『魯山人書論』北大路 魯山人



芸術は要するにその内容である。

内容というのは、その個性である。

書という芸術も、最後はその真情に発したものでなくてはならない。

『魯山人書論』北大路 魯山人

「書相は、よくその人の価値を表現する」といっていた、型破りの奇人魯山人の書論。

十五、六の時に独学で書の研究をはじめ、周囲から「字のうまい少年だ」といわれ、日下部鳴

鶴や巌谷一六の大家の門を叩いた。

二、三度師事し「最初にどんな字体を習えばよいか」と聞いたところ、楷書、行書、草書と順

をおい、隷書や篆書とかは、あらゆる書を習得した後にやるべきものだ、と聞かされ、納得が

いかなかった魯山人は、早々と鳴鶴の下を去った。その後、独学で中国の書道を研究し、ほぼ

看破する事ができ、密かに隷書の稽古をしていたという。

そして、ちょうどその頃に、有栖川宮殿下が総裁となり美術展覧会が開催され、日本全国の書

家から募集していた。魯山人は鳴鶴から、隷書などを習うのは一番最後のことだといわれてい

たが、俄かに隷書の稽古ばかりやり、その展覧会には隷書の千字文を出品した。

展覧会では入選するとは思っていなかったが、不思議にも入選し、展覧会場に足を運ぶ。

その会場では目立つ場所に魯山人の隷書が並べてあり、二、三日してから再び会場に行くと売

約済の札が付いていたという。驚いた魯山人は購買者が誰か調べてみると、宮内大臣の田中光

顕伯であり、ますます驚いたという。

再び二、三日してから出頭命令があり、賞の発表ということだった。出頭すると、呼び出され

た受賞者中、魯山人の名前はなかなか出てこなかった。

しばらくして最後から三番目に呼び出され、見事入選し、優賞者だった。当時二十歳の魯山人

だったが、その他の受賞者は白髪の五十歳以上と考えられる人々ばかりだった。

さらに、驚いたことにその選者は嘗て門を叩いた日下部鳴鶴と巌谷一六だった。

このような経緯で魯山人はますます書に興味を持つようになったという。

北大路 魯山人 明治16(1883)年~昭和34(1959)年

本書で魯山人が解いていることは、「人間が出来さえすれば、その書が物をいう」ことであ

り、技巧が云々ではなく、「一個の人間の命の書として自己の人間格を正直に表現し、それを

鏡に映じた自己の相と見て、不善あらば善に糾さんための反省を重ね、個性をよりよく磨く機

関とみなし、謙虚営々習得したものに相違いない。書道は是非そうあらねばならないはずであ

る」、「形よりも精神、型よりも個性、拵えものの美しさよりも飾らぬ美しさ・・・」としてい

る。

なので型にばかりに囚われている日本の書家などにイライラし、「理」に走りすぎる中国の書

に対しても批判的。

「中国の書は例えば容貌風采のよい人間のようなもので、その人間は果たしてどれ位偉い人か

偉くないかは別として、畢竟、容貌風采がよく出でたちがよいと、とかく買い被る。

そういうようなふうが中国の書なるものにあるのであります」

「書でも、画でも、彫刻でも、その他なんであろうと、日本の如く内容の力、すなわち、国民

性的人格、それに具わる幽雅にして含積有る美しさをもったものは、中国にも朝鮮にもない」

王羲之や牧渓、顔真卿の楷書には肯定的だが、それは明代までだとしている。明治に日本に流

行った楊守敬は批判的。

面子を大事にする中国人だが、書に限らずスマホでもAIでも電気自動車でも外交でも同様のこ

とだろう。

春来草自生 色紙 北大路 魯山人

魯山人は、手で習う前に眼でよく注視することが重要であると説いているが、それはただ注視

するのではなく子細に検討することが重要であるとしている。

「この眼で見て習うということは、小さな形などに捉われないことになりまして、いろいろな

良書を多数に見るようになり、容易に一つのものに引っ掛からないで済むようになり、そこに

自ずから自分の好みというものが段々とはっきりしてきて、本当に自分の書が書けるようにな

るのであります」

魯山人の心眼からしたら、字は人物以上に光らないとし、人格がそなわっているのは当然のこ

ととして、そこに芸術性も付加されていなくてはならないとする。

良寛をこれでもかというくらいべた褒めし、利休、小庵、遠州、宗和などの茶人の書を茶道精

神の功徳であるとし、清巌、江月、春屋(しゅんおく)の大徳寺の坊さんを坊さん臭くない書だ

とし、一休や大雅も評価し、日本の新三筆を良寛・秀吉・一休と選定している。

幕末・明治では、西郷や鉄舟を酷評し、西園寺や井上馨、とくに副島種臣を高く評価し、文豪で

は、一葉、漱石、有島、芥川、かろうじて子規を入れ、中でも漱石、有島を好んでいる。

難点はあるが頭山満を人柄だけに優れたものがあるとも評価する。

自画賛 良寛

衆人皆酔 云々 二行書 副島種臣

ただ、年下だがほぼ同時代を生きた、主著『眼の哲学』『鎌倉文士骨董奇譚』の青山二郎は、

「お山の大将が何人かいて、彼等は互いに書家の書というものを嘲っている。

これが常識になっていて「書家なぞという者は今日一人もいないし、書の解る人間が第一いな

いではないか」と言うのだから始末が悪い。魯山人も古くからその中の一人である。

だが果たしてお山の大将がてんでんバラバラに自惚れている程、彼等の書が面白いだろうか。

何故彼等は苛立っているのだろう」

と面白い批評をしているんだがね。

しかし、こういう型破りな奇人も今の日本に必要なのではないか。

その魯山人や青山二郎が擁していた「心眼」が大きく失われているのではないのか。

世間の識者は魯山人について様々な批評を下すが、魯山人を識る必要があったら、

一度魯山人から数ある技能を取り去って、眺めて見ることだ。(中略)

詰り世間では魯山人という人間が嫌いだから、それで作品まで酷評を下すに到ったのである。

『鎌倉文士骨董奇譚』青山二郎

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北大路 魯山人 中央公論社 1996-9-18