「日本外交の祖」であり「剃刀大臣」でもあった陸奥宗光の波瀾万丈の生涯/ 佐々木 雄一の『陸奥宗光-「日本外交の祖」の生涯』


外交の要素に三つあり、一つは国民自然の位置也。二は武力の強弱也。

三は外交に関する国民智識の多少、是也。

陸奥宗光 (雑誌『世界之日本』/『陸奥宗光-「日本外交の祖」の生涯』佐々木 雄一から)

天保一五(一八四四年)年、ペリー来航の一〇年ほど前に紀州に生まれた陸奥宗光。

幼名牛麿、次いで小二郎。

父親の伊達宗広は、紀州徳川家で出世を遂げ、藩財政を担い、明治以前の日本有数の史論とさ

れる『大勢三転考』をも書き上げた人物。

若き日に本居宣長の養子である本居大平(おおひら)の門に入り、国学・歌学を学んでもいた。

ちなみに、この『大勢三転考』の歴史の見方を下敷きにして、山本七平は晩年に『日本人とは

何か』を書いている。

幼少期の陸奥は鳥居藤四郎という人物のもとで育てられるが、父の宗広は失脚し、逼塞(ひっそ

く)生活を経験することになる。

流浪の末、陸奥ら家族一行は、伊那郡入郷村に落ち着き、五條で森鉄之助から基礎教養として

儒学や漢学を少年時代の陸奥は学んでいる。

安政五(一八五八)年、数え一五歳のときに陸奥は江戸に出て、安井息軒の三計塾に入門する。

この頃の陸奥は、中村小次郎と名乗っていた。

文久三年、二〇歳になった陸奥は、勝海舟の私塾や神戸海軍操練所の一員となり、生涯におい

てもっとも影響を受けたとされる九歳上の坂本龍馬と接する。

その他にも陸奥は、広瀬元恭(げんきょう)の塾である時習堂にも出入りし、門人帳には紀藩・伊

達小次郎として記されているという。

陸奥宗光 / 天保15年7月7日(1844年8月20日)- 明治30年(1897年)8月24日

「腕力ではなく智。地縁や血縁ではなく能力を尊重すべきという考えを、陸奥は終生、持ち続

けていた」(『陸奥宗光-「日本外交の祖」の生涯』佐々木 雄一)

その後の陸奥は、錦戸広樹(にしきど・ひろき)という変名を使い、小松帯刀に抱えられてもいた

が、長崎で英語を教えていた何礼之(が・のりゆき)の塾で学んでいた。

何礼之は長崎唐通事の家に生まれ、初めは独学、次いで長崎を訪れた外国人たち(著名な人物は

フルベッキ)から英語を学んでいた。

長崎で饅頭屋長次郎こと近藤長次郎が切腹した時に、京都で伝えまわったのが陸奥であった。

京都の薩摩藩邸に身を寄せていた龍馬は、小松や西郷、お龍らと大坂から鹿児島に船で向かう

ことになるが、陸奥も一緒であり、龍馬から社中の高松太郎に宛てた書簡を託され、長崎で下

船している。

この頃の陸奥は、航海術と操船技術を学ぶために日清沿岸を航行するイギリス船に乗って上海

まで足を延ばしていた可能性が高い、と著者は指摘している。

薩摩の寺島宗則の回想談にもその事が出てくるし、イギリスの外交史料にも、日本人が乗組員

としてイギリス船に乗り込むという話を記した文書が残っているという。

「陸奥は、一般的には勝の塾や神戸海軍操練所、亀山社中の一員であったとされ、坂本に私淑

していたとも言われるが、実は慶応元年まで、坂本や土佐グループの周辺で陸奥の影は薄い。

慶応二年になってようやく、(中略)伊達でも錦戸でもなく陸奥として、土佐グループの主要メ

ンバーとなり、翌慶応三年、急速に坂本のかたわらにその姿が立ち現れてくるのである・・・」

(『陸奥宗光-「日本外交の祖」の生涯』佐々木 雄一)

その慶応三年に海援隊が発足するが、隊長の龍馬の下で、兵事にたずさわる隊士と商事にたず

さわる隊士を分け、陸奥は商事部門を担おうとしていた、とされている。陸奥らは西洋の商業

や通商の仕組みに注目していた。

さらに陸奥は、「陸奥源二郎宗光」の名で意見書、「商方之愚案」を龍馬に提出している。

龍馬は、この意見書で陸奥を高く評価したという。

龍馬に頼りにされていた陸奥だったが、この年の十一月に龍馬が暗殺されてしまう。

このとき海援隊士で京都にいたのは、陸奥と白峰駿馬のみで、二人の急報を受けて海援隊の

面々が駆けつけ、葬儀がおこなわれたという。

海援隊/ 左から三番目が坂本龍馬、四番目が陸奥宗光

「・・・陸奥は、幕末の政治史を左右したような人物ではない。その片隅に、かろうじて顔をのぞ

かせている程度である。

しかし、その憤懣であるとか、志望、自由への憧憬は、明治維新をもたらす精神性の、先鋭的

かつ典型的な一例であった」(『陸奥宗光-「日本外交の祖」の生涯』佐々木 雄一)

龍馬が暗殺された後の陸奥は、海援隊から離れ、大阪でアーネスト・サトウと面会したりし、

新政府に出仕して外交にたずさわっている。

翌慶応四年には、新政府の一員として、勅使の東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)が兵庫で各国

公使に王政復古を宣言する場に臨む。

陸奥二五歳の時であり、両脇に座っていたのは、伊藤博文(長州)と寺島宗則(薩摩)であった。

外国事務局が設置されたとき、長州や薩摩の連中は、参与・外国事務局判事となったが、陸奥は

そういった役職を得られなかった。

結局は辞職せずにとどまることなるが、その差に対して陸奥は不満を抱き、辞職願兼意見書を

提出している。

「たしかに、陸奥は幕末の最終盤に海援隊に属し、土佐の人々とは終生深い縁があった。

しかし、出身は紀州である。例えば後藤象二郎のように、土佐の人材として地位が用意される

わけでもない。藩の後ろ盾を持たない陸奥は、自身の才で道を切り開くしかなかった」

(『陸奥宗光-「日本外交の祖」の生涯』佐々木 雄一)

その後の陸奥は、甲鉄艦問題の資金調達で力を発揮し(陸奥は三井とつながりがあった)、会計

事務局兼勤、会計官専任となるが、すぐに大阪府県判事を兼ねることにもなり、会計官の方は

免ぜられた。さらには、摂津県知事、豊崎県知事を経て、兵庫県知事を務めた。

この頃に三歳年上の伊藤博文と交友関係が深くなっている。

慶応四年に陸奥は、岩倉具視に「朝廷に仕える者は出身藩から切り離し、心身ともに朝廷のた

めに働かせるべし・・・」といった内容の意見書を提出しているが、伊藤も同じような意見を持っ

ていた。

新政府のあり方に不満を覚えていた陸奥は、新政府を離れ、和歌山藩政に関与し、軍制改革に

も携わるようになる。この頃に木戸孝允と接近するようになる。

軍制改革には、和歌山藩に雇われたドイツの軍人カール・ケッペルが大きく貢献するが、規模が

大きくなり、軍事教育のすべてをケッペル一人で監督する事が難しくなって居た。

そこで新たにドイツの軍人や技術者を招聘することになるが、陸奥はその任を帯びてヨーロッ

パに行くことになる。

普仏戦争でパリが包囲されているさなか、ベルリンやイギリスなどをまわり、アメリカに向か

い帰国する。

帰国すると正式に和歌山藩で働くことになるが、廃藩置県が実行されてしまう。

廃藩置県はもともと陸奥が目ざしていた方向性ではあるが、諸藩の軍隊は解散となった。

そこでも陸奥は素早い切り替えをし、翌月には神奈川県知事に就任する。

その後名称変更があり神奈川県令となる。

陸奥の神奈川在任中の代表的なものは、警察制度の創設がある。その後、租税制度の改革に関

する意見書を起草し、明治五年六月に大蔵省租税頭兼勤を命じられ、大蔵省専任となる。

そして、マリア・ルス号事件や芸娼妓解放問題などが浮上していた頃に、明治元年に結婚した陸

奥の最初の妻である蓮子が亡くなり、その年に金田亮子と結婚する。

さらには、人材登用の公平性の問題などもあり、病気療養のためと称して熱海に滞在し、再び

官職を辞する。その後少し時間をあけて、元老院議官や元老院幹事などに任命される。

しかし、程なくして西南戦争に際して政府転覆計画に関与し、投獄される。

明治十一年八月二一日、禁獄五年の判決が下り、山形の監獄に送られる。

陸奥宗光、三五歳の時だった。

出獄時/ 社会主義を思わせるような風貌の陸奥(左から二番目)

山形での獄中では膨大な読書をし、ミルやモンテスキューやベンサム、ギゾーやバックル、

『旧約全書』や『名臣言行録』、『続唐宋八大家』や『徂徠集』、『碧巌録』や『陸放翁詩

集』、『起信論義記』や『禅喜集』などの和・漢・洋の著作を貪り読み、ベンサムの『道徳およ

び立法の諸原理序説』などを訳し(翻訳したものは出獄後出版されてもいる)、多くの漢詩をつ

くり、家族への手紙も書いて過ごしていた。

山形監獄に入って一年ほど経った頃に、獄中で放火事件が起こり、陸奥はそれを機に宮城の監

獄に移ることになった。

その宮城の監獄でも失火が生じるが、陸奥らは消火に尽力し、その功により減刑が検討される

ようになる。

政府首脳の意見が分かれるが、明治天皇が、反政府計画に加担した罪と消火の功を比較すれば

云々として、減刑はなしになる。

この事件以降、明治天皇は、陸奥に対して反逆者、反乱的陰謀家の印象を抱き、後の陸奥の入

閣にも拒否反応を示している。

明治天皇は、人の才能より、忠義の士を好んだという。(『明治天皇という人』松本健一)

陸奥に下された判決は禁獄五年であったが、恩赦に向けた動きが進み、出獄する。

実際に投獄された期間は四年と四カ月であり、陸奥は四〇歳になっていた。

自由党の源流である土佐立志社系の計画に連座して投獄された陸奥だったが、出獄後は、その

自由党と距離をとった。

その後、東京に戻り、大坂や和歌山にも足を運ぶが、再び東京に戻り、しばらくしてから外遊

から伊藤が帰国し、伊藤と面会した陸奥は外遊に就くことを決める。

その資金調達には、伊藤や山県有朋、井上馨、渋沢栄一などの多くの人が関わっていたとい

う。

そして陸奥は、アメリカ経由でヨーロッパに渡り、イギリスでアースキン・メイ(下院書記官長)

から議会政治について学び、ケンブリッジのトマス・ワラカーからイギリス国制と国際法な

どについて学んだ。ロンドン滞在時には、ケーペルという事務弁護士の家にお世話になってい

る。後に息子の広吉も下宿することになる。

陸奥がヨーロッパで学んだものは、英文でびっしりと書かれた七冊のノートにまとめられ、今

でも神奈川県立金沢文庫が所蔵している。

さらに陸奥はベルリンでプロイセン憲法を学び、伊藤にプロイセン式の憲法制定を勧めたシュ

タインから講義を受けた(シュタイン詣で)。そして、一年一〇カ月ぶりに帰国する。

陸奥四三歳の時。

帰国すると陸奥は、弁理公使、法律取調委員副長に任じられ、特命全権公使になり色々ごたご

たがあったが、駐米公使を任じられワシントンに赴任することになる。

陸奥が駐米公使として成し遂げた大きなものが、メキシコとの対等条約を結んだことだが(日墨

修好通商条約)、それは数年前からメキシコ側から働きかけがあったという。

それに続き、アメリカとの条約改正にも取り組んでいる。ワシントンでの社交界では、妻の亮

子のもてなしの評判が上々であり、新聞などでも報じられていた。

日本の評判を高めるために陸奥の根まわしもあった可能性も指摘している。

アメリカにいる間は、外交業務にたずさわるかたわら、日本国内とも盛んに連絡をとってい

た。その時に有名な一節、

「抑(そもそも)も政治なる者は術(アート)なり、学(サイエンス)にあらず・・・」

という言葉を記している。

陸奥は明治二三(一八九〇)年、四七歳の時にアメリカから帰国し、第一次山県有朋内閣で農商

務大臣に起用される。明治天皇は不安視したが、山県が説得した。

そしてこの頃に、最側近として七年間支えられる原敬と出会っている。

「よく知られているように、陸奥はその鋭い才気から、世に「剃刀大臣」と呼ばれた。

それは、議会対応であるとか、外務大臣時代の対外交渉と結びつけて考えられがちだが、

実はこの、農商務大臣就任直後の省内人事と政務処理の時点で、すでに「剃刀大臣」の異名は

ついていた」(『陸奥宗光-「日本外交の祖」の生涯』佐々木 雄一)

第一回衆議院総選挙で当選し、閣僚中唯一の衆議院議員となる(翌年には大臣ということで衆議

院議員としてあまり活動せず、問題視され議員を辞するが)。

陸奥は、品川弥二郎など政府内の人々とも連携しながら選挙への対応を図ったり、議会工作に

従事していた。

明治二四(一八九一)年には、山県のあとを受けて松方正義が首相となる。

その直後に大津事件(ロシア皇太子のニコライが、警察官の津田三蔵に斬りつけられた)が起こ

る。事件直後に陸奥は、後藤象二郎と伊藤のもとを訪れ、金で刺客を雇って津田を暗殺し、病

死ということにしてしまえばよいと述べたが、伊藤に、そのような無法な処置は許さないと叱

責されたという逸話が残っている。

この時の陸奥は、伊藤の代理人として行動し、伊藤の信頼を得ようという考えをもっていた。

さらには、松方内閣での自身の台頭を期待していなく、松方内閣を崩壊させて伊藤内閣樹立に

導こうとし、陸奥は、盛んに閣内の対立を煽り、伊藤には政府の先頭に立つよう繰り返し求め

てもいたという。明治二五(一八九二)年には農商務大臣を辞任する。

松方内閣は内紛で収拾がつかなくなり、第二次伊藤内閣が成立すると、陸奥は外務大臣に起用

される。陸奥は、松方内閣の途中から、伊藤が内閣を組織し、自身は外相に就任する、という

シナリオを構想していた。ただ、それを実現する自信はなかったみたいだ。

この内閣で陸奥は、生涯のハイライトとなる念願の外務大臣に就任し、維新以来の積年の課題

であった条約改正を達成し、日清戦争、三国干渉などの外交上の難題を数多く取り扱ってい

く。

条約改正は、陸奥以前から外務卿の井上馨らが、内地解放と法権回復の取引、文明国にふさわ

しい法・政治制度をつくること、階梯式に条約改正を実現しようとしていた。

陸奥もその基本方針を受け継ぐが、「純然たる互相均一の基礎を以て成りたる対等条約」だと

述べ、「対等」という原則を設定して、上積み要求の連鎖を断ち切った点が新しかった、と著

者は指摘する。

条約改正の本丸は、当時の覇権国だったイギリスとの交渉であり、青木周蔵を駐英公使兼勤と

してイギリスとの交渉を開始する。

イギリスとの交渉は難航するが、なんとかロンドンで日英通商航海条約が調印され、

アメリカ、イタリア、ロシア、ドイツ、フランス、オーストリアなどの間でも調印に至り、

その他の国との条約締結も、明治三〇年までに終えている。新条約の発効は、日英条約の調印

から五年後の明治三二年。関税自主権の回復はそれから一二年後の明治四四年。

この間の陸奥は、ノルマントン号事件の影響もあったのかもしれないが、日本国内で外国人が

殴打されるなどの事件が起き、外国人たちの間で、日本の排外主義に対する懸念が高まってい

たが、「進んで取るの精神にあらずして、寧ろ退いて守るの気象を顕すもの」などの演説をし

て、日本の開国主義の方針を国内外に向けてアピールしてもいる。

イギリスとの新条約締結についてはよく、ロシアに対する防波堤として日本に好意を示したか

らだ、と語られることがあるが、著者は、「イギリスが法権回復を認めたのは、端的に言っ

て、日本が政治・法制度を整備していったからである」と指摘している。

日清戦争については、陸奥は亡くなる二年前に回顧録である『蹇蹇録』(東学党の乱~三国干渉

までを記述)を作成して残しているが、それを読むと陸奥は、まったくと言っていいほど、朝鮮

や清、日本国内の世論や道義的な判断を信用していなかった、というのが伝わってくるし、

清が居丈高な態度だった、ということもよく伝わってくる。

勢力均衡(陸奥は「権力平均」としている)を維持するために朝鮮に軍隊を派遣した、というこ

とにも言及しているし、日清戦争を西欧的新文明と東亜的旧文明との衝突として捉え、清と変

に妥協して西洋諸国から「東洋対西洋」という構図で見られない様に気を配ってもいる。

国際法や国際情勢などを意識しながら驚くほどリアリストに徹している。

「日本は当初より朝鮮を以て一個の独立国と認め、従来清韓両国の間に存在せし曖昧なる宗属

を断絶せしめんとし、これに反して清国疇昔(ちゅうせき)の関係を根拠として朝鮮が自己の属

邦たることを大方に表白せんとし、実際において清韓の関係は普通公法上に確定せる宗国と属

邦との関係に必要なる原素を欠くにもかかわらず、せめて名義上なりとも朝鮮を以てその属邦

と認められんことを勉めたり」(『蹇蹇録』)

「先ず清国政府において果たして天津条約に拠りその朝鮮へ派兵することを我が国へ行文知照

(こうぶんちしょう)するや、あるいは今回の出兵は全く朝鮮国王の請求に拠るという口実を設

け、該条約を遵守せず、恣(ほしいまま)に出兵を行うやの事実確かめんとしたり」

(『蹇蹇録』)

「元来清国政府は始めより外交上必須の信義を守ることを知らず、自家焦眉の急を救うのに切

なるがため、あたかも一女に向かい二婿(にせい)を贅招(ぜいしょう)する如き拙劣なる外交手

段を執り、終に自ら孑々(けつけつ)孤立の境界に陥るを悟らざりしは、他の碌々の凡庸の流輩

は姑(しばらく)問わず、経験あり識量ありと称せらるる李鴻章にしてなおこれを免れざりし

は、惜しむに余りあることなり」(『蹇蹇録』)

「総てこの頃露国の挙動は、その外面に顕わるる所あるいは清国の友たる如く、あるいは日本

の友たる如き、一種不可思議の情状ありしが如し」(『蹇蹇録』)

「・・・元来対手(あいて)をして本題に立ち入るを得ず岐路に彷徨せしむるは清国外交の慣手段な

り・・・」(『蹇蹇録』)

日清戦争開始後に陸奥は、閣議で朝鮮政策についての方針を提示している。

(甲)内政不干渉       (乙)名義上独立国と認めつつ日本による保翼事扶持

(丙)日清両国による独立担保 (丁)中立国化

(乙)案をとりながら、後日改めて確定することになった。

『蹇蹇録』「第11章 朝鮮内政改革の第二期」で書かれていることでもある。

そして、この頃から陸奥は病魔に侵されていき、大磯で療養したりもしている。

戦争中、李鴻章は東洋の連帯などを訴えて、同じ考えを持つ伊藤を誘い、この求めに応じて

伊藤も清に渡って交渉しようとするが、陸奥がこれに反対し、病をおして大磯から帰京し伊藤

を説得した。無理をして帰京したことで陸奥の病状は悪化したという。

三国干渉についても陸奥は、

「・・・その張本は露国たること勿論なれども、露国をしてかくまで急激にその猛勢を逞しくする

に至らしめたるは、実に独逸の豹変に基因したり」(『蹇蹇録』)

と、その原因があったヨーロッパ情勢も見抜いており、さらにはこのことによって、清が下関

条約を空文化する恐れがあるとも指摘し、「清国に対しては一歩も譲らずとの趣意を実行する

の時機なり・・・」(『蹇蹇録』)とも記している。

『蹇蹇録』は陸奥が口述したものを筆記してできたものであり、長らく秘本扱いされていた

が、陸奥自身はさまざまな人に渡し見せていたという。

「陸奥は『蹇蹇録』を書くことで、三国干渉を失態と批判する国内の声に反駁し、それを機

に、次なる政治的台頭を見すえていた」(『陸奥宗光-「日本外交の祖」の生涯』佐々木 雄一)

上述の他に『蹇蹇録』を著そうとした動機には、父親の宗広の『大勢三転考』を意識していた

のかもしれない。

その後の陸奥は外相を辞し、療養のためハワイに向かったりするが、大半の期間を大磯で療養

している。周囲から自由党総裁就任も計画されるが、体調が好転することなく断念。

その間に雑誌『世界之日本』などで、「坂本は近世史上の一大傑物にして、其融通変化の才に

富める云々」と坂本龍馬について口述し、同じ雑誌に自身の「外交論」なども論じている。

井上、山県、原などが大磯の陸奥のもとに訪れたりするが、明治三〇(一八九七)年八月二四

日、陸奥宗光逝去。享年五四歳。葬儀は浅草の海禅寺でとりおこなわれ、その三年後には、妻

の亮子も亡くなっている。

先にも引用した通り、陸奥は、若いときから藩閥に対して批判的であり、地縁や血縁ではなく

能力を尊重すべきだ、という考えを終生持ち続けていた。

勝の塾で学んでいた時、獄中生活の時には、未来を見据え、能力を高めるために一人黙々と読

書をし、和・漢・洋の教養をバランスよく吸収した。イギリス留学の時にも、毎日一〇時間ほど

学問に打ち込んでいたという。

何ごとか事に当たる前には、情勢を分析して戦略を練り、いとこの岡崎邦輔や息子の広吉が

評しているように「研究と準備」が陸奥の真骨頂であった。

その事と関係してか、勝海舟が陸奥の死後に

「陸奥は元来才子だから、なかなか仕事はやる。あれも一世の人豪だ。(中略)

しかし陸奥は、人の部下について、その幕僚となるに適した人物で、幕僚の長としてこれを統

率するには不適当であつた。(中略)

あれがもし大久保の下に属したら、十分才を揮ひ得たであろうヨ」(『氷川清話』)

と評しているのも頷ける。

大正デモクラシーの旗手だった吉野作造は、「明治もので映画になる人物は無いか」と映画関

係者に尋ねられたときに陸奥の名前を挙げ、明治から昭和まで言論人・ジャーナリストとして活

躍した徳富蘇峰は陸奥の生涯を「小説より奇なる生涯」と評しているのも印象的。


本書は「日本外交の祖」である陸奥宗光の波乱万丈の生涯を新書で上手にまとめている。

著者の佐々木 雄一氏は、ぼくと同年代の方だが、陸奥の研究に一〇年ほど費やし、ケンブリッ

ジで史料調査もしている。

陸奥の伝記は、パッとしたものが身近になかったが、本書を著してくれたおかげで、手にしや

すくなったし、しかも読みやすい。

桐の葉の一葉散りにし夕より

         落るこの葉の数をますらん

勝海舟(陸奥が亡くなった時に詠んだ哀歌)

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佐々木 雄一 中央公論新社 2018-10-19