猛暑の中で / 『甲陽軍艦』



最近は身内の結婚式などもありバタバタとしていて、読書もブログをアップすることも疎かに

なってしまった。それに加え、猛烈な暑さが日本全国を襲い、少々夏バテ気味にもなってい

た。(被災地を思えば、そんなことは言ってられないのだが)

ニュースで放送されていたが、甲府にある信玄像もかなりの高温に達していて、信玄も辛そう

にしていたのが印象的だ。

「甲」は、もちろん甲斐をさし、「陽」は、万物が豊かに成長し、稔る意のことば。

「軍艦」は、戦いの歴史物語の意。

本書は『甲陽軍艦』五十九品のうち、口書(はしがき)から品第十四までが収録されている。

全体の四分の一にも満たない短いものだが、それでも十分学びとれる。

『甲陽軍艦』の大部分は、信玄の老臣であった高坂昌信(一五二七~七六)の筆録という体裁を

とっている。

高坂昌信は、武田勝頼自刃の四年前に歿しているが、『甲陽軍艦』(品第五十四~五十九)は、

父方の甥である春日惣次郎が書き継いだ体裁となっている。

そして、これらの筆録を現在のかたちにまとめたのが、小幡景憲(一五七二~一六六三)であ

る。祖父の小幡虎盛は、海津城の二の丸を守る武将であった。

その景憲は、徳川氏に兵学者として仕え、門下に北条氏長(一六〇九~七〇)や山鹿素行(一六ニ

ニ~八五)を輩出している。

『甲陽軍艦』は江戸時代を通じて広く読まれ、十八種の版本があったと伝えられており、

江戸時代から武田信玄の人気が高かった。

これは徳川家康が武田旧臣を広く登用し、武田流の軍学が『甲陽軍艦』というテキストにして

広まったことが大きい、とされているのは有名な話。

「『甲陽軍艦』とは、武田遺臣が武田氏の事蹟を記した軍記物であり、また甲州流軍学のテキ

ストでもある。江戸時代には、版を重ねてベストセラーになった」

(『戦国大名の家臣団』丸島和洋)

それは勝頼の遺臣がまだ多く生き残っている時代に世に出されたもの。

今でも帝王学として読める。

品第一には「甲州法度之次第」(領国五十七箇条法度のこと)が収められているが、

これは「貞永式目」を下敷きにしている。

十五条には「奴婢(ぬひ)や卑しい身分の者の場合は、その沙汰がなく十年を過ぎたならば、

貞永式目の規定通り、もとの主人に戻る必要はない」とある。

ちなみに、山本七平は「貞永式目」について、外国から輸入した継受法でなく、自らの規範を

条文化した日本ではじめての固有法である、として、かなり重要視している。

品第二「典厩(てんきゅう)九十九箇条の事」(信繁九十九箇条のこと)があるが、

『三略』『論語』『孫子』『呉子』『孟子』『史記』『碧巌』『左伝』

などを引用し戒めている。

四十七条

諸卒は敵方に対し、悪口をいってはならない。

『三略』に「蜂をつついて怒らせれば、竜のように激しく突き進んでくる」とある。

九十六条

たとえ敵方が多勢であっても備えが薄かったならば攻めよ。少勢であっても備えが

厚いならばよく考えよ。

『孫子』に「勢いが盛んで整った敵陣を攻めてはならない。旗が正しく整っている敵勢の行手

を遮ろうとしてはならない。このような敵を討つには常山の蛇のように速やかであれ。

常山の蛇は、首を撃てば尾で向かい、尾を撃てば首が向かい、胸中を撃てば首と尾で向かって

くる。常山の蛇を撃つにはやり方がある」とある。

品第十一から十四までは、「領国を失い家中を亡ぼす四人の武将」という題をもつひとかたま

りの構成になっていて、『甲陽軍艦』のなかでも、白眉の物語として知られているという。

品第十一

己の領国を失い、己の家中を亡ぼす国持ちの武将に、四人の武将がある。

第一に愚かな武将、第二に利口過ぎる武将、第三に臆病な武将、第四に強過ぎる武将である。

まず第一に、愚かな武将について。この武将はところにより、呆気(うつけ)、たわけ、痴(し)

れ者とも呼ばれる。

愚かな武将は、ただ愚純だというのではなく、おおかた剛勇な心を持ち、わがままである。・・・

愚かな武将のもとでは、十人の中九人は諂(へつら)い者で、よからぬ作法の家臣ばかりが多

い。・・・

愚かな武将には、必ず自惚れがある。家臣を見る眼がなく、よからぬ者を取り立てていること

に気づかない。・・・

品第十二

第二に、利口過ぎる武将について。

この武将は、大体において挙動が粗雑で、すぐ天狗になるかと思うと、意気消沈しやすい。

すぐれた武士は、大身・小身とも、よいことがあっても驕ることなく、うまくいかなくてもそれ

ほど意気消沈しない。・・・

とくに利口すぎる武将は、邪欲が深いので、家臣に知行地を与えるにも粗悪な地を選んで与え

る。そのうえ家臣をしめつけ、百貫の知行を持つ武士から課役を負わせて五十貫を召し上げ、

五十貫の知行を持つ武士から二十五貫を召し上げる。・・・

利口すぎる武将は、うわべだけの利口さを持っているから、ひとに非難されまいと考え、

武具や馬具、弓や鎧などの諸道具すべてをきらびやかにととのえるが、

その費用を町人や農民に物を貸し与えて得た利子や、家臣に課した罰金でまかなう。

利口過ぎる武将は、分別がなく、物事を深く思慮しないから、家臣の武功も知らず、無手柄も

わからない。・・・

品第十三

第三に、臆病な武将は、気性が愚痴っぽく、女人に似ている。

それ故、他人をそねみ、こびへつらい、意志が弱く、物事を深く吟味することがなく、分別が

なく、無慈悲で、思いやりがないから、ひとを見る眼をもたず、機敏さに欠け、融通がきか

ず、妙に常人と変わっている。・・・

臆病な武将は義理をかえりみず、外聞をもとにふるまうからこびへつらい、忠・不忠を考慮せ

ず、ただ当座ばかりで剛勇・臆病もとりあわず、むやみに大勢に従うばかりで賞罰も不明確で、

家臣の勇む気持をなくさせる。・・・

品第十四

第四番に、強過ぎる武将は、気性が激しく、癇が強く、大体において弁舌もさわやかではっき

りものをいい、智恵はひとにまさり、何事につけても柔弱さを嫌い、いつもは短気なこともな

く、少しも騒々しさがなく、いかにももの静かで、あなどりがたい。・・・

強過ぎる武将は、計策や武略のような智略を臆病に似ているといって嫌う。その心根を強過ぎ

るというのである。・・・

武士はみな同じようにみえるが、四つに分けられる。

第一は剛勇で思慮も才覚もある上の武士、第二は剛勇で気の利いた中の武士、

第三は戦場での武功を望み、戦うことを心がける下の武士、第四は人並みの武士である。・・・

ことに強過ぎる武将は、前もって考えず、なにごとにも剛強にふるまおうとするので家臣の武

士も、前もって考えることなく、ちょっとした小ぜり合いにも討死する者が多く出る。・・・

武将が強過ぎると、いつも勇み気負ってばかりいてついにはつまずき、失錯をまぬかれない。

失錯があると戦いに負け、すぐれた武士の大部分が討死してしまう。・・・

解説の佐藤正英氏によれば、「武士道」という言葉がはじめて見出される文献としても知られ

ているのが、この『甲陽軍艦』だという。

歴史がどこまで正しく書かれているのかということもあり(どんな歴史書でも書き手の主観が入

るが)、歴史学者は嫌いそうだけれど、一般人には楽しく読むことができるし、組織をどう運営

していけばいいのか、ということも参考になる。

「不識庵、機山を撃つの図に題す」 頼山陽 (七言絶句)

鞭 声 粛 粛 夜 過 河  鞭声(べんせい) 粛粛 夜 河を過る

暁 見 千 兵 擁 大 牙  暁に見る 千兵の大牙(たいが)を擁するを

遺 恨 十 年 磨 一 剣  遺恨なり 十年 一剣を磨き

流 星 光 底 逸 長 蛇  流星光底 長蛇を逸す

(「不識庵」は謙信、「機山」は信玄)

つい先日帰った沖縄の親戚は、「沖縄が涼しく感じたのは初めてだ」と言っていたぐらい本土

は暑い。野外で活動をしている方は、うまくサボったほうがいいし、こういう暑い日にこそ書

店や図書館で時間を過ごす、というのもありかな。

みなさんも熱中症には気をつけて。

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佐藤 正英 筑摩書房 2006-12-01