イスラーム論の名著 /『増補新版 イスラーム世界の論じ方』池内恵



「要するに、現地の現実はどうでもよくて、日本で大向こう受けすることを言えばいい、

ということになってしまう。言論のモラルハザードである。

「イスラーム」をめぐる日本の議論には現にそれが起こっていると思う。

端的に言えば、抑えられてきた反米感情、西欧コンプレックスを「イスラーム」に託して解放

するという役割を、日本の言説空間の中の「イスラーム」論は担ってしまっている。

「イスラーム」を反論しがたい「犠牲者」と想定し、その立場に論者がみずから成り代わっ

て、日本国内での独自の意図を持った発言を行う。

それが「イスラーム」のありふれた論じ方になって、定着しかけているのではないか」(本書)

「日本でイスラーム世界を論じる、適切な論じ方を示したい。本書に収めた各編は、

いずれもそれを目標にしている」(本書)

著者の池内恵氏は、東京大学先端科学技術研究センター准教授(2008年10月から)。

専門は、イスラーム政治思想史、中東地域研究。たまにBSで放送される国際ニュース番組で見

かけることがある。

1990年代半ばに、フセイン政権下で経済制裁が最も厳しかった時期にイラクに入国し(フセイ

ン政権に好意的なNGOの一員という名目でなければビザの発給も難しかったみたいだ)、

病院に薬の段ボール箱を担いだりもしている。

池内恵氏

本書の旧版は、2008年に出版されており、2009年には、サントリー学芸賞(思想・歴史部門)

を受賞されている。

「本書の企図は、思想研究を踏まえ、規範体系の規制力が現実社会にもたらす蓋然性が高いと

理論的に想定しうる政治社会問題を列挙し、その全体構図を描くことだった」(本書)

編集部から新たに出版するという提案を受け、装幀も一新し、巻末に8本の論文・論稿を加え

て厚みも増し、増補新版として2016年に出版されたのが本書。

旧版はⅢ部構成で、新版はⅣ部構成となっている。

第Ⅰ部「構造」では、「イスラーム教徒が理念と目的意識を共有し、政治的な勢力として集団

化するメカニズムを、グローバルなメディアにおける表象と、宗教思想の構造から捉えようと

した」。

第Ⅱ部「視座」では、「イスラーム世界を論じる日本側の視座に、焦点を定めている」。

第Ⅲ部「時間」では、「二〇〇四年から二〇〇八年までの中東とイスラーム世界をめぐって逐

一記してきた考察である。言わば年代記作家のように同時代のイスラーム世界を見つめなが

ら、移り変わる日本の言論空間のひずみを背に受け止め、双方の間を適切に架橋する試みを積

み重ねるうちに、日本語での国際問題を題材としたコラムのあり方が、少し見えてきたように

思う」。

第Ⅳ部「対話」では、「近年に顕在化した諸問題や事象に反応したものであるが、視点や論点

は旧版から一貫しており、その延長線上にあることを理解していただけるだろうか」として、

シャルリー・エブド紙事件とパリ同時多発テロ事件に際して求めに応じて書いたものや、

井筒俊彦のイスラーム思想史論とその受容の特異さを論じた比較的新しい論稿が収められてい

る。

総括すれば、2003年から2015年までの雑誌や新聞などに掲載されたものが本書に収録されて

いる、と言えば理解しやすいと思われる。

味読して感じたことは、2000年代半ばから著者が指摘し、警鐘を鳴らしていたことが、

近年にも繰り返しあらわれているにすぎない、と言ったもので、

西欧諸国のイスラーム移民や難民、テロの問題も同様で、2007年に『アステイオン』で発表さ

れた論文では、次のように述べている。

「今後も西欧のムスリムの中からは、西欧の世俗主義的規範を拒否し、隔離や過激主義を選ぶ

者が生まれ、政府の働きかけに対しては温和な姿勢を示す宗教指導者も、同信者に向けては異

なる顔を見せるしかないということになる」(本書)

この文なんかも、現在の「イスラーム国」の誕生を予見していたような論調であり、

2004年の論文では、アル=カーイダの基本メカニズムを論じているのだけれども、

そのメカニズムは「イスラーム国」に対しても同じなのが驚く。

以下、飛び飛びになるかもしれないが、気になった所をピックアップ。

「実際のところアル=カーイダでは指揮命令系統を強固に確立させて機能している組織ではな

く、独自のイデオロギー体系の説得力によって動員しているわけでもない。

既存の信仰体系の一つの要素に依拠し、世界中の信者に内側から訴えかけ、

そのうち一定の割合からの自発的な呼応を誘い、他の黙認を得るというのが組織が機能する基

本メカニズムである」(本書)

「イスラーム原理主義の存立根拠は、特定の国家や組織や、特定の個人の思想にあるわけでは

ない。

イスラーム世界に共有され、社会秩序を根底で定める価値基準に基づく、イスラーム世界と異

教徒の世界との関係をめぐる宗教的な問題意識に根ざしている。

個々人の内なる要求に従い自発的に呼応することによって、結果的に集団が成立したり集団間

の連携が可能になっている。

メディア上に流される宣伝に反応し、自発的かつ臨機応変に小規模な組織が各地に出現し、

相互の学習や競争・連携による相乗作用によって大きな威力を持ち続けることは予想しておか

なければならない」(本書)

よく日本では、欧米などでイスラーム原理主義によるテロが起こると、

「キリスト教とイスラーム教の間の対立」や「イスラーム移民・難民が差別されているからテ

ロが起こる」などの議論が散見されるが、実態は「世俗主義・自由主義の原則」と「イスラー

ム教の普遍性の理念」の間の摩擦であり、そんな単純な問題ではないとしている。

そして、イスラーム諸国の大部分では、「イスラーム=絶対善・無謬」「ムハンマド=不可

侵」であり、「イスラーム教が世界に広まることこそが人類全体にとっての幸福であり善であ

る」ということを疑う人はまずいないという。

「イスラーム教において神の超越性、隔絶性は明確である。

神と人間をつなぐものは啓示のみであり、それは書物(啓典)という形で一方的に神から人間に

遣わされる。

啓典の書を運ぶのが「預言者(ナビー)」で、預言者の中でも特定の民族集団に伝える特別の使

命を帯びた者が「使徒(ラスール)」である。

ムハンマドの預言者であり使徒である、しかも最後の使徒である、というのがイスラーム教の

基本信徒である。

「アッラー以外に神はなし。ムハンマドは神の使徒である」というのが「五行」の第一歩をな

す信仰告白であり、一日五回の礼拝のたび、信者が無数に唱えるフレーズとなっている」

(本書)

「『コーラン』という「事実」があるがゆえに、日々の生活から政治まで、何が正しく何が正

しくないかを判断する基準が確立される。

イスラーム法学を中心としたイスラーム学の体系は現在もイスラーム諸国の知的空間と言説の

根幹を構成している。

『コーラン』を最終の典拠に、それに準じる「ハディース」(ムハンマドの言行録)を補助的に

用いて、先行する諸世代の議論や合意を踏まえ、新たな時代の問題に対応して判断を下してき

た」(本書)

メディアなどでは、「イスラーム教は平和な宗教だ」と声高に叫ばれることがあるが(勿論そう

いう面もあるかと思うが)、イスラーム教の主流派は、「正義」を「力」で裏打ちすることを志

向するという面もあるという。

アッラーも最後(いやはて)の日も信じようとせず、アッラーと信徒[ムハンマド]の禁じたもの

を禁断とせず、また聖典を頂載した身でありながら真理(まこと)の宗教を信奉もせぬ、そうい

う人口にたいしては、先方が進んで貢税(こうぜい)を差し出し、平身低頭して来るまで、

あくまで戦い続けるがよい

(『コーラン』第九章「改悛」第二九節)

「これらの章句では、いったんはイスラム教と同じ一神教の「聖典を頂載した」にもかかわら

ず、それを捻じ曲げ逸脱した者たち(キリスト教徒とユダヤ教徒が念頭におかれている)を討伐

の対象に入れるようになっている。

元来は『コーラン』と同じ聖典(あるいは啓典)を下されたとされる一神教の信者に対しては、

「貢税を差し出し、平身低頭して来る」、すなわち政治的・軍事的な服属を承認することによ

って、ジハードの対象となることから逃れられるとされている。

これが後のイスラーム諸王朝の時代において、異教徒を支配下においたうえでの共存体制の基

本原則となる」(本書)

ジハードとは一般にイスラーム教の支配権を地上に確立するための、軍事的闘争を中心とした

「奮闘」を意味し、ジハードの目的は「改宗させる」ことにはなく、「宣教を可能にするため

に必要な条件としての政治的・軍事的な支配権を確保する」こととしてとらえられている、

とも指摘している。

イスラーム過激派が残虐な行為に及んだ時に、その他のイスラム教徒がその行為に対して、

強い糾弾と検証がなされず、再発防止策がとられないまま、黙認されていく傾向があるとし

て、2004年に描かれた論文だが、次のように指摘しているのも印象的。(かなり長いが)

「それではアラブ世界でそのような議論が支配的であるかというと、

意外にもこういった残虐な行為に対して(九.一一事件に対してさえ)、強い糾弾と検証がなされ

ず、再発防止策がとられないまま、黙認されていく傾向がある。

また、「これは本来のイスラーム教に反している」という議論がイスラーム教徒から出される

場合も、犯行グループやそれを支持する人々を批判し説得しようとする方向に向かうのではな

く、「これをイスラーム教の本質と見てイスラーム教全体を批判する欧米や日本の見方こそが

問題である」といった、護教と論難の言説に転化していくところが厄介である。

言うまでもなく大多数のイスラーム教徒は平和を望み、殺人を忌避する心情を、日本人や欧米

人同様に持っている。まして首を切断して殺すなどという行為はおぞましいと感じる。

しかしこういった事件の犯行グループがイスラーム教の規範の特定の要素に巧みに訴えて正当

化を図る場合、多くの一般市民は、表立って反対を表明することなく口を閉ざしてしまう傾向

がある。(中略)

また、「平和」の意味は立場によって異なる。「奴隷の平和」でも戦争状態よりはよいとする

宗教もあるだろう。

イスラーム教の場合は、イスラーム教の価値的優位を認めさせ、イスラーム教徒側の政治的・

軍事的な優越性支配を確立することによってはじめて、「真の平和」が到来するという思想が

明確にあり、実際にそのような意味での「平和」の達成によってイスラーム世界の秩序が保た

れてきたことを絶対的に肯定する歴史認識がある。

それを否定すれば、イスラーム世界の秩序意識や法の正統性といったものは成り立たなくな

る。

教団の成立時において政治権力が疎外され、教団の開祖が国家権力の弾圧によって倒れたキリ

スト教の場合は、国家の事柄や軍事を忌避するのが基本姿勢であり、近代の政教分離の根拠は

ここにも求められる。

イスラーム教の場合はまったく逆に、教団創設者であるムハンマドが政治指導者・軍事司令官

を兼ね、周辺の勢力を制圧して帝国の礎を築き、支配権力の側の宗教として発達した経緯があ

る。

その状況下で軍事や政治に関わる規程が宗教テキストやイスラーム法学の規範の中に組み込ま

れたことは自然な流れでもある。

政治や軍事と距離をおく生活こそ宗教的なものと見る価値観はキリスト教と仏教のものだろ

う」(本書)

それは今現在も変わらない姿でもあるし、イスラーム教の「改革」「革新」が、文明的余剰

の削減を伴う趨勢は、信仰と思想の体系が根底から変わらないかぎり、持続するだろう。

それはイスラーム教の根底を覆すほどの変化であり、近い将来に生じるとは考えられない、

とも指摘しており、その洞察力の深さには脱帽する。

では、イスラーム教徒から見たら異教徒のわたしたちはどのように対応すればいいのか。

池内氏は次のように提案している。

「イスラーム教の観点からは定義的に価値的劣位性を負わされてしまう異教徒であるはずのわ

れわれの側から、その価値観・世界観を揺るがすような、肯定的な「他者」像を示して見せる

こと、それが一神教からの「挑戦」を受けて立ち、文明間の有意義な対話と交流を達成する道

筋なのではないだろうか」(本書)

近年、日本国内でもイスラーム教徒の方を見かけることが多くなり存在感が増しているが、

「イスラーム教とはいったい何なのか」、「どのような思考で行動しているのか」、

「どのような論理でテロを起こすのか」、「どこまでがよくて、どこまでがだめなのか」

などの疑問に答えてくれているのが本書でもあり、イスラーム世界の入門書としても読むこと

ができる。

又、著者が論文を執筆していた当時の時事問題も扱い、歴史的な背景を織り交ぜながら根本か

ら問題を説き起こしているので、その提示されているメカニズムは、古びることなく、今でも

適応できる見方であり、今後も変わることはないだろうと思われる。(ここが凄いところ)

最後に、ぼくの説明不足なのは承知しているし、理解しづらかったとも把握しているが、

本書は、イスラーム世界を正と負の両面を論じた名著である、ということを認識していただけ

れば幸いです。

ここで取り上げたものは、ごく一部なので、気になる方は是非本書で。

冒頭で引用した状態にならない為にも、理解を深めていきたい。