『弓と竪琴』 オクタビオ・パス



オクタビオ・パスは、一九一四年のメキシコシティ(標高二二五〇m)生まれ。

父親はインディオの血を引く一九一〇年のメキシコ革命の闘士であり、

母親はアンダルシア系のスペイン人。

オクタビオ・パス (1914-1998)

パスは、若い頃から文学に関心を示し、十九歳の時に詩人としてスタートさせ、

三七年には内乱さなかのスペインに渡って反ファシスト作家会議に参加する。

この頃は共産主義にかぶれていたみたいだが、独ソ不可侵条約(三九年)とトロツキー暗殺(四〇

年)に幻滅し、共産主義思想から離れる。

四四年に渡米、四五年にはフランスに滞在し、アンドレ・ブルトンらと交流、シュルレアリス

ムを体験する。

四六年に外務省勤務となり、ニューヨーク、パリ、ジュネーブ、などを転々とし、五二年には

日本とインドを旅行する。

五三年にはメキシコに帰国して活発な創作活動を展開、六二年にはインド大使に赴任。

しかし、メキシコオリンピック開催直前に起こった、学生による反体制デモに対する自国

政府の苛酷な弾圧、虐殺(トラテロルコ事件)に抗議したパスは、六八年にインド大使の職を

投げうつ。その後は、世界各地の大学で講義をし、そのかたわら雑誌などを主宰し、

精力的な活動を続けた。

そして、一九九〇年にはノーベル文学賞を受賞し、九八年に亡くなっている。

詩人でもあり、連歌師でもあり、批評家でもあり、『奥の細道』の翻訳者でもあり、旅人でも

あり、外交官でもあったパスだが、本書は、その日本・インド体験後の五六年に出版されたも

の。訳は『ドン・キホーテ』などでお馴染みの牛島信明氏。

ぼくが本書と出会ったのは、ペルーから帰ってきて(旅行)、ちょうどラテンアメリカについて

の書物を色々と物色している時に、岩波文庫から再販され、書店で見掛け、立ち読みして、

直感的に購入した。(以前は筑摩書房から出版されていたみたいだ)

初読したときは、その筆の勢いに押され、途方に暮れたことを思い出す。

本書の中でパスは、生粋のヨーロッパ人にありがちな、西洋と東洋を分断・分類・比較・軽視

しないで、同列に位置づけ、統合を試み(解説の松浦寿輝氏は「大いなる一元論」としてい

る)、詩とは何か、言語とは何か、インスピレーションとは何か、イメージとは何か、リズムと

は何か、などを体系的にではなく、頭の中に浮かんだものを、そのまま整理しないで、勢いよ

く書かれている。

なので初読したときには、その勢いに押され、その情報量に圧倒され、途方に暮れた。

「ヘラクレイトスによるひとつのイメージがこの本の出発点であった。

その終わりにあたり、そのイメージがわたしの前に現れて来る―

人間を聖化し、かくして彼を宇宙に位置づける竪琴、そして人間を彼自身の外に向けて発射す

る弓。あらゆる詩的創造は歴史的なものである」(本書)

そして、本書表紙にも掲載され、序論で高らかに謳われている次の言葉も、本書全体を表わし

ている。

「ポエジーは認識、救済、力、放棄である。

世界を変えうる作用としての詩的行為は、本質的に革命的なものであり、

また、精神的運動なるがゆえに内的解放の一方法でもある。

ポエジーはこの世界を啓示し、さらにもうひとつの世界を創造する。

選良の糧(パン)であり、同時に呪われた食物である。それは孤立させ、また結合させる。

旅への誘いであり、故里への回帰である。インスピレーションであり、呼吸であり、筋肉運動

である。虚無に向けた祈り、不在との対話―倦怠と苦悩と絶望がそれを養う…」(本書)

それは、高尚な話術であり、原初的な言語活動である。詩人の孤立は社会の衰微を示す。

とも宣言している。

詩人なので当然なのだが、言語に対して異様に執着し「ことばは人間自身である。われわれは

ことばによってできているのだ。ことばはわれわれの唯一の現実であるか、少なくとも、われ

われの現実の唯一の証拠である。言語を欠いた思想もなければ、認識対象も存在しない―」

として、次のようにも言及する。

「ことばとはシンボルを放射するシンボルである。

人間とは言葉のお陰で、すなわち、人間を他者に変え、自然界から引き離した始原的隠喩のお

陰で人間なのである。人間とは、言語を創造することによって自己を創造した存在である。

ことばを介して、人間は自らの隠喩となる」(本書)

そして、そのままの勢いで、ことばを生命現象のリズムに捉え、持論を展開する。

「ことばの力を信頼することは、われわれの最も古い信仰の名残である―

自然は生きており、森羅万象は固有の生命を持っており、客観的世界の写しであることばもま

た生きている。

言語は宇宙と同様、呼びかけと応答、上げ潮と引き潮、結合と分離、吸気と呼気の世界であ

る。

あることばは互いに引きつけ合い、またあることばは反発し合うが、すべて呼応している。

言行為は、天体や植物を統べているのと相似たリズムによって動く、生きものの総体である」

(本書)

「リズムは拍ではない―それは世界のヴィジョンである。

暦、道徳、政治、科学技術、芸術、哲学といった、要するにわれわれが文化と呼ぶあらゆるも

のがリズムに根ざしている。リズムはわれわれのあらゆる創造の泉である。

二元的あるいは三元的リズム、また対立的あるいは周期的リズムが、諸制度、信仰、芸術、

そして哲学を培っている」(本書)

イメージやインスピレーションについても。

「イメージは手段ではない。自らに支えられたイメージは、自らの意味である。

意味はイメージの中に始まり、そして終わる」(本書)

「詩は人間をその人間の外に置くが、同時に彼の根源的存在に回帰させる―彼を彼自身に戻す

のである。人間は自らのイメージである―彼自身であり、かつ他者でもある。

リズムであり、イメージである語句を通して、人間―存在への永続的願望―は存在するのであ

る。詩は存在へ入ることである」(本書)

「詩を書くという行為は、相反する力の結び目として、つまり、そこにあってはわれわれの声

と他の声が絡み合い、混同されるような結び目として、われわれの眼の前に現れて来る。

その境界は定かではなくなる―われわれの思索は無意識のうちに、われわれが完全には支配で

きない何かに変わり、われわれの自我は、名のない代名詞、〈君〉でも〈彼〉でもない代名詞

に地歩を譲るのである。

インスピレーションの神秘はこの曖昧性に存するのだ」(本書)

「言語は、わたしにして他者であり、わたしの声にして他の声であり、

あらゆる人間にして個々の人間であることの本源的代名詞の隠喩である。

インスピレーションとは自らを存在の中に投げ出すことであるが、

同時に、とりわけ、思い出すこと、そしてふたたび存在することである。

存在に回帰すること」(本書)

パスは日本やインドを体験したことが影響しているのかもしれないが、東洋の文献などもかな

り深くまで読み込んでいる。

「荘子はことばを放棄しなかった。禅宗についても同じことが言える。

その教理は結局、逆説と沈黙になるのだが、われわれは人類の最もすぐれた言語的創造の二つ

がそれに負っているのである。つまり、能楽と芭蕉の俳句である」(本書)

「古代の中国人は、宇宙を二つのリズムの周期的組み合わせと見なしていた(おそらくは、聞い

ていたと言う方がより正確であろう) ―「陰、そして陽、これすなわち道なり」。

陰と陽は、グラネ[フランスの中国学者]によれば、少なくともことばの西洋的意味合いにおい

ては思想ではない。

また単なる音や調べでもなく、それは宇宙の具体的表現を包含する表象であり、イメージであ

る。

諸々の現実を創り出すダイナミズムを備えた陰と陽は、交互に生起し、交替することによって

全体を生み出すのである」(本書)

「道教とヒンズー教や仏教の思想は、詩的イメージのお陰で理解できるのである」(本書)

パスは「連歌」にもかなり影響を受けたみたいで、自身のヨーロッパなどの仲間らと連歌をつ

くり、次のようにも言及している。(本書ではないが)

「西洋の諸信条に反する行いである〈連歌〉は、われわれにとって一つの試練、小さな煉獄で

あった」

「〈連歌〉―それは書くにつれて消えてゆく詩、消されて、どこへも導いてはくれない道。

果てにわれわれを待つものは何もない、終わりはなく、始まりもなかった。すべてが道なので

ある」

そこでは「自我の屈従でもあった」とも述べられている。

パスは、言語とは記号内容である、と言及しているが、W-J・オングの『声の文化と文字の文

化』では、

「ことばを記号と考えてなんの疑問も感じないわれわれの態度は、すべての感覚、

さらにはすべての人間的な経験を視覚に類似したものと考えてしまう傾向にもとづいている。

そのような傾向は、おそらく声の文化のなかにもあっただろうが、手書き文字文化になっては

っきりと際立つようになり、さらに活字文化、エレクトロニクス文化にいたってますます顕著

になった」(『声の文化と文字の文化』)

ということだろうと感じた。

具体や結果を過剰に追い求めている現代人だが、パスは拒絶、沈黙し、そんなことは書かな

い。部分は全体であり、生誕と同時に死を内包し、歴史は未来であり、未来は歴史だから。

「最良の方法は、ガルタへの道をえらび、それを再び歩いてみること、つまり歩くにしたがっ

て道を創造することだろう。

そして、私自身気づかぬまま、ほとんど無意識のうちに終着点まで行くことだろう―

〈終着点まで行く〉ということが何を意味するのか、またこんなことを書きながら自分が何を

言わんとしたのかも気にせずに歩いてみることだ。

私はもうとっくに街道の外れ、ガルタへの小径を歩いていた」(『大いなる文法学者の猿』)

ガルタとは、かつてはヒンドゥー教の聖地の一つだった、インドの北西部ラージャースターン

州のジャイプルの近くにある廃墟の町。

「私は出会うために歩いていた―だが一体何と出会うというのだ。

その答えはその時も判らなかったし、いまもって判らない。

だからこそ〈終着点まで行く〉と書いたのだろう。

つまりは見極めるためだ、終着点の後ろに何かあるかを確かめるためである。

しかしこれも言葉の遊戯だ。終着点の後ろには何もありはしない。

もし何かがあれば、それは終着点ではなくなってしまう…」(『大いなる文法学者の猿』)

パスの中にある、インディオ性とスペイン性との矛盾が、パスをパスたらしめていると感ぜず

にはいられない。

目の前の世界に幻滅している方は本書を読めばいい。

きっとパスが全てを受け止めてくれるだろう。


「ラテン性」とは混血に等しく、ラテンアメリカでは、我らは皆混血児なのだ。

誰もが、黒人、インディオ、フェニキア人、モーロ人、ジプシー、ケルト人の血を引いている

し、一家秘伝のローション・ウォーカーで髪を撫でつけたりもしている。

恥じることなど何もない、我らは皆混血なのだ!・・・

『方法異説』アレホ・カルペンティエール

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オクタビオ・パス 岩波書店 2011-01-15
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ホセ・エミリオ パチェーコ,カルロス フエンテス,オクタビオ パス,ミゲル・アンヘル アストゥリアス,マリオ バルガス=リョサ 集英社 2011-07-20
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ウォルター・J. オング 藤原書店 1991-10-31
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アレホ カルペンティエール 水声社 2016-10-01