『水を得た魚―マリオ・バルガス・ジョサ自伝』マリオ・バルガス・ジョサ



おそらく様々な人種と大きな貧富の差を抱える社会なら事情はどこでもおなじだろうが、

多様性に富むペルー社会においても、「白人」と「チョロ」は単に人種や民族を指すばかりで

なく、社会的・経済的に人を位置づける言葉となり、往々にして所属階級を決定づける。

これは固定したものではなく、社会情勢や個々人の運命の浮沈にしたがって変化する。

白人になるかチョロになるかは、他人より恵まれているか恵まれていないか、

身体的特徴が他人より西洋的であるか混血であるか、インディオ風であるかアフリカ系である

かアジア的であるかによって決まり、人の運命を大きく左右するこうした複雑な分類は、様々

な偏見と感情―軽蔑、嘲り、羨望、怨恨、尊敬、対抗心―から成るあやふやな土台に支えられ

ているが、普段はイデオロギーや価値観の下に隠れて見えないこの部分が、しばしば奥底のと

ころでペルー社会における葛藤と不満の決定的要因となっている。

『水を得た魚―マリオ・バルガス・ジョサ自伝』マリオ・バルガス・ジョサ

歴史は現在にいたるまでラテンアメリカ小説の重要なテーマであり続けているが、九〇年代半

ばには下火になり、これに代わって目立つようになったのは、もっと現実と結びつきが強く、

もっと作家個人の私生活と密接にかかわる歴史を再現した作品、回想録だったという。

チリのホセ・ドノソは一九七二年の時点でラテンアメリカ小説のブームの回想録を残していた

が、九二年に著者の死後に発表されたレイナルド・アレナス『夜になるまえに』により、大御所

たちが相次いで回想録を発表する端緒となった。

これに続いたのは、バルガス・ジョサの『水を得た魚』であり、九三年にセイス・バラル社から

発表されて以来、本書は現在まで改版・増刷を重ね続け、『都会と犬ども』(六三年)、『緑の

家』(六六年)、『ラ・カテドラルでの対話』(六九年)、『世界終末戦争』(八一年)といった

傑作長編小説と並ぶバルガス・ジョサの最重要作品の一つに数えられている。

もう一つ、バルガス・ジョサと似たような回想録を発表しているのは、ニカラグアのサンディニ

スタ政権時代に副大統領を務めたセルヒオ・ラミレスの『さらば、仲間たち』(九九年)みたいだ

が、他方、自らの遍歴時代を気楽に語ったものにアルゼンチンのビオイ・カサーレス『メモリア

ス』(九四年)があり、メキシコのカルロス・フエンテスも自らの作家遍歴を振り返るインタビュ

ー集『時間の領域』を九九年に発表している。

キューバの亡命作家であるカブレラ・インファンテは、カルペンティエールやレサマ・リマやア

レナス等との親交を回想した『読まれるべき人生』を九八年にまとめている。

二〇〇二年にはガルシア・マルケスが、初めてのヨーロッパ旅行へ出発するまでの作家・ジャー

ナリストとしての修行時代を描いた『生きて、語り伝える』が発表されている。

この辺りのことは、前回紹介した寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』に詳しい。

なお、本書の訳を担当されているのも寺尾隆吉氏。

原著『El pez en el agua』(1993)とマリオ・バルガス・ジョサ


「そしてドラマは始まった。

あれ以来、なぜ政治のために文学を捨てるのかという質問には、必ずこう答えてきた。

「道徳的理由からです。国の生命が危険に晒されているこの時に、不思議な巡り合わせで私が

先頭に立たざるをえなくなったのです。

一九七〇年代から、論文や討論においてペルーに必要な救済策として提示してきた自由主義改

革を、国民の支持のもとに実現するチャンスが訪れたように思われるのです」」(本書)

バルガス・ジョサは本書『水を得た魚』を、足掛け三年に及ぶ政治生活―バルガス・ジョサの想

像をはるかに超える体験―一九九〇年のペルー大統領選挙でアルベルト・フジモリに敗れるまで

だけを綴ろうとしていた。

しかも、決戦投票に敗れてヨーロッパに戻り、しばらくは静かな読書生活を送っていたが、ト

ラウマに急き立てられるようにして『水を得た魚』に着手している。

さらには、選挙活動によりすでに幾つも抱えていた長編小説の執筆計画を中止していたが、

その中断期間をさらに引き延ばし『水を得た魚』の完成を優先させてもいる。

上述のように執筆当初の構想では、九〇年の大統領選挙に至るまでのいきさつだけを取り上げ

る予定だったが、いざ書き始めると熾烈で激動に満ち、マキャベリスト達が乱舞した選挙戦の

記憶を前に、バルガス・ジョサが文筆活動において重視してきた姿勢である、客観性の維持と個

人的感情を排除する、ということを貫くのが極めて難しくなり、すぐに執筆は袋小路にはまり

込んでしまったという。

そしてその解決策としたのが、バルガス・ジョサ自ら「連通管」の手法と呼んだ形式であり、

ジョサの小説でお馴染みの二つのストーリーをぶつける対位法的構成だった。

なので、偶数章では選挙戦の推移を記述しているが、奇数章では冷静を保つために、幼年時代

の思い出から作家としてスタートするまでの生い立ちを挿入させ、伸び伸びと記述されてい

る。

ジョサの代名詞とも言えるそのスタイルの原点と言える作品の一つが、ウィリアム・フォークナ

ーの『野生の棕櫚』であり、フォークナーについては本書のなかで二~三回言及されている

が、『野生の棕櫚』に関しても次のように具体的に語っている。

「・・・初めてボルヘス訳の『野生の棕櫚』を読んでからというもの、フォークナーはいまだに私

を魅了し続けている。

あの錯綜する人物関係と頻繁な時間と視点の転換に惑わせることのないよう、紙と鉛筆を手に

メモを取りながらじっくり読むのはあれが初めての体験で、一つひとつの物語のバロック的構

成、蛇行する言語、直線的に進まない時間、底知れぬ深み、物語形式によって醸し出される不

穏な曖昧さと微妙な心理状態、そういった秘密を少しでも解き明かそうと努力を続けたものだ

った」(本書)

ジョサが「あれ以来」というのは、ペルーのプンタ・サルの灼熱の太陽の下、友人と雑音の多い

ラジオから流れてくるアラン・ガルシア大統領の独立記念日の演説を聞いた時のことであり、

その演説では、国内のすべての銀行、保険会社金融機関を「国有化する」ということだった。

任期二期目のアラン・ガルシアは依然として高い支持率を得ていたが、ジョサには彼の政策は時

限爆弾のようにしか映っていなかった。チリのアジェンデもボリビアのシレス・スアソもポピュ

リズム路線を取って失敗しているのに、それがペルーでうまくいくはずはないと感じていた。

食料品と工業設備の大部分を輸入に頼るペルーで、消費支出への助成によって偽りの好景気が

続くのは、輸入を支える外貨が獲得できるうちだけであった。

この状況が続いていたのは、輸入の一〇パーセントのみを対外債務の返済に充てるという政府

の方針によって外貨準備高が増え、それを浪費したからだった。

しかし、この政策もすでに行き詰まりの兆候を見せ、外貨準備高は減少し、アラン・ガルシア大

統領が目の敵にしていたIMF(国際通貨基金)と対立するとともに、ペルーは国際金融機関との

繋がりも失っていた。

さらには、財政赤字補填のために通貨流通量を増やすと、当然の帰結としてインフレが進み、

ドル安政策は輸出の不振と投機の頻発を招いた。

企業家にとって最も美味しい商売は、安いドル・レート(商品の「社会的必要性」に応じて様々

なレートがあった)で輸入するためのライセンスを得ることだった。

密輸された重要産品、砂糖や米や医薬品などがペルーを素通りして、価格統制のない隣国、コ

ロンビアやチリやエクアドルへと流れていった。

利益を得ていたのは一握りの特権階級だけで、国は衰退の一途を辿っていた。

テロも国中に蔓延し、一九八九年半ばの公式発表だけでも一万八千人の犠牲者が出ていた。

セルバのワジャガや中部山地の高地などは、地域全体がセンデロ・ルミノソがトゥパック・アマ

ル革命運動に掌握されているような状態だった。

テレビからは毎晩のように、薬もベッドもない病院、机も黒板も、時には屋根や壁もない学

校、水も電気もない地区、ゴミだらけの通り、生活レベルが下がっていくなかでストに入る労

働者や従業員、そんな気の滅入る映像ばかりが流されていたという。

(ぼくも二週間くらいペルー(リマとクスコ)に行ったことがあるが、その時に出会ったイサオと

いう日系人に少し前のペルーでは街中で車が燃やされていたという話を聞いたことがある。

もしかしたらこの頃のことを指していたのかもしれない)

さらに国有化が行なわれれば、ペルー人の生活は困窮し、無気力と依存体質、汚職が国中には

びこることになり、遅かれ早かれ、一二年もかけてようやく独裁政権から取り返した民主主義

体制は崩壊へ向かうだろうと、ジョサは危機感を抱き立ち上がった。

ジョサはその時の心境を次のように語っている。

「私は、ペルーの後進性を象徴するこの現象にケリをつけようと心に誓っていた。

権力にモラルがなければ、ペルーに民主主義は根づかず、単なる飾り物でしかなくなってしま

う。それに、政治に群がるごろつき連中を見ていると私はむかつきを禁じ得ない。

あくまで個人的見解だが、こういうさもしい人間は私にとって許し難い。

民主主義体制が脆弱で、しかも貧しい国の公職にあって、盗みを働くなど、犯罪のなかでも最

も卑劣な犯罪だと私は思う。腐敗ほど深刻に民主主義の根幹を蝕んでいくものはない。

人々が希望と信頼を込めて投じた票に支えられて権力を手にしておきながら、それを不当に利

用して私腹を肥やし、仲間たちにだけ便宣をはかるなど、考えただけでも私には耐えられな

い。

私がこれほど猛烈にアラン・ガルシアを批判した理由の一つも、彼の政権下で恐ろしいほど腐敗

が国中に蔓延したことだった」(本書)

ラジオを聞いた後のジョサはリマへ戻り、『エル・コメルシオ』紙に「全体主義へ向かうペル

ー」という論題で発表する。

そこでは、国有化政策に反対する理由を明確に述べ、民主主義の維持を求めるのであれば、断

固として反対の意思をを表明すべきであると国民に訴えた。

ジョサの予想に反し、自宅にはジョサの主張に賛同する人たちから手紙や電話が殺到し、多く

の来客があったばかりか、自主的に集められた署名が山のように届いた。

その勢いに押されたジョサは、リマにおける政治集会の聖地サン・マルティン広場で「自由への

集い」と名付けられた集会で演説することになり、アレキパやピウラでも集会を組織し、多く

の人々を動員した。

この三度の演説でジョサが繰り返し主張したのは、少ない富を分け合っていても貧困を脱出す

ることはできず、そもそも富自体を大きくせねばならない、という点だった。

そのために必要なのは、市場の開放、競争原理の導入、起業の奨励であり、私有財産を否定す

ることではなく、それを最大限に広げること、国家依存の経済とそのメンタリティを改め、国

にすべてを期待する依存体質を代えて、経済活動のすべてを市民社会と市場経済に委ねる現代

的思考を植えつけることだった。

ジョサがこのような「新自由主義」的な考えに至った背景には、以前から経済学に関する自分

の無知を認識していたが、一九八〇年にワシントンのウィルソン・センターから受けた一年のフ

ェローシップであり、そこで体系的に経済学に取り組んだことによる。

しかし、それ以前の七〇年代以降から権力への不信感を強め、アロンやポパー、ハイエクやフ

リードマン、ノージックの自由主義思想に惹かれて、国家に対する個人の保護、権力の分散に

よる相対化に賛同し、経済的・社会的・制度的責任を国家に集中させるのではなく、分散して市

民社会に委任すべきだと主張するようになったという。

そんな「新自由主義」を掲げて出てきたジョサは、同じように国有化を反対するキリスト教人

民党(PPC)と人民行動党(AP)と三党派合同委員会の設立に合意し「民主戦線」が結成され、

それと並行してジョサに総代表権を委ねた無党派層は、「モビミエント・リベルタッド(自由運

動)」を打ち出した。

そして、その民主戦線から1990年のペルー大統領選に出馬し(大統領選挙立候補声明は八九年

六月四日にアレキパで行なう)、泡沫候補だったアルベルト・フジモリに敗北を喫することにな

る。

ジョサは選挙管理委員会に立候補の届け出を済ませた後、アジアの四カ国、日本、台湾、韓

国、シンガポールを駆け足で訪問してもいる。

日本では海部俊樹首相の応対が丁寧で、ペルーが迅速に世界金融へ復帰できるよう最大限の支

援をすると確約してくれという。

シンガポールでは、多民族国家にもかかわらず経済的に成功を収めていたことに感銘を受けて

いる。もちろん開発独裁なるものには否定的だが。

選挙運動期間中のバルガス・ジョサ(1990年)

一九九〇年の大統領選挙はまだ先のことであったが、有力候補と目される数名のうち誰に投票

したいかという世論調査では、初期の段階からジョサが常に三分の一近い支持率を集めてトッ

プに立っていた。

選挙期間中から左翼陣営は即座に反対運動を組織し、時にはジョサの人形が焼かれたり、ジョ

サの名前が模った棺桶が晒しものされることすらあったという。

フジモリに関しては、投票まで四カ月という段階に至っても、名前は世論調査にほとんど現れ

ず、現れるのは、新普遍協定イスラエル教会の創始者で、預言者として知られていたエセキエ

ル・アタウクシ・ガモヒル候補と最下位を争う時だけだったという。

しかし、選挙戦最後の数週間の世論調査によるとジョサへの支持率が二〇パーセントも下が

り、その票が、一パーセント代の支持率をうろうろしていたアルベルト・フジモリに流れてしま

っていた。

ジョサによれば、その原因は行き過ぎた宣伝活動で、政府の宣伝工作によってジョサが富裕層

の候補者であることを吹き込まれていた低所得層の有権者には完全に逆効果になっていたとい

う。テレビのCMの数を見れば、彼らが金持ちであることは明らかではないかと。

この当時、ペルーの日本大使館で政務を担当していた遅野井茂雄氏が、2010年10月19日の

「Foresight」(新潮社)で次のように語っている。

「テロとインフレに苛まれた祖国を救済しようと自由運動を立ち上げ、民主戦線から立候補し

たバルガス=リョサの勝利を誰もが予想していた。

・・・筆者も、一回目の投票の1週間前まではそう分析していたし、バルガス=リョサ自身も最後

まで勝利を信じて疑わなかったと思う。だが、その行方を阻んだのが日系のフジモリである。

豊富な資金力で準備万端整え非の打ちどころのないニューライトの白人のサラブレッド候補

が、まったく準備もなく上院議員になるために並立立候補しただけの、正統派スペイン語も話

せない東洋の移民の子に決選投票でよもや敗れるとは信じ難かったはずだ。

その時のバルガス=リョサの支持者たちの我われ日本人に向けられた、射るような視線の冷た

さは今も体に残っている」

バルガス・ジョサとアルベルト・フジモリのディベート

ジョサは「御用知識人」と題した章を設けて、知識人が生活の糧としてのポストや出版の機会

を得るために、知識人として生きていくために、革命下のポーズを取って社会主義イデオロギ

ーへの共感を示し、公の場で自らが左翼に与していることをアピールしていることも糾弾して

いる。

出版界への進出、大学での出世、奨学金や旅費の調達、学界・講演の招待、いずれのためにも、

革命的・社会主義的大義の神話と象徴に同意することが不可欠であり、この暗黙の了解を受け入

れられない者は、村八分と挫折からなる不毛の砂漠が待ち受けている。これが知識人の実態な

のだと。どこの国もおなじだな。

選挙戦を通じてジョサは多くのことを学んだが、なかでも最悪の発見は、ペルーの国家的危機

とは、貧困、生活レベルの低下、格差の拡大、組織の崩壊といった側面にばかり現れるのでは

なく、そのずべてが重なることで、民主主義の機能自体がある種のパロディとなり、鉄面皮と

悪漢ばかりが生き残る条件が出来上がる、ということだった。

ジョサがペルー国民に提起して拒否された計画は、社会の差別的構造を根底から覆す包括的プ

ランの一環として、公共支出の健全化、インフレ抑制、ペルー経済の開放によって制度的特権

を廃し、貧困と疎外に喘ぐ何百万というペルー人に、フリードリヒ・ハイエクが文明の緊密な三

位一体と呼んだもの、合法、自由、私有財産への道を開くことを目的していた。

しかし、大阪大学准教授の松本健二氏は、2016年5月22日の日本経済新聞朝刊で本書を書評さ

れているが、次のように書いている。

「ペルーには貧富の差や人種の壁といった難題が山積する。

自由主義経済政策を実行しながら貧困層もケアし、人口の3割以上を占め独自の共同体に生き

る非スペイン語話者のインディオたちに起業精神を説く等というアクロバティックな政治は今

世紀中に実現するかも怪しい。

折しも今年6月に決選投票を控えたペルー大統領選は、本書でも登場するジョサ人脈のクチン

スキーとフジモリの娘ケイコの一騎打ちとなった。ジョサ対フジモリのリベンジマッチであ

る。

日系女性大統領の誕生…と浮かれるメディアもあろうが、その前に本書を紐解(ひもと)き、

混迷極まるペルー政治経済の生々しい現実を知っておくべきだろう」

ジョサが掲げる経済政策の大枠は正しいと思うが、「人口の3割以上を占め独自の共同体に生

きる非スペイン語話者のインディオたち」をどうするのか、という問題も考慮に入れる必要が

あるということだろう。

ちなみに、ある本によれば、ペルーの人種構成は、インディヘナ(先住民)45%、メスティーソ

(先住民とスペイン人の混血)37%、ヨーロッパ系15%、そのほか3%となっている。

ぼくはインカの都だったクスコに行ったことがあるが、やはり、カラフルな衣装を着た先住民

が多かった。クスコではメスティーソの方によくしていただき大変お世話になった。

偶数章では、足掛け三年に及ぶ政治生活が苦々しく書かれているのだが、

奇数章では、自身の生い立ちから作家になるまでが悠々と記述されている。

ジョサのファンならこちらの方が楽しめるのは当然で、ジョサの文学・思想遍歴や「大地の文

学」に関して、『都会と犬ども』『緑の家』『ラ・カテドラルでの対話』『パンタレオン大尉と

女たち』などの作品の発想の源泉、破天荒な父との関係や一〇歳近く離れているフリア叔母さ

んとの結婚、叔父の家に下宿してサン・ミゲル校に通ったピウラでの日々や『都会と犬ども』に

結実したレオンシオ・プラドでの過酷な日々、中学四年と最終年の間に『ラ・クロニカ』で働

き、ジャーナリズムの何たるかを体で覚え、人生最初で最後のボヘミアン生活を送った日々、

サン・マルコス大学の文学部に入学し「勇敢な小サルトル」と呼ばれ、新聞や放送作家などのア

ルバイトをし、多いときでは七つのアルバイトをかけもちして忙しかった日々、などが綴られ

ている。

なかでもピウラで過ごした日々が一番思い入れがあり、これまでの人生で、一年だけもう一度

繰り返してもいいと言われれば、ピウラで過ごした一年を選ぶだろうとジョサは述べている。

ピウラにいたルーチョ叔父に、いつかはパリに行けるよう準備したほうがいいと急き立てられ

て以来、フランスへ旅立つのがジョサの人生の目標にもなっている。

サン・マルコス大学在学中には、ラウル・ポラス・バレネチェア教授のもとで助手として働き、

ジョサが最初に与えられた仕事は、征服のクロニカを読んでペルーの神話伝説に関するカード

を作成することだった。

こうしたクロニカには、文字で書かれたラテンアメリカ文学の萌芽が確実に見られ、ファンタ

ジーとリアリズム、想像力の飛翔と生々しい残虐行為の特異な融合、言語過剰、絵画趣味、描

写意欲など、未来のラテンアメリカ文学を特徴づける要素の多くがすでに現れていると感じ

た。インカ・ガルシラソやシエサ・デ・レオンらのクロニカにも夢中になり楽しんでもいる。

一九五七年九月か一〇月のある日、友人のルイス・ロサイアが、フランスの雑誌が短編小説コン

クールを主宰し、賞金に二週間のパリ旅行を用意しているという知らせを持ってきた。

またとないチャンスにジョサは、ピウラの河床で決闘に敗れて死ぬ息子を見取る父親を描いた

「挑発」(後に処女短編集『ボスたち』に収録)をコンクールに送った。

すると数週間後にルイス・ロサイアがジョサのもとに駆け込んできて、歓喜の声で「フランス行

きだ!」と声をかけてきた。

その日の夜は興奮のあまり一睡もできず、一つの知らせにあれほど興奮したことはなかったか

もしれないとジョサは回想している。

賞金であるパリ旅行は、滞在を二週間引き延ばしているが、帰国が間近にせまった最後の数日

間、このままペルーのことは忘れてフランスにとどまりたい、文学に専念することができそう

なこの町、すべてが私の目的に適いそうなこの国で、今すぐ新たな人生の一歩を踏み出した

い、そんな誘惑を拭い切れなかったという。

帰国すると早々に、ハビエル・プラド奨学金を申請し、見事それに合格すると、再びヨーロッパ

に向かうことになる。建前上は、奨学金の続く一年の滞在という予定だったが、最初からジョ

サには戻る気などなかった。

スペイン滞在を経て、折を見てフランスへ渡り、そこに住みつく。そして、パリで作家にな

り、ペルーへ戻るのは短期の訪問だけ。

リマで過ごした最後の数カ月は、働いてお金を貯め、旅の準備を進めることにすべての労力と

時間を注いだ。

すでに旅の準備が一段落したころ、ジョサは文学部でロシータ・コルパンチョに呼び止められ、

アマゾンへ行ってみる気はないかと訊かれる。

スペイン系メキシコ人の文化人類学者フアン・コマスがもうすぐペルーへ到着するので、夏季言

語学院とサン・マルコス大学が協力してマラニョン川上流地域への調査隊を編成し、アグアルナ

族とワンビサ族を対象としたフィールドワークを行なうという。

ジョサは喜んでこれを受け入れ、この短い旅行のおかげで初めてペルーのセルバに接し、そこ

で見た風景や出会った人々、聞いた話は、『緑の家』『パンタレオン大尉と女たち』『密林の

語り部』の三冊の出発点となっている。

このアマゾン探検ほど実り多く、そして、創作に必要な記憶と想像力をかきたてた冒険は一つ

もなく、本書を執筆している当時でも、その時の体験した逸話の数々が、まざまざと頭に蘇っ

てくるという。

そして、偶数章も奇数章もヨーロッパに向かう場面で結ばれている。

「飛行機が離陸すると、リマの空に付き物の厚い雲に閉ざされて町はまったく見えず、

しばらくして周りが一面の青空になったところで私はふと思いついた。

この旅は、人生の一段落の終わり、そして、文学にすべてを賭ける新たな一段落の始まりを告

げた一九五八年のヨーロッパ行きの再現だったのだ」(本書)

“訳者あとがき”で寺尾隆吉氏は、一冊の本で複雑なラテンアメリカ社会の現実が解き明かされ

ることなど望むべくもないが、少なくともその謎を解く重要な鍵を与えてくれるかもしれない

のが、ここに訳出したバルガス・ジョサの回想録『水を得た魚』だ、と書いているが、そのとお

りの内容になっている。


ぼくがバルガス・ジョサの小説に出会ったのは、二週間足らずのペルー旅行から帰ってきて、

その年の秋にジョサがノーベル文学賞を受賞したことによる。

その後ジョサの小説を色々と読み漁り、衝撃を受けた。

それは寺尾氏が言うように、ラテンアメリカ社会やペルー社会の謎を解く重要な鍵を受け取

ったということなのかもしれない。

そんなジョサも今年で84歳。

2019年8月には『Tiempos recios(苛烈なる時代)』が出版され、日本では『プリンストン大学

で文学/政治を語る』(2019/11/29)が出版されているが、長生きされることを心より願ってい

る。ぼくは岩波書店から再刊された『ラ・カテドラルでの対話』が積読中だ。

ペルー人の一人ひとりが、それぞれの社会的・民族的・人種的・経済的・地域的帰属にしたがっ

て、自分より下と見なす者を軽蔑し、自分より上と見なす者に妬みと怨恨を向けることで自分

の地位を確立している。

これは、程度の差こそあれ、他人種と多文化を抱えるラテンアメリカの国家すべてにあてはま

ることだが、メキシコやパラグアイと違って、混血の過程がゆっくりとしか進まず、人種間の

社会的・経済的格差がアメリカ大陸の平均よりかなり高いレベルで維持されてきたペルーにおい

ては、より深刻な問題となって表出する。

『水を得た魚―マリオ・バルガス・ジョサ自伝』マリオ・バルガス・ジョサ

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マリオ・バルガス・ジョサ 水声社 2016-4-1