『 バックスチャイナ 中華帝国の野望 』 近藤 大介 と 『 中国の論理 』 岡本 隆司



英国の歴史家エドワード・ギボンが名著『ローマ帝国衰亡史』(1776~1788)で、

いわゆる五賢帝のローマ帝国最盛期を、「 バックス・ロマーナ 」と名づけた。

以後、産業革命後の大英帝国のもとでの平和を、「 パックス・ブリタニカ 」、

第二次世界大戦後の超大国アメリカのもとでの平和を、「 パックス・アメリカーナ 」と呼んだ。

中国の習近平主席は、21世紀のアジアに、まさに「 パックス・チャイナ 」を創ろうとしているのである。

『バックスチャイナ 中華帝国の野望』 近藤 大介


2012年11月に共産党トップに就任した習近平は、「 中国の夢 」を頻りに内外に語り続けている。

具体的には「 中華民族の偉大なる復興という中国の夢を実現する 」というもの。

清朝時代の最大版図に戻すということなのだろう ( チベット、内モンゴル、ウイグルの現状を見れば察しがつく。清朝は満洲人の王朝だが ) 。

今度はそれと連動するかのように、海洋諸国に威圧的な態度や行動をあからさまに示すようになった。

エドワード・ルトワックが言うチャイナ4.0の発動だ(2018年の時点では、幾らかは大人しくなっているが)。

このチャイナ・ドクトリンの根本的な概念は何処から出てきたのか。

多くの日本人、又は近隣諸国が懸念を抱いている。


自分たちの「中国」は中華・上位、周辺国は外夷・下位であるべしという世界観である。

しかもそれが西洋流のnationや主権の観念と結びついて、自らのnationを守るべく

「愛国」につとめ、いわば「攘夷」を厭(いと)ってはならぬ、という主張に転化した。

『中国の論理』岡本 隆司


岡本 隆司が『中国の論理』で上手に説明してくれている。

「華夷秩序」を漢民族によって再び現代に持ち出してきた。

徳川初期の日本も苦悩していた覚えがあるが。

更に厄介なのが、時代錯誤の「華夷秩序」と西洋の「nationや主権」の相反する観念を結びつけ、大袈裟に旗を振って正統性を主張していることだ(中国は真面目に言っているのだが)。

アメリカの「明白なる天命」や、偽りの「自由」、「民主主義」と同じで、滑稽であるし、

周辺諸国は迷惑極まりない。似たもの同士だ。

『バックスチャイナ 中華帝国の野望』は、2012年~2016年までの中国外交を中心に語られている。

第一列島線、第二列島線、一帯一路、AIIB、新型の大国関係、日本、アメリカ、ロシア、ASEAN 諸国、韓国、北朝鮮を巻き込んだ外交ゲーム。

毛沢東が夢想した「 海の万里の長城 」、鄧小平が具体的に示唆した第一列島線、第二列島線。

海軍の教科書にしたのはアルフレッド・マハン。

(南シナ海と建設された軍事基地、第一、第二列島線)


「新型の大国関係」として太平洋分割をアメリカに提案するも断られ、

対抗策としてアジアの周辺国の取り込みに図り、一帯一路、AIIBに繋がる流れ。

もう一つの著書『中国の論理』は、儒教を軸に、それがどういう風に発展し、馴染み、

現代にまで連なってきたのかを歴史からわかりやすく解き明かしている。

新書だが、二つ合わせて読まれると、尚深まる。


儒教は、前漢時代に勢力をひろげ、ついに一種の国教にまでなる。

諸子百家は以後ふるわず、儒教のみが栄え、二千年来ずっとそれが続いたため、

ほかの学術思想と埋めがたい格差・隔絶ができてしまった。

『中国の論理』岡本 隆司   


よく日本では諸子百家と儒教を同列に置いてみる傾向があるが、それは非常識極まりなく、

日本人は中国の主流の思想・理念には縁遠いと著者は言う。

昔から、わかり合っているようで、わかり合っていないのが、日本人と中国人。

勝海舟が言うように、呼吸が合わない。

戦前は中国に深入りしすぎ、戦後は日中友好や東アジア共同体など、

過度な理想主義に陥り大失敗を繰り返している。

中国政府が対等な友好関係を築くはずがない。儒教からでた華夷秩序があるかぎり。

付かず離れずの距離感が、両国にとって一番良い関係。政治に関しては。

そして、他国に巻き込まれたくなかったら、軍備を増強しなけらばならない。

日本にはバランス・オブ・パワーの思考が欠けているのではないかと思う。

アメリカ軍が直ぐに来てくれる保障は何処にも無いのだから。

個人的には、中国の文化や歴史は好きな所もある(李白、杜甫、王維、老子、荘子、

タオイズム、山水画、青磁、中国仏教の発展など)。

だが、どうも中国の政治が苦手だ。儒教も含めて。だが、孟子は面白い。

日本は中国の文明を部分的に取り入れて、松岡正剛氏が示している通り「編集」をし、

独自なものに造り替えていった歴史の流れがある。

しかも、それを大事に保管し、今も使用している場合が多々ある。わかりやすい例は漢字など。

日々の生活の中で中国との繋がりを感じる時もあるが、戦後は特に忘れさられているのかもしれない。

もしくは明治以降の脱亜入欧後から薄れたのかもしれない。

だが、そんな明治でも天心、露伴、漱石、鉄斎、湖南など、

中国の悠久の歴史や文化に慣れ親しんだ立派な文人達がまだいた。

中国の歴史は、良い意味でも悪い意味でも、劇的で楽しませてくれると感じている。

日本との関係も含めて。

「歴史を直視しろ」と中国側はしきりに言ってくるが、同じテーブルには座らないで、

程よい距離感で、優雅に接したい。

歴史に過度に囚われているのは中国なのだから。鼻息を荒くしないようにもしたい。

巷の書店に溢れている「嫌中」本ではなく、もっと論理的に書かれている中国本を覗きたい。

真に理解をする上で。

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エドワード ルトワック 文藝春秋 2016-03-18