原著(フランス語)からの翻訳、秀逸な解説付きのジョミニの決定版。『ジョミニの戦略理論 -『戦争術概論』新訳と解説』今村伸哉(編著)



ジョミニは、フランス革命戦争勃発の一七九二年から約二〇年に及ぶナポレオンの勝利の成功

は、ナポレオンの新しい戦争方法の重要性と彼の行動の背後にある戦略原則を相手側よりもよ

りよく把握していた結果であると認識していた。

これがジョミニ戦略理論の核心であり、決定的に重要な点は不変の戦略原則を見つけ出したこ

とにある。

『ジョミニの戦略理論 -『戦争術概論』新訳と解説』今村伸哉

中公文庫版や原書房版の『戦争概論』は英語からの重訳であり、かなりの量を抜粋されたもの

だったが、本書は、フランス語の原著である一八五五年版の再版からの翻訳。

(「ロシア皇帝陛下に奉呈」「緒言」「戦争術の定義」「第三章 戦略」を抽出、全訳)

タイトルも『戦争概論』ではなく『戦争術概論』としている。

その理由は、ジョミニは戦争遂行の理論と方策を論じているのであり、戦争の定義や全体を分

析したわけではないから。

「本書では、戦争術の細部の実際応用に関する研究はほぼ達成され、さらにその範囲も目的も

もとより拡大する意図はなく、事が為し得る限り戦争術の細部を認識させるこの著作を示すも

のである」(「緒言」ジョミニ )

ジョミニは何冊もの著作を残しているが、日本にジョミニが入ってきたのは『大作戦論』で、

一八九〇年に参謀本部が『七年戦争』として出版している。

さらには、クラウゼヴィッツの『戦争論』を森鴎外と陸軍士官学校の共訳として出版された一

九〇三年に、秋山真之がアメリカから持参した英語版の『戦争術』を『兵術要論』として出版

されてもいる。

一九ニニ年には、陸軍大学校教授の司馬亨太郎がドイツ語から訳した『韜略提要』があり、抄

訳であった。戦後には、原書房から佐藤徳太郎著の『戦争概論』が出版され、その復刻版とし

て中央公論から文庫として平成十三年にも出版されたが、冒頭で触れたとおり英語からの重訳

であり、抜粋して訳されたものだった。

本書はフランス語の原著からの翻訳であり、記念すべき著作となっている。

その記念すべき本書は二部構成で、第1部は『戦争術概論』の翻訳。

第2部はジョミニの戦略理論、生涯や経歴、時代背景、影響、現代的意義、などの秀逸な解説

が収められ、骨太な構成になっている。

その翻訳・解説を担当されたのは、軍事史研究家であり、防衛大学校卒業、陸上自衛隊幹部学校

教官、オランダ国防省軍事史課・ライデン大学・ウィーン大学客員研究員、防衛大学校教授など

を歴任した今村伸哉(いまむら・のぶや)氏。

アントアーヌ・アンリ・ド・ジョミニ(一七七九年三月六日~一八六九年三月二十二日)

『戦争術概論』の中でジョミニは、戦争術を六つの分野に定義している。

第一は戦争政略。第二は戦略で戦域において集団を指揮する術。第三は作戦・戦闘における大戦

術。第四は兵站。第五は要塞の攻撃・防御の工兵術。第六は小戦術。

「ここで軍隊が軍事行動に入っていると仮定しよう。

指揮官がまず留意することは、惹起した戦争の性質について政府と意見を一致することであ

る。ついで企図する戦場を詳細に研究しなければならない。その後、指揮官は国家元首と協力

して、自国と同盟国の国境の状況を考慮に入れてもっとも適切な作戦基地を選択する。

何よりも、この作戦基地の選定と戦いの達成すべき目的は想定する作戦地帯を決定するのに必

要である。

最高司令官は企図達成のために第一の目標点を定め、この目標点に至る作戦線を選定する。

この作戦線は臨時的あるいは決定的な場合があるが、最高司令官にとってそのいずれかを問わ

ず、最も有利な方向を得る作戦線でなければならない。

すなわち、最も有利な方向とは大きな危険にさらすことなく大きな成功を得ることができる方

向である」(『戦争術概論』)

本書では最初の四つを階層を下りながら分析しているが、ジョミニは戦いの基本原則を提示

し、それは大きく四つにまとめられている。

1 戦略的方策によって、軍の大部隊を継続的に戦域の決勝点に投入すること、

また、自軍の連絡線を危険に曝すことなく、できる限り軍の大部隊を敵の後方連絡線に投入す

ること。

2 敵軍の一部に対してのみ、わが軍の主力部隊を集中して投入するように機動すること。

3 交戦当日に同様に指揮して戦術機動を行い、軍の主力を戦場の決勝点に対して、

さもなければ敵を屈服するに重要な作戦線の部分に対して投入すること。

4 主力を決勝点に出現させるだけでなく、決勝点で主力軍は激しく、かつ集中して戦闘を遂行

し、同時にその効力を発揮できるようにすること。

この決勝点に部隊の主力を投入することを薦め、そこで戦闘することを認知することは非常に

たやすいことであろう。しかし、まさにその決勝点を認識するところにこそ、その巧妙さが存

在するのである。決勝点の決定は解決できない問題であると思っている将校たちは、決して戦

略を理解することができないことに絶望するに違いない、とジョミニは指摘する。

そして、その決勝点は三つの項目によって定められるとしている。

1 地形状況 2 軍が意図する戦略目的に局地的特性を結合 3 彼我両軍の配置

「戦略の大目的は、自国において作戦が生じる場合には、その作戦に最も好ましい戦域で準備

して軍に対する実際の利益を確保することはいうまでもない」(『戦争術概論』)

とジョミニは述べてもいるが、本書では主に、自軍がいかにして有利に戦える状況をつくりだ

すことができるか、などが論じられており、計画や準備、戦術や兵站、地政学を考慮しての作

戦基地の配置の仕方や有効な部隊の運用、などに重点を置いて説明している。

それらを含む「可能なすべての作戦域における一般原則を適用する方法」に関する結論をジョ

ミニはまとめて示している。

1 敵の基地に対して突出し、直角に交わる作戦線の有利性について第十八項で詳説した内容に

従って、二つの作戦基地が有する相互の方向が得る利益を利用することを知ること。

2 戦場において通常戦略上で示される三つの地帯の中で、敵に最も致命的な打撃を加え得ると

同時に、自らの危険が最も少ない地点を選定すること。

3 一七九六年にカール大公、まら一八一四年にナポレオンあるいは同年にスルト元帥が、

国境に並行して退却するために示した求心的方式の例を防勢に、作戦線を適切に設定して、正

しい方向を与えたこと。

攻勢に際しては反対に、ナポレオンが敵の戦略正面の末端に自軍の戦力を指向した方向によっ

て、一八〇〇、一八〇五、一八〇六年の各年に成功を確実にし、あるいはその中央に対して適

切に指向した方向によって一七九六、一八〇九、一八一四年の各年に極めて成功した方式に従

わなければならない―

4 諸師団の主力でもって常に作戦を実施するために、そしてまったく逆に敵軍主力の集中を阻

止し、あるいは敵の相互支援を阻止するために、適切な作戦方向を与えて可能性のある機動戦

略線を選択すること。

5 統一および集中の精神に基づいて、すべての戦略陣地ならびに戦略上の決戦の場に必要不可

欠の地域を全体的に把握するために必要とする大派遣部隊を適切に運用すること。

6 終わりに、打撃を加える重要な要点に対して、連続かつ交互に集団を運用することにより、

つまり可能な限り最大の活動力および最大の運動性を与えること。

迅速で継続的な行進を実行することにより自軍の部隊活動を増加し、同時に敵兵力の大部分を

無効にすることができる。しかし、行進の迅速性が多くの成功を得るのに十分ということなら

ば、努力を巧妙な方向に導くことでその効果は増大する。つまり、これらの努力が作戦地帯の

戦略決勝点に指向される場合に敵に最も致命的な打撃を与えることができるのである、とも指

摘しているが、ジョミニは「機動と集中兵力による攻撃を強調したものであった」と評される

所以でもある。

「ジョミニが作戦の重心とした基本原則は、決勝点に最大の兵力を持って努力をして最大の兵

力を集中することであり、これを達成するために作戦線は重要な兵力機動の方策であり、戦略

を考察する上で欠くことのできない用語であるからだ。

そして、作戦線選定が作戦成功の帰趨を決定する要因となるので、軍司令部は作戦線を決定し

作戦計画を作案するのである。

ジョミニのいう作戦線は現代でも運用可能な、作戦見積における重要な要素である。

つまり、ジョミニのいう作戦線の内容は、現代においても、兵站の策源地でもある作戦基地か

ら、補給幹線を経て部隊主力の方向から戦場に入り、攻撃の場合は決勝点となる目標に対する

主攻方向を作戦線といっても通用するであろう。

ジョミニは作戦の戦略的考察あるいは現代でいう作戦見積の結論として、戦略的考察の結晶で

ある作戦計画の作成を強調し、重視した」(本書・解説)

それとジョミニの「戦略とは図上で戦争を計画する術であって、作戦地の全体を包含している

ものである」という一節などに言及して、「ジョミニは静態的なものに終始した」という指摘

も目にしたことがあるが、ジョミニは、

「学術は静力学の法則に支えられて、そこから精神の推進力が主要な役割を果たす戦略、大戦

術の方策において若干の助けのみにならざるを得ないであろう」

「少なくともナポレオンがとった方策、その最も輝かしい作戦は、まさに精密化学よりも詩歌

の分野に入るように思える。つまりその理由は単純なもので、戦争は情熱的な劇であり、まっ

たく数学的な作戦行動ではないからである」

と本書で言及してもいるので、一概には言えないし、解説で今村氏も「静態的である」という

見方に対して、それは誤解だろう、として説明している。

「ジョミニの戦略理論の真髄は、ナポレオン戦争の教訓から、不変の「必勝の戦略原則」を見

出したことである。事実、ナポレオンの戦略構想は地域や首都の占領よりも政府の崩壊をもた

らす敵野戦軍の撃滅であった。

そのために計画的で迅速な戦略展開と決勝点に優勢な兵力を集中することであった。

その決勝点は詳細に偵察され、計画された広範囲な地域において敵軍よりも優れた編成によ

り、巧みな戦略機動によって決勝点に兵力を集中し敵軍を撃破し、追撃して殲滅したのであ

る。ジョミニは、このナポレオンの戦略から「必勝の戦略原則」の基礎は戦争術の戦いの基本

原則にあることを把握したのである。

この「戦いの基本原則」については十八世紀の軍事著述家の誰しも述べていないのである。

彼が初めて「戦いの基本原則」を極めて簡潔に述べたが、その主旨は戦争を有利に遂行するた

め、すべての方策を支配する原則を求めることにあった。

これがジョミニの戦略論の真髄である」(本書・解説)

個人的にだが「作戦地域」から「作戦基地」について言及している箇所があるが、今のアメリ

カ軍基地に対して合点することが多い。

「作戦計画の第一の要点は、良好な作戦基地を確実に保持することである。

作戦基地とは、そこから軍が軍需品および援軍を受ける国土の広がりまたは一部を称する。

軍が攻勢的な遠征を行う場合は、作戦基地から出発しなければならず、必要な場合には避難場

所となり、最終的に防勢に転じる場合に領土を援護するための支援拠点となる」

(『戦争術概論』)

「軍事的拠点や手段、武器庫、砦、安全地帯の倉庫の手段にまったく欠ける地方と、この種の

軍事力の優れた他の地方も存在するのである。

後者の地方が唯一確実な作戦基地として見なされることができるのである」(『戦争術概論』)

「すべての基地が完璧であるためには、補給倉庫、補給廠などを設置するための十分な容積を

有する二つあるいは三つの場所を求められなければならない」(『戦争術概論』)

「作戦域に隣接する海上を制海する多くの艦隊を有する国家は、なおいっそう沿岸に四万から

五万人の勢力の基地を設置することができる。

そしてその勢力を保有する基地を確保して、さらに良く防護された避難所を得るならば、あら

ゆる種類の軍需品を供給できることが保障されるのである」(『戦争術概論』)

この箇所だけではないが、マハンが海に適用したくなったのも頷ける。

そのアメリカでは、ジョミニの『戦争術概論』の影響を最も大きく受けている。

「ジョミニの『戦争術概論』は、ナポレオンの戦いの解釈のみならず、新しいアメリカの軍事

文献の発刊を引き起こすモデルとなった。

一方、クラウゼヴィッツの『戦争論』は一八七三年に英訳されるまでアメリカではほとんど知

られていなかった」(本書・解説)

南北戦争で活躍したウインフィールド・スコットは「右手に剣を左手にジョミニの『戦争術概

論』を携えて戦闘に参加した」という伝説が伝えられているし、同じく南北戦争で北軍のポト

マック軍を編成し、指揮したジョージ・B・マクレランは、ジョミニの全著書を所有し、書架の

目録にその全てを記載していたという。

そして、ジョミニが広く読まれるようになったのは、一八〇二年にウエストポイント陸軍士官

学校の創立以来だといわれている。

そこの卒業生であり、海の戦略家アルフレッド・セイヤー・マハンの父であるデニス・マハンもジ

ョミニの「戦いの原則」を学び、『戦争術概論』を範にした著作を残している。

アルフレッド・セイヤー・マハンは、早い時期からジョミニの著書に学び、ジョミニを「軍事の

友人」と呼んでいたという。

ニューポートの海軍大学校の設立者、ステファン・B・ルースもジョミニの「戦争術」論の六つ

の区分などの考えを受け入れていた。

ジョミニは一七七九年三月六日のスイス生まれで、先祖がイタリアから移住してきた中流の家

庭だった。幼い頃から軍事に興味を示していたが、両親の勧めもあり、十四歳の時スイスの寄

宿学校に入り、フランス語、ドイツ語、数学、地理学を学んだ。

その後商社に入り、バーゼルで職業訓練を受けるが、その合間にナポレオンの特集記事やイタ

リア陸軍雑誌などを読みふけっていたという。

一七九六年にパリの証券会社に入社するが、この時のジョミニは熱心な革命派となっており、

パリでスイス革命の情報を耳にすると急遽帰国する。

そして、一七九八年の終わり頃から十二月の初め頃に、十九歳でスイス共和国国防省に入省

し、国防省の秘書官長に任命される。

翌年には大隊長に昇進するが、すぐに辞職した。周囲からの評判はよくなかったという。

その頃には、軍事界を揺り動かしていたビューローとロイドの著書を読み始め、ピュイセギー

ル、メニル‐デュラン、ギベールなどの著作も読んでいた。

一八〇二年にはパリに戻り軍需工場に勤めるが、そこも辞めて本格的に軍事研究に入った。

古代からの軍事史や七年戦争と革命戦争を分析し、フランス啓蒙軍事史家の著作をほとんどを

読んでいたという。その後、軍事経験を積むためにフランス軍に入隊しようとするが断られ

ている。

しかし、一八〇五年にフランス軍のブローニュの陣営で志願兵としてネー元帥に会うことにな

り、そこでのジョミニは、ネーと共に長い軍事問題に関して談義を行い、ネーはジョミニが脱

稿した『大戦術論』の原稿を読み、感激してジョミニに前もって基金を渡し、非公式だったが

副官として大佐の地位を与えられたという。元々、ネーとの関係は父親の知り合いの知り合い

だった。

そして、一八一三年八月十四日にジョミニがロシア皇帝軍に勤務するまで、ナポレオン等と共

に行動することになる。ウルムの包囲戦の時にはネーに助言もしている。

その後、ナポレオンに『大戦術論』を奉呈することにもなり、この原稿を副官に読ませた後、

ジョミニが戦争のシステムを理解していると認め、著書にするように薦めたという。

ナポレオン等と共に行動をしている合間にジョミニは、『大戦術論』の三巻から五巻までを出

版し、さらにその三巻と五巻を『大作戦論』として編集し、出版した。

この時期にジョミニは第六軍団参謀長に昇進し、フランス帝国男爵に叙位されているが、スペ

インでのテロ・ゲリラ戦も経験している。

しかし、周りからの嫉妬などもあり、仲違いを起こし、ジョミニは健康のためとしてスイスに

戻ることになるが、実はロシア軍に勤める交渉を行うためであった。

パリに戻ったジョミニは、辞職願いの手紙を出すが、ナポレオンは辞職を許さず准将に任命す

る。そして、ナポレオンが衰退の時期に差し掛かると、将軍の何人かはフランス軍を去って、

連合国に寝返るが、三十八歳になったジョミニもフランス軍を去ることになった。

フランス軍を去ったジョミニは、連合国の監視下に置かれ、やがてロシア軍司令部に勤務する

ことになるが、そこではフランス軍の情報は漏らさなかったという。

ロシア軍に入ったジョミニは、ドレスデン、ライプチヒの戦いにロシア軍将軍として、ツァー

リの軍事顧問として連合軍司令部で勤務した。

ロシアにおいてのジョミニはヨーロッパの軍事思想を代表する者として受け入られたが、それ

はあくまで教官としての役割であり、ツァーリの顧問的立場であり、ロシア全将軍の地位には

列席できなかったという。

しかし、フランス革命とナポレオン戦争の終結後に開催されたウィーン会議に、ジョミニは顧

問としてアレクサンドル皇帝に随伴し、この時にカール大公と戦略・戦術論を何度も重ねる機会

を持ち、著作活動に影響を受けた。さらには「フランス革命戦争の軍事史」の構想を練り始め

る。

その後もネー元帥の助命のために併走したりもするが、ジョミニの努力もむなしくネー元帥は

処刑されてしまう。

そして、一八一七年にジョミニはロシアを去り、一八二三年までパリに滞在し新しい研究に没

頭する。ロシア宮廷から資金を得ていた。

平和が戻るとジョミニはヴェローナ会議に参加して、フランス、スイス、ロシア間の調停を共

有し、イギリスの将軍ウェリントン公と会合して、ワーテルローの戦いにおける連合軍とフラ

ンス軍の戦闘隊形について戦術論議を行った。

再びロシアに戻ると、原稿を書き始め、アレクサンドル一世から莫大な貸付金を提供される。

一八二五年に、アレクサンドル一世が亡くなると、その葬儀に参加し、ニコライ一世の即位式

にも参加。

ジョミニはロシアに長期間居留できるようにニコライ一世に懇願し、パリにあった不動産を売

却する。

ロシアでのジョミニの地位は、ヨーロッパの軍事思想を代表するものとして受け入れられた

が、それはあくまでもツァーリの将軍副官としての役割に留められたものであり、ロシアの全

将軍の地位には列席できなかった。

一八二八年にはオスマン帝国との戦争で軍務府に追従するが、ジョミニの意見は誰にも理解さ

れることはなかった。

一八三〇年の初めには、ジョミニの軍事経歴は塞がれることになった。

その間、将来のツァーリとなるアレクサンドル二世の家庭教師となり、教書の質を高めるため

に『戦争の主要な方策の分析的描写』の再販を行い、『戦争術概論』の初版がブリュッセルで

出版された。

ジョミニは一八四八年にブリュッセルで引退するが、クリミア戦争が始まるとロシアに対し

て、多くの戦略的覚え書や注意などを書いて戦争の助言を行うが、戦争の間はサンクトペテル

ブルグに留まっていたという。

クリミア戦争が終わるとパリに引退し、後年まで活発な精神で軍事史に関心を持ち続けてい

た。

北軍の参謀総長なども務めたこともあるアメリカのジョージ・マクレラン将軍や詩人のラマルテ

ィーヌなどの著名人の訪問を受けて多忙な日々を送っていたが、一八六九年三月二十二日九十

歳でパリ近郊の自宅で長い生涯を閉じた。

ジョミニの主著である『戦争術概論』は、それ以前の『大戦術論』や実戦を経験しながら完成

させた『大作戦論』などをアップデートさせたものであり、軍事科学であるのと同時に、満足

する政治観を表明していると考え、後世になんらかの評価を受けるであろうと考えていた集大

成。表題は『戦争術概論、または戦略、大戦術、軍事政策の主要な方策の新分析的叙述』で略

称が『戦争術概論』。

ジョミニは、啓蒙主義思想の刺激を受けて書かれた軍事理論の作品―フランス軍大佐だったギ

ベールやドイツ啓蒙主義軍事思想家の代表のビューロー、ウェールズ出身のロイドなどの著作

から影響を大きく受けていた。それとカール大公の『戦略原則論』も参考にしている。

「ロイドとビューローの作戦遂行の方法論は、ジョミニ自身の理論上の著作に決定的な方向を

与えた。ジョミニはナポレオンの戦略と戦術との関連でロイドが示した作戦の合理性を再検討

し、またビューローの見解をより常識的に、また幾何学的アプローチを少なくさせて明確に表

現することを欲くしていた」(本書・解説)

『戦争術概論』の初版は一八三九年にドイツ、一八四〇年にスペイン、一八五四年にイギリ

ス、一八五五年、六四年にイタリアで翻訳された。先述したようにその中でも、アメリカが最

も影響を受けた。

工業化と戦争がリンクした第一次世界大戦以降は、ジョミニの戦略理論のは影響力は低下する

が、ジョミニの「戦いの原則」やクラウゼヴィッツの戦略原則論を接ぎ木として、J・F・チャール

ズ・フラーが「戦いの原則」を案出し、イギリスで公式に成文化され、リデルハートの宣伝によ

り欧米各国、ソ連や中国などで議論され、「戦いの原則」は現在も世界各国の軍事ドクトリン

として定着しているという。

またジョミニは、兵站システムを重視して後世に伝えた近代軍事システムの創設者としても挙

げられる。

「八十歳を超えたジョミニは、普墺戦争、南北戦争の様相を知り、この戦争で鉄道と通信、蒸

気艦、鉄甲艦が使われたことも知っていた。

そして第二次産業革命の波が否応なく兵器の発達を促し、彼は『戦争術概論』の第四版の出版

を計画していたが、老齢のジョミニの気力・体力を奪い、四十五歳の年下の友人、スイス軍団砲

兵大佐に『戦争術概論』四版を出版するよう依頼し、そして「兵器の発達は戦術の変化をもた

らすが戦略原則は不変である」と確信を持って遺言し、九十年の生涯を閉じた」(本書・解説)


くどいようだが、本書はフランス語の原著から初めて翻訳した記念すべきものとなっている。

しかも解説がかなり充実しているので、本書を読めばジョミニのほぼ全ての事が理解できる天

下一品の内容になっている。

ジョミニは兵站システムを重視して説いているが、今の日本は大丈夫だろうか。

勝海舟は『氷川清話』の中で、「そんなことはわかりきったことだから昔の人は誰も書かなか

ったんだよ」と述べていたんだがね。

第1部

ジョミニ『戦争術概論、または戦略、大戦術、軍事政策の主要な方策の新分析的叙述』

第2部

【解説】ジョミニの著者と戦略理論 (今村 伸哉)

第一章 ジョミニの生涯と経歴

第二章 ジョミニの著書と著作過程

第三章 ジョミニの軍事思想の形成と戦略概念

第四章 ジョミニ戦略理論の評価と批判

第五章 ジョミニ戦略思想の影響

第六章 新戦略原則論と「戦いの原則」

終章  ジョミニ戦略原則論の諸問題と現代的意義

【解説】ジョミニの思想とその時代―フランス革命~ナポレオン戦争の再解釈から

(竹村 厚士)