沖縄学の父 /『古琉球』 伊波普猷



伊波普猷は明治9年(1876)2月20日生まれ。ぼくと同じ那覇生まれなので親近感が湧く。

本書は那覇の大型書店で『おもろさうし』と一緒に購入した。平台の上に山になって

売られていたのには驚いた。(売れてなさそうだったが)

本土では見かけない光景だ。

伊波普猷(いはふゆう)

伊波普猷は、現代の沖縄人に忘れ去られた存在といえるのかもしれない。

ぼくには、沖縄に親戚がたくさんいるが、誰も知らない。

沖縄を誇りにし、歴史にも多少は精通し、首里城近くの昔ながらの民家に住み、

琉球畳の床の間に三線を大事そうに立てかけていた、祖父からも、伊波普猷のことを

聞かされた覚えはない。(祖父は、2016年に亡くなった)

(首里城からの風景。近くに祖父母の家があり、子供の頃に歩いてよく来ていた)

本書は伊波普猷の処女作であり、代表作でもあり、沖縄学樹立の記念碑的作品でもある。

初版は明治44年で沖縄公論社から出版され、その後、大正、昭和と東京の出版社から

再版されている。

確か『古琉球』の初版本が、沖縄県立博物館に展示されていたかと思う。

戦後において、その沖縄学を継承したといっても過言ではない、

外間守善氏(ほかましゅぜん)も、

「今、沖縄を中心とする南島に学問的関心を寄せようとする者、あるいは、

沖縄問題に関心をもつ者にとって、伊波普猷の業績と心を素通りして進むことはできまい」。

と述べられており、浦添の丘の中腹には、顕彰碑も建てられていて、そこには、

彼ほど沖縄を識った人はいない

彼ほど沖縄を愛した人はいない

彼ほど沖縄を憂えた人はいない

彼は識ったが為に愛し愛したために憂えた

彼は学者であり愛郷者であり預言者でもあった

と、記されている。

本書は、初版をバージョンアップさせた、改訂初版を基に、

42篇と付録の『混効験集』解題が収められている。

そんな“沖縄学の父”であり、沖縄から日本を照射しようとした、伊波普猷の言葉を

摘んでいきたい。(断片的にはなるが)

琉球の単語は十中八九までは日本語と同語根のものであるといっても差支えはない。

ただ音韻の変化や語尾の変化によって、ちょっときいては外国語のようであるが、

能くきいていると日本語の姉妹語である事がわかるであろう。

(琉球人の祖先に就いて)『古琉球』 伊波普猷

琉球群島には記紀万葉にあるような日本上古の言葉が夥しく遣っている。

(琉球人の祖先に就いて)『古琉球』 伊波普猷

実に琉球に於ては推古朝以前の音韻変化と足利時代の音韻変化が一度に

見られるようになっている。

(琉球人の祖先に就いて)『古琉球』 伊波普猷

日本語の原形動詞は今日の四段活用に近いものであったとの説が有力であるが、

琉球語の動詞はすべて四段活用のように活いている。

(琉球人の祖先に就いて)『古琉球』 伊波普猷

琉球語の動詞の活用が、記紀万葉の中に僅ばかり残っていて、

七世紀以前の形をほのめかしている動詞の活用に酷似しているのは注意すべき点である。

(琉球人の祖先に就いて)『古琉球』 伊波普猷

思うに琉球人の祖先が大和民族と分離せし当時はその言語には千という思想をあらわす言葉は

まだ無かったのであろう。

(琉球人の祖先に就いて)『古琉球』 伊波普猷

これまで述べた証明で日本語と琉球語との姉妹語であることがほぼわかったが、

もし言語が人種の所属をきめる完全な尺度であったならば、琉球人は直ちに日本人と

同人種になるのである。

(琉球人の祖先に就いて)『古琉球』 伊波普猷

今日の沖縄人の宗教思想はかなり複雑であるが、その中から儒教や仏教や道教などの

分子を引き去って見ると、日本の神道と殆んど同じようなもののみが残る。

(琉球人の祖先に就いて)『古琉球』 伊波普猷

この琉球開闢の神アマミキヨの名は琉球人の祖先が九州から来て、

奄美大島を経て琉球に来たことを証明する手がかりになると思う。

奄美大島の住民もまた自らアマミキヨの後裔と称している。

(琉球人の祖先に就いて)『古琉球』 伊波普猷

とにかく今日の沖縄人は紀元前に九州の一部から南島に殖民した者の子孫であるという

ことだけを承知してもらいたい。

さてこの上古の殖民地人は久しく本国との連絡を保っていたが、十四世紀の頃に至って、

本国の方では吉野時代の戦乱があり、自分の方でも三山の分争があったので、

本国との連絡は全く断絶してしまったのであります。

この時に当って沖縄人は支那大陸に通じて臣を朱明に称し、盛んにその制度文物を

輸入したのであります。

当時の沖縄人はやがて、支那人に扮した日本人であったのである。

十五世紀の頃に至って、沖縄島に尚巴志(しょうはし)という一英傑が起って三山を

一統した時に、久しく断絶していた本国との連絡は回復せられ、

日本及び支那の思潮は滔々として沖縄に入り、

十六世紀の初葉に至って沖縄人は日本及び支那の文明を消化し沖縄的文化を

発揮させたのである。

これ即ち尚真王(しょうしん)が中央集権を行った時代である。

琉球の万葉ともいうべきオモロが盛に歌われたのもこの時代である。

琉球語を以て金石文や消息文を書いたのもこの時代である。

而してこの精神は遂に発して南洋との貿易となり、山原船(やんばる)は遥に

スマトラの東岸まで航行して葡萄牙(ポルトガル)の冒険家ピントを驚かしたのである。

沖縄人はこの時代に於て既に勇敢なる大和民族として恥ずかしくないだけの資格を

あらわしたのであります。

(琉球史の趨勢)『古琉球』 伊波普猷

さて沖縄の方では古来国子監や福建あたりで学んで帰った久米村人が支那思想の代表者で

鹿児島で学んで帰った留学僧の連中が日本思想の代表者であったが、

慶長の頃に至ってはこの儒者と僧侶が銘々の職業を離れて政治に嘴を容れるように

なっていたのであります。

慶長十四年の琉球征伐は畢竟二思想最初の大衝突に過ぎないのであります。

(琉球史の趨勢)『古琉球』 伊波普猷

諸君は言語の比較から日本人と琉球人とが同一の人種であるとの説を始めて称えた人を

言語学者チェムバレン氏と聞いておられるかも知れぬが、

これはチェムバレン氏ではなくて、吾が尚象賢氏であると心得てもらいたいのであります。

(琉球史の趨勢)『古琉球』 伊波普猷

当時沖縄人が薩摩に対して悪感情を有っていた時に、尚象賢は日琉人種同系論を

唱えたのであります。

(琉球史の趨勢)『古琉球』 伊波普猷

尚象賢死後の沖縄はトントン拍子で尚象賢が指定した方向へ進んだのでございます。

尚象賢の死後日本との交通は頗る頻繁となり、王子や貴族の年毎に薩摩や江戸に

出かけるのが多くなり、支那との往来も昔のように続けられて、

親方や官生の支那に行くものも少なくはなかった。

(琉球史の趨勢)『古琉球』 伊波普猷

沖縄人の最大欠点は人種が違うということでもない。言語が違うという事でもない。

風俗が違うという事でもない。習慣が違うということでもない。

沖縄人の最大欠点は恩を忘れ易いという事である。

(沖縄人の最大欠点)『古琉球』 伊波普猷

沖縄に於ては古来主権者の更迭が頻繁であったために、

生存せんがためには一日も早く旧主人の恩を忘れて新主人の徳を頌するのが

気がきいているという事になったのである。

(沖縄人の最大欠点)『古琉球』 伊波普猷

陽に忠君愛国を説いて陰に私利を営むような教育家はかえって沖縄人のこの最大欠点を

増長させるばかりである。

(沖縄人の最大欠点)『古琉球』 伊波普猷

明治十二年の廃藩置県は、微弱となっていた沖縄人を改造するの好時期であったのである。

思想上に於てもまた同じ現象が見られる。数百年来、朱子学に中毒していた沖縄人は、

急に多くの思想に接した。

即ち活きた仏教に接し、陽明学に接し、基督教に接し、自然主義に接し、

その他幾多の新思想に接した。

(進化論より見たる沖縄の廃藩置県)『古琉球』 伊波普猷

仮りに沖縄人に扇子の代わりに日本刀を与え、朱子学の代りに陽明学を教えたとしたら、

どうであったろう。

幾多の大塩中斎が輩出して、琉球政府の役人はしばしば腰を抜かしたに相違ない。

そして廃藩置県も風変わりな結末を告げたに相違ない。

(沖縄人の最大欠点)『古琉球』 伊波普猷

平家落のことはただ八重山や与那国の口碑にあるのみならず、

二百年前に出来た『遺老説伝』にもあるから、よほど古くからあった口碑と思われる。

まだ信ずる余地がある。

特に八重山の人が古来自殺する時に腹を切って死ぬところなどは、ヨリ大なる証拠である。

(土塊石片録)『古琉球』 伊波普猷

英祖の時(弘長元年)に、何処からか禅鑑という僧が漂流して来て、

浦添に極楽寺を建てられたのは注意すべき事と思う。

仏教はこの時始めて沖縄に入ったのである。

(浦添考)『古琉球』 伊波普猷

とにかく沖縄史の幕が開けてから尚巴志が三山を統一するまで、

およそ三百年の間首里おやぐにで繁昌したのは浦添の人であった。

(浦添考)『古琉球』 伊波普猷

南洋諸島との貿易は十五、六世紀に至って漸く盛んになり、

支那との往来もまた繁くなったが、泊港はこれらの船舶を入るるには余りに狭く、

傍(かたがた)政治上の都合などもあって、那覇を築港して貿易港にあてた。

(浦添考)『古琉球』 伊波普猷

『おもろ双紙』は二十二冊、歌数総べて千五百五十三首、

西暦千二百四十年頃から六百四十年頃までほとんど四百年間のオモロを収めたので、

琉球の古語や歴史を研究するに欠くべからざる資料である。

(阿麻和利考)『古琉球』 伊波普猷

米国の水師提督ぺルリは沖縄に滞在中、一日中城城に遊んで中城城址を測量し、

徐ろに南島の古英雄をともらうたことがある。

(阿麻和利考)『古琉球』 伊波普猷

自分はかつて首里の書家田名真宣氏(たなしんせん)の所蔵にかかる尚円王の頃から(四百年前)

現今に至るまでの首里王府の辞令を見たことがあるが、

いずれも平仮名を用いた琉球文なるを見て面白く感じた。

そしてこれを見て一層面白く感じたのは、沖縄の書風が島津氏の琉球征伐を境界線として

二つに分れることである。

前のはいずれも活気があるが、後のはいずれも活気がない。

これで政治というものは人間の指の先まで影響を及ぼすものであることを知った。

(琉球に於ける倭寇の史料)『古琉球』 伊波普猷

琉球が始めて支那に通じたのは、今から五百三十年前即ち明の洪武の五年である。

(官生騒動に就いて)『古琉球』 伊波普猷

琉球では国劇は今から百八十七年前に、蔡温(さいおん)という政治的天才が

三十六島を経営した時代に始まったのである。

(琉球の国劇)『古琉球』 伊波普猷

実に聴いてうんざりするような琉球の音楽は、琉球数百年の悲哀なる歴史を

物語っているような気がする。

私はこれを辛抱して聴いていることの出来ない人には、

琉球民族の心理はとても解せまいと思う。

(琉球音楽者の鼻祖アカインコ)『古琉球』 伊波普猷

さて吾人の誇りとすべきこの音楽が、何時頃誰れによって始められたのであるかは、

読者の聞こうとする所であろう。

この名誉を荷うべき人は、三百八、九十年前にいたアカインコという人である。

(琉球音楽者の鼻祖アカインコ)『古琉球』 伊波普猷

三味線は明の嘉靖の頃支那から琉球に渡り、それから日本に渡ったとのことである。

(琉球音楽者の鼻祖アカインコ)『古琉球』 伊波普猷

先達植物採集に来ていた独逸人(ドイツ)アンドレー氏も頻りに那覇附近の風光を賞讃して、

彼が幼少の時から住みなれし伊太利(イタリー)ミラノに似ているといっていた。

なるほど琉球は日本の伊太利であろう。

(オモロ七種)『古琉球』 伊波普猷

首里那覇の婦人たちは、家人親戚の海外へ旅立ちした後(正月と五月にも)、

大勢集まって、手拍子や鼓に合せて、これらの「旅ぐわいにや」を謡い、

あるいは輪になって舞い、それで憂情を慰めたもので、この風習は日露戦争の頃まで

行われていた。

(琉球の口承文芸)『古琉球』 伊波普猷

しかしここに当然起こるべき先決の問題は、琉球種族の日本民族に対する

関係如何ということである。

もし二者の間に何ら人種学的の関係がないとしたら、大島正健氏が言われた通り、

琉球語の例は日本語を解釈するに何らの力にもなるまい。

ところが二者の間の人種学的関係を解決するに与って力があるのである。

(P音考)『古琉球』 伊波普猷

上述の引いた言葉を読めばわかると思うが、伊波は日本民族南漸説を採っている。

柳田国男は、

「稲作技術を携えて遥か南方から『海上の道』を北上し、沖縄の島づたいに渡来した…」

と、伊波と対照的な立場をとっているが、現代に著された科学的な根拠に立った

文献を紐解けば、どちらが正しいのか、把握することが出来るかと思う。

(ぼくにとっては、どうでもいいことだが)

ちなみに、伊波は柳田と大正一〇年一月に沖縄で出逢っている。

(本土で、伊波の噂は聞いていたみたいだ)

柳田が那覇滞在中は図書館に毎日のように訪ね、伊波と話をしてすごしていたらしい。

伊波もこの時期は、図書館長や社会教育の講演などに忙殺され、

学究から遠ざかり啓蒙運動に勤しんでいたが、理解されず挫折を味わっていた。

だが、そこで柳田に逢い、『おもろさうし』の重要性を吹き込まれ、

再び学究の道へと歩むことを決心する。

大正一三年には『おもろさうし』の校訂作業を完成し、それを携え上京し、

東京で柳田と懇談もしている。

そして、もう一人の民俗学者の折口信夫とも、大正十年七月に沖縄で出逢っている。

折口は柳田から話を聞き、南島への想いを駆られて、単身沖縄に来て、

那覇の図書館も訪ねている。(その後も複数回沖縄を訪れている)

沖縄に「ニライ・カナイ」(海の彼方の楽土)という語があるが、

久しくこの言葉も忘れ去られていたが、伊波普猷がこの語に注目し、

本土の古代信仰と結びつけて意味を解こうとしたのが、柳田国男であり、折口信夫だった。

折口信夫の『琉球の宗教』という論文で、

「琉球神道で、浄土としているのは、海のあなたの楽土、

儀来河内(ギライカナイ)である……」。

別の著作でも、

「沖縄に行って、沖縄の巫女の古詞を奏する様を見たが、それを見ていると、

考えずに言葉がすらすら出て来る。それが私に入って来た。

私の古語の詩は、あの巫女がしゃべっているのと同じですね」

など、沖縄からインスピレーションを受けて、本土の古代信仰の謎を解こうと

したのがわかる。

伊波と同様に折口も「沖縄から日本を照射しようとした」ともいえるだろう。

その他にも、柳宗悦藤田嗣治、岡本太郎などの芸術家連中も、

沖縄からインスピレーションを受けているのが面白い。

そんな伊波は、戦後の混乱期、昭和二二年八月一三日に生涯を閉じた。

現在の沖縄といえば、先の大戦のことや米軍基地のことしか語られないが、

上に挙げた民俗学者や芸術家のように、古代の歴史や文化、芸術などにも光を照らしたい。

まともな沖縄の人なら、基地の問題は現今の国際情勢を見れば、

解決できないことは理解している。

ぼくの沖縄に住んでいる親戚もそう感じているし、

多くのまともな沖縄の人も感じていることだろう。

その親戚は基地で勤めていたこともあるし、母親の知り合いもそうだ。

メディアで報道されているみたいに、基地に対してネガティブには捉えていないし、

寧ろ中国の脅威の方を、ネガティブに捉えている。

今の親中派の翁長知事は、基地問題に忙しく、他の問題を疎かにしている印象を抱く。

ちなみに、ぼくの祖父母も翁長という。(もしかしたらルーツが同じなのかもしれない)

沖縄の一般人の見解は、純正な経済発展を望んでいる。

そのポテンシャルも秘めているし、伸びしろもある。

ぼくは本土に住んでいるが、今年の11月の県知事選挙が見ものだ。

私どもの国土に移り住んだ祖先のにらいかないは、

実はとこよのくにという語で表されていたのであった。

『古代生活の研究 常世の国』折口信夫

沖縄人は、百中の九十九まで支那人の末ではない。

我々の祖先と手を分かつようになったころの姿を、

今に多く伝えている。

万葉人が現に生きて、琉球諸島の上に、万葉生活を、大正の今日、

我々の前に再現してくれているわけなのだ。

『最古日本の女性生活の根底』折口信夫

鳴く鳥の声 いちじるくかはりたり。沖縄じまに、我は居りと思ふ

釈迢空

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伊波 普猷,外間 守善 岩波書店 2000-12-15