天皇家にはなぜ姓がないのか。松本健一氏の『「孟子」の革命思想と日本』



① 斉の宣王問いて曰く、「湯、桀を放ち、武王、紂を伐つ。これありや」。

孟子対えて曰く、「伝においてこれあり」。

曰く、「臣にしてその君を弑す、可ならんや」。

曰く、「仁を賊(そこな)う者これを賊と謂い、義を賊う者これを残と謂う。残賊の人、これを

一夫と謂う。一夫の紂を誅するを聞くも、いまだ君を弑(しい)するを聞かざるなり」。

― 宣王が孟子にたずねた。

「湯王は桀王を追放し、武王は紂王を討伐したというが、本当であろうか」

「そう伝えられております」

「臣下でありながら、主君を殺してもいいものだろうか」

「仁をそこなうことを賊といい、義をそこなうことを残といいます。

残であり賊であるような男、これはすでに主君ではなく、なみの人間にすぎません。

なみの人間である紂を誅殺したいという話は聞いたことがありますが、主君を殺したという話

は、いっこう聞き及びません」

梁恵王篇『中国の思想 第3巻 孟子』(徳間書店)

② 孟子曰く、「民を貴しとなし、社稷これに次ぎ、君を軽しとなす。

この故に丘民に得られて天子となり、天子に得られて諸侯となり、諸侯に得られて大夫とな

る。諸侯、社稷を危うくすれば、変(あらた)めて置(た)つ・・・」

― 人民がいちばん貴い。次が社稷(国家の守護神)、君子はその下である。

人民の信頼を受ければ天子になれるが、天子の信頼を受けても諸侯にしかなれない。

諸侯の信頼を受けてもせいぜい大臣だ。社稷をないがしろにする諸侯はとりかえてもよい・・・

尽心篇『中国の思想 第3巻 孟子』(徳間書店)

③ ・・・されば漢土(もろこし)の書は経典史策詩文にいたるまで渡さざるはなきに、かの孟子の

書ばかりいまでに日本に来たらず。此の書を積みて来る船は、必ずしも暴風にあひて沈没よし

をいへり。

それをいかなる故ぞととふに、我国は天照すおほん神の開闢しろしめししより、日嗣の大王絶

(たゆ)る事なきを、かく口賢(さか)しきをしへを伝へなば、末の世に神孫を奪ふて罪なしとい

ふ敵(あた)も出(いづ)べしと、八百(やほ)よろづの神の悪(にく)ませ給ふて、神風を起こして船

を覆し給ふと聞。

されば他国(かのくに)の聖(ひじり)の教えも、ここの国土にふさはしからぬことすくなから

ず・・・

― したがって中国の書物は、経典や史書、詩文にいたるまでわが国に伝わっていないものはな

いのに、この『孟子』の書物だけは日本に来ていません。この書物を積んで来た船は、必ず暴

風にあって沈没するとのことが言われています。

それはなぜかとたずねると、わが国は天照大神が国を開きお治めになってから、代々天皇が絶

えることなく続いているのに、このようにこざかしい教えが伝わってくれば、後世、天皇の子

孫の地位を奪っても罪にならないと主張する反逆者も出るかもしれないと、八百よろずの神々

がお憎みになって神風を起こして船を転覆なさるのだと聞いています。

だから中国の聖人の教えだと言っても、わが国の国土にふさわしくないことも少なくないので

す・・・

白峰『雨月物語』上田秋成 (ちくま学芸文庫)

著者の代表作『評伝 北一輝』(全五巻)もそうだったが、本書も刺激的でスリリングな内容とな

っている。

中国の皇帝は、全部姓があった。

秦の始皇帝(前二五九~前二一〇)は嬴(えい)という姓、漢の劉邦(前二四七~前一九五)は劉、

明の皇帝は初代が朱元璋(一三二八~九八)は朱、清は満洲人の皇帝だったが愛親覚羅という

姓、韓国の李朝でも李という姓があった。

中国の皇帝も、韓国の国王も、王朝の天子はみな姓があった。

しかし、いつからか日本の天皇家には姓がない。

明治天皇(一八五二~一九一二)は睦仁、昭和天皇(一九〇一~八九)は裕仁、現在の今上天皇(一

九三三~)は明仁、というふうに下の名前はあるが、姓がない。

著者があらゆる歴史書を調べてみても、日本の皇室、天皇家が姓を持たなくなったのはいつか

らか、なぜそのようになったのか、という理由は書かれてないし、日本の学者も誰も知らない

という。

「日本史最大の謎の一つです。天皇はいつから姓がなくなったのか、なぜなくなったのか、

これをもし皆さんが論文で書くことができれば、博士号が簡単にとれます。

それくらいこの謎は、事実としてはわれわれのところまで届いているものです」(本書)

本書は、革命思想を説いている『孟子』が関係しているのではないかとして、天皇になぜ姓が

ないのかに迫り、その『孟子』が日本においてどのように認識されてきたのかを概観する。

天皇家になぜ姓がないのか。

ピンときている方も多いと思うが、結論からいうと、中国のように易姓革命を起こさせないた

めに、日本史の中で考えに考えた人が、天皇家から姓をなくし、姓を与える役にした。

その人物が『日本書紀』の編纂を命じた天武天皇であり、その協力者が藤原不比等だったので

はないか、と著者は推測している。

昔も今も中国は一党独裁の国ではあるが、国家主席は、民衆の、「丘民(衆民)」の信を得られ

なくなれば、その瞬間に地位を追われる、そういう国柄である、と著者は指摘する。

これは内藤湖南も、

「支那は存外輿論の国である。支那は国の制度の上からいうと、無限の君主独裁の国である。

それと同時に支那は非常な輿論の国である。

輿論というのも支那から来た語であるが、どこから出て来るか分からぬ多人数の評判というこ

とに重きを措く国である」

と指摘していたことでもある。

皇帝がその民を愛し慈しむ仁という徳を失って、民衆の信頼を得ることができなくなれば、

皇帝は皇帝でいられなくなる。

『孟子』は上者(君)の「仁」に対して、下者(臣)の「義」を強調しているが、『孟子』の核心

は、冒頭で引用した②の「民を貴しとなし、社稷これに次ぎ、君を軽しとなす・・・」で、一番尊

いのは民。

仁という徳を持っていない皇帝(暴君)は「民」を貴しとしないので、殺していい、弑(しい)さ

れる、という革命思想を謳っている。それが冒頭①で引用した有名な「湯武放伐論」の例を引

いて説明されている。

斉の宣王の問いである、「湯、桀を放ち、武王、紂を伐つ。これありや」というのは、

夏(か)という神話上の王国(実在したかもしれないが)に桀という暴君が出てきた。

暴君だったこともあり、桀の臣下であった湯王に殺された。その湯王は新しく殷という国を興

した。殷は実際に存在し、青銅器などがたくさん発掘されている。

殷の王朝は長く続くが、殷の紂という国王がこれまた暴君であったために、殷につとめていた

官人であった武王に討たれた。その武王もまた、周という国を興し、以後七百年続いたといわ

れている。孔子が一番理想とする国でもある。

これは良いことなのか、という斉の宣王の問いに対して孟子は、仁を持ってない君主は、

ただの一夫であり君主ではないので殺してもかまわない、としている。

これが「湯武放伐論」のあらまし。

「弑(しい)」という言葉は、皇帝や主君を殺すという意味で、「シ」という中国読みであっ

て、日本読みはない。

端的に解釈すれば、『孟子』は皇帝の姓を変える易姓革命、国つまり王朝の名を変える易世革

命の革命思想、が書かれている。

「皇帝や王を弑(しい)するような革命は、日本にはない。つまり、易姓革命のない国である。

そのために日本は維新という変革をする。

これが、日本の、天皇家が姓を持たず、天皇制という国家統治システムをつくってきた国柄

だ、ということだろうと思います。

そうすると、たぶん日本の天皇制をつくった人びとは、『孟子』の思想、その革命の思想は十

分に知りながら、そのことを反面教師にして、革命をつづけてきた中国とは違う、非革命の国

づくりをしていこうとした。中国の王朝の皇帝には、周には姫、秦には嬴・・・・・・と歴代全部姓

がある。日本の王朝の天皇家はその姓をなくしてしまう。そのことによって、易姓革命、易世

革命の起こらない国づくりをした。中国では革命を何回でも起こして易姓革命を行ってきた。

それに対して、日本には革命自体がないという国柄にするために、天皇家から姓をなくした

り、弑という字の音読みだけにして、訓読みをなくしてしまう、という文化の方向性をとって

きた、ということです」(本書)

日本に儒教が入り始めたのは、四世紀の応神天皇のころとされているが、革命思想としての

『孟子』は巧妙に排除された。

聖徳太子の時代から『孟子』が入っていることは入っているが、実際の統治のテキストとし

て、あるいは大学で統治思想の参考文献としてそれを使うことは、なされない。

むしろ秩序の安定的持続のためには『孟子』は排除していくという方法で、そのまま江戸時代

まで『孟子』の影響は、道徳的な「義」の強調以外に日本にはほとんどないと。

その『孟子』を密教的な扱いにしたのが、天武天皇の時代だった、と著者は指摘している。

「天武自身は、自分が兄の天智と対立し、天智の長子の大友皇子を殺して王位を「簒奪」し新

しい飛鳥浄御原朝を立てたわけですから、それはいわば革命政権で、『孟子』の湯武放伐論、

易姓革命の思想を実践したことを知っているわけです。

けれども、その『孟子』の易姓革命を肯定してしまうと、次の権力者がまた出てくる論理を容

認することになりますから、『孟子』は国家統治者としての、あるいは国家の秩序を守る指導

者としての密教にしてしまうわけです・・・」(本書)

天武は、自分は革命をやったが、その後国家統治をしていくためには、法による正しい政治を

行い、大宝令をつくって、律令国家を完成させる。

大宝律令は天武元年(七〇一年)に完成するが、これを作った官僚の中心人物だったのが、藤原

不比等。

「聖徳太子の時代から方法論としては考えられてきたわけですが、実際にそれを国家体制にし

ていったのが天武天皇でしょう。

天武天皇の時代に「日本」という国号も決まり、「天皇」という称号も決まり、そして天皇家

は姓を持たない。

持たないことによって易姓革命という権力闘争の対象にはならない、という形での天皇制律令

国家の国づくりをしていったのだろうと思います。

それによって、『孟子』は天武天皇の革命政権における国家統治の密教になったと思われま

す」(本書)

著者が調べたかぎりにおいては、平安、鎌倉、室町、戦国時代のころまで、『孟子』が出てき

たような文献はほとんどないという。

戦国時代には、武田家の『甲陽軍艦』にエピグラムとして取り入れられた形跡があり、関ヶ原

の戦いでの石田三成の戦いを大谷刑部吉継が「義」と捉えていたぐらいだと。

そして、『孟子』の密教性を認識してはっきりと書いたのが、冒頭③で引用した上田秋成(一七

三四~一八〇九)の『雨月物語』(一七七六年)。

「かの孟子の書ばかりいまでに日本に来たらず。此の書を積みて来る船は、必ずしも暴風にあ

ひて沈没よしをいへり」(『雨月物語』)

と上田秋成は書いているが、これは明の謝肇淛(しゃ・ちょうせい)による『五雑俎』(ござっそ)

から取られたもの。秋成にかぎらず『五雑俎』を読んだ当時の知識人は知っていた。

それまで『孟子』はわずかの例外を除き、支配階級の密教扱いとなっていたが、朱子学が徳川

幕府の官学になると浮上してくる。

「四書五経」(四書『大学』『中庸』『論語』『孟子』、五経『詩経』『書経』『礼記』『易

経』『春秋』)を儒教の基本テキストとする、大義名分やかましい朱子学を幕府に採用するきっ

かけをつくったのは、藤原惺窩(せいか)の弟子の林羅山だが、家康が「四書五経」のうちで一

番重視していたのが『論語』ではなく『孟子』だったといわれている。

その林羅山が家康に、『孟子』のどこに一番関心したかと問うと、「湯武放伐」だと答えたと

いう。自分が覇権を握った正当性を『孟子』のなかにある、桀紂を討った湯武放伐論に求めて

いたからだと。

本書はその後、国学者の賀茂真淵と本居宣長が『孟子』の易姓革命を批判したことなどに触

れ、『講孟余話』『講孟箚記』の吉田松陰の精神形成と行動規範の中での『孟子』が果たした

役割や、「至誠」を生き方の指針として大事にしていた西郷隆盛と『孟子』の関係を説明して

いる。

「・・・この陽明学に促されはしましたが、幕末・維新の行動的な志士たちの討幕運動には、

もっと大きく『孟子』の「放伐」思想がはたらいていったのではないか、と私は考えます。

これは、吉田松陰が『孟子』を読みこんでゆく過程をつぶさに検討した私の印象なのです」

(本書)

近代では、福沢諭吉が『孟子』を西洋の民主主義と非常に近いものとして評価していた背景や

朱子学との関係性、「自分が支那に生まれたら、天子になれたと思うよ」と言った、ロマン主

義的革命家の北一輝が『孟子』を「東洋のプラトン」であると評価し、著者が福沢諭吉から北

一輝へと受け継いだ、としているその背景、新渡戸稲造の『武士道』での間違った「義」の使

い方、などに言及している。

現代では、陽明学には触れたが『孟子』には触れなかった三島由紀夫、陽明学も『孟子』も嫌

いだった司馬遼太郎の「義」の捉え方(二人とも別々の理由でだが、北一輝のことは大嫌いだっ

たみたいだ)、河上徹太郎が吉田松陰の革命的イデオロギーの根幹を陽明学ではなく、『孟子』

があると看破したことなどが説明されている。

「革命家が権力を取った場合、みずからの革命政権を肯定するさいは、徳川家康のように革命

理論として『孟子』は使うかもしれない。

しかしその後、秩序が安定してきたら、いや安定させるためには『孟子』はできるだけ忘れて

いたほうがいい、と考えるようになる。

それは今まで、古代から現代までかけて、日本で『孟子』がどう読まれてきたかを理解すれ

ば、おのずから分かることではないかと思います」(本書)

今の中国では『孟子』は教えられていないという。

著者が中国からの留学生に「孔子はどういう人か」と聞くと答えられるが、

「孟子はどういう人か」と質問すると、「名前は聞いたことがありますが知りません」と答え

るという。

意図的に孟子に対する教育は行われていない、と著者は指摘するが、ぼくもその通りだと思

う。

中国の変革には『孟子』が鍵を握っている、ということは間違いなさそうだ。

それは東アジア全体に言えることなのかもしれないが。

「日本人にとって天皇とは何か。

姓を無くした天皇家というものをつくったのは、いつ、誰なのか。

すべては、この問いから始まる。

そして、その問いと『孟子』の革命思想とは密接に絡んでいる。

そう、私はこの十年ほど考えつづけてきたのである」(本書)

松本健一氏は、二〇一四年に亡くなられている。

著者が病床で手を入れた最後の本は、中公文庫になった『佐久間象山』だが、

本書が最後の作品ということになるのかもしれない。