やはり漱石は小説より漢詩がいい。
漱石の小説はたくさん読まれていると思うが、漢詩は敬遠されがち。
漱石に限らず漢詩が忘れ去られている寂しい現状の日本なのだが、
明治の文壇はそうではなかった。江戸の香りが残っていた。
慶応三年生まれの漱石は、少年時代から漢籍に親しみ、漢詩文を嗜んでいた。
後に漱石は「吾輩は小説よりも、漢文学で身を立てたかったのである」と語っていた程。
明治二十二年に、漢文に漢詩を挿んで書いた、房総地方の紀行文『木屑録』を子規は読み、
「而して今復此の詩文を読み、余をして再驚せしむ。知らず、後来何等の奇才を揮つて、
余をして幾たび驚かしめんと欲するや」
と、絶賛している。
ちなみに子規も漢詩の素養がある。
外祖父が松山藩儒の大原観山で、その影響で十二歳の時に最初の漢詩を作っている。
ある程度の小説や評論を読んだが、漱石の胸中をダイレクトに感じられるのは漢詩。
読者を想定していなかったのが、良かったのかもしれない。
眼 識 東 西 字 眼に東西の字を識(し)り
心 抱 古 今 憂 心に古今の憂を抱く
廿 年 愧 昏 濁 廿年 昏濁を愧(は)ぢ
而 立 纔 回 頭 而立 纔(わず)かに頭を回らす
静 坐 観 複 剝 静坐 複剝(ふくはく)を観
虚 懐 役 剛 柔 虚懐 剛柔を役す
鳥 入 雲 無 迹 鳥入つて 雲に迹無く
魚 行 水 自 流 魚行いて 水自ら流る
人 間 固 無 事 人間 固(もと)より無事
白 雲 自 悠 悠 白雲 自ら悠々
明治三十二年の作で、翌年には英国留学。
『漱石の漢詩』の著者、和田利男は、
「晩年における則天去私への志向が、源遠くこのあたりから発しているように思われる」
と書いている。
苦悩していた様子も窺われる。
そして、英国留学の年の漢詩
長 風 解 纜 古 瀛 洲 長風 纜(ともづな)を解く 古瀛洲(こえいしゅう)
欲 破 滄 溟 掃 暗 愁 滄溟(そうめい)を破って暗愁を掃はんと欲す
縹 緲 離 懐 憐 野 鶴 縹緲(ひょうびょう)たる離懐(りかい) 野鶴(やかく)を憐れみ
蹉 跎 宿 志 愧 沙 鴎 蹉跎(さだ)たる宿志 沙鴎(さおう)に 愧(は)づ
酔 捫 北 斗 三 杯 酒 酔うて北斗を捫(つか)む 三杯の酒
笑 指 西 天 一 葉 舟 笑うて西天を指さす 一葉の舟
万 里 蒼 茫 航 路 杳 万里 蒼茫 航路杳(はる)かに
烟 波 深 処 賦 高 秋 烟波(えんぱ)深き処 高秋を賦せん
日本を離れて外国に遊学し、平素鬱積した憂愁を払いのけたいと思っている。
さすがに遠く家郷を離れる思いは野の鶴の淋しさにも似るが、
これまでの不遇だった自分は、かもめの自由さを羨んでいたものだ。
今や宿志がかなえられて、北斗星もつかまんばかりの意気にもえ、
西方英国に向かって船出をする。
航路は遠いが、晴れやかな気分で、天高き秋の詩を洋上で詠もう。
漱石は南画の趣味もあり、晩年には自分でも描き、その画に詩もつけている。詩画一致。
文人墨客に自分を重ね合わせ、憧れていたふしがある。小説では『草枕』を読めば察しがつく。
しかも、淵明、王維、杜甫、寒山、蘇軾、高青邸、良寛から影響を受けている。
特に良寛の書詩両方を深く敬愛していた。決して西洋かぶれではなかった。
野 水 辞 花 塢 野水 花塢(かう)を辞し
春 風 入 草 堂 春風 草堂に入る
徂 徠 何 澹 淡 徂徠(そらい) 何ぞ澹淡(たんたん)たる
無 我 是 仙 郷 無我 是れ仙郷
野川の水は花さく堤の下を流れ去り、春の風はわが家の中に吹き入ってくる。
ああ、この水も風も、なんとこだわりのない、さっぱりした動きであろう。
このように私心のない境地こそ、理想の境涯というべきではあるまいか。
大正三年の漢詩で、『こころ』を朝日新聞に連載をしていた時期でもある。
その『こころ』では、
「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。
その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。
最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという
感じが烈しく私の胸を打ちました」
と、有名な一節を書いている。
病気も重なって、心情は穏やかではなかったはず。
オクタビオ・パスの「ポエジーは世界を啓示し、さらにもうひとつの世界を創造する」
を思い出す。
著者の和田利男は、自然の中に人生の指針を見る心境があり、
最晩年の風懐に近づいて来ている、と述べている。
やはり漱石は小説より漢詩がいい。
コメント
「渡り尽くす東西の水 三たび過ぐ翠柳の橋 春風吹きて断たず 春恨幾条条」
の 「タイトル」をお教え願いたい。
高啓の「胡隠君を尋ねる」という漢詩をもとに、漱石が作詩したものです。
宜しくお願い致します。
盛本 隆弘(もりもと たかひろ)さん
コメントありがとうございます。
漱石の「渡り尽くす東西の水 三たび過ぐ翠柳の橋 春風吹きて断たず 春恨幾条条」
の 「タイトル」ですが、本書では、明治四十五年五月二十四日作「春日偶成」十首の其十として紹介しています。
しかし、和田利男氏は「三過翠柳橋」の詩句とも呼んでいます。
力不足ではっきりしたことはわかりませんが、そこまでが僕が認識している範囲です。
ちなみに、漱石は大正三年に、
同じ橋三たび渡りぬ春の宵
という俳句を残しています。