「茶」を論じているようで「禅」を論じ、「禅」を論じているようで「道教」を論じ、「道教」を論じているようで「茶」を論じている名著/『茶の本』岡倉覚三(天心)



仰 天 自 有 初  天を仰げば 自ずから初有り

観 物 竟 無 吾  物を観るに 竟に吾無し

星 気 揺 秋 剣  星気 秋剣を揺るがし

氷 心 裂 玉 壺  氷心 玉壺を裂く

碧龕居士(岡倉天心の晩年の号)

本書は、明治39(1906)年に『The Book of Tea』としてニューヨークのフォックス・ダフィー

ルド社から出版されたものであり、邦訳は逆輸入の形でその15年後になされ『茶の本』とし

た。正確には『茶の聖典』とか『茶の経典』という意味だという。

The Book of Tea (1906)『茶の本』

海外では『The Book of Tea』のOkakuraとして広く知られ、フランス語やドイツ語をはじ

め、世界13カ国以上に翻訳されている。

100年以上前に書かれたものであるが、現在でも版を重ね、その中の一節はカレッジの教

科書にも引用されているともいわれている。

開国して間もないこの時代に、西欧社会に英文で日本の文化や思想を紹介した著作には、

新渡戸稲造『武士道』と内村鑑三『代表的日本人』が有名だが、天心は『茶の本』(The

Book of Tea)以外に、『東洋の理想』(The Ideals of the East/1903)と『日本の覚醒』

(The Awakening of Japan/1904)の合計3冊の英文著作を著し、未刊行だが『東洋の覚醒』

の草稿も残している。

北京にある道教本山・白雲観とおもわれる場所で道服姿の岡倉天心

松岡正剛氏の『日本という方法』のなかで、この辺りの時代背景を踏まえつつ、年表にしてま

とめて(編集)くれている。

明治27(1894) 日清戦争始まる

       志賀重昂『日本風景論』

       内村鑑三『代表的日本人』

  28(1895) 内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』

       正岡子規、日清戦争の従軍記者になる

  29(1896) ラフカディオ・ハーン、東京帝国大学文学講師

       東京美術学校に西洋画科設置

  30(1897) 「日本主義」「ジャパン・タイムズ」創刊

  31(1898) 岡倉天心・横山大観ら、日本美術院を創設

  32(1899) アーネスト・フェノロサ『世界史上日本の位置』

  33(1900) 新渡戸稲造『武士道』

       与謝野鉄幹「明星」創刊

       内村鑑三「聖書之研究」創刊

       吉田東伍『大日本地名辞書』刊行開始

  34(1901) 上海に東亜同文書院設立

       英国グラモフォンが雅楽・邦楽・落語を鑑賞

  35(1902) 日英同盟調印

  36(1903) 岡倉天心『東洋の理想』

  37(1904) 日露戦争始まる

       ラフカディオ・ハーン『神国日本』

       岡倉天心『日本の覚醒』

  38(1905) 夏目漱石『吾輩は猫である』

  39(1906) 大杉栄らの日本エスペラント協会

       岡倉天心『茶の本』

そんな激動の時代、天心晩年のボストンと日本を往復していた時に著された『茶の本』。

100ページたらずの薄い本だが、「茶」を通して「禅」に瞑想し、「禅」を通して「道教」に

拝礼し、「道教」を通して「老荘」に会釈している、全7章で内容は濃い。

第1章 人情の碗 第2章 茶の諸流 第3章 道教と禅道 第4章 茶室

第5章 芸術鑑賞 第6章 花    第7章 茶の宗匠

「茶は薬用として始まり後飲料となる」という書き出しから始まり、衛生学でもあり、経済学

でもあり、精神幾何学でもあり、東洋民主主義の真精神まで表している、と天心は第1章で高

らかに茶の全体像を明示する。

日本では茶道の発達によって、住居、習慣、衣食、陶漆器、絵画、文学までもがその影響をこ

うむり、貴族から下賤の者の住み家にも行き渡った。

茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するものであり、孔子の心よき沈黙、老子の奇警、釈迦

牟二の天上の香にさえ触れることができる。

この「不完全」を真摯に静観してこそ、東西相会して互いに慰めることができるであろうとす

る。

第2章では、「茶は芸術品であるから、その最もけだかい味を出すには名人を要する」とし

て、茶がアジア(中国と日本)に浸透した一連の流れに言及する。

茶の進化には煎茶(せんちゃ)、抹茶(ひきちゃ)、淹茶(だしちゃ)の三大時期があり、煮る団

茶、かき回す粉茶、淹す葉茶は、それぞれ唐、宋、明の気分を示し、古典的、ロマン的、自然

主義的な茶の諸流であるとしている。道教徒は不死の霊薬であることを主張し、仏教徒は睡眠

予防剤として服用した。

8世紀の陸羽の『茶経』にも触れるが、陸羽は団茶を用いたがために南部の青磁を好み、粉茶

を用いた宋人は濃藍色や黒褐色の茶碗を好み、淹茶を用いた明人は白磁を好んだ。

そして蘇東坡に触れながら、道教の教義を多く取り込んだ南方の禅宗が茶の儀式を組み立て、

それが15世紀に日本に入って茶の湯となり、茶の理想の極点を見ることができるとしている。

「茶道は道教の仮の姿であった」と。

第3章では、茶道の背後にある道教と関わりの深い『易経』、老子、屈原、荘子、禅では自性

了解から迦葉、達磨、慧能、馬祖、などに言及し、茶道のいっさいの理想は、道教の審美的理

想の基礎を与え、禅はこれを実際的なものとしたと説明する。

第4章では、茶室を論じているが、茶室(数奇屋)は単なる小家で、それ以外のものをてらうもの

ではないとして、数奇屋の原義は、詩趣を宿すための仮の住み家であるから「好き家」であ

り、美的必要を満たすためにおく物のほかは、装飾を欠くので「空き家」(道教との関係性も指

摘)であり、「不完全」に敬意を示し、故意に何かを仕上げず、想像の働きを重視して完成させ

るので「数奇家」であるとする。

茶室の簡素清浄は禅院の競いからおこったものであり、会堂は禅修行者が会合して討論し黙想

する道場であり、正統の茶室の広さは四畳半で維摩の経文の一節によって定められた。

露地は外界との関係を断って、茶室そのものにおいて美的趣味を充分に味わう助けとなるよう

に、新しい感情を起こすためのものであり、茶室や茶道具が自然のありふれた材料を用いるの

は世の無常が感ぜられるとも説明する。

第5章では、芸術鑑賞として伯牙の竜門の琴に言及し、彼の精神は、物質の束縛を脱して、物

のリズムによって動いている。

かくのごとくして芸術は宗教に近づいて人間をけだかくするものであると説明し、小堀遠州な

どの茶人の美の捉えかたにも触れ、われわれは人生の美しい物を破壊することによって美術を

破壊しているとも指摘する。

第6章では、生花などを説明しているが、野菊に語った陶淵明や老子や空海、唐宋の時代に陶

器術が発達したことに触れ、日本で始めに花を生けたのは仏教徒であるとし、相阿弥、珠光、

専能などの流れや利休に言及し、茶人の花は、適当に生ける芸術であり、人生と真に密接な関

係を持っているからわれわれの心に訴えるとして、この流派を写実派や形式派と区別して自然

派と呼びたいとしている。

第7章では、宗教においては未来がわれらの背後にあり、芸術においては現在が永遠であると

して、茶の宗匠である利休や遠州に触れ、茶の宗匠が芸術界に及ぼした影響は偉大なものであ

ったが、処世上に及ぼした影響の大きさに比べれば取るに足らないものである。

家庭での些事の整理や生花に接する正しい精神、人間は生来簡素を愛するものであり、人情の

美しさを示し、彼らの教えによって茶は国民の生活の中に入っていった。

そして本書の最後は、利休の切腹でとじられている。利休の「最後の茶の湯」は悲壮の極とし

て永久にかがやくであろうと。

「いつになったら西洋が東洋を了解するであろう、否、了解しようと努めるであろう」(本書)

東洋の文化を蔑視していた西洋人を啓蒙するように、英文で『茶の本』は書かれたわけなのだ

が、全体を通して西洋の文化や思想などを対比、対照されてもいる。

さらに、『岡倉天心『茶の本』の思想と文体』東郷登志子氏によれば、

「この本が人の心を惹きつけてやまないのは、東洋の伝説と神話の中に事実を織り交ぜなが

ら、天心の心の風景を主観的・詩的イメージでうたいあげている点にもあるといえるからであ

る」

「天心はThe Book of Teaの中で音声媒体(oral instrument)としての言葉(speech)の持つ効果

を巧みに使い、読者の心(heart)に感情的に訴えかけることによって、難解な東洋哲学

(Oriental philosophy)を具体的なイメージ(mental image)として描きあげている」

原文では交響楽の構成手法を用いているという指摘もしている。

日本の旧帝国ホテルを設計した、アメリカが生んだ20世紀を代表する建築の巨匠フランク・ロ

イド・ライド(1867~1959)は、『The Book of Tea』を読んで部屋の「空間」の重要性に着目

し、「老子は口でそう言ったが、自分はそれを建てるのだ」と考えたという。

先日亡くなられたドナルド・キーンは、「The Book of Teaを読んで日本に幻想を抱き、来日し

て幻滅を与えられた」としたが、「ちょっと古めかしいが恐らく日本人の手で書かれた英文の

最高峰であろう」と天心の英語力の高さを評価している。

1950年代にアメリカを訪れた裏千家茶道の鵬雲斎宗室は、「日本のことはほとんど知らず、茶

の湯のことなどまったく知らない人々が天心の本を読んでいた」と記し、その時に天心の著書

がいかにひろく浸透しているかを思い知ったという。

その他にも、鈴木大拙などに先駆け老荘思想や禅を欧米諸国に英文で伝えた、という指摘もあ

る。

天心は文久2年12月26日(西暦1863年2月14日)に、福井藩から派遣された生糸貿易を営む石川

屋の手代であった岡倉覚右衛門の二男として横浜に生まれた。

蔵の角で生まれたので角蔵(覚蔵)としたが、そのいわれを嫌い、後に覚三と改名したという。

覚三も天心という号も道教の教理に関係しているという指摘もある。

厳格で教育熱心な父覚右衛門により、天心が物心つくと読み書きの他に、宣教師ジェイムズ・バ

ラの塾に入れて英語を習わせる。福井から橋本佐内の縁者であるおつねを乳母として呼び寄

せ、その送り迎えをさせた。

しかし、天心が英語を習い始めた頃に父に連れられて川崎大師に参詣した時に、標識の漢字を

読めなかったことに強いショックを受け、菩提寺である神奈川長延寺の住職玄導和尚に漢学の

手ほどきを受けさせた。さらには、天心9歳の時に母の死に直面し、菩提寺である長延寺に預

けられてもいる。

英語の勉強は相変わらず続けられていたが、寺では『大学』『中庸』『論語』『孟子』などを

一通り学んだ。

父は後妻として大野静を娶り、兄(港一郎)と弟(由三郎)はそのまま家で育てられ、妹(蝶子)は

農家に里子に出されたという。兄の港一郎は病弱だったこともあり16歳で亡くなっている。

旧藩主の命によって、父は石川屋を閉じ日本橋に移転して旅館を営むことになり、天心は家族

と一緒に東京に住むことになった。東京外国語大学へ入学し、14歳で東京開成学校高等普通科

に給費生として入学する。同校は東京大学に改称するが、天心16歳の時に文学部第二級に編入

され、政治学や理財学を修め、19歳で卒業する。

東大では中村正直に漢文学を学び、外では森春濤(しゅんとう)の茉莉吟社(まつりぎんしゃ)で

漢詩の稽古をし、加藤桜老(ろうおう)に琴を、奥原晴湖に南画を習っている。

この頃には、司馬 遷の『史記』をはじめとする中国古典を自家薬籠中のものとして用いていた

という。

長くなるのでまとめるが、その後の天心はフェノロサの通訳として京都・奈良の古社寺を巡遊

し、文部省御用掛に着任。美術振興運動を開始させ、夢殿救世観音と対面し、美術行政の樹立

を目指す。欧米美術視察にも出掛け、東京美術学校が開校すると校長に就任し(この頃に最初の

中国踏査旅行している)、美術教育施設構想を練るが失脚する。

日本美術院を開設するが経営が上手くいかず(この頃にインド探訪)、五浦に移転する。

大観、紫水、春草らと渡米し、ボストン美術館で日本画蔵品目録の作成にあたり、その後大正

二年まで合計5回ボストン美術館で勤務する。ボストン美術館の顧問や中国・日本美術部長に就

任し、この頃に『茶の本』が出版され、再び中国やインドやヨーロッパへ渡り、オペラ「白

狐」も執筆する。

体調不良により、ボストン美術館に休職願いを申請し、五浦で静養する。病を押して古社寺保

存会にも出席するが、大正2(1913)年、静養先の赤倉山荘で52歳で永眠する。

かなり省いて載せたが、天心の生涯を追いたければ『別冊太陽 岡倉天心』がビジュアルも豊富

で参考になる。


松岡正剛氏は『山水思想』の中で、「私が最も偏愛している富岡鉄斎はまごうかたなきタオイ

ストであり、気の画人であったし、幸田露伴もまたタオイストであって、気の文人だった。

おそらく岡倉天心もタオイストであろう」と指摘しているが、五浦でも道服姿で釣りをしてい

るし、ほぼ間違いなくタオイストだっただろうと思われる。

近代では沈黙し、現代では下品なプロパガンダに血眼になっている中国人も、天心に感謝す

べきだろう。

五浦の月 横山大観

  五浦即事

蟬 雨 緑 霑 松 一 村  蟬雨(ぜんう) 緑に霑(うるお)う 松 一村

鷗 雲 白 漾 水 乾 坤  鷗雲(おううん) 白く漾(ただよ)う 水 乾坤(けんこん)

名 山 斯 処 托 詩 骨  名山 斯処(このところ) 詩骨を托す

滄 海 為 誰 招 月 魂  滄海(そうかい) 誰が為に 月魂を招く

天心

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岡倉 覚三(天心) 岩波書店; 改版 1961-6-5
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古田亮 平凡社 2013-6-27