この本が、わたしの知らなぬうちに、たまたま、タフ・サ、べカ、カクワハイという呪術的治癒
の儀式の順序を追ってしまったことにである。
インディオを病気と死から奪い返すためのこれら三つの段階は、あらゆる創造の小径の道しる
べそのもの、すなわち、秘法伝授、歌、悪魔祓いなのであろう。
芸術というものはなくて、あるのはただ《医術》だけだということを、いつの日か人々は悟る
にちがいない。
『悪魔祓い』ル・クレジオ
レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』で、ブラジルやパラグアイのアマゾン奥地に暮らすカデ
ュヴェオ族、ボロロ族、ナンビクワラ族、トゥピ=カワイブ族を描き、バルガス=リョサは
『密林の語り部』でマチゲンガ族を描いた。カルペンティエルは、ベネズエラ滞在中オノリコ
河上流に旅をし、一ヵ月ほどインディオと生活を共にし、その時の体験が『失われた足跡』の
契機になった。
ル・クレジオはアマゾン奥地ではないが、中央アメリカのパナマの原生林のなかで生活している
エンペラ族とワウナナ族に六十年代なかばに出会い、それから一年のうちの六ヵ月から八ヵ月
を、その集落で過ごすという生活を数年にわたって続けた。
本書は、インディオの生活習俗に捧げられたオマージュであり、現代文明への批判を記したも
のとなっている。
ル・クレジオと原著『Haï』
「どうしてそんなことがあり得たのかよくわからないのだが、とにかくそういう具合なのだ。
つまりわたしはインディオなのである。メキシコやパナマでインディオたちに出会うまで、
わたしがインディオであるとは知らなかった。今では、わたしはそれを知っている。
たぶん、わたしはあまりよいインディオではない・・・」
という驚くような書き出しから始まり、
「インディオたちの原初の文明のうちにこそ知恵が秘められ、説明が隠されているのだ」
とも述べている。
インディオたちの偉大な発明は沈黙であり、沈黙の力をインディオは本能的に知っているとル・
クレジオはいう。
受動的な、悲しく瞑想的な沈黙ではなく、日常生活のあらゆる行為における音の不在であり、
防御であると同時に攻撃であると。
インディオが言葉や表現を警戒するのは、言葉や表現にともなう危険を意識しているからであ
り、言葉を口にすると、たんに世界と連絡するための手段となるだけでなく、それは自分を暴
露すること自分を危険にさらすことともなり得るという。
インディオの言語は呪術的であり、その文法と構文は、呪術的な論理にもとづくものであり、
インディオたちは、言語にたいして罪の感情を持っているという。
それに対して、沈黙は自然なものであり、動物的であり、植物的でもあり、元素的なもので、
大地に根ざしている。
沈黙は脅迫を消し、呪いを解く。それは、他者、よそ者、人間でないものの攻撃に対する大切
な防御であるという。
「言葉はわたしの中で跳ねまわり、わたしの体のあらゆる穴からほとばしり出て、空間をおお
いつくそうとしている。
言葉による征服、言葉や、形容詞という蟻のあらゆる小さな咬み傷。話すことを学びつくした
とき、残るのはなにか。沈黙する術を学ぶことだ。
沈黙のおかげで、インディオにはほかの言語もわかる。インディオは、鳥や植物や樹の言葉を
知っている。彼は、大地や川や太陽の言葉を語ることができる。
インディオは口ではなにも言わないときでも、たぶん手や背中や鼻孔でもってなにかを言って
いる」(本書)
インディオたちは人生を表現しないともいう。
彼らに事件を分析する必要がなく、神秘の表徴を生き、記された跡をたどり、呪術が与える指
示に従って、語り、食べ、愛しあい、結婚する。
それこそ本当の芸術と言えるもので、それは世界を前にして個人の惨めな問いかけなどではな
い、とル・クレジオは指摘する。
「病気、狂気、死の危険などときどき姿を現す。しかもそれらは事故ではない。
それは表現が必然となったことを表すしるしなのだ。インディオたちは、これらのしるしの見
分け方を学んだ。
言語や絵画や音楽の必要性は、これらの危機の中に求められるべきだということを彼らは知っ
ている」(本書)
エンベラ族のレオン老人とマクシアーノ
インディオは模様と現実的なものを区別しないし、芸術を展示しない。
自分たちの肌に描くことによって、肉体を芸術作品とすることによって、総合的意味作用の領
域に達したという。
インディオは芸術のなかに生き、絵画と一体となっている。生命を得た芸術であり、呪術。
「芸術は沢山だ。個人の表現はもう沢山だ。
そうではなくて、結ばれあうこと、そして共同して読むということ。
科学の成果、言語の成果、征服者の成果。
それらは、成果を実現したものをただ隷属させるだけなのだから、おそらく偽りの勝利であ
る。英雄たちは勝利者ではなく、彼ら自身の言葉の犠牲者である」(本書)
エンベラ族のビーズを編んだ帯と魔法の人形
インディオたちは世界を征服しようとはせず、大衆を説得しようなどとは思わない。
インディオはいっきょに世界の内部に、生命の中心に入り、書物も絵も必要ない。
あらゆる人が、みずからの書物であり、絵なのだ、とクレジオはいう。
「生きている美、それ自身によって存在し、認められることも、展示されることも、売られる
ことも必要としない美。
時間のもっとも奥深いところから、自然なものとして、言語にあい似たものとしてそれはやっ
て来る。そのごく小さな部分さえも変える必要はない」(本書)
ル・クレジオは二〇〇八年にノーベル文学賞を受賞したが、その受賞講演のなかで、エンべラ族
とワウナナ族との出会いについて語り、エルヴィラという名の、インディオの古い伝承を歌っ
ていた女性にノーベル賞を捧げるといっていたという。
生命の力であった呪術的な言葉、呪術的な模様。
それらの言葉や模様は、隷従の帝国と戦い、獰猛な野獣の毛をしりぞけるものであった。
文字が生まれたが、逃亡して森に帰ってしまった。
都市では、名前も顔もない悪霊に似た人間たちが、他の人間たちを隷属させるために、
言葉と音楽と模様とを自分たちのほうにひき寄せてしまった・・・
『悪魔祓い』ル・クレジオ
ル・クレジオの小説は苦手なほうなのだが(『砂漠』『隔離の島』『調書』『嵐』など)、
本書『悪魔祓い』や『物質的恍惚』などの散文詩に似た文学的なエッセイは好き。
現代文明がインディオのような社会に戻ることは不可能だと思うし好まないが、インディオの
ような社会が世界から無くなることもまた好まない。
〈世界は、とりわけこれらの二つの力から成っている。
すなわち、ハイ、活動と精力、そして
ワンドラ、隷属、支配、所有。〉
『悪魔祓い』ル・クレジオ
ル・クレジオのインディオ礼賛の書『ハイ』は、メキシコという野生の魔術の地に住むことを決
めたあの頃の私にとって、意識の引き金を引くことになるきっかけを与えられた、特別の本で
あった。
その著者と、まさにインディオの地で偶然に遭遇することは、私に大きな運命の環の始まりの
ように思えた。
ル・クレジオとの最初の出逢いの日、私の昂揚はとりわけ烈しかった。