『禅海一瀾講話』釈宗演



孔 聖 釈 尊 非 別 人  孔聖・釈尊は別人に非ず

彼 謂 見 性 此 謂 仁  彼は見性と謂い 此れは仁と謂う

脱 塵 休 怪 吾 麁 放  脱塵 怪しむ休(なか)れ 吾れの麁放(そほう)なるを

行 箇 浩 然 一 片 真  箇の浩然一片の真を行うのみ

今北洪川 (親戚故旧に生別を告げ、儒を捨てて禅に入られたとき)

今北洪川(いまきた・こうせん)は、文化十三(一八一六)年、摂津国西成郡福島村に生まれたが、

幼くして藤田東畡に儒学を学び、広瀬旭荘に詩歌や文章を学んだ。

始めは四書六経やその傍ら諸子百家を暗記していたのだが、これらは古人の粕を嘗めているに

過ぎないと感じて、父から与えられた禅書『禅門宝訓』を読むようになった。

禅書を読むと、どこかで見たことがある様な気がしたが、たまたま「教外別伝、不立文字」の

言葉に出逢い、机を叩いて「コレだ!」と叫び合点した。

その後、「惜しい哉、明師無し」と失望していたが、二十五歳の時に、家族や今まで学んでい

た書物を捨て去って、京都相国寺の大拙禅師のもとで出家得度した。大拙老師のもとで見性す

ることが出来たというが、その指導はとても厳しかったという。

相国寺では八年ほど修行していたが、大拙老師の命によって備前の曹源寺に行き、棲梧軒儀山

(せいごけんぎさん)老師に参禅し、その奥義を極めた。

三十九歳で京都嵯峨の天龍寺塔頭瑞応院に住し、その後、周防岩国の藩主吉川監物の招きに応

じて、永興寺に入った。

永興寺では数十年住して、明治八(一八六三)年に鎌倉円覚寺の管長となり、臨済宗大黌長を兼

ね、明治二十五(一八九二)年一月十六日に七十七歳で亡くなった。

法を伝えた弟子に釈宗演(洪嶽宗演)や函應宗海(かんのうそうかい)や奥宮慥斎(ぞうさい)など

を輩出したという。(臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺老師の「解説」に詳しい)

今北洪川 文化13(1816)年~明治25(1892)年

洪川のもとには、山岡鉄舟が参じたことが有名だが、その他にも多くの経済人、政治家、官僚

などが参じている。住友の重役を務めた鈴木馬左也、三井の重役になった早川千吉朗、総理大

臣の平沼騏一郎、前田家顧問の織田小覚。

さらには、貞太郎こと若き日(二十歳)の鈴木大拙も洪川が亡くなる半年前から円覚寺で参禅

し、遷化の場にも立ち会っている。

ちなみに、口の悪い勝海舟は『氷川清話』で今北洪川のことを「かつてその名を聞いて居たか

ら、一度訪問して見たが、あの人は、少し俗気がある」と語っている。

勝は自分の師でもあった佐久間象山についても「どうも法螺吹きで困るよ」と語っている。

釈宗演 安政6(1860)年~大正8(1919)年

釈宗演は、安政六(一八五九)年に福井県高浜に生まれ、十二歳のときに縁戚だった妙心寺の釈

越渓老師のもとで出家得度し、十五歳のときには、建仁寺山内の両足院で千葉俊崖老師につい

て修行した。そこでは後に建仁寺の管長となる竹田黙雷と共に参じている。

二人は後に「東の宗演、西の黙雷」と称されるようになる。

その後宗演は、越渓老師の勧めで、伊予八幡浜の大法寺の西山禾山(かざん)老師に参じ、三井

寺の大宝律師からは『俱舎論』を学び、備前の曹源寺では儀山善来老師に師事し、二十歳のと

きに円覚寺で今北洪川に参禅する。洪川の厳しい指導を受け、二十五歳のときには印可を受け

た。さらに翌年には、円覚寺開基北条時宗の廟所である仏日庵の住職に就任し、横浜の宝林寺

で提唱を始めたという。

洪川の後継者として期待されていた宗演だったが、周囲の反対を押し切って慶應義塾に入学し

英語などの学問を習得する。このときに福沢諭吉と知り合う。

さらに面白いのが、山岡鉄舟や福沢諭吉の勧めもあり、慶應で学んだ後にセイロンに行って仏

教の原点を学ぼうとする。そのときに、福沢は金を贈って励まし、友人などに募って留学費を

助け、山岡も大金を贈っている。

しかし、セイロンでは満足のいくものではなく、留学費用が不足して落ち着いて勉学、修行し

ていられなかった。

ただ、この留学でサンスクリットや英語は上達し、当時のセイロンはイギリスの植民地だった

が、国際情勢の厳しさを肌で感じ、後の国際派僧侶の基礎が出来た。(『大拙と幾多郎』森清)

帰国すると、明治二十五(一八九三)年の三十四歳のときに円覚寺の管長に就任、期間を決めて

外出せず坐禅すること(雨安居)を結制し、そこの名簿には鈴木大拙の名前が載っているとい

う。

そして、その翌年にはシカゴで万国宗教会議に参加し、演説することになる。その演説草稿は

宗演が作り、鈴木大拙が英訳したみたいだ。シカゴではポール・ケーラスと親しくなった。

シカゴから帰国すると、一時期円覚寺と建長寺の管長を兼任していたが、明治三十八(一九〇

五)年にそれらを辞し、再びアメリカに渡る。

アメリカでは、ワシントン、ニューヨーク、シカゴなどで講演をするが、ワシントンでは時の

大統領セオドア・ルーズベルトと会っている。その後、ヨーロッパをへて明治三十九(一九〇六)

年に帰国する。

帰国すると、大正三(一九一四)年には臨済宗大学(現・花園大学)の学長にも就任し、大正五(一

九一六)年には再び円覚寺管長に就任する。

しかし、その三年後の大正八(一九一九)年十一月一日、六一歳の若さで遷化する。

釈宗演といえば、夏目漱石が参じたことが有名であり、漱石の導師もつとめ「文献院古道漱石

居士」という戒名も宗演が選んでいる。鈴木大拙は宗演から「大拙」の居士号をもらってい

る。

宗演の講話は一般人にもわかりやすく、語り口もやわらかいといわれているが、宗演亡きあと

も帰依者は募ったという。

本書は、そんな今北洪川が漢文で儒仏一致を説かれた『禅海一瀾(ぜんかいいちらん)』(文久三

(一八六三)年に吉川監物のために説いて献上した)を、弟子である釈宗演がわかりやすく講義し

たもの。

『禅海一瀾』というのは孟子の中に出てくる言葉で、「大海を観るに術あり、先ずその瀾を見

る」という意味で、宗演は「ソコデこの秘音、気高い所の宗旨を究めようというに就いては、

ズッと低い所から初める。浅きよりして深きに及び、卑きよりして高きに登るという有り様じ

ゃ」と評している。

さらに洪川は、大顚和尚の「子をして孔子を知らしめば則ち仏の義亦た明らかなり」を引用

し、「山野、此の篇有る者、蓋し孔子を知らしめんと欲するのみ」「而して後、泛く禅海の汪

洋を観れば、則ち朝霧を開いて江海の佳気を望むが如く」としている。

韓退之や欧陽修などは頻りに廃仏を唱え、仏者もまた儒者を悪く貶す事があるが、お釈迦様

は、天の黙示も、神様の御告げも、何も受けた訳ではない。畢竟自力修行の結果、宇宙の大法

を開悟せられたばかりである。「我が心体の妙用は、直ちに我が大道なり」で、吾が心の本体

から開発する所の百般の妙用というものは直ちに我が大道で、我が心の外に大道がある訳では

無い。

故に我が心を徹見すれば、直ちにそれが大道である。「儒仏の差別を挟む勿れ」、既にこれ大

道であるから、これは儒道じゃの、これは仏道じゃの、その他神道であるとか、耶蘇教である

とか、そういう差別を挟むの余地が無い。(『禅海一瀾講話』釈宗演)

我が「禅海」は「波瀾洪大」だから、何一つ嫌う底のことなし。仏も嫌わず、魔も嫌わず、天

上界も嫌わず、同時に地獄界も嫌わず、また一切の物を嫌わず、即ち清濁併せ呑むという有り

様。そんならばと言って、同時にまた何かに執着するかと言えばそうでない。どういうことが

あっても、それに執着することがない。口ではそう言いますが、こういうことは実際修養の上

から得来ったものでなければ、本当の用を為すことは出来ぬ。(『禅海一瀾講話』釈宗演)

「禅」というものは、ただ禅宗に限られた訳ではない。

孔子六経の中にも立派に「禅」がある。(『禅海一瀾講話』釈宗演)

また仏教というものは孔子教の素地を作って居る様な有り様である。互いに相い助けて居る。

「両教互いに影響し」、この仏教と儒教というものは、影の形に従うが如く、響きの声に応ず

るが如く、どうしても離れないものである。

「以て大道を発輝す」。儒教と仏教と相い俟って、一個の大道というものを其処へ現わすので

ある。(『禅海一瀾講話』釈宗演)

しかしながら仏教は、また独りでは十分と言われぬ。孔子教、老子教の様なものを以て助け

る。即ち仏教で助道品と言いますが、仏は二教を以て助く、こういう様に論じて来た。

孔老は仏を以て研究しなければ徹底しない。仏は孔老を以て助けとする。

(『禅海一瀾講話』釈宗演)

というような感じで語られ、全五十八回の講義で文庫にして七〇〇ページ以上となっている。

本書では最初に今北洪川『禅海一瀾』の「和訓」を掲げ、次に本文である「漢文」、その後に

釈宗演の「講話」を載せている。

洪川は儒仏の一致を説いているのだが、宗演はもっと広げて、そこにキリスト教やイスラム教

も入れて言及している箇所もある。

儒教の方は、堯・舜・禹・湯・文・武・周公、孔子や孟子、『大学』や『中庸』は勿論のこと、

王安石、蘇軾、周敦頤、程明道、程伊川の程兄弟や朱子、王陽明や陸象山などを深くまで理解

し、易や老荘にも言及しながら、仏教(主に禅)と対照している。

これを把握して言葉の意味にも余裕で言及し、読み解いている釈宗演もまた凄い。

所々儒者や僧侶の漢詩も挿まれていて、『維摩経』に多く言及しているのも目に留まった。

本書を読めば儒教の流れも理解できるし、中国の儒者らが仏教にどのように影響を受けたのか

ということも理解できる。

そして、最後には、

願くば此の功徳を以て普く一切に及ぼし

我等と衆生と皆な共に仏道を成せんことを

で結ばれている。


本書は釈宗演百年諱にあたり出版されたものであり、その他にも観音の心を語った講和集『観

音経講話』が復刊され、中島美千代氏の『釈宗演と明治 ZEN初めて海を渡る』や漫画で描かれ

た高島正嗣氏の『ZEN 釈宗演』なども出版されている。

禅の手引きである釈宗演『禅に学ぶ明るい人生』も今年に入って出版され、釈宗演関係の著作

が充実してきている。

上の動画は本書の「解説」も書かれ、臨済宗円覚寺派管長でもある横田南嶺老師の 「釈宗演老

師を思う」と題した講演であり、熱意を持って釈宗演について語られているので、心に響く。

今北洪川や釈宗演のような傑僧が「令和」の時代にも響き続けることを願うばかりである。

禅海に入って、禅宗を知ろうというならば、「先ず自己の本性を見得」しなければならぬ。

自分の「本性」が分ったならば、仏法の本領が分ろう。

仏法の本領が分ったならば、宇宙の真理の本体が分るであろう。

『禅海一瀾講話』釈宗演