幕末の予言的思想家であり、今日まで続く思想をかたちづくった偉人/『佐久間象山』 松本健一



余、二十以後乃ち匹夫にして一国に繋(かか)ることあるを知る。

三十以後、乃ち天下に繋ることあるを知る。

四十以後、乃ち五世界に繋がることあるを知る。

東洋の道徳、西洋の芸。匡廓(きょうかく)相依りて 圏摸(けんも)を完(まった)くす。

大地の周囲は一万里。還(ま)た須らく半隅を欠き得べしや無しや。

宇宙に実理は二つなし。この理ある所、天地もこれに異なる能わず。

鬼神もこれに異なる能わず。百世の聖人もこれに異なる能わず。

近来西洋人の発明する所許多の学術は、要するに皆実理にして、

まさに以て吾が聖学を資(たす)くるに足る。

常に「百年の後わが心事を知る者あるべし」と謳い、

非常の時には、使命感をもって幕末という時間に対峙した佐久間象山は、

志士のなかで一番好きかもしれない。

佐久間象山


幕末というのは、ペリー来航(一八五三)から明治維新(一八六八)のわずか一五年間。

『幕末から維新へ』のなかで藤田覚氏は、大きく二つに分けて

第一段階は、一八世紀末からペリー来航直前までの約五〇年間

第二段階は、ペリー来航から維新までの約一五年間

としている。

そんな幕末に活躍した志士たちを、著者の松本健一氏は『宋名臣言行録』に当て嵌め、

独特な見方を提示している。

能く見る、一なり。

見て行なう、二なり。

当に行なうべくんば必ず果決す、三なり。

一の「能く見る人」が、思想家の佐久間象山と横井小楠。

二の「見て行なう人」が、見者にして実行家の勝海舟や高杉晋作や坂本龍馬。

三の「果決の人」が、西郷隆盛や大久保利通

象山はその「能く見る人」の幕末の先駆的開国思想家で、

海舟、松蔭、覚馬、左内、和泉、虎三郎、継之助、真道、龍馬の師。

隆盛がその見識の高さに惚れ、鉄舟が「人傑」と評した人物。

幕末の志士の多くは、この佐久間象山と横井小楠のどちらかの弟子、

もしくは、両方の弟子だった。

佐久間象山は、文化八(一八一一)年二月十一日に、松代藩の城下浦町に生まれた。

父は松代藩士の佐久間一学(五六歳)で、漢学者であり、卜伝流の達人でもあり、

自邸に道場をもち、母は東寺尾村の足軽荒井六兵衛の娘のまん(三七歳)。長男である。

幼名を啓之助と名づけ、『詩経』の「東に啓明あり」から選んでいて、

実名は、はじめ国忠、のちに啓と改めた。

象山という雅号を用いるのは、二六歳の時で、その由来は

「家の西南に巨陵が奮起しており、その山容が恰も臥象に髣髴たるものがあるので、

土地の人々はこれを象山と呼んでいる。そこで自分もこれを雅号に用いたのである」

としている。二八歳の時には、名を修理と改めている。

父の一学は、特に経学を好み、且つ易学を好んだ。

有名な易学者が松代に来ると、旅宿まで随伴して修行するという程に熱を入れ、

毎晩、二度三度と易の書物を音読しなければ眠れないという有様だった。

象山も「予二~三歳の時既に能く耳に熟し、六四卦の名を誦す」と述べ、

四三歳の時には、『礮卦(ほうのけ)』を著している。

幼少期の象山は負けん気が強く、乱暴者で口喧嘩を好み、手に負えぬ悪童だった。

♪妻女山から槍がふる。佐久間の門から石が降る。石投げ小僧の啓之助。ヤアイヤアイ。

と近所の子供たちから謳われていたほど。

写真をみればわかるが、象山の容貌は日本人離れしていて、正面から見ると両耳がみえず、

顔は長く、額がひろく、頬骨が高く、眼窩がくぼみ、瞳が光っているため、

子供のころにテテッポウ(フクロウ、松代方言)ともあだなされていた。

そして、この頃から、北宋の文人・蘇東坡(蘇軾)に自己を重ね、文章家たらんとし、

漢籍などを読み、学芸、文芸の道に才をあらわしはじめる。

後年に象山も立派な山水図を残しているから面白い。

(蘇東坡は富岡鉄斎や夏目漱石なども影響を受けている。他にも多くいるだろう)

一四歳の時に、藩儒・竹内錫命(しゃくめい)の門に入って詩文を作ることを志し、

藩主の真田幸専の誕辰を祝う詩を作り、錫命からは、易学も修めている。

一六歳の時には、国老であり、佐藤一斎の門人の鎌原桐山(かいばらとうざん)の門に入り、

江戸遊学までの八年間に亘り薫陶を受けた。

この時期には、藩士町田源左衛門に就いて会田流の和算も学んでいる。

象山は数学のことを詳証術(しょうしょうじゅつ)と呼んでいる。

後の「宇宙に実理は二つなし」の合理主義的な精神を育む。(易学もそうだが)

その他にも、馬術を馬役の竹村七左衛門に、水練を河野左盛に就いて学び、

象山は武芸よりも馬術を好んだいたみたいだが、

一八歳の時に卜伝流の武術師範の免許を受けている。

同じ頃、胆道を行けば七里、山路を行けば六里の岩門村まで行き、

活文(かつもん)という学僧にも華音と琴を学んでいる。

ちなみに、活文は清国に留学したといわれているが、それはわからないとしている。

ある時、藩儒の竹内錫命が「琴を習うなんて男子の癖に怪しからぬ」と戒めたところ、

象山は「諸葛孔明、陶淵明も琴を弾いたではありませんか。

英雄の心中自ずから閑日月ありで、このくらい余裕がないと大人物にはなれません」

と言って肯き入れなかった、というエピソードも残っている。

そして、天保四年の冬、象山は文学修業のための江戸遊学の希望が藩主に容れられたので、

出府することになる。

文学修業のために遊学を許され、学資まで給せられるの異例のことだったらしい。

松本健一氏は、第八代藩主・真田幸貫(一七九一~一八五二)が伯楽であり、

「幸貫公という伯楽がいなければ、象山が幕末の日本に

その才を発揮できたかどうかはわからない」

と述べ、実際に幸貫公は、お側絵師の三村晴山(狩野芳崖、橋本雅邦の師)に

「修理は随分くせの多い男ではあるが、しかし天下の英雄だ」

と述べている。

江戸では、鎌原桐山の紹介により佐藤一斎の門に入った。

その頃の一斎は、林家の塾頭で経学・文章並ぶ者なしと称されていたが、

窃に陽明学に心酔していて、講義にも陽明学に触れてゆく傾向が窺われていた。

幼時から易学を好み、朱子学を以て正統と信じ、陽明学を嫌い、

天保八年(一八三七)の大塩平八郎の乱に批判的だった象山は、

「陽明学は国家に害を及ぼすから、極力これを排斥せねばならぬ。

従ってこれから以後、経学は先生から御教授は受けたくありませんから、

何卒文章・詩賦だけ教えて下さい」

と一斎に断って、経書の講義には一切出席しなかったという。

だが、一斎の文章に至っては深く推服し、

「詩は管茶山、文は佐藤一斎」は日本開闢以来の大家であると推称している。

そこでは、一斎の説には従わなかったが、学問に熱中し、

山田方谷と共に佐門の二傑と称せられるまでに至る。

そして、象山は二年あまりの江戸遊学(第一次遊学)を終えて、一旦松代に帰るが、

三年後の天保十年に、再び江戸に遊学する。

この時も一斎塾に出入りしていたみたいだが、神田阿玉ヶ池に居を定め、

そこに象山書院という学塾をひらく。五柳精舎ともよんでいた。

その塾の隣には、梁川星巌(やながわせいがん)の玉池吟社という塾もあり、

星巌などとも親しく交わっている。(第一次遊学からなのかもしれないが)

経学者として世に立った象山だが、そこでは豚の飼育もしているから面白い。

だが、変化は突然やってくる。

天保一一年(一八四〇)に、アヘン密輸問題に端を発した清国とイギリスとの間に

戦争が勃発する。有名なアヘン戦争。

イギリスは自由貿易を名目にインドで精製したアヘンを清国で売り、

これによって茶貿易の大幅な赤字を埋め合わせようとした。

このアヘンの輸出を清の欽差大臣だった林則徐が禁止し、アヘンを海に投じた。

それに対して怒ったイギリスが清に戦争を仕掛けた。

清国が劣勢であるという情報は、天保一一年(一八四〇)に長崎に入港したオランダ船が

提出した、別段風説書で幕府は把握している。

その後も、逐一、唐船の風説書により、戦争の推移が伝えられている。

唐船風説書には今と同じで、清国が勝利したなどの偽情報も含まれていたみたいだが。

幕府もアヘン戦争の情報に敏感に反応し、老中首座だった水野忠邦を中心として、

天保の改革に取り組み、水戸藩主の徳川斉昭が、松代藩主の幸貫を老中に推挙し、

幸貫は老中・海防掛に就任する。

そして、その幸貫によって海防掛顧問に象山が任ぜらる。

(天保の改革は水野の失脚によって失敗する)

アヘン戦争で敗北した清国は、天保一三年(一八四二)八月に南京条約が結ばれ、

広州、上海などの五港の開港、香港の割譲、公行の廃止と自由貿易、

領事裁判権を押し付けられる。

天保一五年(一八四四)には、アメリカは米清通商(望厦ぼうか)条約、

フランスは黄埔(こうほ)条約を結ぶ。

アヘン戦争戦闘図

このアヘン戦争の清国の敗北を機に、象山は朱子学者から洋学者、開国論者に転じていき、

天保一三年(一八四二)に、伊豆代官で洋砲術家、当時随一の海防論者、

江川太郎左衛門のもとに入門し、五ヵ月後には、江川から免許を受け、一年あまり学び、

この頃に有名な『海防八策』を提言する。

それは、海防策、学校建設、人材登用などといった、後の志士たちも口にする社会変革論や

近代化構想にふれられている。

著者の松本健一氏は、ここに「国民として国家防衛を考えはじめていた」とも述べている。

その後は、藩から帰国して「郡中横目」役につけ、という藩命が下され、帰藩する。

松代に帰国した象山は、西洋学を用いて藩内に産業振興をはかろうと考え、

オランダ語のショメール百科全書を藩から買い上げてもらう。

象山はこれによってガラス製造などをおこなっている。

さらには、ショメール百科全書を読むために、オランダ語を学ぼうと決心し、

以前から知り合いだった、坪井信道の門をたたく。坪井の弟子には緒方洪庵などがいる。

(象山は渡辺崋山などの蘭学者とも知り合いであった)

だが、坪井から、得意とするところは医学で語学ではないと断られ、変わりに塾頭で

長崎帰りの黒川良安を紹介され、黒川は蘭学は得意だが、漢学の素養がないので、

交換教授にしたらどうかと、坪井から提案される。

その後、象山はわずか八ヵ月ほどでオランダ語を修得し、松代に再び帰国する。

ちなみに、蘭学は、田沼時代の一八世紀後半から本格化し、医学・天文学・地理学の分野で

発展していた。

ショメール百科事典

そして「夷の術を以て夷を制す」という発想のもとに、西洋文明たらしめている力の技術を

すべて実地につくろうとする。

この「夷の術を以て夷を制す」というのは、著者の松本健一氏は述べていないが、

魏源の『海国図志』から出てきたものだと個人的には思っている。

古代から中国では「夷の術を以て夷を制す」と唱えられているが、

魏源が道光二二年(一八四二)に、アヘン戦争に衝撃を受けて著した『海国図志』を

象山は読んでいる。

その中で、「夷をもって夷を攻め」「夷をもって夷に款を通ぜしめ」

「夷の長技を師として夷を制するがために作られた」

としているので、そこから影響を受けた可能性がある。

ちなみに、『海国図志』は、島津斉彬、松平春嶽、吉田松陰、横井小楠らも読み、

影響を与えている。

象山は、魏源に対して、「自ら経験し作ってゆこうとしない」と批判してもいるが。

魏源 『海国図志』

その後、象山は、ガラス製造、豚の飼育、ブドウ酒の醸造、洋砲の鋳造、火薬の製作、

写真機や電信機の実験、製作を独力でつくりあげようとする。すべては日本のために。

その時の象山の気概、心境が漢詩にあらわれている。

東 辺 拓 地 三 千 里  東辺、地を拓くこと、三千里

曾 効 荷 蘭 設 学 科  曾(かつて)荷蘭(オランダ)に効(なら)って学科を設く

吾 邦 空 説 英 雄 跡  吾邦(わがくに)空しく説く、英雄の跡

百 歳 無 人 似 伯 多  百歳、伯多(ぺートル)に似る人無し

ロシアのピョートル大帝(一六七二~一七二五)は東方の辺地を数千里にもわたって開拓した。

オランダにならって学校設立もおこなった。ところが、わが日本では大事業をなしとげた

英雄の事跡を空しく口にするばかりで、この百年というもの、ピョートル大帝のごとき人物は

一人もでていない。

象山は、ピョートル大帝とナポレオンを尊敬していたみたいだ。

松代に蟄居中に作った、ナポレオンの漢詩も残っているし、

蘭書の一八一五年ハーグ刊の『ワーテルロー戦記』を読み、現物も真田宝物館に残っている。

さらに、松代の鞜野(くつの)地方に鉱物資源が埋蔵されていると見当をつけ、

調査旅行もする。そこでは、児童教育の大切さを説いてもいる。

嘉永三年(一八五〇)に、象山は出府し江戸深川の藩邸に住居し、洋砲術の塾をひらく。

その少し前には、鎌倉方面に足をのばし、江戸湾沿いの砲台を視察し、

それらの砲台場が実際の役に立たないと観察してもいる。

象山はシーレーンを守る戦略を考えていた。

深川藩邸の象山塾には、中津藩士七三名など、各藩の侍たちがつぎつぎに集まりだし、

中津藩からは、一二ポンド野戦砲の設計図の作成の依頼もうけている。

そしてこの頃に、のちに咸臨丸艦長となる勝麟太郎、

のちに航海術の第一人者となる木村軍太郎、

のちに箱館五稜郭の設計者となる武田斐三郎(あやさぶろう)、会津藩士の山本覚馬、

のちにオランダ留学して開成所教授となる津田真一郎(真道)などが、

象山塾に入門してくる。

その深川藩邸が手狭になり、嘉永四年(一八五一)には、江戸の木挽町五丁目に居をかまえる。

部屋数も多くなり、庭は砲術訓練ができるほど広く、勝麟太郎も足繁く通いだし、

地主の浦上四九三朗も通ってくる始末で、小林虎三郎もこの時期に入門している。

この頃には、本所の江川太郎左衛門塾、愛宕下の下曾根金三郎塾と、覇を競うようになる。

そして、吉田松陰もこの時期に入門する。最初は二ヵ月あまりだったが。

翌年の嘉永五年(一八五二)に、長岡藩士の河井継之助、

のち初代帝大総長となる加藤弘之が入門。

嘉永六年(一八五三)には、坂本龍馬、翌七年には、橋本左内、真木和泉が入門する。

象山は、この木挽町にあった塾の書斎を「海舟書屋」と名づけ、扁額にしたため掲げていた。

松蔭の下田踏海事件に連座して、松代に蟄居を命ぜられた時に、それを勝麟太郎に譲る。

そして、譲りうけた勝は、それまでは「氷川」と号していたが、改めて「海舟」を号とする。

勝海舟は、晩年に語った『氷川清話』のなかで、

「佐久間象山は、物識りだつたョ。学問も博し、見識も多少持って居たよ。

しかし、どうも法螺吹きで困るよ」

「漢学者が来ると洋学をもつて威しつけ、洋学者が来ると漢学をもつて威しつけ、

ちょっと書生が尋ねて来ても、ぢきに叱り飛ばすという風で、どうも始末にいけなかつたよ」

と低評価なのだが、勝は、象山が書いた「海舟書屋」の額を生涯、自室にかかげていたし、

象山が暗殺されたあとには、息子の恪二朗の面倒もみているので、ひねくれ者の勝が、

恥ずかしさのあまり上の言葉を発したのだろう。

象山は、嘉永五年に勝の妹、順子(一七歳)を娶っている。

そして、嘉永六年六月三日(一八五三年七月八日)、午後五時ごろ、

ペリー提督にひきいられたアメリカ東インド艦隊の軍艦四隻が、

幕府の奉行所のある浦賀に来航する。

最新鋭の旗艦サスケハナ号二四五〇トン、汽走軍艦のミシシッピ号一六九二トン、

帆船のプリマス号九八九トン、サラトガ号八八二トン。

ペリー艦隊の日本遠征航路は、

ノーフォーク→マデイラ→セント・ヘレナ島→ケープタウン→モーリシャス島

→セイロン島→シンガポール→マカオ・香港・広東→上海→琉球王国→小笠原諸島

→東京湾→下田・箱館

一八五三年五月に那覇沖に、七月に浦賀沖に現れた。

この遠征で、那覇沖には五回、日本へは二回来航している。

ペリー来航図巻 (第4紙)

幕府は、一八五二年に長崎に新たに赴任したオランダ商館長ドンケル・クルティウスから、

長崎奉行に提出した別段風説書で、アメリカ政府が日本に使節を送ることを計画していると、

通告を受けていた。

だが、老中の阿部正弘は、この情報を海防の任にあたった少数の大名や旗本にしか

伝えていなかった。

象山に黒船来航が伝わったのは、真夜中だった。

松代藩邸にかけつけ、「浦賀へ急行せよ」という藩命をだしてもらい、

藩からの足軽二名をつれて、早朝に浦賀へと発つ。

吉田松陰は、長州藩屋敷でそのニュースを聞き、象山塾に寄るが、もぬけの空で、

象山から遅れること丸一日に浦賀につく。

浦賀についた象山は、旧知の宿の主人から黒船の様子を聞き、

ペリー艦隊の動きが無いことを知り、仮眠をとり、翌朝早く、小高い丘にのぼり、

勝海舟から譲られた望遠鏡で黒船の様子を視察する。

江戸に還った象山は、松代藩の軍議役に任命される。

そして、有名な急務十条を老中の阿部正弘に提出する。

         急務十条

第一、堅艦を新造して水軍を訓練すべき事。

第二、坊堵を城東に新設し、相房(相模安房)近海のものを改築すべき事。

第三、気鋭・気強の者を募りて義会を設くべき事。

第四、慶安の兵制を釐革(りかく)すべき事。

第五、砲政を定めて硝田を開くべき事。

第六、将材を選び警急に備うべき事。

第七、短所を捨て長所を採り、名を捨て実を挙ぐべき事。

第八、四時大砲を演習すべき事。

第九、紀綱を粛しみ士気を振起すべき事。

第十、聯軍の法を以て列藩の水軍を団結すべき事。

これは、川路聖謨が象山に強いて書かせたもの。

そして、幕府は久里浜でペリーからアメリカ国書を受け取る。

著者の松本健一氏は、この時に「白旗」も一緒に渡され、

日本史上はじめて、「万国公法」(国際法)の戦争のルールにおける

「白旗」が和睦、降伏のメッセージであることを、日本人に記憶させたもので、

それは、万一戦争になったら「白旗」を掲げて来いと、ペリーに脅された重要な意味をもち、

幕府が極秘にしていた「白旗」の添え書きを象山は目にしている、とも指摘している。

松本健一氏には『白旗伝説』という著作もある。

ちなみに、桐原健真は『吉田松陰の思想と行動』のなかで、

「もとよりこの白旗書簡と呼ばれる文書はアメリカ側の記録にもなく、

早くからその真偽が問われており、(中略)、その後、綿密な史料批判に基づき、

白旗授受の事実性を指摘しつつ、白旗書簡の偽書性を認めた岩下哲典氏による

多数の論考によって、ほぼ通説が形作られたと言って良いだろう」

と述べられているが、ぼくはペリーから白旗を渡された可能性の方が高いのではないか、

と思っている。

嘉永七年(一八五四)にペリー艦隊の七隻の軍艦が浦賀に再航し、羽田沖まで侵入する。

そして、神奈川駅の近くの横浜で、外交交渉をおこなう。

このとき、吉田松陰は、海外渡航(密航)を企てる。

以前に松蔭は、長崎に来航していたプチャーチン率いるロシア艦隊に

密航しようとしていた。だが、松蔭が長崎に着いた頃には、ロシア艦隊は立ち去っていた。

その横浜で開催された日米交渉は、数回をへて、

嘉永七年(一八五四)に「日米和親条約(神奈川条約)」を締結する。

軍議役であった象山は、その交渉の局外におかれていた。

しかし、横浜には居て、海岸を馬で巡見している。

この時に異人(たぶんアメリカ人)が、ダゲロ式写真機を向け象山を撮影し、

象山はその異人に対して、写真の種板を造るのに沃度(ようど)を用うべきか、

臭素(しゅうそ)がよいかと、質問をして驚かしている。

象山には、この条約は『春秋』にある、首都の城下にまで攻め込まれて結ぶ、

屈辱的な「城下の盟」にみえていた。

さらには、下田が開港されることを知った象山は、

「下田の地は東海の一険悪で、恰も欧亜航路における喜望峰にも比すべき地である。

一朝事ある際は守るに易く、攻むるに難い天険の要害であるから、これを開港するのは

危険この上もないことである。

これに反して横浜を開港する時は、朝夕彼らの動静を観察し得るのみでなく、

一朝事ある場合は直ちに陸兵を派し、重砲を以て攻撃することが出来る。

また江戸城に近いからといって反対する向きもあるが、それは全く逆で、

近いが故にこそ彼らも勝手な振舞をなし得ないのである。

何れにしても下田開港は断じて許せない」

として江戸に帰り、奔走する。

これより六年後、安政六年(一八五九)に横浜開港は実現し、

昭和三十一年(一九五六)には、象山の彰徳碑が野毛山に建立される。

横浜への黒船来航

そして、松蔭の密航事件に連座する。

その時に象山の有名な『省諐録(せいけんろく)』を著す。

象山の松蔭に遣わした送別の詩が、松蔭が乗り捨てた漁舟に残されていたので、

象山も囚われの身となる。

その後、松代の在所へ護送されて蟄居(九年)を命ぜられ、

弟子の松蔭とは相見る機会がなかった。

松代に蟄居中は、大地震などもあり、家老の望月主水(もんど)の庭園が広い別邸を借り受け、

そこを聚遠楼(しゅうえんろう)と名付け、洋書を読みあさり、友人などと書簡を往復し、

和歌なども詠み、他藩の者が訪ねて来たときには、砲術を指南するなどし、

蟄居中なのに不謹慎だと、親友や門弟などから好意的に注意する者もあったが、

象山は肯き入れなかった。

『省諐録(せいけんろく)』

しかし、老中阿部正弘から藩に対し、

「蟄居中にも拘らず、私に訪問客を容れ、軍学・砲術等の教授をなし、

且つ書簡の往復をする等、不謹慎の行為があって怪しからぬから注意せよ」との達しがあり、

これ以降、訪問客を差止め、書簡の往復を禁じ(建前は)、門前には番人を置いて見張り、

親類・縁者なども自由に出入り出来なく取締りが厳重となり、読書三昧となる。

この時に西洋の知識を深め、西洋の「三大発明」、

コロンブスの新世界発見、コペルニクスの地動説、ニュートンの引力の法則以来、

西洋の学術は急速に発展し、蒸気船や電信機などの発明もされるようになったと

言及しているし、近年のトルコも外国から「名師」を招いて海軍建設に励んでいるという

ことや、イギリスの植民地だった、インドのセポイの反乱の情報も得ていた。

そして認識を深めるとともに、西洋人を「夷狄」や「戎狄」とよぶことはやめたほうがいいと

建白もする。

長崎海軍伝習所に赴いた時や、咸臨丸艦長となってアメリカにゆく直前の勝海舟と文通し、

外の世界の動きを把握し、洋書の購入を頼み、海舟のジャワ留学の希望にも理解を示し

(ジャワには留学しなかったが)、激励の言葉や金品も贈っている。

そして、吉田松蔭は、安政の大獄で刑死する直前に、松代にいる象山にあてて永訣ともいえる

手紙を書き、高杉晋作にたくす。

その手紙には、この高杉に教えを垂れてやってくれと、遺言書的な手紙。

手紙をたくされた高杉は、一年半後に松代にいる象山に届ける。

そこでは、朝方まで、二人で語り明かしている。

後に高杉は、久坂玄瑞にあてた手紙に、この会見の模様と、象山に会うようにと記し、

久坂はこの話をきき、象山に会って、真の攘夷をなすには西洋に行って、

国情を知ってからでなくてはならない、と考えるようになり、井上聞多がこの考えをきき、

三日で洋行することに考えを変えるようになる。

文久二年の暮れに、九年にわたる蟄居生活が解かれる。

象山は藩主にあてて、『攘夷の策略に関する答申書』を提出する。

そこでは、〈究極の攘夷のため〉に、西洋諸国にならって開国し、近代の文明を手に入れる

ことが必要だと、説いている。

著者の松本健一氏は、「明治の文明開化路線、富国強兵策は、ほぼここに極まっている」

と述べている。

そして、真木和泉などの根回しにより、朝廷から招聘をうけるが、

「公武合体派のクーデター」によって取りやめになる。

この頃、象山は西洋鞍、オランダ鞍で騎馬訓練をしている。

朝廷に毎日通うことを想定していたのかもしれない。

文久四年に入ると、公武合体派のクーデターによって、徳川将軍家茂が京に入り、

将軍後見職だった一橋慶喜が禁裡守衛総督兼摂海防禦指揮に、

京都守護職の松平容保が軍事総裁職に格上げになる。

そして、幕府から象山に、「御用」によって上洛するようにと命令が下る。

象山は次の歌を詠んでいる。

折にあはゞちるもめでたし山桜 めづるは花のさかりのみかは

蟄居から十年で象山五四歳のときだった。

松代を発ち、京都に着くと、幕府目付衆の杉浦兵庫頭から二条城に出頭するように

と連絡が入る。

その後も京都に滞在し、一橋慶喜の使者・黒川嘉兵衛がおとづれ、

再度二条城にくるようにと伝えられる。

黒川が象山のもとをおとづれている最中に、山階宮の使者・国分番長が、

宮がいつでもいいが、すぐにでも訪ねて来てくれ、と連絡をよこす。

象山は黒川のすすめもあって、馬に乗って山階宮のもとをおとづれ、

その後一橋慶喜に謁見する。

山階宮には、複数回訪ねているみたいで、世界地図や蒸気船の模型をみせるなどしていた。

そして、元治元年(一八六四)七月十一日、山階宮の邸から馬で寓居に戻るところを、

勝海舟が「茄子や胡瓜のように人を斬る」と恐れていた、河上彦斎などの刺客団に襲われて

命を落とす。五四歳だった。(河上彦斎は、これ以降人を斬ることを止めている)

それ以前に、勝海舟から六連発のピストルを調えてもらっていたが、象山は、

「わたくしが『日本の御為』を三十年ちかくも、それを深く心に懸けてきたことは

皆知っている。だから、わたくしを襲ってくるようなものがあるとは、まず考えられない」

としていた。

馬で駆け抜けようとしていたので、後ろ疵が多く、武士でたるものが後ろ疵を負うのは

不覚であるという理由から、佐久間家に改易処分を申し渡し、屋敷地を没収される。

そんな山階宮は歌を残している。

あさま山けぶりときえしその人の 名こそ雲井にたちのこりけり

朱子学の合理的な世界観に洋学を取り込み、今日まで続く思想をかたちづくり、

朝廷のためだけでもなく、幕府のためだけでもなく、「日本」のために人事を尽くした

予言的思想家の佐久間象山は、現代から眺めても魅力的に映る。

まさに「百年の後わが心事を知る者あるべし」だ。

佐久間象山はその外国贔屓の傾向のため酷い目に遭った。

千八百六十四年尊攘派の浪人のために京都に於て暗殺されたのであった。

然し保守的反対にあったにも拘らず、時の進運に伴って西洋の知識の追求は益々盛となり、

遂に今日では我が国民的教養の相傳の重要素となった。

『日本の目覚め』岡倉覚三

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松本 健一 中央公論新社 2015-01-23
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大平 喜間多 吉川弘文館 1987-08-01

コメント

  1. 佐久間象山好き より:

    象山大好きっ子です!
    ショメールをぜひ生で見てみたくて、、、
    どこにあるか教えてくれませんか?^^

    • togoku0617 より:

      佐久間象山好き さん 

      コメントありがとうございます。

      上記のショメール百科事典の写真は象山が直接手に取ったものではありませんが、

      岡山にある津山洋学資料館で2016年に開催されていた「言の葉の海へ-オランダ語翻訳に

      挑む-」で展示されていたものです。

      ですので、現在展示されているのかはちょっとわかりませんが、

      常設展では蘭学の歴史をたどったものとなっているので、

      ひょっとしたら展示されているのかもしれませんね。

      象山が郡中横目役のときに江戸で購入したショメール百科事典は、

      現在どこにあるのかは、ぼくも把握してないです。

      不勉強で申し訳ないです。

      象山記念館も2019年3月20日~6月23日までの展示リストをみても載ってないですね。

      しかも象山記念館が所蔵しているのかも把握していないのが現状です。

      しかし、象山好きとは素晴らしいですね。

      そのことに関しても稀有な存在だと思いますし、

      象山のように日本をよろしくお願いします!