『神になった戦国大名』今福匡



「上杉謙信(一五三〇~七八)は、不思議な武将である。

戦国武将、戦国大名に『典型』を求めるとすれば、謙信はいずれの基準からもはずれてしまう

ような気がする」(本書)

越後の龍、毘沙門天の化身、生涯妻帯せず仏の教えに深く帰依し、不犯の聖将、

「生涯七十余度戦い、負けなし」と言われ、戦国最強の武将と称される上杉謙信。

上杉謙信に対して現代人がイメージするのは、白練絹の頭巾に白馬に跨っている姿であり、

袈裟をまとって端座する僧侶の姿である。

実際、大河ドラマでもそのように描かれているし、黒澤明の映画『影武者』や角川映画『天と

地と』などでも同様のイメージで描かれている。

戦前の思想家の大川周明は、『日本精神史研究』のなかで謙信を「戦へる僧」と評している

が、本書は、その「僧」の面をフォーカスして語られている。

個人的には戦国時代のマニアでもないし、特別に意識していることでもないのだけれども、

神田千里氏の『戦国と宗教』や『宗教で読む戦国時代』などの著作にふれてから、

戦国武将の内面、世界観に興味を覚え、小和田哲男氏の『戦国大名と読書』などに目を通し、

その流れの中で本書を手に取った。

今現在の熾烈を極める国際環境を考慮し、苛酷な時代を生きた戦国武将から、何か学びとれる

ものがあるのかもしれない、という心理が働いた、という側面もあるのかもしれない。

上杉謙信と毘沙門天像

謙信は幼少期に春日山城下の曹洞集の林泉寺に預けられている。住持は天室光育。

若い頃は上洛時に大徳寺に参禅するなどし、禅宗への傾倒ぶりも見せていたが、

その後は高野山へ登り、無量光院の清胤に帰依するなど、真言密教への信仰を深めるようにな

った。

謙信が剃髪したのは、第四時川中島の戦いの十三年後、天正二年(一五七四)の伝法灌頂(でんぽ

うかんじょう)の時であると考えられている。

伝法灌頂とは、密教における重要な儀式のひとつで、密教の導師としての資格「阿闍梨位」の

印可を受けるものとされている。

謙信は、高野山無量光院の清胤を導師として伝法灌頂を受け、法印大和尚となった。

さらに二年後にも灌頂を受けて、阿闍梨位を得た。

この資格は密教の修練を深く積んだ者でないと受けられず、古くは、四十歳以上の者に限られ

ていたという。謙信は四十五歳の時に伝法灌頂を受けている。

ちなみに、灌頂とは、頭に水をそそぎ、一定の資格を備えることを証明するための儀式で、

古代インド発祥とされ、密教では重要な儀式に位置づけられているという。

高野山で清胤に帰依した謙信は、真言密教の修法を行う資格を得た。

永禄六年(一五六三)に、毘沙門堂のそばに一宇(不識院)が建立され、謙信はここを居所に定め、

古より忠義に殉じた越後の将士たちの位牌を安置して、朝暮に香華を供え、護摩を焚いてその

霊を祀っていたという。

「戦国時代の武将たちは大なり小なり信仰心をもって戦った。合戦に先立っては、戦勝祈願を

し、寺院に寄進をしたりする。

謙信の場合は麾下(きか)の軍団に勝利をもたらす軍神を召喚する『武禘式(ぶていしき)』を執

行しているが、自ら真言宗に帰依し、密教の奥義を修めて伝法灌頂を受け、大阿闍梨になって

いる」(本書)

「謙信が毘沙門堂に籠るという行動は、毘沙門天と一体化し、堂外へ出た時には軍神の姿とな

って現れるという意図があった。

自ら毘沙門天の化身と称し、神仏に深く傾倒していた謙信にとって、これはパフォーマンスと

いうよりは、毘沙門天の力を身にまとうための一種の宗教儀式であったろう」(本書)

神田千里氏も指摘しているが、

「そもそも戦争という行為自体が、この時代には多分に呪術を含むものであった。

戦場に臨む者は神仏の加護を祈った守りを携行した」(『戦国と宗教』)

ということで、謙信の強さの秘密は、セルフイメージを毘沙門天にかさねていたからなのかも

しれない。

ちなみに、本書では言及されていないが、「毘沙門天」は四天王のひとつで北方を守護する多

聞天の異称。

ヒンドゥー教ではクべーラ(毘沙門天)と呼ばれ、財宝の神であり、「財宝の王」「財宝の守護

者」とも呼ばれている。

カイラーサ山中の都市アラカーに住む北方の守護神でもあり、「カイラーサに住む者」「アラ

カーの主」などとも呼ばれ、ヴァイシュラヴァナという別名を持ち、その音写が「毘沙門天」

としている。

仏教伝来後、毘沙門天(多聞天)への独立した崇拝が日本で始まるのは八世紀であると考えら、

桓武政権下での東北地方進出に伴い、北方の守護天としての毘沙門天の信仰が高まったとされ

ている。(『神道とは何か』伊藤聡)

天正六年(一五七八)三月九日午の刻(正午頃)、居城である春日山城内で謙信は倒れる。

厩で倒れたとする説もあるそうだが、詳細は不明とされている。

その後、昏睡状態に陥り、四日後の十三日未の刻(午後二時頃)に逝去した。

「四十九年一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」という辞世が伝わっている。享年四十九歳。

死因は、脳卒中であるといわれ、甥で養子の景勝が諸方へ出した書状には「不慮の虫気」とさ

れているという。

天正六年三月十五日、春日山城北丸大乗寺の住持良海法印を導師として、謙信の葬儀が執り行

われた。

「不識院殿真光謙信法印大阿闍梨」の法号が贈られ、遺骸は甲冑を着した格好で甕に納めら

れ、不識院本堂に安置された。

遺言によりこの葬礼形式が採用されたと「上杉家御年譜」は記しているという。

謙信が春日山本丸に不識院、大乗寺を建立したのは、真言密教の霊場高野山を意識していた、

と著者は指摘している。

春日山城跡

「つまり、高野山=金剛峰寺=弘法大師廊という一大聖地に倣って、

春日山=大乗寺=不識院という山上寺院を構成したと考えられる」(本書)

「そもそも城館に代表される武将たちの居住空間=〈俗〉と、遺骸の埋葬地=〈聖〉と、二つ

の空間は明確に分離されていたのである。

ところが、ただ一人、上杉謙信のみは違っていた。

自らを毘沙門天の化身と称した謙信は、聖と俗の場所を一致させていたのである。

謙信は春日山城内で亡くなると、そのまま北の丸に自身が建立した不識院に葬られた。

つまり、謙信は居城である春日山城の中核部分に埋葬されたということになる。

それどころか、上杉家が越後、会津、そして米沢へと移封すると、謙信の遺骸もこれにともな

って移され、会津若松城、続いて米沢城の本丸に安置されたのであった。

上杉家が会津時代に築城を開始して、結局、未完に終わった神指城にも謙信の遺骸を安置する

場所が設定されたであろうと考えられている。

このように、城の本丸に遺骸が安置されたのは、上杉謙信のみと言ってもいいだろう。

そして、それは謙信自身の発案によるものであり、そのプランにしたがって、次代の景勝はじ

め歴代当主たちが頑なに守り続けてきたのである」(本書)

上杉家は、越後から会津へ移され、関ヶ原合戦の後、米沢・福島三十万石に減封されている。

さらに江戸時代に至って、十五万石にまでなってしまう。

そのような状況下でも米沢藩は、本丸に家祖上杉謙信の御堂を建立し、節目の法要を欠かそう

とはしなかった。

著者は「財政的に厳しい中で、愚直に家祖への尊崇をあらわす米沢藩の姿勢には、いじらしい

ものを感じる」、「上杉景勝にはじまる米沢藩が、米沢城に御堂を造営し、いわゆる弘法大師

信仰に沿った祭祀の方式を選択し、二百五十年間それを守り続けてきたことが、米沢における

謙信への畏敬の念を浸透させていったのではないだろうか」と指摘している。

歴代藩主は、謙信が出陣前に毘沙門堂に籠って呪術的行為を彷佛とさせる「御武具召初」を、

御堂に参詣して行っていたという。

ちなみに、米沢では謙信を上杉家の「家祖」とし、初代藩主の景勝を「藩祖」としている。

明治になって新政府は、神道の国教化を画策し、近代社格制度が整備されるようになる。

神社の序列化。

国から直接奉幣を受けることができる待遇を求めて、別格官幣社への昇格運動が過熱する。

戦前、二十七あった別格官幣社のうち、主祭神となった戦国武将は六人で、その中に謙信も含

まれるようになる。(賛否両論あるだろうが)

徳川家康(日光東照宮、後に久能山東照宮)、豊臣秀吉(豊国神社)、織田信長(建勲神社)、

毛利元就(豊栄神社)、上杉謙信(上杉神社)、前田利家(尾山神社)。(列格順)

別格官幣社に昇格するには、勤王、天皇への忠誠がバロメーターとなっており、

推薦する側は、神社に祀られている人物について調査を行い、勤王事績を発掘しなければなら

なかったとされていた。

謙信は生前二度にわたって上洛し、当時の天皇や朝廷に忠誠を尽くした、その勤王事績が再発

見、評価され「軍神」となり、今に至る。

ちなみに、人神が量産されるのは、近代に起こった新しい現象だが、人が神になるメカニズム

は、明治国家が新たに創造したのではなく、吉田神道の浸透とともに、人を神と祀る風習が大

きく広がることになったとしている。(『神道とは何か』伊藤聡)

まあ、飛び飛びに目に留まった箇所しか紹介していないが、本書は謙信在世中から近・現代まで

四百数十年という長い時間を扱い、米沢と謙信の関係も踏まえ、宗教者と武将の二面性を持つ

謙信の姿と、その謙信の祭祀を執行してきた子孫たちの歴史を辿っている。

著者は、歴史ライターで戦国史研究会会員。なので他の著作にも戦国時代を扱ったものが多

いし、文章も歴史学者と違ってリズミカルで読みやすい。

内面的な世界というのは、外面的な世界と結びついたあなたの諸要求、あなたのエネルギー、

あなたの可能性などの世界です。

そして、外界はあなたの肉体的な顕現の場です。そこにあなたは存在しています。

ジョーゼフ・キャンベル(神話学者)

戦国時代といえば、派手な合戦について語られることが多いが、

個人的には、武将たちがどのような思想や世界観に立脚していたのか、

ということのほうが気になる。

謙信を一から十まで調べたわけではないが、宗教を等閑視することはできない、

ということを身にしみて感じた。

created by Rinker
今福 匡 洋泉社 2013-03-12