『武士道』新渡戸 稲造



明治三十三年(一九〇〇)にフィラデルフィアで英文書籍として刊行された『武士道』。

大きなセンセーションをもたらし、世界17カ国語に翻訳され、世界的ベストセラーとなる。

日露戦争を仲介した第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、『武士道』に感銘を受

け、「わたしはこの本を読んで初めて日本人を理解した。その徳と智は我々も見習うべき」

と語っている。

ちなみに、セオドア・ルーズベルトは、岡倉天心『日本の目覚め』(The Awaking of

Japan/1904)を友人に薦められると、「昨夜読了したばかりだ」と応じたという。

その岡倉天心は『日本の目覚め』(The Awaking of Japan/1904)以外に、『東洋の理想』

(The Ideals of the East/1903)と『茶の本』(The Book of Tea/1906)の合計3冊の英文著作

を著し、未刊行だが『東洋の覚醒』の草稿も残している。

その中でも特に、ニューヨークのフォックス・ダフィールド社から出版された『茶の本』(The

Book of Tea/1906)は、新渡戸の『武士道』と同様に大きなセンセーションをもたらし、海外

では『The Book of Tea』のOkakuraとして広く知られ、世界13カ国以上に翻訳されている。

『Bushido The Soul of Japan』(1900)

新渡戸の『武士道』や天心の『茶の本』に先駆けて、英語で日本の文化・思想を世界に向けて発

信されたものには、内村鑑三の『代表的日本人』(Japan and the Japanese/1894)がある。

内村は新渡戸と同じキリスト者で札幌農学校の同期生でもあったが、“Jesus”(ジーザス)

と“Japan”(ジャパン)の「二つのJ」の股裂き状態に悩まされ日本研究に向かい、

「二つのJ」は重合交差するべきものであり、そこには日本の先人への敬愛がこめられるべき

ものであり、キリスト教と武士道は融合すべきものであった。

英語で中江藤樹や西郷隆盛の精神の何たるかを「外国」に問うたものが『代表的日本人』

(Japan and the Japanese/1894)。

この辺りの時代背景を踏まえつつ、松岡正剛氏は『日本という方法』のなかで整理し、年表に

まとめ(編集)てくれている。かなりありがたいし、他には存在しないだろう。

明治27(1894) 日清戦争始まる

       志賀重昂『日本風景論』

       内村鑑三『代表的日本人』

  28(1895) 内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』

       正岡子規、日清戦争の従軍記者になる

  29(1896) ラフカディオ・ハーン、東京帝国大学文学講師

       東京美術学校に西洋画科設置

  30(1897) 「日本主義」「ジャパン・タイムズ」創刊

  31(1898) 岡倉天心・横山大観ら、日本美術院を創設

  32(1899) アーネスト・フェノロサ『世界史上日本の位置』

  33(1900) 新渡戸稲造『武士道』

       与謝野鉄幹「明星」創刊

       内村鑑三「聖書之研究」創刊

       吉田東伍『大日本地名辞書』刊行開始

  34(1901) 上海に東亜同文書院設立

       英国グラモフォンが雅楽・邦楽・落語を鑑賞

  35(1902) 日英同盟調印

  36(1903) 岡倉天心『東洋の理想』

  37(1904) 日露戦争始まる

       ラフカディオ・ハーン『神国日本』

       岡倉天心『日本の覚醒』

  38(1905) 夏目漱石『吾輩は猫である』

  39(1906) 大杉栄らの日本エスペラント協会

       岡倉天心『茶の本』

『武士道』が刊行された明治三十三年(1900)は、日清戦争と日露戦争の真ん中にあたり、数人

の日本人が海外に発っている。

夏目漱石はロンドンへ、日本画家の竹内栖鳳はパリへ、新劇を提唱する川上音二郎は貞奴(さだ

やっこ)とともにニューヨークへと。

「和魂洋才」の掛け声とともに、維新政府がつくられ、一方では王政復古をして太政官・神祇官

を配し、他方では洋才の導入をして欧米留学や、富国強兵とお雇い外国人を受け入れていたの

だが、バランスを保てずに一方的な欧化主義ばかりに傾いていた。

さらには「脱亜入欧」が出てきて、もっぱら西洋哲学や西洋倫理や西洋技術をそのまま日本に

移すような風潮にもなっていた。

当時の国際情勢を鑑みればしかたがない面もある。ジョセフ・M. ヘニングの『アメリカ文化の

日本経験―人権・宗教・文明と形成期米日関係』によれば、

「日本が条約の改正に十分値するほどの進歩的で文明的だと列強諸国が考えるようになるに

は、それに先だって、日本はアジアから脱出したと列強を納得させなければならなかった。

そして憲法と議会とは、東洋の後進性を捨て永久に過去を打ち負かしたことをアメリカ人に確

信させるうえで、とりわけ重要な要因だった」

と指摘しているような時代だった。

新渡戸稲造 文久2(1862)年8月3日(新暦9月1日)~昭和8(1933)年10月15日

こうした風潮を食い止めようとして出てきたのが、天心・新渡戸・内村の三冊の英文書であり、

また、鉄幹や子規の短歌運動であり、さらには、徳富蘇峰の国民主義や、三宅雪嶺(せつれ

い)、志賀重昂(しげたか)、陸羯南(くがかつなん)たちによる日本主義の標榜だった、

と松岡正剛氏は指摘している。(『日本という方法』)

そんな時代状況の中に著された新渡戸の『武士道』だが、きっかけはベルギー人法学者ド・ラブ

レー教授に、「あなたの国では、宗教教育がないというのですか?」

「宗教がなくていったいどうやってものの善悪を教えるというのですか?」と問われて、

新渡戸はあらためて、本当に日本には道徳の規準がないのかと考え、実は「武士道」という規

範があった、と考えて書いたもの。

さらに付け足せば、この当時は世界が全く日本のことを知らなかった。

アジアの老大国であった清(支那・China・中国)は、ペルシャともローマ帝国とも交流があった

し、みな知っていた。

しかし、日清戦争で清に勝った日本という国は、世界の人々はほとんど知らなかった。

そこで新渡戸は、内村や天心がやったように、世界に対して、日本とは何か、日本人はどのよ

うに生きてきたのか、その精神はどのようなものか、道徳の規準はどこにあるのかをメッセー

ジとして出すためにも『武士道』という本を書いた。

その『武士道』は全17章で構成されている。

本書での新渡戸の試みは、第一に武士道の起源および淵源、第二にその特性および教訓、第三

に民衆に及ぼしたる感化、第四に感化の継続性、永久性、を述べること。

第一章「道徳体系としての武士道」では、「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地

に固有の花である」という書き出しから始まり、それは乾涸びた標本としてではなく、今なお

我々の間における力と美との活ける対象であり、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制

度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている、と高らかに宣言する。

ヨーロッパの騎士道に触れながら、道徳史上における武士道の地位は、おそらく政治史上にお

けるイギリス憲法の地位と同じであろう、とまで主張する。

第二章「武士道の起源」では、仏教(主に禅)から話を始めて柳生但馬守に触れ、仏教の与え得

ざりしものを、神道が豊かに供給したとして、神道も説明する。

第三章から第七章までは、順に「義」「勇」「仁」「礼」「誠」の主に儒教などを取り上げて

新渡戸なりに説明し、第八章では「名誉の感覚は人格の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含

む」として「名誉」を、第九章では「忠誠が至高の重要性を得たのは、武士的名誉の掟におい

てのみである」として「忠義」を説明している。

第十章では「武士の教育において守るべき第一の品性を建るにあり・・・武士は本質的に行動の人

であった・・・武士道は非経済的である。それは貧困を誇る」などと「武士の教育および訓練」、

第十一章では「克己の修養はその度を過ごしやすい。それは霊魂の溌剌たる流れを抑圧するこ

とがありうる」として「克己」を説明する。

第十二章では「切腹が我が国民の心に一点の不合理性をも感ぜしめないのは、他の事柄との連

想の故のみではない。特に身体のこの部分を選んで切るは、これを以て霊魂と愛情との宿ると

ころとなす古き解剖学的信念に基づくものである」などとして「自殺および復仇の制度」を、

第十三章では「武士道は刀をその力と勇気の表徴となした」として「刀・武士の魂」を説明す

る。

第十四章では「婦人の教育および地位」として「女子が男子の奴隷でなかったことは、彼女の

夫が封建君主の奴隷でなかったと同様である。女子の果たしたる役割は、内助すなわち「内側

の助け」であった」と説明。

第十五章では「過去の日本は武士の賜である。彼らは国民の花たるのみではなく、またその根

であった。あらゆる天の善き賜物は彼らを通して流れでた」として、民衆の娯楽などは、その

主題を武士の物語から取った、武士道精神がいかにすべての社会階級に浸透したか、などを説

明する「武士道の感化」。

第十六章では「武士道の感化は今日なお深く根差して強きものがるが・・・無意識的かつ沈黙の感

化である」「武士道の日はすでに数えられたように思われる。その将来を示す不吉の徴候が空

にある。強大なる諸勢力が働いてこれを脅かしつつある」などを論じている「武士道はなお生

くるか」としている。

最終章の第十七章では「武士道の将来」が論じられているが、「武士道は一つの独立せる倫理

の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう」として、最後

はクエーカ詩人の言葉で終えている。

当然だが、全体としては、西洋の歴史上の人物や出来事に触れ、武士道との類似点を見出した

り、差異を強調したりして、西洋人に理解しやすいように説いている。

東洋の方は、仏教、神道、儒教、陽明学などに触れながら説明している。しかし、間違って説

明している箇所もあり、

「仏教の与え得ざりしものを、神道が豊かに供給した。神道の教義によりて刻みこまれたる主

君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、ならびに親に対する孝行は、他のいかなる宗教によって

も教えられなかったほどのものであって、これによって武士の傲慢なる性格に服従性が賦与さ

れた」として「神道の中に、主君の忠誠」「親に対する孝」と書いているが、これは神道では

なく儒教の影響だろう。(儒教にとっての「孝」の意味は、加地伸行氏の『儒教とは何か』の所

で紹介した)

新渡戸は江戸時代の南部藩の武士の子弟で、儒教的な教養と、明治の『教育勅語』的な「君に

忠」の五倫の教えの下に自己形成をした。(松本健一『「孟子」の革命思想と日本』)

ちなみに五倫とは、父子の「孝」、君臣の「忠」、夫婦の「別」、長幼の「序」、朋友の

「信」。

新渡戸は『武士道』のなかで、孔子の言う、君子=統治者の持つべき「仁」よりも、臣下=武

士のほうの「義」を重んじている。

なので、第一章「道徳体系の武士道」第二章「武士道の淵源」につづいて、第三章は「義」に

している。

孔子も「義を見てせざるは勇なきなり」というふうに言及はしているが、「義」という観念を

明確にしたのは『孟子』。

しかもそれは、「仁」に対して、それを補完する意味で「義」ということを孟子はいってい

る。

要するに、新渡戸の『武士道』とは「南部藩の侍の、家老以下の武士階級が教養として身につ

けた道徳規範」。

藤原正彦氏の『国家の品格』で『武士道』を高く評価されたみたいで、そこでは「仁」を強調

して評価しているみたいだが、上述のように新渡戸は「義」を道徳規範の第一としているの

で、その評価はどうなんだ、と先に引用した松本健一氏は指摘されている。

いずれにしても、新渡戸が『武士道』を英文で著してくれたおかげで、日本についての理解が

深まったとはいえないが、日本について知るきっかけとなったことは間違いないだろう。


繰り返しになるが、新渡戸は陸奥国岩手郡(岩手県盛岡市)に武家の三男として生まれている。

南部藩の要職を務める名家で、新渡戸は癇癪もちの腕白坊主だったみたいだ。

祖父の手紙には、「わしは、お前がこの子を養子にし東京で教育する計画に賛成だ。

わしはこの子がわかっている。正しい方向に導けば、国の誉れとなろうが、もし指導をあやま

れば、最低の悪党になる」と書いている。曽祖父は、南部藩における抜きんでた儒者で兵法家

だった。

その後の活躍はご存じの通りなのだが、一九三二年夏、すでに健康が下り坂にあった新渡戸だ

ったが、日本政府の要請を受け、満洲事変に付随して起きた事件と、極東における日本の目的

や政策に関するアメリカ側の誤解を解くべく、全米講演行脚を引き受けている。

「太平洋の橋になりたい」とした新渡戸の姿勢には感銘を受けるし、多くの示唆を得る。

上の動画でも説明されているので、かなり参考になる。

ところで、「武士道」という言葉が初めて見出される文献は『甲陽軍艦』だと指摘されるが、

近代になってから山岡鉄舟もまた次のように宣言している。

「わが国の人びととのあいだには、一種微妙な道の思想がある。

それは神道や儒教ではなく、また仏教でもなく、その三道が融和してできた思想であって、

中古の時代から主として武士の階層においていちじるしく発達してきたのである。

わたしはこの思想を武士道と呼ぶ。しかし、この思想が文書としてまとめられたり体系化され

て伝えられているものは、これまでに一度も見たことがなかった・・・」

鉄舟は、死が翌年に迫った明治二十年に自邸で、門人の籠手田安定に頼まれて、四回にわたり

武士道の講義もしている。

そこに集まったのは、教育勅語の起案者である井上毅や、フランス人法学者のポアソナード、

文学博士の中村正直、陸軍少将の山川浩らがいた。

特に井上毅は毎回聴講しており、教育勅語の前段が鉄舟の講話と酷似しているので、その関係

性が云々とされている。

しかし、内容はともかく、世界に広めた点では、新渡戸の『武士道』は高く評価されるべきで

あろう。

戦いの本能の下に、より神聖なる本能が潜んでいる。すなわち愛である。

神道、孟子、および王陽明の明白にこれを教えたるは、吾人のすでに見たるところである。

しかるに武士道その他のすべて武的形態の倫理は、疑いもなく直後の実際的必要ある諸問題に

没頭するあまり、往々右の事実に対して正当なる重さを置くを忘れた。

今日吾人の注意を要求しつつあるものは、武人の使命よりもさらに高くさらに広き使命であ

る。

拡大せられたる人生観、平民主義の発達、他国民他国家に関す知識の増進と共に、

孔子の仁の思想―仏教の慈悲思想もまたこれに付加すべきか―はキリスト教の愛の観念へと拡

大せられるであろう。

『武士道』新渡戸 稲造

苦しい時も嫌な時でも、心だけは光明の入り易いように、開放しておきたい。

『幼き日の思い出/人生読本』新渡戸 稲造

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新渡戸 稲造 岩波書店; 改版 1938-10-15
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新渡戸 稲造(著), 山本 博文(翻訳) 筑摩書房 2010-8-6
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新渡戸 稲造(著), 樋口 謙一郎(翻訳), 国分 舞(翻訳) IBCパブリッシング 2008-5-26
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新渡戸 稲造 日本図書センター 1997-6-25