『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』フランス・ドゥ・ヴァール



動物の認知能力に懐疑的な人はどうしたものか?

動物が現在に囚われているのは明白で、将来について考えるのは人間だけだと主張する人は?

彼らは動物が持つ能力に関して理に適った想定をしているのか、それとも物事が見えていない

のか?さらに、人間が動物の知性を軽視する傾向がこれほど強いのはなぜか?

私たちは、人間に備わっているのは当然と考える能力が、動物にも備わっていることを当たり

前のように否定する。この背景には何があるのか?

他の種はどういった知的水準で機能するのかを突き止めようとするときに直面する真の難しさ

は、動物自体ではなく、人間の内面にも由来する。

人間の態度や創造性、想像力が大きくかかわっているのだ。

『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』フランス・ドゥ・ヴァール

オランダ出身でアメリカのエモリー大学心理学部教授・ヤーキーズ国立霊長類研究センターの

リヴィング・リンクス・センター所長のドゥ・ヴァールは、いささか挑発的に描かれた本書で

「進化認知学(evolutionary cognition)」を提唱している。

それは進化の観点からあらゆる認知機能(人間のものも動物のものも)を研究する学問。

この分野の課題は、認知の研究を今ほど人間中心的ではない基盤の上に置くことを求めること

であり、大きな枠組みとしては、一九八〇年代ぐらいまで「動物」と「認知」はありえない組

み合わせと考えられていたが、他に先駆けて動物の認知を認める立場を擁護するようになった

アメリカの動物行動学者ドナルド・グリフィン(グリフィンの提案は「認知動物行動学

(cognitive ethology)」というこの分野の新たな呼び名につながった)と、

動物の視点に人々の注意を向けさせ、その視点から見えるものを「ウンヴェルト(環世界)」と

呼び、どの生き物も、それぞれ独自のかたちで環境を感知すると指摘した、ドイツの生物学者

ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(一九世紀後半から二〇世紀前半に活躍)の見方を援用し発展さ

せたもの。

さらには、今ではかなり広く受け容れられているが、「動物にも文化がある」と初めて主張

し、他の種を理解する手段として人間の共感能力を奨励した、日本の霊長学の父と称される今

西錦司の助言にも従っている。

そしてその基礎とするのは著者が大学で学んだ、1973年にノーベル生理学・医学賞を受賞した

コンラート・ローレンツ、ニコ・ティンバーゲン、カール・フォン・フリッシュらが開拓した「動

物行動学(ethology)」と、その動物行動学の競争相手であった「比較心理学(comparative

psychology)」。

ドゥ・ヴァールは、オランダのフローニンゲン大学で、ヘラルド・ベーレンツの下で大学院生活

を始めている。ベーレンツはニコ・ティンバーゲンの最初の教え子。

のちにドゥ・ヴァールはユトレヒト大学で、表情と情動の専門家であるヤン・フォン・ホーフの

指導を受け、霊長類の行動について博士論文を書いている。

動物の行動の研究で動物行動学と双璧を成す比較心理学に接したのは、大西洋を渡ってからだ

ったという。

「私たちの課題は、もっと動物の身になって考えることであり、それによって各動物に特有の

状況や目的に気づき、動物の立場から彼らを観察して理解することだ」(本書)

原著『Are We Smart Enough to Know How Smart Animals Are?』とフランス・ドゥ・ヴァール

どんな場合にも、私たちは人間を基準として動物の知能と人間の知能を比較対照したがるが、

ドゥ・ヴァールは、人間の認知は動物の認知の一種であると見ている。

それぞれに神経が通っていて独立した動きをする八本の腕の一本一本に行き渡ったタコの認知

機能、自分の発する甲高い鳴き声の反響を感じ取り、動き回る獲物を捕まえることを可能にす

るコウモリの認知機能など、それらに比べると、私たち人間の認知だけが特別だなどとはたし

て言えるのだろうか?と。

特にドゥ・ヴァールが批判しているのが、アリストテレスの「自然の階梯」に倣って単一の尺

度で認知能力を比較すること。

「自然の階梯」は、上は神や天使、人間に始まり、他の哺乳動物、鳥類、魚類、昆虫類へと

徐々に下って、いちばん下の軟体動物に行き着く考え方。

昔から認知科学はこの長大な尺度で上下を比較するのにうつつを抜かしてきたが、そこから生

まれた深遠な洞察など、一つとして思いつかない。

そのような序列付けの暇潰しのせいで、私たち人間の基準で他の動物を評価するようになり、

その結果、生物のウンヴェルトの途方もない多様性を無視するに至っただけだ、とドゥ・ヴァ

ールは指摘する。

このヒエラルキーはアリストテレスに限らず、一神教に顕著であり、儒教のヒエラルキーが根

強く残る韓国や中国にも当てはまるのかもしれない。日本人にはこのような見方は希薄だろ

う。

ドゥ・ヴァールは、自分の意見を主張するために「anthropodenial(人間性否認)」という新し

い言葉も造っている。

この言葉は、他の動物に人間のような特性を認めたり、私たちの中に動物のような特性がある

のを認めたりするのを頭から否定することを意味する。

ところで、京都大学霊長類研究所の屋外放飼場にアユムという有名なチンパンジーがいる。

ここのチンパンジーは、タッチスクリーンを備えた小さな電話ボックスのような仕切りのうち

の一つに、いつでも駆け込めることができるようになっている。

タッチスクリーンの使い方を学んだアユムは、1から18ぐらいまでの数字を思い出し、順番に

タッチすることができる。

数字は画面のさまざまな場所にランダムに現れ、アユムがタッチし始めた途端にすべて白い四

角に隠される場合もある。

しかし、アユムは難なく数字とその場所を覚え、手際よく白い四角を順番にタッチしいく。

しかも精度が高く、それに肩を並べる成績を挙げた人間は一人もいないという。


この精確な記憶力を持つアユムに心理学者はうろたえた。

この実験全体が、あまりに不快なものと受け止められ、アメリカの研究者たちはチンパンジー

を打ち負かすために特別な訓練を受けなくては、と感じた。

アユムの研究を主導した松沢哲郎氏(ドゥ・ヴァールの友人でもあり、本書の解説も描かれてい

る)は、この反応のことを最初に耳にしたときに頭を抱え、次のように語っている。

「・・・この課題、このたった一つのことに関しては、彼らは人間に優っています。

それに狼狽した人たちがいることは承知しています。

そしてとうとう、チンパンジー並みになるために練習を重ねる研究者が出てきたとは。

本当に理解できません。

なぜあらゆる分野で私たちがいつも優位に立っている必要があるのでしょうか」

明確には指摘されていないが、このような「人間は唯一無二」の存在だと思っている連中に対

してドゥ・ヴァールは、「anthropodenial(人間性否認)」という言葉を造ったということだろ

う。

さらにドゥ・ヴァールは、実験の方法にも疑問を呈している。

よく類人猿と人間の子供が見かけは類似したかたちで認知能力のテストをされることがある。

そのようなテストでは、類人猿は金網などの中で、人間の子供は金網などの中に閉じ込められ

ることはなく、実験者に話しかけられ、親の膝に座っている場合が多い。

人間の子供は実験者と心を通じ合わせたり、意図されていない手掛かりを受け取ったりする助

けにもなる。

しかし最大の違いは、類人猿だけが自分とは異なる種の成員に直面する点、だとドゥ・ヴァー

ルは指摘する。

それは、類人猿とどれほど良好な関係にあっても、人間の子供とまったく同じように彼らをテ

ストできると考えたのならそれは幻想であり、このような比較の多くが一方の実験参加者に不

利なため、このままでは結論は出せないと。

その問題に関連したテナガザルの実験の例がある。

テナガザルはかつて間抜けな霊長類だと考えられていた。

さまざまなカップ(ひもや棒なども)を示して、どれかを選ぶ問題をやらせると、何度テストし

ても他の種より成績が悪かった。

たとえば檻の外にバナナを落としてそばに棒を置き、道具の使用をテストした。

棒を拾い上げて引き寄せるだけでバナナは手に入る。チンパンジーや器用なサルたちの多くは

ためらうことなく拾っている。

しかし、テナガザルは違った。これには奇妙に映った。テナガザルは、ヒトや類人猿と同じ脳

の大きい科に属しているのに何故なんだと。

テナガザルはもっぱら樹上で暮らし、彼らは「プラキエーション(腕渡り)」で知られており、

腕や手でぶら下がって木々の間を進んでいける。

親指は短く、それ以外の指は長く伸び、移動のために特殊化している。

他の霊長類にとって、手はつかんだり触ったりするための万能の器官だが、テナガザルの場合

はフックに近い働きをする。

テナガザルのウンヴェルトには地表面はほとんど含まれておらず、彼らの手では平らな表面か

ら物を拾い上げるようになっていなかった。

そのことに気がついたアメリカの霊長類学者ベンジャミン・べックは、従来のひもを引く課題を

設定し直した。

ひもを床に置いて提示するのではなく、テナガザルの肩の高さまで上げ、つかみ易くした。

すると、テナガザルは素早く手際よく問題を解決し、他の類人猿と同程度の知能を持っている

ことを立証した。

それまで成績が悪かったのは知能が劣っていたからではなく、テストのやり方のせいだった。

このような方法論の問題に対してドゥ・ヴァールは、本書のタイトルである「動物の賢さがわ

かるほど人間は賢いのか」どうかという疑問の核心に直結していると述べる。

「私たちはもういいかげん、動物を彼らの生物的特質に即してテストし始め、人間中心的な取

り組みから離れるべきだろう。

実験者を主要なモデルあるいは相棒にする代わりに、背景に下がらせておいたほうがいい。

類人猿で類人猿を、オオカミでオオカミを、人間の大人で人間の子供をテストして初めて、

社会的な認知を本来の進化の文脈で評価できるのだ。唯一の例外は犬かもしれない。

私たちは犬を家畜化し(あるいは、一部の人が信じているように、犬自らを家畜化し)、

犬は私たちと絆を結ぶようになったからだ」(本書)

「進化認知学の分野では、どの種も全体を余すところなく考察することが求められる。

手の解剖学的構造や、鼻の多機能性、顔の認知、挨拶の儀式など、何を研究していときにも、

その動物のあらゆる面と、その生活様式に慣れ親しんでからでなければ、その知的水準の解明

に取りかかってはならない。

そして、私たち人間がとりわけ優れている能力、つまり、言語のような私たち自身の「魔法の

泉」に関してテストするのではなく、彼らの特殊化した技能に関してテストするべきではない

か。

そうすれば、アリストテレスの「自然の階梯」を平坦にするばかりか、多くの枝に分かれた潅

木に変えることにさえなる」(本書)

本書では霊長類以外の、ゾウやイルカ、イヌやネコ、オウムやカラス、さらにはタコまでと動

物界を広く見渡し、動物たちの驚きのエピソードを披露してくれているのだが、やはりドゥ・

ヴァールの専門分野であり、七〇年代から携わっている霊長類の行動と認知についてが目に留

まる。

進化生物学者のリチャード・ドーキンスは、人間の脳に飛躍をもたらした候補として、想像力、

言語、テクノロジーの三つをあげていたが、その内の一つである言語に関してドゥ・ヴァール

は、抽象的な思考や言語を非常に重要視するのは明らかだが、物事をもっと大きな枠組みで捉

えると、抽象的な思考や言語は、生存という問題に向き合う方法にすぎない。

言語に対する私の不信にはなおさら根深いものがある。思考の過程に言語が役割を果たしてい

るというのも疑わしく思っているからだ、と述べる。

「私たちは日常的に考えや感情を言語で表現するので、言語に役割をあてかっても大目に見て

いいかもしれないが、言葉が見つからなくて困ることがどれほど多いことか。

自分が何を考えたり感じたりしているのかわからないわけではないが、それを言葉でどう表せ

ばいいか、どうしてもわからないのだ。

こんな苦労は当然ながら不要のはずだ―もし思考や感情がそもそも言語の産物であれば。

もしそうなら、言葉が滝のようにあふれ出てくるだろう!

今では広く受け容れられているように、言語はカテゴリーや概念を提供して人間の思考を助け

はするものの、思考の素材ではない」(本書)

ドゥ・ヴァールの見方は素朴で、言語の第一にして最大の利点は、「今ここ」を超越する情報

を伝達できる点。

チンパンジーは、今展開している特定の状況への反応として他者が抱く情動を感知することは

あっても、時間と空間を隔てた出来事については、ごく単純な情報させ伝えられない。

しかし、類人猿の場合には、手振りが自主的な制御下にあり、学習されることが多く、人間の

言語に近いかもしれないと指摘する。

類人猿はコミュニケーションを行なっている間、絶えず手を動かしたり振ったりしており、

何か物を乞うために手を広げて差し出したり、優越のしるしとして別の個体の頭上に腕全体を

かざしたりという具合に多くの仕草のレパートリーを持っている。

私たち人間は、このような動作を類人猿とだけ共有しており、サルはそのような仕草をまった

く見せない。

類人猿の手振りは意図的で、非常に柔軟で、コミュニケーションのメッセージを洗練させるた

めに使われる。

リチャード・バーンが手振りを三つのカテゴリーに分けていたことを思い出す。

人間の発話に関しては、鳥との類似性をドゥ・ヴァールは指摘する。

人間の発話と鳥が鳴くときの微妙な運動制御の両方に影響を与えるFOXP2遺伝子など、そうし

たつながりは多数見つかっている。

鳴き鳥と人間の発話は発声の学習に関連した遺伝子を少なくとも五〇個共有し、科学界は、し

だいに、人間の発話と鳥のさえずりを収斂進化の産物と見なすようになっているという。

ドゥ・ヴァールは、言語の進化について真剣に考えている人なら、動物との比較はけっして避

けて通れない、とまで言い切っている。

今ではサル類と類人猿のほとんどの種が、半永久的な群れで暮らすことがわかっている。

ドゥ・ヴァールはチンパンジーの社会的事情を長らく記録してから筆を執った『チンパンジー

の政治学―猿の権力と性』という本を著しているが、本書でも社会性や模倣について言及して

いる。

先程触れたリチャード・バーンは『洞察の起源』で、サル類や類人猿は、短期の「連携」と長期

の「同盟」の両方が、多くの種に見出され、役に立つ同盟をもつことが賢明であり、近縁者は

別として、好みの毛づくろいの相手は、助けてくれる力をもった個体であり、将来の援助や支

援を頼ることができる同盟のネットワークを構築していると、あくまで利己的に同盟を構築し

ていると指摘していたが、ドゥ・ヴァールは、それも霊長類の社会性の否定し難い一面だが、

社会的な認知という分野全体の対象としては、あまりに範囲が狭過ぎるとも指摘している。

そこには、思いやりの満ちた関係や、絆の維持、平和を保とうとする試みもまた、同じように

注意を向ける価値があるのだと言う。

ちなみにリチャード・バーンは、最近争った敵対者同士が後でわざわざ親和的な行動を示した

り、手づくろいしたりして和解することもあると指摘し、和解は手当たり次第、誰彼かまわず

に行なわれるものではなく、長期にわたって重要である関係に対して行なわれるとも述べてい

る。

その同盟関係―チンパンジーの―に関してドゥ・ヴァールは、人間と比較し、メスの重要性を

指摘して次のように書いている。これはTEDでも語られていることでもある。

「チンパンジーのオスは互いに支え合い、彼らの地位はこの連携関係に基づいている。

群れに君臨するアルファオスは分割支配戦略によって自分の権力を守る。

そして、ライバルが自分の支持者に取り入ろうとするのをひどく嫌う。

彼らは敵対的な共謀がなされるのを未然に防ごうとする。

そのうえ、大統領候補が報道陣による撮影が始まると途端に赤ん坊を高々と抱き上げるのに似

て、オスのチンパンジーたちも、権力の座を巡って競い合っているときには急に赤ん坊に関心

を抱くようになり、メスたちのご機嫌をとるために、赤ん坊を抱いたりくすぐったりする。

メスの支持はオスの間の競争に多大な影響を与えうるで、メスに好感を持ってもらうことは重

要だ」(本書)

サル類や類人猿では第三者がしばしばそれらの争い事に影響を与え、第三者の重要性は、個体

にとっての社会的支持を非常に大切なものにすることである、とバーンは述べていたが、

ドゥ・ヴァールも、第三者の重要性―仲直りを促す―を指摘しているが、その仲裁にあたるの

は決まってメスで、それも高位のメスたちに限られる、とメスの重要性を強調している。

続けてバーンと比較するならば、バーンは、群れが大きくなりその結果の社会的な群れの複雑

さが霊長類における新皮質増大を促す選択圧になったと、社会的脳の仮説を指摘していたが、

ドゥ・ヴァールも、社会的なネットワークに効果的に対処するには知能が必要とされるため

に、霊長類は脳の驚くべき拡大を経験したのかもしれない。霊長類は例外的に大きな脳を持っ

ている、とバーンと同じように述べている。その「社会的脳仮説」に関しては、さらに次のよ

うに述べている。

「イギリスの動物学者ロビン・ダンバーが「社会的脳仮説」と名づけた仮説によれば、社会性と

脳とのつながりは、霊長類の脳の大きさと、霊長類の典型的な集団の大きさとの関係によって

裏づけられているという。大きい集団で暮らす霊長類ほど、一般的に脳が大きい。

もっとも私は、社会的知能と技術的知能とを切り離すのは難しいと常々感じている。

脳の大きい種の多くは、その両方の領域で優れているからだ」(本書)

バーンは、すべての霊長類の強化された学習と社会的ネットワークを構築する能力は、

一般的には新皮質の拡張と関係づけられているが、大型類人猿―特にヒトにおいて―特徴的に

拡大された脳の領域は、小脳であると指摘していたが、ドゥ・ヴァールも、ヒト科の動物が進

化している間に、私たちの小脳は新皮質よりもなお、さらに拡大したことがわかっている。

つまり、私たちの種にとっても、小脳は決定的に重要であるということだ、と小脳の重要性を

指摘している。

度々バーンと比較して申し訳ないが、バーンは模倣に関して「文脈的模倣(contextual

imitation)」や「産出的模倣(production imitation)」、さらに「産出的模倣」を「動作レベル

の模倣」と「プログラム・レベルの模倣」とを分けて説明していたが、ドゥ・ヴァールは、「絆

作りと同一化に基づく観察学習(BIOL)」という考えをまとめ上げ、霊長類の社会的学習は所属

したいという衝動に由来する、と指摘する。

BIOLは、他者と同じように行動し、うまく溶け込みたいという欲求から生まれた体制順応主義

を意味している。

類人猿が平均的な人間よりも自分の仲間をはるかに上手に模倣する理由も、人間のなかでは近

しく感じる人だけを模倣する理由も、これで説明できるとまで言い切っている。

また、幼いチンパンジー、とくにメスのチンパンジーが母親からあれほど多くを学び、高位の

個体がお手本として好かれる理由も説明がつくとしてる。

ただ、厳密なつながりにはまだ議論の余地があるものの、模倣は社会的緊密さによって促進さ

せる身体的プロセスである可能性が高いとも指摘する。

ちなみに、リチャード・バーンの『考えるサル』と『マキャベリ的知性とその心の理論の進化

論』が本書の参考文献にあげられている。


ドゥ・ヴァールは本書のなかで、度々、人間が唯一無二であると主張している人々を糾弾して

いる。人間の行動の複雑さを過大評価してきたか、逆に他の種の能力を過小評価してきたと。

そのような人間中心主義を克服する手段、他の種を理解する手段として、ドゥ・ヴァールは人

間の共感能力をあげている。

私たちは人間をあらゆるものの尺度とするのではなく、他の種をありのままのかたちで評価

し、そうすることで、今の時点では人間の想像を超えるものも含め、必ずや多くの「魔法の

泉」(あらゆる生き物が、それぞれ特殊化した認知機能の果てしない複雑さ)が見つかるものと

ドゥ・ヴァールは確信している。まだ覗けていないがドゥ・ヴァールには『共感の時代へ』と

いう著作も残している。

邦訳されているフランス・ドゥ・ヴァールの著作

「解説」を書かれている松沢哲郎氏も述べているとおり、本書はドゥ・ヴァールの提唱する

「進化認知学」の格好の入門書となっている。しかも動物行動学の流れも詳述されている。

松沢氏は「まず本書を手に取ってから、そのあとでドゥ・ヴァール博士のその他の作品を読み

進めると良いだろう」と提案しているが、ぼくの“ドゥ・ヴァール遍歴”はそのようになるのか

もしれない。

『共感の時代へ』や『道徳性の起源』もそうだが、他にも『チンパンジーの政治学』『サルと

すし職人』『あなたのなかのサル』『利己的なサル、他人を思いやるサル』など、一般向けに

面白そうなものをたくさん著されている。それだけでも凄い。

動物主体は最も単純なものも最も複雑なものもすべて、それぞれの環世界に同じように完全に

はめこまれている。

単純な動物には単純な環世界が、複雑な動物にはそれに見合った豊かな構造の環世界が対応し

ているのである。

『生物から見た世界』ユクスキュル

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フランス・ドゥ・ヴァール 紀伊國屋書店 2017-8-29