日清・日露戦争の決定版/『日清・日露戦争における政策と戦略』平野龍二



日本の事例では、直接的な政治目標が限定戦争の利用にことのほか上手く適合させられた。

朝鮮の地理的位置とロシアの国力の中心から朝鮮を隔てる広大な未開の領土のお陰で、

朝鮮を海軍の行動によって実質的に孤立させることができた・・・

戦略的には、日本にとっての朝鮮の保全は、私たちにとっての低地諸国〈オランダ、ベルギ

ー、ルクセンブルグ〉の保全とほとんど同じ意味を持っていたが・・・

『コーベット海洋戦略の諸原則』ジュリアン・スタフォード・コーベット

日本は、なぜこの両戦役に勝利して戦争目的を達成することができたのであろうか。

この二つの戦争を政策と戦略、すなわち政戦略の観点から解明し、勝利への一因を提示すると

共に、どの程度まで戦争目的を達成したかを解明することが本書の課題である。

『日清・日露戦争における政策と戦略』平野龍二

政略、政戦略という言葉は近年では馴染みのない言葉だが、日清・日露戦争当時の政軍指導者は

頻繁に使用しており、陸奥宗光の『蹇蹇録』でも使われていたのを目にしたことがある。

その政略、政戦略の言葉の定義だが、本書では近代日本の政軍関係を研究した雨宮昭一氏の

『近代日本の戦争指導』を引用して説明している。

政略とは「作戦に目的を与え、その範囲と限度等を指示し、作戦の成果を活用する『国家の政

策』であり、その内外政の諸作用[たとえば外交]」であり、

戦略とは「『国家の政策』によって目的・範囲・限度等を与えられた作戦計画であり、その実

行」であると定義している。

基本的に「国家の政策」と「政略」を同義としているが、「政略」は、その作用、運用の意味

が強いという。本書でもこの定義を踏襲している。

さらに本書では、この政戦略について二つの視角から分析している。

一つは、限定戦争の視角であり、もう一つは、制海の視角である。

限定戦争の視角は、まず大前提として、クラウゼヴィッツが指摘しているように「戦争は、政

治的行為であるばかりでなく、本来政策のための手段であり、政治的交渉の継続であり、他の

手段をもってする政治的交渉の遂行」であり、軍事作戦やその上位に位置する軍事戦略は、独

立して存在するものではない。

両戦役で、政策がいかに軍事戦略を規定し、軍事作戦を制御して戦争を成功に導いていったの

かを、限定戦争論を分析枠組みとして解明している。

日露戦争については、従来から地域的・時間的に限定されているという意味において限定戦争で

あると評価されてきたが、本書では、限定戦争を地域的・時間的だけでなく、政治目的の限定か

らも捉え直している。

制海の視角は、日清・日露戦争共に戦争目的である韓国(朝鮮)保全を達成するためには敵の陸軍

を撃退し、朝鮮半島やその周辺地域を軍事占領する必要があった。

そのためには、島国である日本は陸軍の大部隊を本土から渡海させ、その補給線を維持しなけ

ればならなかった。

それには海上輸送路の制海が重要であり、当時の海軍は、日本海海戦のような華々しい艦隊決

戦の陰で、制海が充分に把握できない状況下でも、苦心して海上交通路の確保に尽力してい

た。

これは第一の視点とも関連しており、冒頭でも引用したイギリスの海洋戦略家であるコーベッ

トの、「限定戦争は、島国にとって、ないし海によって隔てられた国家間でのみ恒久的に可能

であり、さらにはまた限定戦争を望む国が遠隔の目標を孤立させるだけでなく、本国領土の侵

略も不可能にすることができる程度に海を支配することができるときにのみ、可能であるとい

う命題だ」(『コーベット海洋戦略の諸原則』)に拠っている。

ちなみに、本書では「コーベット」ではなく、旧日本海軍以来、伝統的に用いられている「コ

ルベット」と表記している。

本書では、限定戦争と制海双方の理論を包含するものとして、コルベットの海洋戦略理論を分

析枠組みとしている。しかし、当時の政軍指導者がコルベットの理論を知っていたわけでもな

く、それを意図的に目指していたわけでもない、ということも指摘している。

ジュリアン・スタフォード・コーベット (1854年12月12日-1922年9月21日)

限定戦争の遂行は、敵の全抵抗力を破壊しなければならない代わりに、私たちの領土的目標の

占領を妨げたり終わらせたりするために、敵が集中させることができたり、その意志がある活

動的な軍隊を撃滅することだけが必要だという点においてのみ、無制限戦争の遂行とは異な

る。

『コーベット海洋戦略の諸原則』ジュリアン・スタフォード・コーベット

海の戦いの目標は、常に、直接ないし間接に制海を確保するか、敵が制海を確保するのを妨げ

ることでなければならない。

『コーベット海洋戦略の諸原則』ジュリアン・スタフォード・コーベット

「本書はコルベットの「海洋限定戦争」理論と、それに伴う制海理論を分析枠組みとして日清・

日露戦争における日本の政戦略を分析し、その勝利に寄与した一因を明らかにしたい。

コルベットの理論を分析枠組みとすることにより、政戦両略の観点から新たな日清・日露戦争像

を提示していくことができるであろう」(本書)

本書では、第一章で分析枠組みとしてのコルベットの理論について述べ、第二章以降は、日清

戦争前(壬午・甲申事変)から時系列に日露戦争前までを詳細に辿った全九章の構成になってい

る。

日清・日露戦争の前後の間、日本の政策目標は一貫して韓国(朝鮮)の保全であったことは有名だ

が、国力、陸海軍戦力共に日本は劣勢であり、決して勝算のある戦争ではなかったことも同

様。

日清戦争開戦前の陸軍兵力において清国は日本の四倍であり、火砲は六倍であった。

海軍戦力においても清国海軍は隻数、トン数、艦種において圧倒的に優勢な上に、「定遠」

「鎮遠」の二戦艦に対抗できる軍艦は日本海軍になかった。

日清戦争後、日本は軍事力、国力の増強に努めるが、それでも、近代戦遂行能力の指標として

よく使用される銑鉄の生産能力でも、日露開戦前年における鉄鋼生産量を見ると、ロシアは日

本の約七十倍であり、鋼材生産量は約五百倍だった。

「海洋限定戦争」の観点から、日清戦争においては三つの岐路が、日露戦争においては二つの

岐路があったと著者は指摘する。

日清戦争における最初の岐路は、「絶対戦争」から「海洋限定戦争」への変換であり、

開戦当初、政府首脳や元老はこの戦争を「限定戦争」にすることを望んでいた。

しかし、開戦前に設置された大本営は、清国の打倒、「絶対戦争」の概念からその目的達成を

目指した「作戦ノ大方針」を策定する。日本の政策と戦略は一致していなかったと指摘する。


一八九四(明治二十七)年七月、豊島沖海戦が起こり日清戦争が始まり、陸上でも、成歓の戦闘

でも日本は勝利を収めた。

開戦当初、日本は制海の獲得を目指すが、艦隊決戦が遅れて十分に制海を掌握することができ

ず、「作戦ノ大方針」を変更し、朝鮮半島から清国軍を排除することに重点を置く。

その戦略は直隷決戦による清国の打倒から朝鮮半島の確保に変換したものであり、

この戦争を「絶対戦争」から「海洋限定戦争」へと変換したと言うことができると指摘する。

そして、これにより陸軍兵力を迅速に決勝点に集中して日清戦争序盤の天王山である平壌の戦

闘に勝利することができ、ここが戦争の第一の岐路であったとする。

次の岐路は、その冬に訪れる。

「作戦ノ大方針」が変更され、新たに「冬季作戦方針」が策定されるが、そこでは、最終的に

翌年の春には直隷決戦が予定され「絶対戦争」は排除されず、大本営は「限定戦争」を遂行し

つつも「絶対戦争」への準備を怠らなかった。

さらにその後、「冬季作戦方針」策定時の予想以上に軍事作戦がうまく進行し、大本営は冬季

の直隷決戦を考え始める。

日本が順調に勝ち進んでいたこの時期が、戦争が拡大し、「海洋限定戦争」を逸脱する大きな

危機でもあったとしている。

そして、この危機を救ったのは伊藤博文首相であり、大本営に提出した「威海衛ヲ衝キ台湾ヲ

略スヘキ方略」だったという。

この伊藤の意見が通り直隷決戦は春まで延期され、威海衛を攻略するという「海洋限定戦争」

に沿った作戦が決定された。

ここが、第二の岐路であり、政治指導者の適切な政戦略が「絶対戦争」化を防いだと指摘して

いる。

しかし、その後も大本営は直隷決戦を進め、下関講和会議中に日清戦争は最後の岐路を迎え

る。

講和会議が停滞した時、伊藤首相が交渉決裂の際には大軍を送って北京を攻略すると言明し

た。その言葉を裏付けるように、日本軍の大船団が連日関門海峡を通過して大陸に向かった。

講和会議会場の春帆楼や清国全権団の宿舎である引接寺は、関門海峡のほぼ中央で海峡を至近

に見渡せる位置にあり、講和会議へ軍事的圧力を加える配慮があった。

日本側が最終案を通告する間も大船団は続々と李鴻章の眼前を大挙して通過し、李鴻章は日本

の最終案を呑み、日本は勝利のうちに講和条約を締結できた。

講和条約の妥結が遅ければ直隷決戦が実施され、戦争は「海洋限定戦争」から「絶対戦争」へ

と進展していたであろうとしている。

しかし、日本が圧倒的な軍事力を持っていたわけではなかったが、直隷決戦への万全の準備と

その進行が清国に対する外交圧力となり、日本が有利な条件で講和を締結できたと指摘する。

「総合的国力が清国より劣る日本は、戦争を「絶対戦争」から「海洋限定戦争」に転換するこ

とにより、軍事作戦をうまく活用して有利な外交交渉を行う場を作ったのである。

軍事戦略と外交を連接させたのは、朝鮮半島、遼東半島、山東半島、台湾という海洋によって

孤立された限定目標であった。

これらの限定目標をおさえていくことにより、日本は戦争を限定したまま、有利な講和を結ぶ

ことができたのである。

日清戦争は、まさにコルベットの指摘する「海洋限定戦争」であった。これにより日本は政治

目的を達成し、成功することができたのである」(本書)

日清戦争後、今度はロシアと朝鮮半島をめぐり勢力圏を争う。

北清事変によりロシアが満洲を占領し、さらに朝鮮半島をも窺うようになり、

一九〇四(明治三十七)年二月、日本はついにロシアと干戈を交えることになった。

日露戦争は、日清戦争とは異なり当初から「海洋限定戦争」として序盤が戦われた。


東郷平八郎聨合艦隊司令長官は、海戦劈頭の旅順口第一次攻撃において第二撃を行わず、攻撃

中止を決断する。

この第一次攻撃は旅順艦隊を撃滅することはできなかったが、新鋭戦艦二隻と巡洋艦一隻を撃

破し、当分の間は行動不能にした。

このため、同時に行われていた陸軍の仁川上陸によって速やかな京城確保が達成され、不安定

だった韓国情勢の中で、韓国宮廷や政府への政略的手続きを遅滞なく進めることができ、日本

は韓国における軍事行動の自由を担保し得た。

このことが韓国保全という戦争目的達成の第一歩に寄与したことは明らかであると指摘する。

その後、聨合艦隊は旅順口攻撃を繰り返し、旅順艦隊を封じ込め、速やかに陸軍部隊を上陸さ

せて平壌も確保した。

さらに海軍の支援により、鉄山半島への陸軍部隊の海上輸送も、陸軍の速やかな前進に寄与し

て鴨緑江の戦闘で圧勝することができた。

「当時の不安定な韓国情勢の中で、聨合艦隊は旅順艦隊撃滅に固執せず、陸軍の海上輸送、

すなわち海洋の利用により朝鮮半島という限定目標を確保したのである。「海洋限定戦争」に

沿った作戦であった」(本書)

しかし、その後の戦局の推移は、必ずしも「海洋限定戦争」としての特質を活かしていくこと

ができたわけではなかった。

次の目標は旅順だったが、海軍は旅順口の攻撃や封鎖作戦にことごとく失敗した。陸軍の方も

旅順攻撃の重要性を十分に認識せず、兵力の集中は十分ではなかった。

遼東半島を北上し遼陽を目指した第二軍に対しても、艦隊決戦に固執していた海軍は海上輸送

の護衛や揚陸支援を行わず、第二軍の進撃は遅滞する。

それでも海軍は八月に黄海海戦、蔚山沖海戦に勝利し、極東海域の海軍力の優位を保った。

しかし、ロシア太平洋艦隊主力の撃滅に失敗し、それ以降も聨合艦隊は旅順口封鎖を強いられ

続ける。陸軍も旅順要塞への総攻撃に失敗し、攻略の見込みはつかなかった。

満洲方面の主力は、個々の戦闘には勝利し進撃を続け、九月下旬には遼陽会戦にも勝利し、同

地を占領した。しかし、ロシア軍主力の撃滅には失敗し、砲弾不足から追撃もできなかった。

陸軍は二正面作戦を強いられ続けることになり、さらにはバルチック艦隊の極東回航も近づ

く。

「「海洋限定戦争」の視点から指摘すれば、遼東半島西岸における糧秣の海上輸送を十分に行

わず、また、海洋と陸軍の攻囲によって孤立化された旅順に陸海軍の努力が集中されず、日本

は海洋を十分に利用することができなかったのである。

このため、各個の戦闘には勝利を重ねたが、限定目標の奪取に失敗し、九月上旬に至り、日本

は危機的状況に陥ったと言えよう」(本書)

戦争終結に向けた日本の構想は、遼陽の戦勝と旅順陥落により講和へ持ち込むというものであ

り、講和のために旅順攻略は必須であり、政略としては早期に旅順を陥落させて講和に持ち込

む必要があった。

第一回旅順総攻撃失敗後も、この構想は継続し、遼陽会戦後、満洲軍は沙河方面で守勢をと

り、戦略目標への陸海軍の努力は旅順に集中されたかに見えた。

しかし、その後満洲軍司令部内でこの沙河守勢・旅順重視の戦略は揺らぎ始める。

ロシアの大軍との対峙によって、弾薬の補充は沙河方面が優先され第三軍へは不十分となり、

第二回総攻撃失敗の一因となった。

旅順艦隊が現存するまま、バルチック艦隊も東航の道についた。

この最大の危機において、戦地の満洲軍総司令部は沙河における北進を企図する。

ここで日本は大きな岐路を迎えたと著者は指摘する。

大陸奥地に攻め込む作戦は「海洋限定戦争」を逸脱し、戦争を拡大する戦略に基づくものであ

ったが、児玉源太郎総参謀長が、かろうじてこれを制止することに成功する。

北進が制止されたことにより二正面作戦は回避され、攻勢は旅順に集中することができ、二〇

三高地が奪取された。

その結果、旅順艦隊を撃滅することができ、政略上も重要な旅順を陥落させることができた。

ここに政戦略は一致したとしている。

もし、満洲軍主力が北進していれば旅順攻略の遅延は確実であり、ここが日露戦争における第

一の岐路だったとする。

旅順陥落により、日露戦争は新たな局面に入り、日本は当初の戦争目的であった韓国保全を達

成し、さらにそれを拡大して遼東半島まで占領した。

しかし、日本は奉天会戦には勝利したものの、またもロシア軍の撃滅に失敗し、その後の大本

営は満洲正面で守勢をとる作戦方針を起案する。

ところが、満洲軍総司令部はハルビンまでの北進を再び企図し、一度はこの意見が入れられ、

ハルビン攻略の作戦方針が上奏された。

その後、この拡大路線は政略によって歯止めがかけられ、戦略は「海洋限定戦争」路線に復帰

する。

ここでの鍵は「政戦略の一致」であり、日露戦争における第二の岐路でもあり、最大の岐路だ

ったとしている。

「ロシアを完全に打倒するだけの実力は日本にはなかった。

国力の劣る日本は「海洋限定戦争」を堅持することにより、軍事作戦をうまく活用して有利な

外交交渉を行う場を作ったと言えよう。

「海洋限定戦争」逸脱の危機は、政軍指導者の巧みな政戦略によって防がれていったのであ

る」(本書)

日本海海戦の圧倒的な勝利とローズベルト大統領の講和提議により、日露戦争は講和を迎え

る。

満洲方面の膠着状態は継続していたが、日清戦争の時のような「絶対戦争」化の懸念はなかっ

た。

さらには、樺太作戦を短期間で成功させることにより、重要な限定目標を奪取することに成功

した。

しかし、支作戦として実施された北韓作戦は、戦争目的にも直結し、政府側も強く希望してい

たにもかかわらず、講和成立までに作戦を完遂することはできなかった。

北韓作戦はポーツマス講和会議開催中も進行中であり、この作戦は政略的にも重要であった。

ところが、海軍が陸軍に十分に支援をしなかったため、日本は講和条約成立までに北韓地方か

らロシア軍を排除できず、韓国全土を占領することができなかった。

日本は戦争終結時に「海洋限定戦争」における戦争目的を完全には達成することができなかっ

た。

それによって、日本海海戦の勝利によって得た海軍力の圧倒的な優位を、「海洋限定戦争」の

中で活用することができなかったと指摘する。

「最終的に、戦争目的を完全には達成できなかったが、日露戦争で日本が勝利したことは間違

いないことである。

日清戦争時の伊藤首相同様に、桂太郎首相、山県有朋参謀総長、児玉満洲軍総参謀長などの政

軍指導者が、本書で考察してきたように度々生起した「絶対戦争」化を抑え、「海洋限定戦

争」の枠内で戦争を遂行し、有利な状態で終結させたことが、日本の勝利の大きな要因であっ

たと言うことができる。

日清・日露戦争共に「海洋限定戦争」であったが故に、日本は成功を収め、明治維新以来の念願

であった確固とした独立を確保し、列強の仲間入りを果たしたのであった」(本書)

戦争とは、そのままでは海軍と陸軍、政治、財政、精神の諸要素の複雑な総体であり、

その現実は戦略的問題が巧みな三段論法によって解決される白紙状態を海軍参謀に提供するこ

とは滅多にない。

海軍の要素は、決して他の要素を無視することができないのだ。

『コーベット海洋戦略の諸原則』ジュリアン・スタフォード・コーベット

日清・日露戦争では、ほとんどの期間で制海は争奪されていた。

日本が圧倒的な制海を把握したのは、日清戦争においては威海衛攻略によって清国北洋艦隊が

降伏した後であり、日露戦争では日本海海戦の勝利によってバルチック艦隊がほぼ壊滅した後

であった。

しかし、日本海海戦後もロシアの敗残艦隊はウラジオストクに存在し、沿岸部で水雷艇や浮流

機雷の脅威が存在していたので、日本が海上交通を管制していたとは言えない状態だった。

このような戦争の大半の時期を占める制海争奪下で、日本はコルベットの言う「制海行使の作

戦(陸軍の輸送船団護衛と揚陸支援)」を行うことにより、「海洋限定戦争」における戦略目標

を奪取していった、と著者は指摘する。

「本書は、従来の日清・日露戦争研究ではあまり検討されてこなかった陸海軍の協同にも焦点を

あてて考察を重ねてきた。

その結果、陸海軍の協同が順調であり、その努力を一つの戦略目標に集中できた時には「海洋

限定戦争」も順調に進展し、これに齟齬を来たした時は「海洋限定戦争」も危機的状況になっ

たことが明らかとなった」(本書)

時期的にも当時の日本の政軍指導者がコルベットの著作を読んだとは思えず、意識的に「海洋

限定戦争」を目指していたわけでもなかった。しかし、結果としてかなりの部分で「海洋限定

戦争」に沿った政戦略で成功した。

著者は、特に秋山真之に注目したいとして、秋山の思想はコルベットの思想に近似していたと

指摘する。

秋山真之 1868(慶応4年3月20日)4月12日〜1918(大正7年)2月4日

秋山は、講義録である「海軍応用戦術」で、

「為し得る限り敵を殺傷するを避け、単に之を屈伏せしむるの手段として或は之を疲労せしめ

或いは其武器を奪ひ或いは其手足を傷け、以て其抵抗力を減殺し、遂に我に屈服するの己むを

得ざる[に]至らしむる」

という「屈敵主義」を唱えていた。その手段は

「全軍を殲滅せんとすることもあれば或は其一部を撃破せんとすることもあり、又は単に敵に

交通線を遮断せんとするもあれば、或は又敵の要地を占略せんとする等のこともある」

としている。

秋山は艦隊決戦に固執せず、陸軍の韓国臨時派遣隊の揚陸とその直後の第十二師団主力の仁川

上陸によって速やかな京城の確保を達成し、バルチック艦隊来航前の時期においても、聨合艦

隊は次の海戦に向けて整備中であった装甲巡洋艦「春日」の修理を中止させてまでも陸軍支援

に参加させ、当時は四隻しかなかった主力戦艦の内の一隻である「富士」まで参加させて陸軍

の海上護衛と揚陸支援を行った。

「秋山は敵艦隊を撃滅するよりも、陸軍の海上輸送を護衛・支援することにより、すなわち海か

ら陸へ影響力を行使することにより、戦争目的を達成しようとしていたことは明らかである。

壮大な艦隊決戦であった日本海海戦にしても、秋山は当時の英国海軍ドクトリンのように、敵

艦隊を追い求めることはせず、対馬海峡で待ちかまえることによって日本本土と大陸との間の

陸軍輸送路を守ったのである」(本書)

秋山はマハンの私邸まで訪ねて教えを請うたこともあり、「素敵殲滅」「艦隊決戦」などのマ

ハン流の海軍思想を持っていたのかと思っていたが、秋山は孫子や中世の瀬戸内水軍の戦術、

甲陽軍艦などにも習熟していたという。

それらの研究を通じて、陸海軍の協同の重要性を導き、孫子からは戦争目的の重要性などを学

んだことが推察できる、と著者は指摘している。

しかし、日本海軍とコーベットの関係は意外に古く、英海軍大学校の戦争課程でのコーベット

の海軍史講義を複数の日本海軍士官が聴講している。

海軍大学校甲種学生二期の小栗考三郎中佐と堀内三郎少佐は、一九〇三年一〇月から一九〇四

年二月にかけて、グリニッジで開講された戦争課程に参加している。

その講義内容に関する詳細な記録は残されていないみたいだが、小栗は日課表と校内居住学生

心得書、英国海軍兵棋演習規則を海軍省に送付しているという。

(『コーベット海洋戦略の諸原則』解説・矢吹啓)

秋山の思想に影響を及ぼした可能性は低いかもしれないが、そのあたりの関係性はどうだろう

か。

ちなみに、コーベットの『海洋戦略の諸原則』が海軍大学校甲種学生により初めて抄訳され、

海軍部内でガリ版刷りされたのはコーベット死後の一九二四年のことで、それが活字出版され

ることはなかったという。

本書は二〇一二年度に慶應義塾大学大学院法学研究科に提出した博士学位論文に加筆・修正をし

て出版されたもの。

著者の平野龍二氏は、防衛省防衛研究所戦士研究センター所員、博士(法学)。

一九八八年慶應義塾大学を卒業、同年に海上自衛隊入隊。護衛艦航海長、砲術長、海上自衛隊

幹部学校教官などを経て現職。

本書は「日清・日露戦争の決定版」と位置付けたくなるほどの素晴らしい内容になっている。

日露戦争後、日本海海戦の圧倒的な勝利もあって、艦隊決戦主義は日本海軍の中心思想として

脈々と受け継がれ、太平洋戦争の敗戦まで至る。

日清・日露戦争勝利の大きな要因であった「海洋限定戦争」と陸海軍の協同は忘れ去られてしま

った。というよりも当初から意識されていなかったのかもしれない。

『日清・日露戦争における政策と戦略』平野龍二

「海洋パワー」に対して「シーパワー」は脆い。(中略)

「海洋パワー」のほうは、他国との関係性からもたらされるものだ。

とくに沿岸国、島嶼国、そして半島国との関係性が重要となる。

エドワード・ルトワック

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ジュリアン・スタフォード・コーベット 原書房 2016-9-23