『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』 坂口安吾



世の中を斜めから見ていた、

不良作家の坂口安吾(一九〇六~一九五五)の言葉は胸に突き刺さる。

読んでいて、落語家の故・立川談志さんを思わせる。

坂口安吾


本書には、代表的エッセイが二十四篇収められている。

戦前 / 戦中

『ピエロの伝道者』(一九三一〈昭和六〉年五月)

『FARCEに就いて』 (一九三二年三月)

『ドストエフスキーとバルザック』(一九三三年十一月)

『意慾的創作文章の形式と方法』(一九三四年十月)

『枯淡の風格を拝す』(一九三五年五月)

『文章の一形式』(一九三五年九月)

『茶番に寄せて』(一九三九年四月)

『文字と速力と文学』(一九四〇年五月)

『文学のふるさと』(一九四二年三月)

『日本文化私観』(一九四二年三月)

『青春論』(一九四二年十一~十二月)

戦後

『咢堂小論』(一九四五(昭和二十)年十二月筆)

『堕落論』(一九四六年四月)

『堕落論(続堕落論)』(一九四六年十二月)

『武者ぶるい論』(一九五一年二月)

『デカダンス文学論』(一九四六年十月)

『インチキ文学ボクメツ雑談』(一九四六年七月筆)

『戯作者文学論』(一九四七年一月)

『余はベンメイす』(一九四七年三月)

『恋愛論』(一九四七年四月)

『悪妻論』(一九四七年七月)

『教祖の文学』(一九四七年六月)

『不良少年とキリスト』(一九四八年七月)

『百万人の文学』(一九五〇年二月)

その中でも、有名なエッセイが『堕落論』、『日本文化私観』、『不良少年とキリスト』、

『青春論』、『教祖の文学』などだろう。

稲垣足穂を思わせる

「空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない」

から始まる、数ページの短いエッセイの『ピエロの伝道者』は、

主に日本のナン(ノン)センス文学についてを綴っているのだけれど、

これは、ぼくはまだ未読だが、高山宏氏が監修されているシリーズ、

〈異貌の人文学〉エリザベス・シューエル『ノンセンスの領域』に、

繋がるものではないのだろうかと予想している。

ナンセンスは「意味(センス)、無し(ノン)」と考えるべきであるのに、

今、日本のモダン語「ナンセンス」は「悲しき笑い」として通用しようとしている。

『ピエロの伝道者』坂口安吾

上と同様、『FARCEに就いて』は、FARCE(道化)を肯定的に捉え、

「ファルスとは、最も微妙に、この人間の『観念』の中に踊りを踊る妖精である」

「現実としての空想の―ここまでは紛れもなく現実であるが、

ここから先へ一歩を踏み外せば本当の『意味無し(ノンセンス)』になるという、

その様な、喜びや悲しみや嘆きや夢やくしゃみやムニャムニャや、

凡有(あら)ゆる物の混沌の、凡有ゆる物の矛盾の、それら全ての最頂天に於いて、

羽目を外して乱痴気騒ぎを演ずるところの愛すべき怪物が、愛すべき王様が、

即ち紛れもなくファルスである」

としているが、これも高山宏氏が監修されている、

〈異貌の人文学〉のウィリアム・ウィルフォード『道化と笏杖』に繋がるものだろう、

と思っている。

ぼくの知る限り、安吾の『ノンセンス』や『道化』については、あまり語られていないが、

この『ノンセンスの領域』と『道化と笏杖』を読み解けば、

安吾が言わんとしていることの一助けになるだろうし、

新しい安吾像が導きだされるのかもしれない。

『日本文化私観』は、

「僕は日本の古代文化に就いて殆ど知識を持っていない。

ブルーノ・タウトが絶賛する桂離宮も見たことがなく、

玉泉も大雅堂も竹田も鉄斎も知らないのである。……

タウトによれば日本に於ける最も俗悪な都市だという新潟に僕は生まれ、

彼の蔑み嫌うところの上野から銀座への街、ネオン・サインを僕は愛す」

と、建築家ブルーノ・タウトへのアンサーのような形式をとっているエッセイ。

タウトは、行き過ぎた日本の近代化が、伝統文化を忘れ、西洋の猿真似した、

俗悪な建物や街や文化を生んでいる、と批判しているのだが、安吾は、

「多くの日本人は、故郷の古い姿が破壊されて欧米風な建物が出現するたびに、

悲しみよりも、むしろ喜びを感じる」

「日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ」

「タウトは日本を発見しなければならなかったが、

我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ」

と、むしろその近代化は、日本人が好んで選んだものであり、

「問題は、伝統や貫禄ではなく、実質だ」と言いきっている。

そして、日本人は西洋の猿真似をしているだけ、という批判にも、

「模倣ではなく、発見だ。

ゲーテがシェクスピアの作品に暗示を受けて自分の傑作を書きあげたように、

個性を尊重する芸術に於いてすら、模倣から発見への過程は最も屡行われる。

インスピレーションは、多くの模倣の精神から出発して、発見によって結実する」

と、安吾なりに答えている。

そして、「美は特に美を意識して成された所からは生まれてこない」として、

「小菅刑務所とドライアイスの工場。この二つの関聯に就いて、

僕はふと思うことがあったけれども、そのどちらにも、

僕の郷愁をゆりうごかす逞しい美感があるという以外には、

強いて考えてみたことがなかった」

と、この二つに、さらに近代の象徴ともいえる軍艦を加え、

「ただ、必要なもののみが、必要な場所に置かれた。

そうして、不要なる物はすべて除かれ、

必要のみが要求する独自の形が出来上がっているのである」

として、

「僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。

美しく見せるための一行があってもならぬ」

と、安吾独特の見立ての美意識が面白い。

「僕は日本の古代文化に就いて殆ど知識を持っていない」と冒頭で述べてはいるが、

ちゃんと伝統文化を理解しているし、それを説明し、近代と比較しながら話を進め、

最後は、「猿真似にも、独創と同一の優越があるのである」で綴じられている。

『堕落論』は、安吾のもっとも有名なエッセーで、敗戦の翌年に書かれたもの。

「けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも

事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。

人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、

変わったのは世相の上皮だけのことだ」

「人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。

それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。

人間は生き、人間は堕ちる。

そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない」

その半年後に書かれた続編の『堕落論(続堕落論)』でも、

「先ず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己の真実の声をもとめよ。

未亡人は恋愛し地獄へ落ちよ。復員軍人は闇屋となれ。

堕落自体は悪いことにきまっているが、

モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない」

と、安吾のストレートな言葉が現代人の胸にも響く。

『不良少年とキリスト教』は、芥川と太宰を論じているのだけれども、一番印象に残った。

「芥川は太宰よりも、もっと大人のような、利巧のような顔をして、そして、秀才で、

おとなしくて、ウブらしかったが、実際は、同じ不良少年であった。

二重人格で、もう一つの人格は、ふところにドスをのんで縁日かなんかぶらつき、

小娘を脅迫、口説いていたのである。

文学者、もっと、ひどいのは、哲学者、笑わせるな。哲学。なにが、哲学だい。

なんでもありゃしないじゃないか。思索ときやがる。

ヘーゲル、西田幾多郎、なんだい、バカバカしい。

六十にもなっても、人間なんて、不良少年、それだけのことじゃないか。

大人ぶるない。瞑想ときやがる。何を瞑想していたか。

不良少年の瞑想と、哲学者の瞑想と、どこに違いがあるのか。

持って廻っているだけ、大人の方が、バカなデマがかかっているだけじゃないか。

芥川も太宰も、不良少年の自殺であった。」

これは、立川談志さんも言いそうで、爆笑してしまった。

そして、このエッセーの最後に、重要なことを安吾は述べている。

「勝とうなんて、思っちゃ、いけいない。勝てる筈が、ないじゃないか。

誰に、何者に、勝つつもりなんだ。

時間というものを、無限と見ては、いけないのである。

そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。

時間というものは、自分が生まれてから、死ぬまでの間です。

大ゲサすぎたのだ。限度。学問とは、限度の発見にあるのだよ。

大ゲサなのは、子供の夢想で、学問じゃないのです。

原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。

これをコントロールし、過度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、

そういう限度を発見するのが、学問なんです。

自殺は、学問じゃないよ。子供の遊びです。

はじめから、まず、限度を知っていることが、必要なのだ。

私はこの戦争のおかげで、原子バクダンは学問じゃない、子供の遊びは学問じゃない、

戦争も学問じゃない、ということを教えられた。

大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。

学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う。」

きっとあの世で安吾は、

ネオン・サインが光る飲み屋街で、インチキ・ウイスキーを呷っていることだろう。

と思うと、愉快でたまらない。

肩肘張って生きる現代人には、安吾が残した言葉に救われる方が多いだろう。

現代人よ。堕落して、ホンモノを掴み、限度を発見しなさい、ということだろう。

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ウィリアム・ウィルフォード 白水社 2016-01-19