真実の織田信長/神田千里の『織田信長』



織田信長のような有名な人物は、過去からの伝承も豊富な分、誤報や誤伝もまた豊富であり、

その全体的な人物像を正確に知ることは、大変困難である。

にもかかわらず「革命児」とか「天下統一」の野望の持ち主という信長の「箱」のおかげで、

私たちは織田信長の人物像を意外とわかったつもりになっているのではないだろうか。

それは先入観による信長像ということになる。

『織田信長』神田千里

世間で流布している織田信長像といえば、

伝統や権威に囚われずに「天下統一」(「天下布武」)を目指した「革命児」だと思われるが、

本書では、いままでひろく知られてきた信長像を再検討してみたい、としている。

著者は『宗教で読む戦国時代』や『戦国と宗教』、『島原の乱』などでお馴染みの神田千里

氏。

しかし、なぜ信長は「革新的」だとイメージされるようになったのか。

著者に拠れば、かなり早い時期に明快に述べられたものは、近代に入ってからだという。

そのきっかけとしているのは、東京帝国大学で日本史を講じた田中義成(一八六〇―一九一九)

の『織田時代史』。

本書は田中氏本人が著述したものではなく、その死後に弟子たちよって生前講じられた講義の

内容が書物となったものだというが、その中では、織田信長の事業について「信長の幕府を廃

し皇室を奉戴して、海内統一の計画をなせしは、鎌倉以来四百年の習慣を打破せる一大革新な

りき」と記されているという。明治人の田中には勤王こそ革新であった。

『織田時代史』が刊行された頃の小学校の教科書『尋常小学国史』)一九二一刊)にも同じよう

に書かれており、勤王家という信長観は当時広く受け入れられていたと著者は指摘する。

しかし、敗戦によって勤王の観念は大きく変えられるようになり、勤王も手放しで革新的と賛

美することは出来なくなった。

そして、このことによって信長の革新性も、重要な再検討の対象となるはずであった。

ところが、新たに伝来した武器鉄砲のいち早い採用や、キリスト教の容認などが強調されつつ

「革新」のイメージは存続し、信長が革新的人物という信念はなぜか揺らぐことはなかった。

日本史では西洋史に倣っているので、中世から近世への移行期にある信長の時代を変革の時代

と仮定すること自体は不自然ではなく、信長の行動を革新的と予想することも見当はずれとは

いえない。

しかし、史料からの検討を経て、信長の行動が予想通り革新的であるとの結論を導くのが手順

であり、この時代が変革期であるから、信長の政策も革新的であるはずだ、という推論は誤っ

た結論を導く恐れがある、と指摘する。「天下統一」も同様。

「勤王から革新性を結論した論理についての検討は不十分のまま、

織田信長は、天皇の権威を乗り越えようとしたという学説が唱えられたり、

勤王以外の都市政策や領国支配に革新性を求める見解が提示されたりしてきた。

特に室町幕府の否定という明治以来の見解には何ら再検討がなされて来なかった」(本書)

織田信長像 古渓宗陳賛(こけいそうちん) 天正11年(1583)

先述のように本書では、信長と将軍や天皇・公家との関係、「天下布武」の内実や分国拡大の実

態、信長と宗教、「革命児」信長の真実、などを検討している。

まず、「信長と将軍」との関係だが、信長は足利義昭を擁立して入京を実現し、将軍の存在な

ど取るに足りないものと考えられている。

その狙いは、自らの手による全国制覇だと信じられてきたからだとされている。

しかし、信長は、あくまでも足利義昭の、臣下としての立場を堅持しつつ行動していた。

永禄八年(一五六五)五月、将軍足利義輝が京都の御所で、三好三人衆や家老松永久秀らによ

り、暗殺されるという衝撃的な事件が起こるが、その頃の信長は、自分の花押を「麒麟」の

「麟」をかたどったものに替えている。

麒麟は中国の伝説上の生物であり、最も平和な時代に出現すると考えられていたもの。

ある中世史家は、平和な世の到来を実現しようとする、信長の決意を物語るものとしている。

現代人には、戦国時代に起こりがちな下克上のようにみえても、当時の人びとには、将軍の暗

殺は決してあってはならない、ショッキングな事件であったと指摘する。

その後、義昭(義秋)が幕府の再興を唱え、諸大名に、自分の上洛に「供奉(ぐぶ)」するよう促

すが、この時供奉を申し出たのが、尾張平定を成し遂げたばかりの信長だった。

信長自身「(公方様)御上洛にただちに供奉する〈御上洛の儀、不日供奉致すべく候〉」と述

べ、上洛直前にも、上洛に向けて武田信玄と和睦したことを上杉謙信に報告し、謙信にも信玄

との和睦を要請しているが、その中でも「公方様の上洛に供奉することを御請けした」と述べ

ている。信長はあくまでも将軍足利義昭の上洛に従うお付の者であると公言していた。

「しかし、当時の史料上の表現からみる限り、義昭自身はもちろん信長も義昭を単なる傀儡と

はいわなかったし、恐らく第三者からみても、義昭は傀儡ではなかったと思われる」(本書)

姉川の合戦も、戦場に足利義昭を迎えて、その上覧の下に行なわれるはずであったが、摂津国

池田氏の内紛により延期され、三好三人衆を討伐すべく行なった出陣も、信長、公家衆と奉公

衆・美濃国衆らがまず出陣し、奉公衆や公家衆が迎えに上洛して後、足利義昭が出陣している。

信長軍は将軍の軍隊として行動していた。

その後、信長と義昭の間は決裂し、義昭は信長討伐の意図を明らかにして朝倉、浅井に御内書

を発して、光浄院暹慶(せんけい)らを西近江で蜂起させ、暹慶らは、本願寺一族慈敬寺を中心

に、本願寺門徒を糾合して近江国石山、今堅田で蜂起する。

これに対して信長は、柴田勝家や明智光秀らを派遣して鎮圧させる一方、義昭に対しては、あ

くまで和睦を願い、弁明のために使者を派遣している。

しかし、義昭は断交を告げ、信長は軍勢を率いて上洛し、義昭に和睦を迫り、京都上京を放火

した。

信長は「君臣の間でもあり、以前からの忠節が無駄にならないよう、色々弁明したが承知され

ないので、この上の成り行きに任せるしかないと思い、洛外を放火した」と家康に述べてい

る。義昭は放火に屈して和睦する。

義昭は、町人を派遣して京の口を守らせていたが、義昭本人は戦の噂に逃げ支度をしたため

に、京都住民が大騒ぎした。

信長が義昭に宛てた有名な『十七箇条の諫言』で詰ったのは、このような事情もあった。

義昭は、毛利を頼り京都郊外で蜂起するが、これを信長は包囲して義昭を降参に追込み、三好

義継の河内国若江城に送り届ける。

現代ではここで室町幕府が滅びたとされているが、信長はあくまでも「君臣」の関係を強調し

ていた。信長は将軍を主君として立てる、という形で事を収めたかった。

義昭を、単なる信長の傀儡に過ぎない存在であったとみることはできない、と指摘する。

それは天皇に対しても同様であり、義昭の帰京に関する交渉が破綻した年の暮れに、信長は朝

廷に正親町天皇の譲位の儀式をとり行なうことを申し入れている。

この時には、実現しなかったが、正親町天皇は頼もしく思い喜んでいたという。

室町時代にあって、天皇の譲位の儀式は将軍家によってとり行われていた。

しかし、応仁・文明の乱による幕府の衰微が影響したこともあり、後土御門天皇、後柏原天皇、

後奈良天皇と、いずれも生存中に譲位の儀をせずに死去していて、将軍家はそれを行なってい

ない。

後奈良天皇の崩御の後に践祚した正親町天皇も、自らの譲位が叶うとは思っていなかったのか

も知れないと指摘する。

「足利義昭や織田信長の時代以前の、天皇家に対する幕府や将軍の役割を考える時、譲位は何

よりも武家の業務とみられるのではないか。

その点からみると、譲位を天皇への圧力とみることは不適当だと思われる」(本書)

要するに信長は、足利義昭が将軍の役割を放棄した後、その代役を買って出たのだと考えられ

ると。

「織田信長にとってあるべき朝廷の姿は、天皇の権威が正当に保たれ、下々の者にまで敬意を

払われるべきものでなくてはならなかった。

そしてそのためには、従来からの慣行を遵守するような裁定が、天皇の名においてなされるべ

きであり、天皇の名において従来からの慣行が蹂躙されるなど、とんでもないことだったので

ある。もちろん朝廷が信長の意のままになることも論外だったと推測される」(本書)

信長は「天下統一」(日本全国)をめざしていたとされるが、その最大の根拠は、「天下布武」

の朱印状を用いたことだとされている。

「布武」とは「武力が行きわたる」と解釈されている。

しかし、「天下」とは五畿内のことを指しており、「天下布武」とは、あくまでも五畿内が将

軍に服属することが問題だった。

「徳川家康の領有した「天下」もまた畿内であった。

日本で「天下」と呼ばれた地域が、徳川家康の時代に至っても、依然として全国ではなく五畿

内であったことが分る。そうだとすれば織田信長の一生の間、「天下布武」の意味も当初と変

わらなかったといえよう」(本書)

信長は、甲斐・信濃を領する武田勝頼との戦いを続け、西国の毛利氏と開戦し、越後の上杉謙信

とも敵対し、従来では、これこそが日本全国を平定せんとする信長の意図した戦争であり、

「天下布武」の内実であると思われてきたが、その分国拡大の実態についても、「国郡境目相

論(くにぐんさかいめそうろん)」の性格の色濃いものだったという。

信長の中国侵攻は、「天下統一」日本全国征服のための一環とみなすのがこれまでの通説であ

ったが、信長は決して「征服」のみしか眼中になかったわけではなく、場合によっては毛利氏

と和睦して鉾を収めることも考慮していた。

安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)の書状でそれが窺える。

勝頼との長篠の戦では、信長が主役のように語られるが、主役はあくまで徳川家康だった。

しかもそれは、地域内部の抗争が、境目をはさむ双方の大名の抗争へと発展したものだった。

信長は、少なくとも最初から武田領国を奪取して自らのものにしようとする意図があったわけ

ではなかった。自身は家康の同盟者として行動していた。

日本全国に勢力拡大を意図する「信長の野望」という見方を一旦リセットして、信長の戦争を

見ていく必要がある、と指摘する。

信長と宗教との関係もリセットする必要があり、本願寺教団に結集した民衆との抗争であった

とする見方が強い石山合戦では、本願寺が突如、足利義昭・織田信長の軍勢に攻撃をしかけてき

たものであった。本願寺は財も豊かで、諸大名などとも友好関係をもつなど、侮れない政治勢

力だった。

石山合戦の起因は、義昭と信長によって京都を追われた三好三人衆と本願寺が結んだから。

信長から戦いをしかけたとする史料はみあたらないという。

最初に信長と千戈を交わした元亀元年から天正八年の大阪退去に至る間に、本願寺は少なくと

も三度信長に和睦を申し入れている。しかもその三度とも存在を認める形で赦している。

信長が伊勢国長島一向一揆を無差別に殺戮し、越前一向一揆に殲滅作戦をとったとよく指摘さ

れるが、北条早雲や伊達政宗、豊臣秀吉なども同様の作戦を行なっている。戦国大名同士の皆

殺し作戦は、決して多くはないが、ある場面ではみられる軍事的作戦であった。

比叡山焼討に関しても、直接語っているのは『信長公記』のみであるが、本来合戦に介入すべ

きでない僧侶の分際を弁えず、敵対する朝倉氏や浅井氏に味方して信長に武力で反抗したか

ら。

さらには、比叡山の僧侶らは、出家の作法を背いて、淫乱な行いと肉食など破戒を行い、賄賂

を行なって朝倉・浅井に味方したからだった。

信長の言い分は、逆に真摯な仏教者たることを要求しているともいえるものであり、焼討は仏

教否定から生じたものではないと。

ちなみに、信長より百年ほど前に、将軍足利義教は比叡山山徒の行動に制裁を加える軍勢を派

遣し、既に比叡山を焼打している。

安土宗論(法華宗と浄土宗の論争)に関しても、信長が、法華宗側が負けるように仕組んでいた

ことが判っているが、その悪感情の原因が、法華宗が他宗派を批判し、宗論に訴えようとする

やり方にあったという。この頃には、宗旨の争いをよしとしない風潮もあった。

しかし、信長は法華宗の教義上の主張を否定したり、教団の勢力を削ぐことを意図して行なわ

れたものではなかった、と指摘する。

ちなみに、著者の『戦国と宗教』の中で信長は、「戦場にあっては法華宗の題目を掲げて身の

守りとしていた」と指摘されている。

信長はキリスト教を優遇したといわれるが、そのことを具体的に伝えているの史料の殆んど

が、イエズス会宣教師の報告書や記録。有名な話だ。

信長は仏教寺院に対して、保護を約束した禁制を発給し、寄附をしたり、保護を加えたりした

事例は少なくなく、神仏を否定していたとの指摘は、日本側の史料でも裏づけられるものでは

ないと。

安土宗論でもそうだったように、信長は、自ら信じる以外の教義や宗派を排撃することを否定

的に考えており、さらにこの時代は、自らの信じる教義や信仰以外の特定の宗派を攻撃するこ

とは、是とされるものではなかった。

なので、信長が、総ての信仰を優劣のないものとみる立場から、キリスト教を優遇したという

可能性も高いのではないか、と指摘する。

そして、キリスト教に好意を示したからといって、仏教には否定的であったと推論することは

できないと。

いずれにしても、信長は、将軍や天皇や朝廷を権威として尊重していたし、

「天下布武」を宣言したのも、全国制覇を宣言したものではなく、将軍・幕府を否定したもので

もなかった。

毛利と武田との抗争も、全国平定の一環としてみることはできないし、

宗教については在来の宗教的権威を否定することはなかったし、キリスト教に特別な好意を持

ったわけではなかった。

「革新性」と全国制覇の「野望」は疑わしいと言わざるを得ない、というのが結論であり、

本書では具体的に示されている。

戦国時代の宗教に精通している著者ならではの結論であり、この時代の宗教をもっと知りたけ

れば『宗教で読む戦国時代』や『戦国と宗教』をお勧めしたい。

一般的には、宗教の世界観や精神性を度外視して、現代人と同じような感覚で(勿論そのような

面もあるだろうが)戦国時代が語られる傾向があるが、著者は宗教を通してこの時代のことを語

られているので、どの著作も読むたびに戦国時代のイメージが覆される。

個人的には著者の大ファンである。

「そもそも戦争という行為自体が、この時代には多分に呪術を含むものであった。

戦場に臨む者は神仏の加護を祈った守りを携行した。

戦場に携行する軍旗にも宗教的な言説を記したものが用いられ、その軍旗を仕立てる際にも宗

教的な儀礼が必要であった。

何よりも戦場での軍略を担当する軍配者と呼ばれる戦さの参謀たちは、占筮術に長けた占い師

であることが必要とされたのである」(『戦国と宗教』)

信長も含め、どの国の戦国大名も、他国の大名や武士、国内の敵対者との戦いに際して神仏に

戦勝祈願を行っていたし、当時の人びとは、戦の勝敗が人員や装備、戦略の巧拙などの軍事力

のみで決まるのではなく、人間の力を超えた摂理によると考えていた。

織田信長といえば、少年時代の奇行から、社会的常識の枠組みにはまらない、

傍若無人ともいうべき行動の人であり、それが彼の革新性の証であるとの見方もある。

しかしこれまで述べてきたように、少なくとも成人してからの信長は、全く違うタイプの人間

だったとみてよいだろう。

世間の評判を重視して気を配り、評判を失うことを大きな失策とみてきたことが窺われるから

である・・・

むしろ世間の評判を失うことの恐ろしさを、誰よりも熟知していた織田信長の一面からみれ

ば、彼は誰よりも常識に富んでいた「大人」であり、老獪な政治家であったとみた方が理に適

っているのではないだろうか・・・

『織田信長』神田千里