り、途中でもう一人とすれ違

う。刺客は計三人だった。うまく逃れた小楠は、常盤橋の越前藩邸まで駆け戻り、差替えの刀

を取って、すぐに引き返した。しかし、犯人はもう立ち去っていた。吉田と都筑は傷を負い、

吉田は重傷でのちに死亡する。犯人は肥後藩の「無謀の攘夷家」たちであった。

この知らせを受けた肥後藩邸では、すぐに小楠がけしからんという話になった。これを士道忘

却事件と言う。越前藩はすぐに小楠を福井へ向けて出発させるが、翌文久三年の夏に故郷の沼

山津に帰り着く。小楠は士籍を剥奪され、浪人として孤独な生活をし、世の中のことに関心は

持つけれども、いわば世の中と縁を切った人間として世の中のことを見据えるという態度で生

きることになった。しかし、小楠はこの処分を全く気にとめていない様子だった。

元治元年(一八六四)、京都で参与会議がつぶれかかっている頃、勝海舟は長崎に派遣され熊本

を通った。そして随行してきた坂本龍馬を小楠のいる四時軒へ派遣している。情勢を伝え、ま

た金品を贈与した。小楠の方からは、兄の子供の左平太と大平を海舟に入門させたいと頼ん

だ。龍馬から話を聞いた小楠は『海軍問答書』を書いた。

松浦氏によれば、小楠一人の考えというより、忙しい海舟に代わってヒマな小楠が、二人に共

通する海軍論を文章化したという感じが強いという。ここでの小楠の独自性は、海軍強化費

を、疲弊している諸藩に無理に課しても、農商民に迷惑をかけるだけだから、できるだけ事業

費で賄おうとした。銅山・鉄山を興し、木材の運用にも工夫を加えようとした。

小楠は『海軍問答書』を河瀬典次に持たせて、長崎の海舟のところへ届けさせた。

その海舟は帰路も熊本を通り、また龍馬を沼山津に行かせ、左平太・大平をあずかった。

神戸に連れ帰って、操練所正式発足に先立って始めている塾に入れようとした。

坂本龍馬

そして元治元年の秋晴れの日、時習館居寮生だった若き日の井上毅が、友人と共に沼山津の四

時軒にいる小楠を訪ねにくる。小楠五十六歳、井上二十二歳であった。その時の談話を記録し

たものが『沼山対話』となる。井上からしたら手合わせ願いたいと思っていたふしもある。

かなり鋭い質問を投げかけている。大意は、『書経』を踏まえての学問論からキリスト教論、

西洋列強の近代化やその植民地経営、アメリカのジョージ・ワシントンのこと、日本の開国の

あり方や君主論・為政者論などとなっている。

まず最初の対話のなかで、小楠は井上に向かって、学校の制度は、中国古代の三代の制度が天

子から平民に至るまでの俊秀が入学して学問を励んだのに始まるが、しかし三代の頃は今日に

ように読むべき書物はなかった。孔門の学問も『詩経』を誦し、『書経』を読むことを第一の

こととしたのではないようにみえると語り、ここに気をつけなければならないと語る。

そして次の対話のなかで、『書経』の堯の徳を称した「文思安々」を取り出す。

この「文思」が学問の眼目であって、古の学問の要はみな「思」の一字にあると井上に説く。

思うてその筋を会得すれば世の中の物事の理はみな自分のものとなる。身を修めることから天

下の政治にいたるまで、みな「思」より出る。自分で真剣に思うことがなければ、後世のよう

に、幾千巻の本を読んでもみな帳面調べにすぎない。書物を読み終わったら、本を投げ捨て

て、本の内容について自分で真剣に思うことが大切だと諭す。

そしてそれには、「合点」することが大切なのだと述べる。合点とは本を読んで、その理を充

分に思いきわめることであり、その理は自分のものになる。そうなったらその書物はもはや粕

にすぎない。「知る」ことよりも「合点」することの重要性を説いている。

井上との対話のなかで一番注目すべき箇所であり、また最重要である。

小楠は、西洋諸国が国内において民主的に公共の原理で動く方向に向かっていながら、国際的

には「四海兄弟」という理念を掲げつつも、実際にはそれぞれの国家の利益を求めて争ってい

るという国際関係の現実はよく知っていた。国家のもつ「割拠見」というエゴイズムがあるこ

とも認めている。しかし小楠は、諸国家の取るべき方向は「公共の天理」「天地公共の実理」

という普遍思想に立脚して、「四海兄弟」の方向に行くことだと考えていた。

さらには、世界に乗り出すには、その公共の天理をもって国際紛争を解決してみせるとの意気

込みがなくてはならない。単に勢力を張るだけの軽い考えでいると、後になって必ず災を招く

とも洞察していた。活眼洞視。そして、ここでも相変わらずジョージ・ワシントンの評価が高

いが、そのアメリカも今日では南北戦争が起こり、ワシントンの遺志がはやくも失われてしま

ったと嘆いている。

井上毅

翌慶応元年(一八六五)の晩秋、今度は時習館居寮長の時からの知り合いであり、実学党の同士

でもあった元田永孚が四時軒を訪れる。『沼山閑話』である。これは対話形式ではなく、小楠

の発言だけを記したものになっている。ここでの小楠は対談相手が元田ということもあり、

「堯舜三代」を話の中心に置いて四方八方に話が及ぶ。

宋儒たちが「天人一体の理」を唱えたが、堯舜三代の聖天子賢臣たちが考え行なっていたこと

は違っていた。堯舜三代の聖天子賢臣らは、天を畏れるといえば、実際に天帝が上にいるよう

に畏れ、自然万物の動揺、変転をすべて天帝の命令を受けたものとして、そのまま敬畏した。

物についても同様であり、天帝の命令を受けて、天帝に代わって天帝の治民の法を実現するつ

もりで、山川草木などそれぞれの特性に即してこれを利用し、地上のあらゆるものを人間生活

に役立てた。地球上のもので利用されないものは一つもなかった。これが現実に天帝を敬い、

実際に天帝の仕事を助ける政治だった。それを現在の西洋の政治と比べてみると、堯舜三代の

政治と合致する。そして、もし堯舜がいま生きていたら、西洋の工業技術の精髄を極め、その

功用を利用し尽くして政治を行い、天帝の仕事を完成されていく善政は、西洋などとうてい及

ぶところではないと語る。小楠は天帝を人格をもったものと考えていた。

さらに小楠は人は三段階からなっていると述べている。前生・今生・後生というふうに。

そしてここでもワシントンに触れ、キリスト教は仏教と同じように、愚民を教化する一方法と

されているだけであると語り、キリスト教に対する見方が大きく変化した。

談話の終盤には小楠の真骨頂が飛び出す。「三代の治道を講じて西洋の技術を得て皇国を一新

し西洋に普及せば、世界の人情に通じて終に戦争を止むることいかにも成る可なり。此道本朝

に興る可し、後来何かになる可き乎」

元田永孚

上述の「三代の治道を講じて・・・」という言葉は、そのまま左平太・大平をアメリカへ送り

出す時の有名な言葉になる。それは冒頭に掲げた。左平太と大平は長崎で語学の勉強をしてい

るうちに、洋行したいと思い定め、小楠門下生たちの資金援助を得て、便船に乗り込んだ。

密航渡米である。出発したのは慶応二年のことであった。

晩年の小楠は「三代の学問」という言葉も使っている。具体的内容は「思」「格物」「仁」

「誠」「理」「天」等、すべて朱子学の範疇に属する概念であり、それらの概念を読み替え、

そして『書経』的世界から照らすことによって解釈し直して、小楠はこれを「三代の学問」と

呼んだ。くどいようだが、ここが小楠のすごいところであり、恐ろしいところである。

録ニ語送左大ニ姪(複製) 小楠の思想の総体制とも言える

慶応元年の元田との久しぶりの再会の半年ほど前には、坂本龍馬が再々度、四時軒を訪れてい

る。その時の龍馬は、薩長同盟の構想を立てて西郷の賛成を得、鹿児島から太宰府を経て長州

へ行く途中であった。四時軒にはちょうど徳富一敬が来合わせていて二人の会見の模様を書き

留めている。また、父からその時の情景を聞かされた蘆花は、それを一敬の談話として描き出

している。龍馬は笑いながら小楠に向かって「先生あ、まあ二階に御座って、綺麗な女共に酌

でもさして、酒をあがって、西郷や大久保共がする芝居を見物なさるがようござる。大久保共

が行きつまったりしますと、そりゃちょいと、指図をしてやって、下さるとようございませ

う」と述べている。小楠は笑って頷かれたという。

徳川慶喜が第十五代将軍に就任した後の慶応三年(一八六七)には、その龍馬の「船中八策」か

ら始まる土佐藩の大政奉還建白が進んでいた。後藤象二郎が山内豊信に提案し、土佐の藩論と

して将軍慶喜につきつけた。武力討幕派の伸長具合や幕政改革の効果などを計算した慶喜は、

討幕派をふくれあがらせないためにはこれを受ける方がいいと判断し、慶応三年十月十四日、

大政奉還の上表文を提出した。

小楠のところへは、京都へ行っていた門弟・山田五次郎から報せがくる。小楠は当然上京する

と予想した松平慶永に宛てる「献白」を書き、熊本にいる門弟・安場保和にみせ、その写しを

とらせてから安場より山田のところへ送らせた。

それが新政府について構想を発表した『新政に付て春嶽に建言』である。

このなかでは、まず最初に「上院は公武御一席、下院は広く天下の人材御挙用」と建白されて

おり、勘定局を建て紙幣を発行し、刑法局も建て、海軍局を兵庫に設置することを訴えてい

る。さらには「外国の交易、商法の学有りて、世界産物の有無をしらべ物価の尊下を明にし広

く万国に通商し、更に又商社を結び互に相影響を為す。如此練熟を以て我が拙劣の人に対す。

殆ど大人と小児との如し、是彼が大奸を為す所以なり」と述べ、西洋諸国や中国に日本の商館

を設置しなければならないことなどが示されている。国内の経済政策に関しては、三岡八郎こ

と由利公正が明治新政府に入り、会計官知事として財政運用に当たり、初期の財政・金融政策

に関与し手腕をふるい由利財政といわれた。この由利財政はここで小楠が建言したことの実行

であった。

由利公正(三岡八郎)

坂本龍馬の「船中八策」には、小楠の『国是三論』の思想を引き継ぎつつも、それを大政奉還

によって維新国家へと完成させてゆく具体的網領が、すべて述べられていると指摘される。

その第二条は、「上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機よろしく公論に決

すべき事」となっている。

「上下議政局を設け」という言葉もそうだが、今回は「公論」という言葉に注目したい。

先述した由利公正は小楠の弟子であり龍馬の友人でもあったが、その由利は「五箇条の御誓

文」の最初の草案を書いている(明治元年・一八六八年一月)。その第五条では「万機公論に決

し私に論ずるなかれ」となっていた。

そしてそれを訂正したのが、小楠思想の実践者であった坂本龍馬の後継者ともいうべき存在の

福岡孝弟(たかちか)で、「列侯会議を興し万機公論に決すべし」と最終案に近くなる。

さらに木戸孝允が手を加え、最終案で「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」となり、新政府

の国是の第一条たるものにふさわしいものとした。

これらの四つの案にはいずれも「公議」「公論」という言葉が見え、小楠の公議公論の思想

が、小楠とは必ずしも一致しない文脈の下においてではあったが、政治的世論となっていたの

は確実だろう。

由利公正筆「議事之体大意」(五箇条の御誓文の原型。福井県立図書館所蔵)

小楠は、実学党を結成した長岡監物ら友人達との講学・講習の会ですでに公論的意識を経験し

ていたが、それを「公論」という言葉で表現することを知らなかった。小楠は安政二年に『海

国図志』「アメリカ篇」を読んでいる。その小楠が読んだ可能性があるのは、中国版六〇巻

本、それに訓点をつけた中山伝右衛門『海国図志』「墨利加洲部」八巻六冊、ならびに書下し

文として広瀬達『通俗 海国図志』が挙げられると源了圓氏は指摘されている。

なぜ広瀬達の「書下し文」の版をその中に含めているのかというと、「原文」にも中山版にも

ない「公論」の訳語がこの広瀬版にのみ見られること、そしてワシントンについての叙述の部

分に、ワシントンを堯舜に類する人物として賞賛する文を広瀬が書き加えているからだとして

いる。

実学党での講学・講習で公論的意識を経験していた小楠だったが、この広瀬達の和訳『通俗 海

国図志』「アメリカ篇」を読んで、そこで「公論」という言葉に出会い、表現することを知っ

たと、源氏は仮説をたてられている。合点させたということだ。

その「公論」が「五箇条の御誓文」の「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」にまで至った可

能性が極めて高い。

幟仁親王が揮毫した御誓文の原本

そんな小楠のところには、新政府から登用したいとの通知が届く。しかし、小楠登用には肥後

藩が横槍を入れた。公式には士籍剥奪処分を受けた身分であったからだった。

岩倉具視に書を送って、小楠を召し出すことに肥後藩は不賛成だと言ったが、岩倉が返書をし

て、過去の問題については心配はいらないから早く出京させるようにと催促した。

続いて、横井平四郎を早々と上京させろと命令があった。

小楠は明治元年(一八六八)四月に上洛の途につき、その途上、四月二十三日に大阪で参与職を

命ぜられる。小楠の採用には岩倉具視が最も積極的だったようで、初めは「顧問」として迎え

たいと思っていた。しかし、小楠と最も縁の深い「議定」の松平春嶽に相談すると「密事漏

洩」と「酒癖」がよくないという返事であったので、その沙汰は止めにして「参与」として迎

えるということになり、「従四位下」に任ぜられる。

こうして参与を拝命した小楠は、翌明治二年一月五日に京都で暗殺されるまでの九ヵ月間、病

気のための長期の欠勤を挟みつつも、参与を務めることになる。

岩倉具視

小楠は、上洛以来体調が悪く困りきっていた。四、五年前から腎臓と膀胱の結核に冒されてい

た。沼山津の自分の家では我儘な暮らしができたので、大したことなく過ごしていた。

しかし、上洛以来そういう我儘は許されず、無理が祟って血便が出る状態になり、この状態が

長く続くと参与としての責任を果たせないから、熊本の田舎に帰るべきではないかと考えてい

た。そんな小楠ではあったが、岩倉から依頼を受けて、明治元年九月頃に書き留められたと思

われるのが「中興の立志七条」であった。明治天皇を頭の中に置いて、メモ風にこれを書いた

といわれている。その内容は儒教の観点から、君主としてのあり方を説いている。

その二ヵ月前の七月には、明治天皇宛の遺言として弟子たちに口述したとされる「遺表」とい

うものが存在する。そこでは「良心」に基づいて国民の幸せを願い、その状態が実現すること

を図るのがその役割である、などが記されている。ちなみに、この「遺表」は小楠の娘婿であ

った海老名弾正(一八五六−一九三七)が大切にもっていたという。

明治元年の九月には、米国帰りの薩摩藩士・森有礼と鮫島尚信が小楠を訪問した。鮫島は熊本

在住時の小楠を訪問したことがある。森と鮫島はまず英国に留学するが、その後米国へ渡り、

神秘主義的宗教者トマス・レイク・ハリスのもとで修行する。ハリスは英国人で渡米して牧師

であったが、スウェーデンボルクの神秘主義に共感し、独自の修行生活に専心していた。

小楠はその森と鮫島に三度も面会し、アメリカの議会制の話だけではなく、キリスト教者のハ

リスの話を聞いて感動したという。この時の森の答えるハリス像が、小楠のキリスト教観を一

変させた。さらには病気も忘れて見違えるほど生気がみなぎった。アメリカに行っていた二人

の甥たちに、ハリスと絶対会ってこいという手紙も出している。小楠は、ハリスと自分は「道

の入処」は違うが、「良心を磨き人倫を明らかにする」という点では自分と全く同じ考えだと

みなした。小楠はキリスト教と自分の考えている儒教との間に、共通の地盤に立って問題を考

えていく可能性があると感じた。また、小楠は晩年に「天言」という著作を書いていたが、未

完に終わっている。残念ながら西南戦争で西郷隆盛がやってきた時に遺族が井戸に捨ててしま

ったという。

森有礼、トマス・レイク・ハリス、鮫島尚信

明治二年正月五日午後、御所寺町門から出てきた小楠の駕籠は、寺町丸太町を下ったところで

襲われた。かろうじて駕籠を抜け出した小楠は小刀で応戦するが、老齢の上に病身、たちまち

撃ち倒され首を取られてしまった。数え年六十一歳になったところであった。

犯人は大和十津川の郷士二人を含む六人の旧尊攘派志士であった。犯人の一人が所持していた

斬奸状によれば、小楠は「是れ迄の姦計、枚挙に遑(いとま)あらず」、暗殺の直接動機として

は「今般夷賊に同心し天主教を海内に蔓延せしめんとす」があげられる。

ハリスの宗教運動の話に共感したという噂は何処からともなく尊攘浪士や彼らに共感する人々

に伝わって、政府のとっている洋化政策はみな小楠に由来し、またキリスト教をわが国に伝え

る道を開いて国を誤る元凶は小楠であるという固定概念が彼らの間に拡がっていたという。

しかもある人々の間には、小楠は廃帝論者であるという先入観もあった。

上述で掲げた、「人君何天職。代天治百姓。自非天徳人。何以愜天命。所以堯舜巽。是真為大

聖。迂儒暗此理。以之聖人病。嗟乎血統論。是豈天理順」という血統論は天理に順うものでは

ない、と将軍や藩主に対する批判であったが、安政四年の春頃に読んだ漢詩も知られていた。

さらに小楠が暗殺された後、犯人への同情が集まって、小楠は天皇廃止を考えていた人物だか

ら殺されるのは当然だという議論が多く出始め、その揚句には「天道覚明論」という偽書がつ

くられた。小楠を嫌っていた人はそういう漢詩の解釈をして「天道覚明論」なる偽書を書い

た。この事件には阿蘇神社の大宮司・阿蘇惟治が深く関わっている。

襲われた際、身を守るために使った短刀(横井和子所蔵 横井小楠記念館展示)

小楠が暗殺された時、明治天皇は「大に驚きたまひ」、すぐさま「負傷せる門弟・従僕等」に

治療費として四百両を下賜し、殺された小楠に対しては葬祭費として三百両を与えている。

これは同じ年に暗殺された兵部大輔・大村益次郎や、明治四年に暗殺された参議・広沢真臣に

際しての措置と比べると、天皇の心がより大きく動いたさまが感じられる。

明治天皇

小楠は身分を問わず多くの弟子を養成した。地域的には熊本・柳川・福井の三つのグループに

分けられる。小楠が明治新政府に仕えたように、その弟子たちも明治元年から一斉に中央政府

や地方官庁の官職についた。明治三年(一八七〇)には、熊本藩藩政改革のために実学党政権が

成立した。農民出身の二人の門弟・竹崎律次郎と徳富一敬は「藩政改革意見書」をつくり、そ

の中で「政府上下二院を建設し・・・」と掲げていた。実学党政権は三年間の存続にすぎなか

ったが、藩知事細川護久の直書が布告され、大減税を断行した。この布告にも徳富一敬が起草

したといわれている。明治四年には、当時胆沢県大参事であった嘉悦氏房は政府に対し「地租

軽減ノ建議」を行ってもいる。これ等のことはごく一部にすぎない。

その他にも小楠の教えを核として形成された熊本実学派の人々の家庭からは、社会的に活躍し

た優れた女性も多く輩出している。上述で触れた嘉悦氏房の娘・嘉悦考子(嘉悦学園創始者)、

徳富一敬の娘・湯浅初子、農民出身の家庭からは矢島楫子(女子学院の創始者)、竹崎順子(熊本

女学校校長)等である。

実学党の同士であり小楠の直弟子であった元田永孚は、最初は侍読、後に侍講として明治天皇

に仕えていたことは有名だ。その明治天皇は元田のことを終生「師父」と仰いでいた。

勝海舟は明治三十三年の横井小楠三十年祭のおり、「・・・元田とは、私はひどく懇意にしま

した。もう、あんな人はいません。だまっていて、議論はせず、それで誠実で、しっかりして

いて、とても熊本には、もうありません」と、口の悪い海舟であったが珍しく左のように語っ

ている。ちなみに、大久保利通に「侍読」として元田を推挙したのは、安場保和の助言によっ

ている。先にも紹介したが、安場も小楠の弟子である。

そんな元田が教育勅語を草案を作成したのは有名だ。教育勅語の草案を最初に書いたのは、中

村正直(敬宇)であったが、キリスト教臭もあり採用されなかったといわれている。

代わって教育問題に熱心だった元田が自発的に草案を作成した。しかし、最終的には小楠の弟

子とも言っていい井上毅が作成した勅語になった。元田案では天皇に対する国民道徳を強調し

ていたが、井上案では国民意識を強調し、国民の義務を公=国家に奉じる(奉公)ことが謳われ

た。

教育勅語(明治神宮)

小楠は「公」を主眼に置いていた。

当時の「御公儀」という言葉が示してるように、「公」は幕府を公と考えるという立場ででき

ている言葉であった。それに対して小楠は、幕府は私であって日本の国家全体が公であるとい

う考え方を打ち出した。しかし、これは当時の改革的な人々に共通の考え方であって、小楠だ

けの考えではなかった。小楠の凄さは、そのような国家レベルの公ということを超えて、日本

もある立場に立てば私である、と人類的な立場で公ということを考えた。

小楠自身はユートピア主義者ではなく、国家の統一、国家の独立ということを大事に考えてい

た。しかしそれだけではなく、国家というものはそれを超えるある一つの価値に従って行動し

ていかねばならぬということを本気で考えていた。

小楠の「公共」とは、「公正・公平」という意の「公」観念と「他者と共なる精神」とが結合

してできた概念であり、その理念は、天下、国家、国際社会、国内社会、等々いろいろな場面

に展開、浸透して、公正・公平の観念を社会化し、社会、国家、国際社会、すなわち世界をそ

れらのあるべき姿にする原理であった。(源了圓『横井小楠研究』を参考)

国家を相対化する「公」観に至ったところに小楠の真骨頂があり、それを可能にしたものは小

楠のいだいた「天」の観念であった。民族主義と普遍主義とは、「天」の下において常に共存

しなければならなかった。ここに小楠の偉大さがあり、われわれが学ぶべき大切な方法が示さ

れており、日本人が忘れているものである。本書『国是三論』ではそれらが大いに学べる。

横井小楠という傑物と向き合うにあたり、松浦玲『横井小楠』と源了圓『横井小楠研究』に大

変お世話になった。特に源了圓『横井小楠研究』は、小楠の思想面にフォーカスして「公」

「三代の学」「天」などの重要概念を探究しているのは当然なのだが、江戸思想から捉えた

り、東アジアとの比較で小楠を論じたりと、予想以上に参考になった。ありがたい存在であ

る。そんな源了圓氏は、2020年9月10日にお亡くなりになられた。百寿を迎えられたばかりだ

ったのに本当に残念である。あの世で小楠に師事されることを願うばかりである。

智 唯 在 撰 善  智はただ善を撰ぶに在り

撰 善 即 執 中  善を撰ぶは即ち中を執るなり

何 以 執 其 中  何を以てかその中を執る

方 寸 一 字 公  方寸一字の公

横井小楠 (晩年に詠まれた「寓言五首」の一つ)

曰若に古の帝堯を稽ふるに、曰く放勲。欽明文思安安として、允に恭しく克く譲り、四表に光

被し、上下に格る。

『書経』虞書(堯典篇)

国是とか何とか世間の人はやかましくいふが、口にいふばかりが国是ではない。

十年も百年も、確然として動かないところのもので、何人からも認識せられてこそ、

初めて国是といふことが出来るのだ。

『氷川清話』勝海舟

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横井小楠(著),花立三郎(翻訳) 講談社 1986-10-9
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源 了圓 藤原書店 2013-6-21
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小島英記 藤原書店 2013-3-25
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勝海舟(著),江藤淳(編集),松浦玲(編集) 講談社 2000-12-8
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松本 健一 新潮社 2014-8-28