『シーア派とスンニ派』池内恵


「中東は宗派対立の時代に突入したのか?

これがこの本で取り組む問いである。

これはそう簡単には答えられない問いである。

しかし中東の現在を見るためには、この問いから逃れることはできない」(本書)

本書は【中東大混迷を解く】シリーズの第二作目。

第一作目の『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』では、「サイクス=ピコ協定が諸悪の根源だ」

というお決まりのフレーズで、中東の混迷の原因を、一九一六年にイギリスとフランスの間で

結ばれたサイクス=ピコ協定に責を帰す巷の論調に対して、そんな単純なものではないとし

て、オスマン帝国崩壊から説き起こし、サイクス=ピコ協定以後に結ばれた、一九二〇年のセ

ーブル条約、一九二三年のローザンヌ条約などに触れ、二つの条約が結ばれ、その結果として

近代の中東の諸国家システムが出来上がっていったということなどを、単純明快にではなく、

複雑詳細に分析して提示していたのが印象的だった。

本書は、その【中東大混迷を解く】の二作目にあたり、そのスタンスは変わらず、

今回は「中東は何千年も前から宗派で分裂して、対立してきたのだ」、「シーア派とスンニ

派の宗派対立」という魔法の一節(マジックフレーズ/マジックワード)を使い、

複雑な中東の政治と国際関係を単純化して説明する巷の論調に対して警鐘を鳴らしつつ、

詳細な歴史的な背景や事実を積み上げながら、単純化せずに説明している。

「この本では、極端な主張は採用していない。一方には人口に膾炙した俗説がある。

「中東は何千年も前から宗派で分裂して、対立してきたのだ」といった議論である。

「中東のあらゆる問題は、社会が宗派によって分裂していることに由来する。宗派が分裂して

いる限り、紛争は必然であり、中東の社会が根本から近代化しなければ紛争は終わらない」な

どと断定してしまうことで、近年の中東の複雑な問題をひとくくりに理解し、

説明してしまうやり方が、日本でも急速に一般に広がりつつある。これは中東の社会や文化に

あまりなじみのない一般聴衆・読者にとって、心地いい議論なのだろう。

日々の国際ニュースで伝わってくる、中東で生じていることは、あまりにも多様で多彩であ

り、理解の範囲を超えている」(本書)

第1章では、「中東の紛争の原因は宗派対立だ」という議論の成否を検討。

      概念や歴史を整理し、議論の混乱を解消することから始めている。

第2章では、 シーア派の思想と集団の成り立ち、イスラーム世界の歴史を紐解きつつ考察。

第3章では、 シーア派が近代の国際政治に登場するようなった発端の出来事である一九七九

      年のイラン革命を振り返っている。

第4章では、 シーア派の近年の急激な台頭の端緒となった二〇〇三年のイラク戦争を考察。

第5章では、 二〇〇五年から二〇〇六年にかけて急展開したレバノンの宗派間関係をたどって

      いる。

第6章では、「アラブの春」後の中東の混乱の中でイランが地域大国として台頭し、

       シーア派の脅威を虚実ないまぜにした形で周辺諸国に広めていく、

       現在の状況を描く。

       サウジアラビアが、イランとの覇権競争を有利に導くために、シーア派とスンニ

       派の宗派対立を強調し、煽動していった経緯を取り上げている。

「シーア派の「シーア」とはアラビア語で「党派」を意味する。

預言者ムハンマドのいとこで娘婿のアリーとその特定の子孫を信奉する、イスラーム教団国家

の非主流派の「アリーの党派」が、「党派(シーア)」とだけ呼ばれるようになり、それを日本

語で「シーア派」と呼び習わしている。

これに対する主流派・多数派が「スンナ派」あるいは「スンニ派」である。

「スンナ」とは「慣行」とそこに盛り込まれた「規範」を意味するアラビア語で、具体的には

預言者ムハンマドの言葉や行いと、それを解釈してきた信者たちの主流派・多数派の合意も、

そこに組み込まれている。

この「スンナ(慣行)」に従うのが「スンナ派」あるいは「スンニ派」である」(本書)

ちなみに、「スンナ」が名詞なのに対して「スンニ」は形容詞形であるという違いでしかな

い、とされている。

そのシーア派とスンニ派が分裂するきっかけは何だったのだろうか。

発端はムハンマドの死の直後の権力継承をめぐる争いに溯る、として次のように説明してい

る。

「スンニ派とシーア派の分離は、預言者ムハンマドの後継者問題をめぐって生じた紛争に由来

している。

端的に言えば、スンニ派は預言者ムハンマドの死後に、歴史上に実際に行われた権力継承の過

程を、全面的に肯定する立場である。

これはすなわち政治的な「主流派」だったと形容してもいいかもしれない。

それに対してシーア派は、実際に行われた権力継承の過程の大部分を否定する「反主流派」の

政治的立場が元になっている。

シーア派は、イスラーム史の初期の展開、特にイスラーム教団国家の権力継承の過程を、あっ

てはならなかった不正義であり、権力の簒奪であったと捉える。

翻って、本来ならあるべきだった特定の権力継承の規範を掲げ、この規範に基づいて権力の継

承者となるはずであったある特定の血統の人たちに、特別な権威、あるいは超越的な宗教的な

能力があったものと信じる。

ここで政治的な対立が、部分的に異なる教義の形成につながる」(本書)

そのスンニ派とシーア派の分裂のきっかけとなった、「預言者ムハンマドの後継者問題をめぐ

って生じた紛争」を具体的に次のように述べている。

「六三三年のムハンマドの死の直後に何が起きたのか。

実際は、実効支配の権力を誰が掌握しているか、が優先されたと言えよう。

教団の有力者たちが会議(談合)して、教団の権力の継承者を決めた、ということになる。

いわゆる「四代正統カリフ」として世界史の教科書に載っている、アブー・バクル、ウマル、

ウスマーン、アリーの四名へと、ムハンマドの死の直後にイスラーム教団の権力は継承されて

いった。これをそのまま正統であったと認めるのがスンニ派である。

ムハンマドが死んだ時、教団の指導者の地位は、教団の有力者の間の会議で決められた。

死の床についたムハンマドを囲んでいたのは、ムハンマドの最愛の妻アーイシャの父アブー・

バクルと、その一派だった。

有力者のウマルが音頭をとってアブー・バクルをカリフ(後継者)に推戴し、その場の一同が受

け入れて「忠誠の誓い(バイア)」を行った。

イスラーム教団の全員が集まって選挙するのではなく、有力者が半ば互選する形でムハンマド

の後継者を決定し、その場の全員が「忠誠の誓い」をする。

その後に教団全体が「忠誠の誓い」をして追随する。

このような歴史事実を根拠に、少数の有力者が互選で指導者を推戴し、その他がこれを追認す

るやり方が、スンニ派にとっては正統な権力継承の方法として、イスラーム法に盛り込まれて

いった」(本書)

分かりづらいが、スンニ派は有力者への権力継承を正統と認め、

シーア派はその有力者(四代正統カリフのうち最初の三代)の権力継承を認めず、従弟であり、

養子と言ってもいい存在のアリーが後継者の地位に就くべきであったと信じる。

「ムハンマドには教団の創設時以来付き従う、腹心の部下と言うべき存在がいた。

それが従弟であり、養子と言ってもいいアリーである。

ムハンマドがヒラー山で最初の啓示を受けた時、それを信じて改宗したのは、まず第一に最初

の妻のハディージャであり、次にアリーだった。

アリーはムハンマドとハディージャの間の、長じるまで生き残ったただ一人の娘のファーティ

マと結婚し、娘婿にもなった。

シーア派は、ムハンマドが亡くなったその時に、アリーが後継者の地位に就くべきであったと

信じる。シーア派ではこれをイマームと呼ぶ。

イマームはカリフの権限や地位も兼ねているが、それ以上の宗教的な能力があったものと信じ

る。

さらに、アリーの後はその息子のハサンとフサインがイマームの地位を継いだと信じる」

(本書)

ちなみに、ムハンマドの死を看取った最愛の妻アーイシャについても次のように説明してい

る。

「ムハンマドは、最初の妻ハディージャが六一九年に死去した後、多くの妻を娶ったが、

その中で一番愛されたのがアーイシャだった。

アーイシャは有力者のアブー・バクルの娘で、ムハンマドより四十歳以上も若かった。

アーイシャはムハンマドに特別に愛され、ムハンマドの死を看取ったとされる。

六三二年のムハンマドの死から、アーイシャが六七八年に亡くなるまでの間、四十五年に及ぶ

長きにわたって、ムハンマドの言行を語り継いだ。

後の時代にムハンマドの言行を記録したハディースが収録されたが、そのうち多くをアーイシ

ャが伝えたものが占める」(本書)

分裂したきっかけを著者はまとめているが、次の通り。

「スンニ派が、実際にイスラーム世界で行われた権力の継承、王朝の系譜とその統治を、

基本的には(個別の失敗はあれども)正統と認め、肯定するのに対して、

シーア派はムハンマド死後のイスラーム世界を統治した政治権力のうち、かなりの部分が「あ

ってはならない」不等・不正義のものであったとして否定する。

そして、あってはならない現実の歴史に対抗する、「神によって指名された無謬のイマーム」

たちの、「あるべきだった」統治を思い描く。

この理想の実現を阻止した不当な現世の権力を呪い、不当な権力によって追害されたイマーム

を悼み、イマームを守れなかった信徒としての境遇を嘆いていく。

これがシーア派独自の教義と儀礼として、体系化されていった」(本書)

その後、シーア派は独自の教義として「イスラーム教団国家の権力を掌握したスンニ派による

シーア派への不当な弾圧」という歴史観を体系化した。

そして、シーア派はイスラーム教の異端のように語られることが多いが、著者は、そうとは言

えない、としている。

「それは、スンニ派もシーア派も、基本的な教義を同じくし、正しい教義の根拠とする典拠の

テキストを同じくしているからである。

スンニ派もシーア派も、唯一神アッラーを信じ、ムハンマド(西暦五七〇年頃~六三ニ年)を神

の使徒と信じているということに相違はない」(本書)

「ただし、教義のテキストの一部には相違があり、それは預言者ムハンマドの発言や行動力を

記憶したハディースの一部においてである。

ハディースについても、スンニ派とシーア派の信じるテキストのかなりの部分は重なっている

が、異なっているのは、シーア派は、歴代の「イマーム」と呼ばれる人物たちの発言や行動を

これに加えていることである。

シーア派はムハンマドの娘ファーティマと従弟アリーの間から生まれた血統の人物たちに、

特別な宗教的能力が備わっており、イスラーム世界を宗教的にも、そして政治的にも、指導す

べきであった、と信じる。

この後継者になるべき人を「イマーム」と呼ぶ」(本書)

後にシーア派では、「一二イマーム派」と呼ばれる派が主流となり、第一ニ代イマームは「ガ

イバ(幽隠)」の状態になり(九四〇年)、これはイマームは生きているものの、この世から姿を

隠しているという状態であるとし、最後のイマームはやがて終末の前に再臨する、ということ

になっている。

本書では、第1章、第2章で宗派分裂の歴史的背景を掘り下げ説明し、それ以降の章では、

一九七九年のイラン革命、サウジアラビアでの武装反体制派によるマッカ事件、ソ連軍のアフ

ガニスタン侵攻、ニ〇〇三年のイラク戦争、ニ〇〇五年のレバノン杉革命、ニ〇〇六年のレ

バノン戦争、ニ〇一一年のアラブの春などで、シーア派が台頭してきた背景などを詳細に説明

されている(勿論、それだけではなく、地域大国、隣接地域大国、覇権国の動きや関係にも多

角的に言及されている)。

メディアなどでは、「サウジアラビア(スンニ派/主流派)」VS「イラン(シーア派/異端)」のよう

な単純な構図で、「教義」をめぐる争いのように説明されていることを見かけたことがある

が、実体は、「宗派として社会的・政治的に結合した集団同士が、主導権や権限や権益を巡っ

て、争っている」のであり、「「宗派コミュニティ」としての「宗派」間の対立が生じている

のであり、対立の争点は多くの場合は政治的・戦略的なものであったり、経済的なもの」であ

ったりするとされている。

「むしろ、現在の中東国際政治は、サウジアラビアとイランの間の、ペルシア湾を挟んだ地域

大国同士の覇権競争を軸としている。

サウジとイランは、それぞれの政治的・戦略的な思惑から、中東の様々な国や勢力に介入し、

配下に置き、同盟する。それによってそれぞれが自陣営・連合を形成していく。

陣営が形成された後で、あるいは陣営を形成しようとする過程で、宗派のつながりが強調さ

れ、利用されるのである」(本書)

中東諸国民の政治的アイデンティティでは、生まれ育った宗派コミュニティの規範が多くを占

め、各個人は、多くの場合、宗派主義の影響の制約の下で政治的な判断を行い、選択してい

る、とも指摘しており、

「少なくとも近い将来において、中東は宗派主義による連合と敵対を軸に展開していくと見る

しかない」とも述べられている。

さらに、アメリカの覇権の希薄化が進み、その権力の真空に、「まだら状の秩序」が広がりつ

つある、ともしている。

今後も【中東大混迷を解く】シリーズは、刊行されるみたいで大いに参考にさせてもらうと

思っている。(一般人だが)

前作の『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』もそうだったけど、ページ数を抑えているが(値段

も)、かなりの情報量で、単純明快に読者が心地よくなるために描かれているのではなく、

その中東情勢の複雑な状況を単純化しないで、複雑なまま起きていることを詳細に伝えようと

しているのが読んでいて伝わってくる。

これが一流の研究者のあるべき姿なのか、とも感じた。


上の動画も視聴したが、池内氏は「文」の人であり、「本」での方が切れ味が鋭い。