海洋民族として生きるための教訓が詰まっている |『海賊の世界史 – 古代ギリシアから大航海時代、現代ソマリアまで』桃井 治郎


著書の桃井治郎氏は清泉女子大学の准教授。専門は西洋史、マグレブ地域研究、平和学。

研究テーマは、海賊の世界史、現代マグレブ諸国の政治経済、テロリズム論。

この研究分野だけを見ても、かなり異色な方だということは想像に難くないが、桃井氏は大学

4年生の時に1年間休学し、バックパッカーとして世界を回っている。

しかも、初めての海外で、飛行機に乗るのさえ初めてだったという。すごい行動力だ。

そして、大学卒業後に働いていたテレビ局を辞め、チュニジアに青年海外協力隊員として赴任

したことが、北アフリカと関わることになったきっかけだったという。

帰国後は、この地域について学ぼうと大学院に進学し、勉強を進めていくうちに、北アフリカ

を含めた地中海圏の歴史に興味を持つようになった。

その後、研究所の研究員を経て、アルジェリアの日本国大使館に専門調査員として赴任し、

最近では、歴史研究に加えて、テロリズムなど現代の平和の諸課題についても学んでいるとい

う。変わった経歴の持ち主だ。これらのことは清泉女子大学のサイトに掲載されている。

日本では特異な地域を研究されている桃井氏だが、2015年には『「バルバリア海賊」の終焉

―ウィーン体制の光と影』や『アルジェリア人質事件の深層: 暴力の連鎖に抗する「否テロ」

の思想のために』を著されている。

桃井 治郎 (清泉女子大学准教授)


そして、2017年に本書が中公新書から上梓された。

前著二冊に関してはまだ目を通していないが、最近、”海洋民族として生きる日本”ということ

を強く意識するようになったので、本書が目に留まった。無意識のセンサーが反応した。

そんな本書では、古代から現代までの海賊の変換をたどっている。

もう少し具体的に言えば、エーゲ海を支配した古代ギリシャの海賊から、中世の地中海でのイ

スラーム教勢力とキリスト教勢力の興亡、伝説に残るカリブの海賊やアメリカの建国を経て、

19世紀の地中海最後の「バルバリア海賊」までを扱っている。

対象海域は地中海や大西洋、たまにインド洋であり、海賊を通して文明の盛衰が綴られてもい

る。そのことによって、従来の世界史とは異なるダイナミックな「もうひとつの世界史」がみ

えてくる。アウトローの海賊たちが乱舞する。なかには国を建てた強者もいる。

全ての時代に共通して言えることは、海洋秩序が失われると海賊が退潮し、海洋秩序が崩壊す

ると海賊が台頭する、という図式が顕著だということ。

そして海洋は国の命運を左右するということだ。黄海海戦や日本海海戦、ミッドウェー海戦を

見れば明らかだろう。

『歴史(ヒストリアイ)』とヘロドトス

地中海文明の「歴史の父」と称され、前五世紀のギリシア人ヘロドトスは、全九巻に及ぶペル

シア戦争の物語『歴史(ヒストリアイ)』を著している。

そのヘロドトスが綴った逸話のひとつに、サモス島の支配者ポリュクラテスの物語がある。

ヘロドトス自身がポリュクラテスを直接「海賊」だと呼んだ訳ではないが、海上で見境なく船

を襲い、沿岸の町を掠奪して回るその姿は、現代人の感覚から言えば海賊であり、このポリュ

クラテスこそが古代ギリシアの海賊王とも言える人物だった。

前五三八年、ポリュクラテスはサモス島で反乱を起こし、権力を握って支配者となる。

ポリュクラテスの野望はサモス島を掌握するだけに留まらず、さらなる勢力の拡大を目指し、

ガレー船を組織してエーゲ海に進出していった。

各地で数々の掠奪行為に及び、エーゲ海に勢力を広げたポリュクラテスであったが、

その傍若無人の振る舞いに快く思わなかった人物がいた。

それがペルシア帝国の影響下にあった都市サルディスの総督オロイテスであった。

オロイテスはポリュクラテスに対して、その支配下に入りたいと近づき、自らの町に誘いだ

す。

そして、油断していたポリュクラテスは、わずかな兵でサルディスに赴き、オロイテスの罠に

はまり、殺害されてしまう。

ポリュクラテスの死体はサルディスの町で磔にされ、雨や強い日差しの下でさらされ続けてい

たという。

The crucifixion of Polycrates by Oroetes. サルヴァトル・ローザ

しかし、ヘロドトスはポリュクラテスの海賊行為を「海上制覇を企てた最初のギリシア人」、

「高邁な志」の持ち主、「ギリシアの独裁者中、その気宇の壮大なる点においてポリュクラテ

スに比肩しうるものは一人だにいない」と賞賛している。

ポリュクラテスの死に対しても「ふさわしからぬ無残な最期」としている。

それは一体何故なのか。本書では記されてはいないが、歴史学者の岡田英弘氏の見方をとるな

らば、ヘロドトスは『ヒストリアイ』で、世界はヨーロッパとアジアの二つにはっきり分か

れ、ヨーロッパはアジアと、大昔から対立、抗争して来たものだ、という主張をしたというこ

とだろう。

さらに、この見方が地中海世界の最初の歴史書の基調であったために、ヨーロッパとアジアの

敵対関係が歴史だ、という歴史観が、地中海文明の歴史文化そのものになってしまった、と岡

田氏は説明している。

この基調が後々の時代にまで尾を引き、その歴史観は現在でも顕在だろう。

本書でもその構図で描かれている。

古代ギリシアにおいて海賊行為をしていたのは、ポリュクラテス一人という訳ではなく、ヘロ

ドトスに先立つホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』でも海賊行為は当然のことのよ

うに語られている。

戦略家のエドワード・ルトワックは、この暴力性や移動性を忘れたから西欧の衰退を招いてい

る(ぼくの要約)と指摘していたことを思い出す。

前二〇〇〇年頃に栄えたクレタ文明は、王を意味するミノスという名称からミノア文明と呼ば

れている。伝承によれば、エーゲ海で最古の海軍を組織したのはクレタの王であったという。

歴史家のトゥキュディデスによれば、クレタの王が世界最古の海軍を組織して周辺海域から海

賊を一掃し、その結果、クレタの収益の道、海上貿易で繁栄したという。

しかし、「ミノアの平和」である海洋秩序も長くは続かず、北方民族のアカイアの人の侵入な

どにより、クレタ文明は崩壊し、エーゲ海の秩序は崩れ、海賊が跋扈するようになる。

ローマ帝国

「デレンダ・エスト・カルタゴ(カルタゴは滅びなければならぬ)」。

この言葉を合言葉に宿敵カルタゴを滅ぼしたローマであったが、ローマの前に立ちはだかる敵

がまだいた。それは東地中海に拠点を置く海賊であった。

ローマにとって問題だったのは、アフリカなどの属州からローマへの穀物輸送がキリキア海賊

に襲われ、ローマ市民への食糧供給に多大な影響が及んでいたことであった。

シーレーンが脅かされていた。

前六七年、ローマ元老院は、ポンペイウスに海賊鎮圧の全権を託し、地中海と沿岸全域に及ぶ

強力な指揮権を委ねた。総司令官となったポンペイウスは、軍船五〇〇隻、歩兵一二万、騎兵

五〇〇〇など、大部隊の編成を行う。

そして名将ポンペイウスは、その場しのぎの作戦ではなく、海賊の活動基盤そのものを叩くと

いう徹底的な鎮圧作戦を実行する。

ポンペイウスは、まず、地中海全体を一三の海域に分け、海域ごとに副官を任命し、海賊の鎮

圧に当たらせた。そして、各船団は海上での掃討作戦だけでなく、海賊の拠点となっていた港

に対しても大規模な攻撃を加えた。

しかし、ポンペイウスは、抵抗する海賊に対しては徹底的に攻撃したが、投降する海賊に対し

ては特赦を与え、多くの海賊が戦わずしてポンペイウスの軍門に降り、ローマの艦隊に加わっ

たという。

その結果、西地中海では、わずか四〇日余りで海賊は姿を消すことになった。

ルトワックが高く評価しそうな戦略である。

西地中海を制圧したポンペイウスだったが、艦隊を率いて東地中海へと向かう。

最終的な攻撃対象はキリキア海賊であった。ポンペイウスは抵抗するキリキア海賊に正面攻撃

を仕掛け攻撃する。

この海戦で殺害された海賊は一万人以上、捕虜となった海賊は二万人以上にも及んだという。

海戦が終わると、ポンペイウスは、キリキア海賊たちが再び海賊の生活に立ち戻ることがない

ように、内陸地に土地を与え、移住させた。海賊たちを海の生活から切り離した。

わずか三ヵ月余りで地中海の海賊掃討に成功したポンペイウスは、ローマの英雄となった。

そして、このあとのポンペイウスはダーダネルス海峡を越えて黒海へと進み、海賊を支援して

いたポントス王国を攻撃し、征服する。

ポンペイウスの活躍により、ローマに敵対する勢力は地中海から一掃され、「パクス・ロマー

ナ」が到来した。

地中海は、ローマにとって「マーレ・ノストリム(我が海)」となり、地中海帝国ローマが誕生

した。

ポンペイウスとカエサル

そのあとのポンペイウスは、元老院派に担ぎ出されて指揮官となり、もう一人の英雄であるカ

エサルと戦うことになる。しかし、前四八年、ポンペイウス率いる元老院派の軍は、ファルサ

ロスの決戦でカエサル軍に敗れ、最後はポンペイウス自身もエジプトで暗殺された。

ポンペイウスやカエサルと同時代を生きた哲学者のキケロは、海賊について「人類共通の敵」

であると断じた。ヘロドトスとは真逆の解釈である。キケロの主張の背景には、ローマが打ち

立てた秩序に対する信頼とそれを脅かす海賊への敵意が内包されていた。

なお、キケロ自身もポンペイウスの陣営に加わっている。

そのキケロに触発され、独自の思想を展開したのが四世紀中葉のローマ支配下の北アフリカに

生まれた聖アウグスティヌスだった。

ゲルマン系諸族の侵入によって崩壊寸前のローマ帝国末期に生きたアウグスティヌスにとっ

て、キケロのようにパクス・ロマーナに対する信頼は存在しなかったが、アウグスティヌスが

依拠したのは、キリスト教信仰に基づく神の摂理であった。

ローマ帝国は、地中海を「ローマの湖」とし、ヨーロッパ、北アフリカ、西アジアに広がる大

帝国を築いていたが、ローマ帝国の広大な領土は、周辺民族との度重なる衝突を引き起こすこ

とにもなっていた。

領土維持という難問を抱えたローマでは徐々に分割統治が進み、ついに四世紀末、東ローマと

西ローマに分裂してしまう。

450年代の西ヨーロッパ

460年ごろの東西ローマ帝国の版図

そして同じ頃、内陸アジアでは騎馬民族のフン族が西方へと移動を開始していた。

三七五年、フン族は黒海地方に侵入し、同地の東ゴトー族と衝突する。

フン族に追われた東ゴトー族は西方に向かい、こうして玉突き的に次々とゲルマン系諸族がヨ

ーロッパ方面へと移動を始めていった。「ゲルマン民族の大移動」。

そのゲルマン諸族の大移動は、すでに弱体化していた西ローマ帝国に決定的な打撃を与え、

四七六年には、ゲルマン系傭兵隊長の反乱によって西ローマ皇帝が廃され、西ローマ帝国が滅

亡する。

西ローマ帝国の滅亡は、地中海におけるパクス・ロマーナの崩壊を意味し、海洋秩序の崩壊は

海賊の台頭を生んだ。こののち、地中海は再び海賊が登場し、「我らが海」を謳歌する。

5世紀の民族大移動。青がヴァンダル人

中世の地中海では、パクス・ロマーナのような世界観が退場し、諸勢力が現れ、乱立する時代

が続いていく。その間隙をぬって海賊が再び登場してくる。

五世紀前半、北アフリカに強大な王国を一代にして築き、西地中海に勢力を広げた人物がい

る。ヴァンダル族のガセリック王である。ヴァンダル族はハンガリー平原からピレネー山脈、

西ゴート族に追われジブラルタル海峡を越えて北アフリカに渡ってきた民族。

この時に八万人も引き連れ南下している。

ガイセリック率いるヴァンダル族はヒッポーヌの町を(アルジェリアとチュニジアの国境付近)

包囲し陥落させるが、そのヒッポーヌの町にいたのが老年の聖アウグスティヌスであり、ヴァ

ンダル族の包囲の中、熱病に倒れ、七六歳の生涯を閉じた。

その後、ガイセリックらはカルタゴに首都を移し、ガレー船団を組織して地中海に乗り出して

くる。

ヴァンダルの船団はシチリア半島西部に上陸し、島内を横断して掠奪を繰り返す。

南イタリア各地でも同様の行為に及んだ。まさにヴァンダル族の行為は海賊の姿であった。

最も衝撃的だったのはローマ掠奪であり、一四日間にわたってかつての栄光の都ローマを掠奪

した。

その後、ヴァンダルあるいはヴァンダリズムという言葉は、文化や芸術の破壊者、破壊行為と

いう意味の単語として定着することになった。

ヴァンダル族の蛮行が自領に及ぶに至り、東ローマはついに、西ローマの要請に応えて援軍を

派遣する。

しかし、約一〇万の大軍を乗せた東ローマ艦隊だったが、ボン岬の海戦などで敗北し、カルタ

ゴ攻略を諦めて撤退する。

ヴァンダル王国も決して安泰だった訳ではなく、ガイセリックが亡くなると急速に衰退してい

く。

ユスティニアヌス1世の即位(赤:527年)から崩御(オレンジ:565年)までの東ローマ帝国領の拡大

他方、西ローマ帝国の滅亡により唯一のローマとなったビザンツ帝国こと東ローマ帝国は、新

皇帝ユスティニアヌス一世の下で地中海における領土回復に着手する。

ローマ帝国の復活を掲げたユスティニアヌス一世は、「我らが海」をローマの手に取り戻すた

め、六〇〇隻に及ぶ大艦隊を編成し、西地中海への遠征を決行する。

五三四年、ヴァンダル王国はビザンツ軍との戦いに破れカルタゴを失い、建国からわずか一〇

〇年余りで、歴史の幕を閉じた。

その後のビザンツ軍は、イタリアで東ゴート族、イベリア半島で西ゴート族を破り、かつての

ローマ帝国の領土を回復する。

ビザンツ軍の遠征により、地中海はパクス・ロマーナの時代が再来するかに見えたが、ごくわ

ずかしか続かなかった。この後の地中海は強力な新勢力であるムスリム勢力が勃興し、キリス

ト教勢力と近代まで興亡を繰り返すことになる。

750年ころのウマイヤ朝の領土。濃い赤はムハンマド生前の領土、赤は正統カリフ時代の領土

北アフリカを手中に収めたムスリム勢力は、地中海へと進出し、キプロス島を征服し、ロード

ス島やシチリア島に到達する。アレクサンドリア沖やトルコ南岸のリュキア沖でビザンツ艦隊

を蹴散らし、このあとの地中海では、ビザンツ帝国に代わってイスラームの時代を迎えること

になる。

イスラーム勢力はクレタ島まで辿り着き、この地に移住したムスリム集団は、この島を拠点と

してビザンツ帝国領への略奪を繰り返す。

ビザンツ帝国側も艦隊を送り込むものの、ことごとく失敗に終わり、以後一五〇年近くにわた

り、クレタ島はイスラーム勢力が支配し、ムスリム海賊の拠点となっている。

九世紀末の東地中海においては、ビザンツからはトリポリのレオ、ムスリム側からはハラム・

ザラファと呼ばれた伝説の海賊が登場し、トルコ南東部のタルススを拠点に、海賊の首領とし

てビザンツ帝国領への襲撃を繰り返している。

9世紀初頭の勢力図

その地中海一帯でムスリム海賊が跋扈していた頃、ヨーロッパ北部では、ヴァイキングが勢力

を広げていた。

ヴァイキングの正体は、スカンディナヴィアに住む北方のゲルマン系民族のノール族やデーン

族、スウェード族などであり、後に彼らは、北方の人を意味するノルマン人と呼ばれるように

なる。

そのデンマークのデーン族系のヴァイキングは北フランス北部に侵入する。

八八五年、ヴァイキングは、約七〇〇隻のロングシップに乗り込み、セーヌ川をさかのぼって

ルーアンの町を襲い、パリの町も取り囲み、一年以上包囲を続けたという。

西フランク王国のカール三世は、包囲解除の代償として多額の資金をヴァイキングに払わなけ

ればならなかった。

その後の、ヴァインキングの一部はセーヌ川の下流域のフランス北部に移り住み、周辺地域の

襲撃を繰り返す。

その襲撃に頭を悩ました西フランク王国のシャルル三世は、九一一年、セーヌ川下流域のヴァ

イキングによる領有を正式に認める。こうしてヴァイキングは、海賊行為によって国を得てし

まった。この国こそノルマン公国、ノルマン人の国である。

そのノルマン人はすでに九世紀には地中海に姿を現し、八六〇年にはフランスやイタリア沿岸

部を掠奪したという記録があるみたいだが、本格的な地中海への進出は、一一世紀に入ってか

らのことであった。

ノルマンディーに領土を得て定住したノルマン人は、ヨーロッパ各地で傭兵として活躍するも

のが現れてくる。そんな彼らの任地として多かったのが南イタリアであった。

当時の南イタリアは、都市国家やビザンツ帝国などが乱立して戦争が絶えなかった。

ノルマン傭兵の中には、戦争で功績を挙げて領土を与えられ、有力者となる者も現れる。

それがオートヴィル家の兄弟であった。

一一世紀から一二世紀にかけてのヨーロッパでは、ベルギーの歴史家が「商業の復活」と呼ぶ

ところの都市や商業の発展が見られた。暗黒の中世ではあったが、徐々に光が見えてきた。

その典型がヴェネツィアやジェノヴァなどの海港都市であった。

そしてこれらの都市は、海上輸送の安全を確保するために、自ら海賊対策に乗り出す。

その対策は海上での防衛だけでなく、海賊の根拠地を直接叩くという遠征も含むものであっ

た。

一一世紀中葉には、ピサやジェノヴァがイスラーム勢力下のコルシカ島やサルデーニャ島を征

服している。

ノルマン人がシチリア島を征服し、シチリア王国を建国したのもこの時期であった。

さらに同じ頃に、東地中海においても、ニケフォロス二世の下、ビザンツ帝国が大艦隊を編成

し、クレタ島やキプロス島を攻略し、ムスリム海賊の根拠地であったキリキア地方を制圧して

いる。

そしてその勢いのままニケフォロス二世は、アッバース朝が支配するトルコ南部のアンティオ

キア(現アンタキア)を征服する。

アンティオキアは、かつてのキリスト教信仰の中心地であり、その奪回は東地中海でのキリス

ト教勢力の復活を象徴する出来事であった。

この後、アンティオキアはセルジューク朝によって再征服されるが、その数年後には、西方か

らの一団が同地を奪いにやってくる。その一団とは、聖地奪回を目指す十字軍であった。

中世の写本に描かれた第1回十字軍のエルサレム攻撃

サラーフ=アッディーンと考えられる肖像画と15世紀の写本中の「エジプトの王、サラディン」

キリスト教徒によるイスラーム追放の戦いは、一一世紀の十字軍が最初というわけではなく、

イベリア半島ではすでにレコンキスタ、領土回復運動が八世紀から始まっていた。

十字軍との戦いであるヒッディーンの戦いなどで活躍したのはイスラームの英雄サラディン(サ

ラーフ=アッディーン)であったが、海上ではヨーロッパ側に優位な状況が続いていた。

中世の地中海では複数の勢力が並存し、最終的には、キリスト教世界とイスラーム教世界の対

立が基調となっていった。その争いにおいて、海賊行為は正当化されていた。

オスマン帝国の領土拡大

1790年当時のスペイン帝国

そして、その対立構図は二つの帝国に受け継がれていく。

オスマン帝国とスペイン帝国である。

オスマン帝国は、一四三五年にコンスタンティノープルを征服してビザンツ帝国を滅ぼし、

スペイン帝国は、一四九二年にグラナダを陥落させてイベリア半島最後のイスラーム王国を滅

ぼした。

異教徒を成敗した両帝国は、この後、地中海へと目を向ける。

そして最終的には、地中海の覇権をめぐる両帝国の衝突に至る。

地中海の東西に位置する二大帝国の衝突は、イスラーム教世界とキリスト教世界の盟主として

の戦いであった。

その対決に重要な役割を果たしたのが、以前までの時代と同じようにまた海賊だった。

レコンキスタによってイベリア半島を追われたムスリム住民の多くは、北アフリカに移住し

た。その結果、北アフリカにはスペインのアンダルシア地方からの優れた文化や技術が伝わる

ことになった。海賊もそうであった。

一五世紀の西地中海では、イタリア諸都市の強力な艦隊が船団方式で海上輸送を保護し、

また、北アフリカ諸国とイタリア諸都市の間では条約が結ばれ、通商関係も育まれており、

この海域における海賊の活動は限定的であった。

しかし、レコンキスタによって故郷を追われたアンダルシアのムスリムにとって、スペインと

の戦いは、個人的な復讐であるとともに、奪われたイスラーム支配地を回復するという宗教的

意識に適う行為であった。

そして、発達した海洋技術と沿岸地理の知識を持ち、復讐心や宗教的情熱を持ったアンダルシ

ア出身者のなかから、小型ガレー船に乗り込み、スペイン商船やスペイン沿岸を襲う者が現れ

る。

北アフリカを拠点とする海賊に対して、スペインの側も黙って見ていたわけではない。

当時のスペインは、アメリカ大陸からの富が本国へ届きはじめていた時期でもあった。

国王フェリペ二世は、北アフリカの海賊の鎮圧を決意し、その拠点港に向けて大規模な艦隊の

派遣を決定する。司令官には経験豊かなドン・ペドロ・ナバルロが指名された。

ナバルロ率いるスペイン艦隊は北アフリカに遠征し、一五〇九年にはオランダを、翌年にはベ

ジャイアを占領する。スペイン軍は攻略した各港に砦を築いて守備兵を置き、海賊の活動を封

じ込めた。

さらにナバルロ艦隊は、一五一二年にアルジェを攻撃し、港内に浮かぶ小島を占拠して砦を築

く。以後、アルジェに出入りする海賊船は、港内のスペイン砦から砲撃を受けるという事態に

なった。

そして、この頃にポルトガルやスペインが占領した北アフリカのセウタやメリリャは、現在で

もスペイン領の飛び地として北アフリカの地に残っている。

ナバルロ艦隊の活躍によって、海賊の活動は沈静化したが、それは一時的な静寂に過ぎなかっ

た。このあと、北アフリカの海賊の側には、地中海の東方から強力な援軍がやってくる。

ジェノヴァの支配下にあったエーゲ海北東部に位置するレスボス島は、一四六二年にオスマン

帝国のメフメト二世によって征服された。その約一〇年前にコンスタンティノープルを攻略し

たオスマン帝国にとって、レスボス島の征服は地中海進出の第一歩であった。

そのレスボス島に、のちに地中海に名を轟かせる大海賊が誕生する。

バルバロッサ(赤ひげ)と呼ばれて恐れられたウルージとハイルッディンの兄弟である。

18世紀に描かれたバルバロス・ウルージの肖像画とバルバロス・ハイルッディン

ウルージはチュニスなどを拠点として、小型ガレー船で教皇の大型ガレー船などを奪い取って

いる。その勇敢さにチュニスの町は歓喜し、ウルージの名は北アフリカやヨーロッパにも広ま

っている。さらに驚くのは、アルジェのアラブ人の首長サリームに、港内の砦に駐留するスペ

イン兵の追い出しを要請される。しかし、ウルージは、スペイン砦を攻略する前に、アルジェ

の首長サリームを殺害し、アルジェを乗っ取ってしまう。殺害されたサリームの息子は、オラ

ンに逃げ込み、同地に駐留していたスペイン軍に援助を求める。

そして、アルジェ支配をもくろむスペインは、この要請に応え、本国から約一万人に及ぶ軍隊

を派遣する。

艦隊も派遣するが、アルジェ特有の天候にスペイン艦隊は襲われ、スペイン軍は惨敗する。

その後のウルージは、アルジェ近隣のアラブ人首長たちが反乱をもくろんだこともあり、テネ

スの町に進軍し、占領する。さらにトレムセンの町も支配下においたウルージだったが、オラ

ンに駐屯するスペイン司令官のコマレス侯爵が新国王カルロス一世に、北アフリカで起きてい

る事態を伝え、ウルージ討伐の軍を送るよう請願する。カルロス一世は、その進言を聞き入

れ、一万に及ぶスペイン兵を送り込み、ウルージは討伐された。

しかし、アルジェの支配者となったのは、弟のハイルッディンであった。

ただし、ハイルッディンを取り巻く状況は危機的であった。

コマレス侯爵率いるスペイン軍は、ウルージ軍を壊滅させたあと、オランに引き上げたもの

の、いつアルジェに進軍してくるかわからなかった。

そして、ハイルッディンは、自分たちだけではスペイン軍に対抗できないと考え、オスマン帝

国に支援を要請する。後にハイルッディンは、オスマン帝国からの援軍とアルジェ総督として

地位を得、スレイマン一世からは北アフリカ総督に昇格させられる。

さらには、オスマン帝国海軍の大提督にまで任命され、プレヴェザの海戦で活躍し、オスマ

ン・フランス合同作戦の実行のため、オスマン艦隊を率いてマルセイユに赴いている。

しかし、途中ではイタリア沿岸を襲撃し、船倉にはキリスト教徒奴隷が満載されていたとい

う。ハイルッディンはイスタンブールで生涯を閉じた。

ハイルッディン亡き後も、相変わらず、地中海で海賊行為を繰り返していたが、スペインに代

わり、北アフリカのムスリム海賊に対峙したのは、聖ヨハネ騎士団であった。

マルタ騎士団とも呼ばれているが、北アフリカ側から見れば、マルタ騎士団もまぎれもなく海

賊であったという。

レパントの海戦

スレイマン一世は、マルタ攻略のため、艦隊を編成を指示し、トルコ兵を派遣する。

マルタ側の守備兵は、騎士団員約六〇〇人、傭兵六〇〇〇人、マルタ島民約三〇〇〇人であっ

た。両者の攻防は熾烈を極めるが、オスマン軍は退却する。

マルタ攻略を断念したオスマン帝国は、今度は東地中海のキプロス島に狙いを定める。

ヴェネツィアの支配下にあったキプロス島は、地中海交易を担うヴェネツィアにとっては生命

線ともいえる拠点であり、ヨーロッパにとっても東地中海に最後に残る拠点であった。

ヴェネツィアは、ローマ教皇ピウス五世に働きかけ、スペイン、ヴェネツィア、ローマ教皇

庁、マルタ騎士団からなる神聖同盟を再結成する。地中海最大の海戦であるレパントの海戦が

始まる。

本隊のガレー船同士の衝突は激しい接近戦となった。

オスマン帝国の総司令官アリ・パシャが銃撃を受けて倒れ、司令官を失ったオスマン艦隊は総

崩れとなり、敗走する。

この海戦で、オスマン帝国側の犠牲者は二万から三万人、ヨーロッパ側の犠牲者は七〇〇〇か

ら八〇〇〇人に及んだという。なお、この海戦には若き日のセルバンテスもスペイン兵の一人

として参加している。

しかし、結局、地中海は、どの国も覇権を握ることができないまま、混沌した状態や力の均衡

した状態が続いていく。

一五世紀のオスマン帝国の地中海への進出は、ヴェネツィアやジェノヴァなどによる地中海交

易の停滞を招いた。

東方貿易の通商路を絶たれたヨーロッパ諸国は、独自に東方への新たな通商路を模索するよう

になり、その結果、インドへの新航路の探検に端を発する大航海時代が幕を開ける。

大航海時代は海賊の黄金期でもある。場所は地中海から大西洋、カリブ海に移る。

コロンブスによる新大陸の発見を期に、ヨーロッパ人は黄金の富を目指してカリブ海やアメリ

カ大陸に殺到する。そしてそれは、ヨーロッパ人による掠奪の始まりでもあった。

一四九三年、スペイン出身のローマ教皇アレクサンドル六世は、スペインとポルトガルとの領

有区分線を大西洋上に設定したが、同条件に不満を持つポルトガルは、翌年、スペインとの間

でトルデシリャス条約を取り結ぶ。

同条約では、現在の西経約五〇度を境に、東側をポルトガルの領有に、西側をスペインの領有

と勝手に定めた。

トルデシリャス条約で世界を分割し、新大陸の富を独占するスペインに対し、イングランドや

フランス、オランダなどは、スペインの独占的な繁栄を憎々しく感じていた。

イングランド人やフランス人、オランダ人のなかからこのスペインの富を狙う者たちが現れる

ようになる。

この大航海時代の富の争奪戦に関しては、イングランドを中心に話が進められている。

スペインの独占的な貿易体制に挑戦し、奴隷貿易も行っていたジョン・ホーキンズ。

スペイン王室は大使を介し、イングランドのエリザベス女王に抗議し、ホーキンズの航海を禁

止するように要請するが、形式的には咎めたものの罰することはなく、ホーキンズはカリブ海

に向けて出港する。

さらには、このホーキンズの航海には、エリザベス女王も密かに出資者として名を連ねてい

た。

フランシス・ドレークとエリザベス1世

フランシス・ドレークに対しても同様であった。

ドレークは、南米大陸最南端のマゼラン海峡を越えて太平洋側に進出し、そこでスペイン船を

襲うという計画を練っていたが、この計画に対し、エリザベス女王が側近に名を借りつつ、遠

征の出資者となっている。

ドレークはこの計画で世界周航を達成するが、その途中には無警戒だった太平洋沿岸の港や海

上のスペイン輸送船を襲い、掠奪を繰り返した。

莫大な財宝とともにプリマスに帰還したドレークは、謁見のために宮殿に赴き、エリザベス女

王はその冒険の話と持ち帰った財宝を大いに喜び、二人の面会は六時間にも及んだという。

さらに、ドレークはナイトに叙勲され、プリマスの市長にもなっている。

一方のスペインのフェリペ二世は、イングランド海賊に対する報復として、スペインの港に停

泊するイングランド商船の拿捕を命じた。スペインとイングランドの関係は修復不可能な状況

にまで陥っていた。

そんな中でもドレークは、陸上での安定した生活を捨て、再びカリブ海に向かい、掠奪を繰り

返す。

スペインとイングランドの対立は、政治的覇権をめぐる抗争に留まらず、カトリック王国の

スペインとカトリックに対抗するイギリス国教会などプロテスタント側のイングランドという

宗教的対立も重なっていた。

ドレーク自身も熱心なプロテスタントであり、宗教的情熱に駆られてドレークの行動に影響を

与えていたという。

さらに、両国の対立が決定的になったのは、エリザベス女王による前スコットランド女王メア

リ・スチュアートの処刑であった。

無敵艦隊の進路とアルマダの海戦を描いた『無敵艦隊の敗北』

そして、無敵艦隊との対決、アルマダとの海戦に至る。

この無敵艦隊(アルマダ)との対決にもドレークは、エリザベス女王の許可を得て、準備が整う

前のスペイン艦隊を叩くため、二三隻の艦船を率いてプリマス港から出港し、活躍する。

スペイン艦隊の大敗北はスペイン帝国の落日の始まりでもあった。

ドレークはパナマのポルトベロ沖で赤痢に倒れ、息を引き取るが、ドレークは今でもイングラ

ンドの英雄であり、プリマスの公園には、ドレークの銅像が立っている。

なお、この時期の海賊行為は、海賊と私掠という二つに分けることができるという。

私掠とは狭義には、国王などから交戦国の領地や船舶を襲う許可状である私掠状を得た船が行

う掠奪行為であり、戦争行為の一環として位置づけられる。ただし、実際には、海賊行為と私

掠行為の境界が曖昧であり、多くの場合、私掠状は海賊行為を正当化する名目にすぎなかっ

た。

そして、この時代のカリブの海賊はバッカニアと呼ばれている。

フランス人が新大陸に侵入するようになって、現地で燻製肉を製造し、それを売り捌いてい

た。木製の燻製用網を意味するブーカンから派生して、フランス語でブーカニエ、英語でバッ

カニアと呼ばれるようになった。

その後、彼らは海に乗り出し、スペイン船を襲う海賊となったことからバッカニアと呼ばれる

ようになった。一七世紀の後半には、バッカニアたちの活動の場は、インド洋にも及んでい

た。

ヘンリー・モーガンとウィリアム・キッド

この時代のバッカニアの中で有名なのがヘンリー・モーガンであり、ドレークと同様にナイト

に叙勲され、ジャマイカ副総督にまで就任している。同地での任務は皮肉にも海賊を取締るこ

とであったという。

モーガンとは対照的に、私掠船の船長として活動した後、時代に翻弄され、悲劇的な最期を迎

えたのが、キャプテン・キッドことウィリアム・キッドである。

キッドは私掠船の船長として海に乗り出したていたが、テムズ川河畔近くの処刑場で絞首刑に

処せられ、その死体はタールを塗られ、海賊に対する見せしめとして、その後数年間晒され続

けたという。

フランシスコ・デ・ビトリアとフーゴー・グロティウス

一七世紀以降は、国際政治体制は「ウェストファリア体制」で、主権国家体制が確立されてい

く。

その変化とともに、海洋をめぐる議論も活発となり、スペインの独占的な海洋政策を容認する

道を残したフランシスコ・デ・ビトリア、海洋の分割とその領有を鋭く批判したオランダの法

学者フーゴー・グロティウス、グロティウスの批判を展開したイングランドの法律家ジョン・

セルデンが登場してくる。

ジョン・セルデンとザムエル・フォン・プーフェンドルフ

そして、この海洋論争に対して、沿岸海域と外洋を区別し、沿岸海域における領有の正当性を

認めたドイツの法学者プーフェンドルフが出てくる。プーフェンドルフの議論は、その後の領

海と公海の区別に基づく海洋法の発展につながっていく。

一七世紀後半以降は、イングランドやフランスを中心として海賊を容認する政策は改められ、

その取り締まりは強化されていく。イングランドでは海賊法も制定される。

その結果、カリブの海賊たちは姿を消し、海賊の黄金期は幕を閉じるのである。

一方、地中海に目を向けると、ヨーロッパから「バルバリア諸領」と呼ばれた北アフリカ地域

は、レパントの海戦後も海賊の根拠地となっていた。

アルジェやチュニスから出港した海賊たちが、ヨーロッパ船やヨーロッパ沿岸を襲撃し、掠奪

行為を続けていた。いわゆる「バルバリア海賊」であった。

ヨーロッパ諸国と北アフリカ諸領の関係が安定的になっていくのは、一七世紀後半以降であ

り、この時期、ヨーロッパ諸国は、北アフリカ諸領と独自に和平条約を締結していく。

さらに、この時期にはヨーロッパの海軍力に変化が生じていた。

特に一六世紀以降、ヨーロッパでは青銅などを素材とする鋳造砲が発達し、大砲の射程距離や

威力が向上した。そして、ガレオン船など大砲を多数搭載した大型艦船が登場する。

こうして、海軍力を強化したイングランドやフランスは、北アフリカ諸領との間で紛争が生じ

ると、自国の艦隊を派遣して攻撃を加えるようになる。

カリブ海では、一八世紀前半に海賊が一掃され、黄金期は終わっていたが、地中海では、北ア

フリカ諸領と和平条約を結ぶことで海賊の活動は沈静化していた。

ところが、こうした状況に疑念を抱き、「バルバリア海賊」問題で行動を起こす国が現れた。

それが一七七六年に独立を宣言したアメリカ合衆国であった。

それまでは、イギリス国旗を掲げてイギリスの庇護下にあったアメリカ商船は、独立後一転し

て、「バルバリア海賊」による掠奪の対象となる。北アフリカ諸領から見れば、和平条約を締

結していないアメリカの船は、絶好の標的であった。多数のアメリカ人が拉致されていた。

その流れの中で、オスマン帝国からの直接支配が及ぶことなく、現地の勢力が自立的な統治を

確立していたトリポリとトリポリ戦争が起こり、アルジェ領とも衝突する。

これらの戦いに勝利したアメリカは、北アフリカ諸領に対して、貢納を拒否し、賠償金も獲得

した。

このようなアメリカ外交は、貢納によって和平関係を維持していたヨーロッパ諸国に大きな衝

撃を与えた。

アメリカの行動をきっかけとして「バルバリア海賊」問題は大きく転回していくことになる。

ただ、一八一二年六月、米英戦争が勃発すると、イギリスは、アメリカとの戦いを有利に進め

るため、アルジェのハジ・アリ・デイにアメリカ商船への掠奪行為を勧めている。

なという国なんだ。

シドニー・スミス

そして、米英戦争から二年後の一八一四年八月、元イギリス海軍中将シドニー・スミスは、ヨ

ーロッパ各国の諸王や貴族などに向けて、「バルバリア諸領の海賊行為を根絶させる必要性と

手段についてのメモワール」を送っている。

その内容は、「バルバリア海賊」の廃絶と北アフリカ諸領に囚われているキリスト教徒奴隷の

解放を訴えるものだった。

その年の末、スミスは「バルバリア海賊」の廃絶を訴えるため、ナポレオン戦争の講和会議が

開催中のウィーンに出向くが、スミスの訴えに対する各国の反応は乏しく、陳情はほとんど相

手にされなかった。

しかし、ウィーン会議後、ロシア皇帝アレクサンドル一世は、スミスの告発に呼応してイギリ

スに協力を呼びかけ、イギリス政府もアレクサンドルの主張に同調し、この問題をヨーロッパ

諸国間で協議することに同意する。

そして、はじめて公式に討議されたのはロンドン大使級会議であり、アーヘン会議では初めて

議題となった。

ウィーン会議後の国際秩序は、ウィーン体制と呼ばれ、その特徴の一つは、ヨーロッパ大国間

の協調体制にあった。

アーヘン会議で、ロシアはあらためて「バルバリア海賊」の廃絶のため同盟の形成を提案した

が、北アフリカ諸領と長い友好関係を持つフランスは、ロシアの提案に反対した。

結局、話はまとまらなかったが、短い議定書の形で決着を迎えることになった。

その文書の署名国は、イギリス、フランス、ロシア、オーストリア、プロイセンの五ヵ国であ

った。

決議された内容は、もし、北アフリカ諸領が海賊行為を放棄しないのならば、ヨーロッパ諸国

は同盟を結成し、直接的な行動を起こすという決意を北アフリカ諸領とオスマン帝国に通告す

るというものであった。

そして、この議定書に従い、イギリス海軍のフリーマントル中将とフランス海軍のジュリアン

准将が率いる計八隻の英仏艦隊が派遣される。

しかし、アルジェ領のデイと、チュニス領のベイは、文書での承諾を拒絶した。

ただし、この後、ヨーロッパ諸国が同盟を形成し、アルジェやチュニスを攻撃するということ

はなかった。

なぜなら、チュニスでは、すでに海賊の活動は行われておらず、アルジェでは、散発的にヨー

ロッパへの攻撃が行われたものの、実質的には、すでに「バルバリア海賊」は沈静化してい

た。

そして、一八三〇年、名実ともに「バルバリア海賊」は終焉することになる。

それは、フランス軍がアルジェに侵攻したこと、チュニスでは八項目からなる新条約をフラン

スと締結したことによる。アルジェは、以後、一三〇年余りにわたって続くフランスの植民地

支配の始まりであった。

フランスとチュニスの間で結ばれた条約は、相互的な規定に基づく条約ではなく、チュニス領

による片務的な義務の受諾であった。

この条約に関して、あるフランス人研究者は、「海軍力によってヨーロッパ列強がアフリカ・

アジア諸国に課した一九世紀最初の不平等条約」であったと指摘しているという。

このようにして、アルジェ領ではフランス軍の侵攻という軍事的手段によって、チュニス領で

はフランスとの「不平等条約」の締結という外交手段によって、一八三〇年、ついに「バルバ

リア海賊」は終焉した。それは、古代から続いてきた地中海の海賊の終焉でもあった。

かいつまんで本書のあらましだけを載せようとしたが、如何せん内容が充実しすぎて簡単には

いかなかった。

なお、最終章では「現代と海賊」として、ソマリア海賊を柱として論じ、さらにそこから展開

して、国際法状の海賊や近代国際秩序の形成、海賊とテロリズムや海賊の二面性、などが論じ

られている。

その中で、アメリカの歴史家ジャニス・E・トムソンの議論を紹介しているが、それは、

一七・一八世紀には、私掠としての海賊の存在がスペインの覇権を阻止して競合的な主権国家

から編成される国際秩序を生み出すのに貢献し、また、その後は、海賊の発生を抑制するた

め、海上でも国家による暴力の独占が進み、主権国家体制が強化された。

この二つの面で、海賊の存在は、近代の主権国家体制の形成に寄与した、というものだ。

海賊の存在もその要因の一つだったのかもしれない。

西欧の海賊のようなダイナミックさには欠けるのかもしれないが、日本にも中世の瀬戸内海 で

活動した水軍(海賊衆)や、主に一三世紀から一六世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や

一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊である倭寇がいた。

中国では一瞬ではあったが、雲南出身で馬和を名乗るイスラーム教徒の鄭和が、朝貢貿易の拡

大のため、東南アジアからインド洋に派遣した大艦隊を指揮している。 面白い鄭成功もいる。

しかし、東アジアの人々は、西欧の連中のように海洋を意識してこなかったきらいがある。

特に日本に関しては、島国にもかかわらず、海上権を制するという発想が培われてこなかっ

た。

松岡正剛氏が言うように、「海国日本が海防に意識を集中できなかったのは日本史の大きな謎

のひとつ」ということでもある。

西欧との違いはなんだったのか。

その違いにはまだ辿り着けてはいないが、西欧人が強烈なエネルギーを有して外の世界に飛び

出してきた理由は、なんとなく説明されている。

松本健一氏の説明は、「〈外に進出する力〉の西ヨーロッパ、そしてそのヨーロッパのニュー

フロンティアとしてのアメリカ文明にあっては、技術革新(イノベーション)は外に出てゆくた

めの交通、輸送、通信機関、そうしてテリトリーを獲得し、それを維持していくための兵器や

法律、といった分野において発達する。当然、攻撃に強い」としている。

一方、地政学的な観点を加味しての岡田英弘氏の説明では、

「西ヨーロッパ人の勢力を全地球上に拡大した大航海時代は、それまで知られていた世界の利

権を、大陸帝国であるモンゴル帝国とその継承国家が独占してしまったのに対抗して、西ヨー

ロッパ人が海洋帝国に活路を求める運動であった」としている。

どちらも腑に落ちることは間違いないが、決定打とまでは至っていないのも間違いない。

最後になるが、著者の桃井氏は今後注目しておいた方がいい学者であることも間違いない。

当時の国政秩序も視野に入れながら、海賊を論じているのに脱帽させられた。

本書を読めば、オスマン帝国やマグレブ地域に関しても興味が湧く。

本書には海洋民族として生きるための教訓がたくさん詰まっている。