『日本人とは何か。』 山本七平 ①  



「このごろは本当に英語がうまい日本人がふえましたね。

しかしそういう日本人に日本について質問すると何も知らず、

何も答えられないのに驚きます。

まるでアメリカ人に日本のことを質問しているようですよ」。

上の発言は外国人のもだと思われるが、

そういう状態にならないための一助となってほしい。

われわれは自らに対処しなければならぬ状態になって来た。

そしてそのための日本文化の再把握において本書が参考になってくれれば幸いである。

という思いのもと、山本七平氏が最晩年に著したもので、

神代から幕末までの日本人の意識と行動を入念にたどっている。

それは、日本人はなぜ、近代化に成功し、経済復興し、

民主主義を簡単に受け入れることが出来たのか、という、解答にも繋がっている。

そして、時代区分も、江戸時代の紀州藩士、伊達千広(陸奥宗光の父)の著作である、

『大勢三転考』の見方をとっている。それは、

「彼はあるがままに日本の歴史を見、徳川時代に至るまでを

『骨(かばね)の代』『職(つかさ)の時代』『名の代』と三つに区分した。

今の言葉になおせば『氏族制の時代』『律令制の時代』『幕府制の時代』

ということになろう」。

として、本書はこの三つに『伊達千広の現代』を加えた四部構成になっている。

それは、前の代が次の代に移るべき要素を内包しているとしているとし、

山本七平は、これを内的矛盾(ポジティブな意味)とよび、

東アジアに於いて、是非善悪の判断を加えずに歴史記述の方法をとったのは、彼だけであり、

その観点は当時としては独創的で現代的だった、としている。

本書はそのような視点に立って綴られている。

第一部『骨の(かばね)代』から『職(つかさ)の代』へ

第二部『職(つかさ)の代』から『名の代』へ

第三部 名の代・西欧の衝撃

第四部 伊達千広の現代

なので、800ページあまりの大著なので、

ぼくの目に留まった箇所を何回かに分けて載せたい。

第一部「骨の(かばね)代」から「職(つかさ)の代」へ

2章 文字の創造

全体を読み通してみても、この「文字の創造」が、日本の歴史のなかでも、

もっとも重要な出来ごとだった、とした印象を抱く。

日本文化とは何か。それは一言でいえば、『かな文化』であり、

この創出がなければ日本は存在しなかった。

さらに、近代化・工業化にも多大の困難を伴ったであろう。

『日本人とは何か。』 山本七平

別の箇所でも、日本人は「かな」をつくり「かな」が日本文化をつくった、と、

何度も強調して述べられている。

それは、当時の東アジアのグローバル言語だった漢字=中国からの自立を意味している。

簡単にいえば「かな」がなければ日本が無く、

そうすれば日本文化は当時の超先進大国中国の、

漢字文化の中に包摂され埋没してしまったかもしれないということである。

『日本人とは何か。』 山本七平

なぜ、そのようなことに至ったのか。それは、岡田英弘の『日本史の誕生』に詳しい。

長いが引用する。

六六〇年に唐が百済を滅ぼし、倭国の百済救援軍は、六六三年に白村江口で全滅する。

ついで、六六八年に唐は高句麗をも滅ぼす。間もなく、唐は韓半島から撤退し、

三十八度線以南は新羅に統一される。

この新しい王国は、高句麗人・百済人・新羅人・倭人・中国人の統一体である。

日本列島の雑多な種族たちは、新羅に併合されて独立と自由を失わないために、

倭国王家の天智天皇のもとに結集して、日本国を作りあげる。

(中略)

七世紀に日本国も、政治団結を維持するため、

大急ぎで新しい国語を発明しなければならなかった。

これまで日本列島の多くの種族の間に通用した言葉は、倭人の土語ではなかった。

倭人はいまだかつて文字を持ったこともなく、政治や経済の語彙も持たなかった。

また、全日本列島の倭人にひとしく理解される倭語の方言もなかっただろう。

そうした方言は、商業活動にともなって普及するものだが、

倭人は決して大商業種族ではなかったからである。

しかし、中国語を国語とすることは危険であった。

新羅の公用語が中国語だったから、新羅と対抗して独立を維持するには、

別の途を選ばねばならなかった。

それは、漢字で綴った中国語の文語を下敷きにして、その一語一語に、

意味が対応する倭語を探しだしてきておきかえる、

対応する倭語がなければ、倭語らしい言葉を考案して、

それに漢語と同じ意味をむりやり持たせる、というやり方である。

これが日本語の誕生であった。

『日本史の誕生』岡田英弘

日本は長らくオラル・コミュニケーションや身振りや文様などのコミュニケーションに頼り、

文字がない社会で、倭人の人口も多く、今風にいえば市場があり、そこに漢字が入ってきて、

漢字を扱う渡来人も住み着くようになった。(華人ネットワーク)

ちなみに、その漢字(中国語)を扱う渡来人たちは、

グループごとに別々の漢字(中国語)だったが、中国語百済方言を共通語の役割にしていた、

と、岡田英弘氏は述べている。

で、上の東アジアの情勢の変化で、百済に救援をおくった白村江口の戦いに負け、

このままでは独立が保てないとして、知識人や役人や渡来人などが中心となって、

法制度や政治体制、歴史書を編纂するのために、独自の文字をつくる必要に迫られ、

漢字を日本語読み(訓読)や近似中国語読み(音読)にし、

「万葉仮名(音仮名・音訳漢字)」を生んだ。

それは、漢字一文字に和音(倭音)一音を対応させたもの。 漢字の日本語読み。

有名な例は、

「夜久毛多都 伊豆毛夜弊賀岐 都麻碁微尓」を、

「やくもたついづもやへかきつまごみに」

と読んだ。

これは、日本最初の歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに」にあたる。

初めは複雑だったが、ルールを決め、万葉仮名表記が生まれる。

太安万侶(おおのやすまろ)は、

稗田阿礼(ひえだのあれ)などのオラル・コミュニケーションによる語りを聞きながら、

それらを万葉仮名と和化漢文の混淆文にもしていった。

時代が経つにつれて、漢字や漢文を読んだり書いたりしているうちに、

工夫をしていくようになる。(梳いていった)

最初は、万葉仮名で和歌や文章を楷書で綴っていたのが、行書となり、

もっとカジュアルな柔らかい草書となり、さらに柔らかくなって草仮名になる。

「男手」から「女手」というのかもしれない。

わかりやすくいえば、漢文を筆写するうちに略字化したのが片仮名、

万葉仮名を草書で綴っているうちに派生したのが平仮名。

それらが別々に派生してきて、日本独自の文字が出現したということ。

そして、十世紀の初めに平安の歌人・紀貫之が『竹取物語』、『土佐日記』、

『古今和歌集』などで「真名序」と「仮名序」を一緒に掲載したりして、実験していく。

「真名序」は漢字で、中国をフォーマルだと認識していたから。

松岡正剛氏は、この紀貫之の『土佐日記』での実験を、前代未聞で大胆不敵と述べ、

次のように評してもいる。

第一には、本来は漢文日記であるべきものを和文の仮名で書いたということです。

第二に「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」というように、

男女をひっくりかえして文体的な擬装を思いついたことです。

いまでいうならトランスジェンダーです。

『日本という方法』松岡正剛

まあ、ぼくの要約なので、さらに詳しく知りたい方は、本書と岡田氏、松岡氏の著作を。

いわば日本人は「かな」による自国語の世界に生きつつ、

同時に、漢字という当時の東アジアの「世界文字」につながって生きていた。

そしてこのように独自性と普遍性を併せ持つことで日本の文化は形成されていった。

『日本人とは何か。』 山本七平

これを別のいいかたで、

松岡正剛氏は、グローバルスタンダードをデュアルスタンダードへの編集力、といい、

「日本文化史でたったひとつの決定的な“発明”を言えと問われたら、

私は迷うことなく仮名が発明されたことをあげます」。

山本七平氏と同様、「かな」の誕生が日本にとって、かなり重要だったとしている。

この「かな」を生んだ“方法”が、日本の特徴であり、歴史の中のいたるところで噴出し、

危機の時代も乗り切った。

山本七平氏や松岡正剛氏は、この“方法”を思い出さないんですか、と、

現代人に問いかけているようにも聞こえる。

そしてぼくは、「かな」が沖縄まで波及していった経過が気になった。

禅寺が建てられたあたりだと予想している。

伊波普猷や外間守善に向かおうと思った。