東アジアの忘れもの・・・/『花鳥・山水画を読み解く』宮崎 法子



山水画が主となり、花鳥画が従となって、宋代以降の社会と造形芸術の世界に深く根を張り、

その社会が滅びるまで―名目的には清朝の滅亡まで―中国絵画の中心であり続けた。

『花鳥・山水画を読み解く』宮崎 法子

西洋絵画では最も重要な画題は人物画であったといわれるが、中国でも唐代までは人物画が絵

画の中心であった。しかし、五代十国を経て宋の時代(十世紀半ば)になると、人物画から山水

画へと移っていった。

人物画も完全に廃れたわけでもないが、人々の関心が自らの精神をよりよく投影する画題とし

て山水画が支持されるようになる。

それ以後、山水画は中国絵画を代表するものになり、洗練され、発展し続け、その影響は日本

にも及んだ。

見た目の華やかな花鳥画も、その成立以前には文様などで表現されていた長い歴史があるが、

唐、五代を経て頂点に達したのが宋代であった。

本書は、宋代以降から近代まで中国絵画の中心であり続けた、山水画(第Ⅰ部)と花鳥画(第Ⅱ

部)を、「技法」や「様式」だけでなく、「主題」や「モチーフ」に着目して鳥瞰的に書かれて

いる。

「絵画になにが描かれ、どのように表現されていたかには、それぞれの時代の人々がなにを求

め、なにを見ようとしていたかが端的に表れている。

それは、人々が自分をも含めた世界をどのようにとらえていたかを示す時代の「眼差し」でも

ある」(本書)

Ⅰ山水画

第一章 中国絵画の長い序章 第二章 山水画の意味 第三章 文人山水画とその広がり

唐代の山水画は、青緑山水と呼ばれる技法によって群青や緑青の鉱物顔料で厚く彩色し、時に

は金を用い、カラフルで華やかなものが主流だった。

以後も青緑山水は復古的な様式として継続的に描かれてはいたが、宋代以後に絵画の主役に躍

り出たのは水墨山水だった。

それには、筆のストロークと墨の自在な使用よる水墨技法の上達も関係しているが、一番大き

かったのは時代の変化だった。

「・・・中国史上、宋代はそれまでとは大きく違う、新しい時代の到来といわれている。

宋代がそれまでと違った新しい時代の到来と目されるのは、宋代に本格化した科挙による官吏

登用制度が、社会体制・支配体制の基盤になったことによる。

科挙は、すでに唐代においても貴族制を補完する補助的なものとして始まったが、宋代には皇

帝直属の官僚のすべてを血筋や家柄によらず、試験の成績によって広く一般から登用する制度

として有効に機能した・・・」(本書)

たかが試験制度に過ぎないが、大きく深く中国社会を変えた。

世襲の門閥貴族は没落し、科挙によって儒教の価値観や古典や詩文が、人々にとって思考の絶

対的な求心力となり、人々は強要されなくとも儒教を学び、教養を身につけようとし、儒教的

な価値観が隅々までいきわたることになった。

「このような社会システムのなかに生まれた中国の絵画芸術も、そのシステムの根幹にあった

儒教的規範や古典の教養を裏づけとする価値観と無縁ではありえなかった。

それは、中国絵画を読み解く際にも重要な鍵となるのである」(本書)

その科挙の熾烈な競争に勝ったものを「士人(高級官僚は士大夫)」といい、高い教養と儒教的

な道徳を具えているとみなされた、一代限りの特権的身分であった(一代限りではない場合もあ

る)。

宋以後の文化は、この士人(士大夫)らがリードした文化であり、その価値観やそれに基づく文

化や生活も人々の憧憬を集め、広まっていったという。

その文人(士人・士大夫)たちにとって書は、必須の教養であり、技芸であった。

有名な話だが、彼らは筆より重いものは持たないことを自負し、長く伸ばした爪は力仕事をし

ないことの証だった(異民族に支配された要因でもあるだろうが)。

書の技法によって竹や梅などを墨一色(墨竹・墨梅)で描くことを始め、北宋末頃からしだいに盛

んになり、書を学ぶことに関しても教養の一歩として多くの人々の間で行われるようにもなっ

た。

そして、文人(士人・士大夫)らにとって自らのアイデンティティを示す象徴的な場が書斎であ

り、使う道具も大切なものであり、筆・墨・硯・紙は、文房四宝として尊重された。

その書斎では香を焚き、梅や菊などの花を飾り、簡素な空間が演出され、琴をつま弾き、茶を

楽しみ、書画を鑑賞した。

さらには、庭や池には鶴や魚を放し、太湖石などの奇石や竹や花木草花などを配し、室内にも

盆栽や盆石、奇石を飾り、文人としての価値観に沿った生活と文化が確立していった。

これらは日本にも「禅」にのって入ってきている。

「士大夫たちが主人公となった文化の具体的な形とスタイルが、宋代を通じて形成されたので

あった。それは、常に振り返られる理想として、その後の中国の文化の定型としての役割を果

たすことになる」(本書)

その文人(士人・士大夫)らが、自らのあり方や精神を反映させた新しい芸術を求めたものが、色

を廃した水墨山水画だった。

禅も影響していたのかもしれないが、それは儒教的な清貧などの価値観や、質朴の美や精神性

を尊ぶ心情にかなうものであった。

本書、第一章で水墨山水が定着した時代背景を説明している。

さらに、第二章では時代対象を広くして「山水画の意味」を読み解く。

十世紀半ばの北方の遼の国の墓から、花鳥画と山水画が一幅ずつ墓主の棺の頭と足の側で発見

された。それらは壁画ではなく、墓室内に掛幅の絵画が掛けられていて、このこと自体、従来

にはなかったことだったという。

著者によれば、この山水画と花鳥画は掛幅画の最も古い出土作例の一つであり、そこに新たな

時代の幕開けが感じられると指摘する。

その山水画は、唐風の青緑山水であるが、水墨山水の基本的なテクニックである「皴法(しゅん

ぽう)」が認められ、描かれた主題は、山中の楼閣の高士たちの集いであり、共を連れて訪れる

高士であった。

遼 山弈候約図

文人たちの集いを描くことは、古くは六朝時代からあった。『竹林七賢図』に代表され、唐代

にも描かれていたが人物表現が中心であった。

しかし、遼墓から出土した絵画は、風景(深山幽谷)をメインとして描いており、「人物画」で

はなく「山水画」として表現されている。

「遼墓出土の「最初の」山水画には、六朝以来の高士の楽しみの伝統が盛られていたが、それ

は以前とは違う新たな意味と役割を担っていた。山水画の時代はこのようにして始まったので

ある」(本書)

死後に理想とした場として深山の楼閣が選ばれたことは、唐以前とは異なる新たな山水に対す

る思いの表れだとも指摘する。

そして、新しく水墨山水画の基礎を築いたといわれているのが、唐末から五代の華北の画家た

ちであった。

華北の画家たち(関同・荊治・李成など)の伝称作品といわれているものは、北宋以後の模本や擬

古作である可能性が高いが、基本的な構図(切り立った主峰が中央、峻厳な山岳、中腹に楼閣を

配す)は、遼墓出土の山水画と共通し、さらには、その構図は、范寛や郭熙などといった北宋を

代表する画家たちにも共通しているという。

しかし、北宋の華北系山水画には遼墓出土の山水画とは異なる点もあり、それは点景人物が優

雅な文人ではなく、庶民(漁師)や旅人の姿が多く登場するようになる。それは一体何故なの

か。著者は江南画がきわめて重要な役割を果たしていたのではないかと指摘する。

唐の滅亡後、華北では戦乱が続いたが、江南に割拠した小国は比較的安定した政権を維持して

いた。

とくに長江上流の地、蜀(しょく/四川省成都)と六朝以来の古都南京に拠った南唐では、唐の文

化を継承するとともに新たな文化や絵画を展開させていた。

そして、山水画においても南唐の画家たちの様式が後世に大きな影響を与えることになったと

いう。

南唐の後主、李煜(りいく)が、画院の学生趙幹(ちょうかん)の作と題簽に記した『江行初雪

図』は、本格的な山水画の成立期での人物画から山水画への過渡期的様相を示すと同時に、

山水画の主題を考えるうえでも非常に興味深い作品ということができる、と著者は指摘する。

五代 趙幹 江行初雪図 部分

そして、ここに描かれた冬の旅人と冬の漁師は、その後発展した山水画のなかで、長い時を超

えて繰り返し描かれる画題となっていったという。

さらに、趙幹と同じ時期、同じ南唐で活躍した宮廷画家ではなかった董源(とうげん)も、山水

画に水郷の漁師の姿を描き、元代以後の文人画家たちに大きな影響を与え、文人山水画様式の

古典とされるようになっている。

「・・・趙幹や董源などの江南山水画が、そのような北宋の水墨山水画の発展に直接的にどのよう

に寄与したのかを跡づけることはなかなか難しい。

しかし、いままで見たような董源や趙幹の江南画のなかの旅人と漁師の主題が、北宋の華北系

山水画においてもきわめて重要な役割をはたしていたことは間違いない事実である・・・」(本書)

北宋中期の神宗朝の宮廷で活躍した郭熙は、時代の理念を代表する水墨山水画『早春図』を描

いている。

北宋 郭熙 早春図 (太湖石との関連も指摘されている)

行旅と漁師をモチーフとして、皇帝が統べる秩序ある世界と皇帝の優れた治世下での人民の安

寧な世界を示しているとされている。しかし、何故、農民ではなく漁師を描いているのか。

それは、屈原の『楚辞(そじ)』「漁夫辞」と『荘子』「雑篇」に登場する「漁師」が大きく関

係しているという。

「・・・『楚辞』『荘子』によって漁師は、現実世界に拘泥せず、なにものにもとらわれない自由

な境遇を象徴する存在として、人々に記憶され続けることになった。

同じ無辜の民でも、土地に縛られ、常に勤勉さが要求される農民は儒教的な臭いが強いが、

漁師にはその日暮らし的な気ままさや自由さが感じられる。

漁師は、老荘的な価値を投影する存在としてうってつけであったにちがいない。

士大夫たちは、隠棲の理想を漁師として江湖に隠れ住む、あるいは樵となって山居するという

ように表現する。漁師や樵が、隠棲の同義語として使われたのである」(本書)

遼墓出土の山水画は、深山での琴や囲碁などを楽しみ集うものが表現されていたが、華北系山

水画のなかの漁師たちと同じ根をもっていた。

「山水画は、そのような彼らにとって現実からのつかの間の遊離の場であり、理想世界に心を

遊ばせる場であり、憧憬の世界であった。

そこには、儒教的な秩序の根幹に組み込まれた、生産者としての農民の居場所はなかった。

山水世界は、漁民や猟師、樵たち、そして隠者、逸民の世界であった。

山水画に漁師が好んで描かれたのは、単に川や湖には漁師がつきものだからという理由だけで

はないだろう。彼らは、山水世界に最もふさわしい住人として選ばれた存在であった。

『楚辞』『荘子』という古典のなかにしっかりした「身元」をもった漁師たちは、本人たちの

意思とは関係なく、士人たち知識人たちによって隠逸を象徴する存在とみなされ、時代を超え

て山水画のなかに描き継がれたのである」(本書)

岡倉天心や幸田露伴が釣りをしていたことにも繋がっていそうだが、『楚辞』よりもさらに時

代を溯る、周の武王に仕えた呂商(りょしょう)の逸話(釣りをしているところに周の文王に見い

だされた) も影響しているという。

儒教では釣り人は、野に隠れた優れた人材の象徴として機能していたが、陶淵明が中国古来の

伝説である桃源郷をまとめた「桃花源記」においても桃源郷を発見したのも漁師だった。

「隠逸、桃源郷、隠れた人材・・・・・・漁師に託されたさまざまな意味は、実はいずれもどこか深

いところで通じている。山水画のなかの漁師や釣り人は、単なる点景を超え、いま見たよう

な、同じ逸民としての根をもつさまざまな意味合いを発信する表象として登場する。

彼らは、山水画が山水画であるために必須の点景としてそこに描き込まれているのである」

(本書)

薄々と感じていたことだったが、こうして文字で説明してくれたことによって、かなり合点し

た。

第二章では山水画の意味を読み解いているが、第三章では文人山水画の広がりを解く。

水墨山水画といえば「瀟湘八景」が有名だが、それは宋迪(そうてき)が創始したといわれてい

る。北宋の宋迪は十一世紀に湖南長沙に転運官として赴任した官僚であり、専門画家ではない

文人であった。在任中、筆をとり長沙の八景台に八景図を描いたといわれている。

何故、描いたのかといえば、ただ風光明媚だっただけではなく、その地が特別な地でもあった

からだとしている。

「宋迪が赴任した時、その任地の洞庭湖を中心とする瀟湘の地は、上代の堯・舜とその娘、妻で

あった女神たちの伝説と、それをふまえた屈原の幻想に満ちた詩、さらにその後の多くの文学

者や詩人たちの詩文によって絶え間なく詠い継がれた、神話と伝説に彩られた名勝の地として

彼を迎えたのである」(本書)

桃源伝説もこの一帯から生まれ、李白や李賀などもこの地を訪れ詩を詠んでいる。

その瀟湘文化を宋迪が描いた。

「瀟湘八景」は北宋末の徽宗(きそう)皇帝の心もとらえ多く描かれたが、元代以後の本格的な

文人たちは「俗」な「瀟湘図」を好まなくなっていったという。

明代になると、宮廷画家や職業画家の山水画は、漁師や漁労の主題はなくてはならない重要な

画題となった。

南宋の都杭州を中心に、南宋宮廷画院様式を継承した多くの職業画家が、南宋滅亡後にも活躍

した。それが雪舟も学んだ明代の浙派といわれる画家たち。

その浙派の画家が描いた漁師は、文人山水画中の釣り人とは違い、労働者としての漁師であっ

たが、「無辜の民」としての漁師であり、隠逸の思いを投影できるモチーフとしての漁師だっ

た。

元 呉鎮 漁夫図巻(部分)

元代には隠棲は「理想」ではなく「常態」にかわった。モンゴルが影響していたのかもしれな

い。自らの立場を肯定的に表明し、存在証明として描いたのが山水画であり、「漁隠」や「漁

父」は元代に最も多く描かれたという。

そんな山水画だが、すべてなんらかの意味で神仙の住む世界、仙界と無縁ではないとも指摘す

る。これも薄々と感じていたことでもある。

古代の自然観では、山川に神々が住むと考えられ、山は俗世を避けた隠逸や隠棲の理想の地と

もなり、隠逸と神仙世界は重なってもいた。

隠逸思想は老荘思想と深いつながりをもっているが、それは、道教にも収束していった。

モンゴルの影響もあり、元代の山水画家は道教信者が多かったという。

隠棲山水だけにとどまらず、道教的な神仙思想的なものが表現されていることも考えられ、仙

界としての山水表現であるとしている。

宋代頃にはすでに、古代的な山水観につながる仙界・仙島イメージを表現する古風な青緑山水表

現が意識的に行われていた可能性もあるとしているが、明代以後には、仙界を題材にした山水

画は決まって青緑山水技法で表現されるようになったという。

明 仇英 仙山楼閣

仙界の主題は不老不死への願望が投影されており、青緑山水画はその色彩によって、一般の

人々にも理解しやすい美しさをもつと指摘している。

そして、これらの山水画のなかには、仙界とつながるさまざまな主題や形がさりげなくはめ込

まれていて、まず想起されるのは洞窟であり、洞庭湖という瀟湘八景の中心の湖は、固有名詞

であると同時に仙界の庭、仙人の住む世界を意味する普通名詞でもあったという。

洞窟や鍾乳洞は、古来神仙世界の入り口あるいは仙界の入り口として考えられてもいた。

「鍾乳洞は仙界に通じ、その奇観は名勝となり、紀游の対象となった。

そして仙界は理想の隠棲の地のイメージとも重なっていたのである」(本書)

元 王蒙 花溪渔隠図

この世のものならぬ美しい景色は、神仙の聖なる住みか、仙界でもあると考えられ、同時に桃

の花咲く渓谷は、理想の世界「桃源郷」が隠れていると思わせる。

王蒙はそれを意識して『花溪渔隠図』を描いた。釣り船を浮かべ、画家自身の姿も描きこんで

いる。

そして、鍾乳洞のほかに仙界イメージを連想させるミニチュアともいうべきものが太湖石であ

った。

太湖石は、唐代にも注目され愛好されていたが、宋代になると文人たちがそれを愛し、造園や

書斎の机上にもなくてはならないものとなっていた。

「この太湖石に複雑に空いた孔は洞窟と同じであり、多くの別世界が一つの太湖石のなかにい

くつも内包されていると考えられていた。奇石愛好家と鍾乳洞の愛好は、ともにそのなかに小

宇宙を、あるいは別の世界を見るのである。

奇石はミニチュアの宇宙の集合体であり、永遠の世界がそこに凝縮していると思われたであろ

う。また、太湖石や奇石は○○峰と名づけられ、それ自体が峰や山岳に見立てられた」(本書)

太湖石

同じように小さな宇宙でもあった山水画は、奇石と同質かあるいは非常に近い存在、奇石と山

水画中の峰の造形は、決して無関係ではなかったはずであり、それが典型的に表れているの

が、明末の奇想の画家たちの山水画であり、先に載せた北宋の郭熙『早春図』などの華北系の

専門画家にも奇石との関連が強く感じられると著者は指摘する。

明末 呉彬 山陰道上図巻

その明末の代表が呉彬(ごひん)であり、変わった風景を求めて中国全土を旅したという。

彼のパトロンであった米万鍾(べいばんしょう)の蒐集した奇石や怪石を写生してもいる。

上の絵は、王子敬(おうしけい)の「山陰道より上りて行けば、山川はおのずと相映発し、人を

して応接の暇なし・・・」の言葉を絵画化したもの。

呉彬にみられる奇想画は、その後も丁雲鵬(ていうんぽう)、崔子忠(さいしちゅう)をへて、明

末清初の八大山人や石濤(せきとう)、さらに「揚州八怪(ようしゅうはっかい)」にまでつなが

っている。(松岡正剛『山水思想』)

また、盆景や造園も世界の縮図であり、山水画と同じ発想をもっている。

山水画と庭園は、どちらが先といえないほど互いに影響し合い、模範し合ったものと考えられ

るとし、宋代の山水画が、日本の室町時代の禅寺の庭を「倣った」といっても実はおかしくな

いと指摘されている。

その理由は、禅宗文化は中国の宋以後の文人文化をモデルにしており、日本に残る禅宗の庭

は、中国にいまは残らない元代やそれ以前の文人の庭の面影を伝えるものと考えられているか

らだとしている。

水をぬいた枯山水を創造したのは日本人だと思うが、石を集めて並べたのはここからきている

と思われる。

「庭園も山水画も、自然を創造的に再現あるいは抽出、凝縮した世界である。

自然は訪れるべき、隠れ住むべき世界であり、また同時に仙人たちの住む仙界、永遠の世界で

もあった。そして、自然はたった一つの石のなかに現在している。

山水画のなかには、そのような時空を超えた中国の人々の山水への思いが、画中のモチーフや

峰や石そのものの表現を通じて、明確に時にぼんやりと、さまざまな様相のなかに投影され続

けたのである」(本書)

以上が山水を論じた前半第Ⅰ部の参考になった箇所。

ただの「技法」や「様式」についてだけ論じるのではなく、その奥にある「世界観」を読み解

いているので、目から鱗が落ち、かなり参考になった。

後半第Ⅱ部の花鳥画は長くなったので割愛するが、文様から花鳥画への展開、成立してからの

唐から五代、その頂点といわれている宋代の花鳥画を概観し、清朝から近代にかけて、中心画

題だった山水画から花鳥画に移った背景なども説明している。

吉祥の意味をもち、花鳥画の画題になり時代を超えて繰り返し描かれ続けた藻魚図、蓮地水禽

図、草虫図、そのモチーフである、魚、蓮の花、葡萄、鴛鴦(おしどり)、鷺(さぎ)、鶴、鶉、

虫、松竹梅、などの意味を解き、文人や女性との関係にも言及する。

本書は、角川叢書として2003年に出版され、第25回サントリー学芸賞を受賞されている。

2018年にちくま学芸文庫に入り、その紹介文では「読者を豊饒な中国絵画の世界へいざなう名

著」としているが、全く同意したい。東アジア(特に日本)の忘れたものを書いた名著だと。

私はタオイズムを「神仙タオイズム」と「陰陽タオイズム」の二つに大別できるとおもってい

る。

神仙タオイズムは仙道や錬丹術を重視しつつも、どこかで老荘思想につながっているタオイズ

ムのことをいう。他方、陰陽タオイズムのほうは陰陽五行の思想を前提に、森羅万象を自然界

であれ人為界であれ、現象論的に解読してしまおうという、それなりに実用的なタオイズムで

ある。

いわば「オーバーコードの神仙タオイズム」「アンダーコードの陰陽タオイズム」ということ

になる。二つは截然と区別できるわけではない。

だいたいタオイズムは定義がむつかしく、そこにはあまりに雑多な傾向が習合している。

『山水思想』松岡正剛