『意識と自己』アントニオ・ダマシオ



「われわれは意識をもっているからこそ意識に関する問いかけが可能であり、

また避けがたくもあるわけで、それを認識する以上に眩暈を起こさせるものがほかにあるだろ

うか?」(本書)

「私は意識を生物進化の極みと見てはいないが、それは長い生命史におけるターニング・ポイ

ントだとおもっている」(本書)

「自己という難物を克服すれば、意識全般の神経的基盤も明らかにできるのかもしれなかっ

た」(本書)

本書は2003年に出版された『無意識の脳 自己意識の脳』(講談社)を文庫化したもので、

神経科学の専門的知識をもたない一般読者に問いかけた一冊。ただし、一般読者に易しく問い

かけているとはいえ難解だ。訳は田中三彦氏。

アントニオ・ダマシオ (1944年~)

最初アントニオ・ダマシオという名前を見て、イタリア系かなと思ったのだが、ポルトガル生

まれだった。

ダマシオはリスボン大学医学部で神経学の学位を取得したあとに渡米し、ハーバード大学を経

てアイオワ大学の神経学部へ。

その後、『Descartes’ Error』(1994)邦訳は『デカルトの誤り―情動、理性、人間の脳』(ち

くま学芸文庫/2010)で展開した「ソマティック・マーカー仮説」で、世界的に注目された。

(訳者解説を参考。ぼくはまだ『デカルトの誤り』を読んでいない)

近年、「意識」系の本があいつで出版され、意識の解明に近づいている感もするが、本書のメ

イン・テーマも「意識」。

ただ、ダマシオは、「首から上だけ」、「身体なき脳科学」の最近の傾向ではなく「身体」も

重視し、身体と脳とのダイナミックな相互作用をもとにしている。

なので、以前取り上げた『身体はトラウマを記録する』で著名な、ボストン大学医学部精神科

教授、国立複雑性トラウマ・トリートメント・ネットワークのディレクターでもあり、

世界各地で教鞭を執っているベッセル・ヴァン・デア・コークも、

「彼(ダマシオ)の著書のうち、『無意識の脳 自己意識の脳―身体と情動と感情の神秘』は私に

とって最も重要な本で、それを読んだときには目を開かされる思いだった」(『身体はトラウマ

を記録する』)と記し、

「それは、情動を抱き、注意を払うことの結果がすべて、生体内で生命を維持する基本的業務

と結びついているからだ。

自らの体の現状についてのデータなしに、生命を管理し、ホメオスタシスの均衡を維持するこ

とは不可能である」というダマシオの言葉も引用し、かなりヒントを得たみたいだ。

本書の構成は、全Ⅳ部構成で、第Ⅰ部で全体の見取図を描いているが、これは実質「あとが

き」のようにも読める。

第Ⅱ部では「感情と認識」、第三部では「認識の生物学」、第Ⅳ部では「認識せねばならな

い」として、読み進めるごとに実証結果や、そこから導きだされたダマシオの仮説などを具体

的に提示し、最後にそれらを理解し易くするために「簡単な用語解説」が収められている。

「そうした感情の基盤がいったいどのようにして情動を有する有機体に「認識される」ように

なるか、それをどうしても理解することができなかった。

われわれ意識を有する生き物が「感情」と呼ぶものが、どのようにして有機体に認識されるよ

うになるのか、それに対する満足いく説明を考え出すことができなかった。

どういう付加的な機構があって、いまこの有機体の境界の内側で一つの感情が起こりつつある

ことをわれわれ一人ひとりが認識するのか。

ある情動を感じている、あるいは痛みを感じている、ということをわれわれが認識するとき、

いや、そういうことで言えば、われわれがとにかく何かを認識するとき、有機体の中で、

それもとくに脳の中で、ほかにどんなことが起きるのか。

私は意識という難物に出くわしていた。とりわけ自己という難物に。

というのは、情動の感情を構成する信号を、その情動を有している有機体に認識させるには、

自己の感覚のようなものが必要だったからだ」(本書)

ダマシオは意識の問題を密接に関係した二つの問題の組み合わせとみている。

第一の問題は、「対象のイメージ」と呼ぶ心的パターンを、人間の有機体の内側にある脳がど

のようにして生み出しているかを理解する問題。

イメージという言葉で意味しているのは、各感覚様相― 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚

―の特徴を使ってつくられた構造をもつ心的パターン。

体性感覚様相には、触感、筋肉、体温、痛み、内臓、前庭など、さまざまな形態の感覚が含ま

れている。

第二の問題は、対象に対する心的パターンを生み出すのと並行し、脳がどのように「認識のさ

なかの自己の感覚」をも生み出すのかという問題。

それは、対象の心的パターン― 人、場所、メロディなどのイメージ、それらと関係するイメー

ジ。

認識されるべきものについての時間的、空間的に統合された心的イメージ―を構築しているだ

けでなく、自動的かつ自然に「認識のさなかの自己の感覚」を生み出す心的パターンをも構築

している、人間の不思議な能力の生物学的基盤を発見することだ、としている。

有機体とは、その内側で意識が起こるものであり、対象とは、意志のプロセスの中で認識され

るようになるもの、だとしている。

「意識は完全に私的な一人称的現象であり、われわれが心と呼んでいる私的な一人称的プロセ

スの一部として起きている。

しかし意識と心は、第三者が観察できる外的な行動と密接につながっている」(本書)

ダマシオによれば、意識は一枚岩的ではなく、単純なものと複雑なものに分けることが可能で

あり、神経学的証拠からその分離は明白だとし、もっとも単純な種類の意識は

「中核意識(core consciousness)」と呼ぶものであり、有機体に一つの瞬間「いま」と一つの

場所「ここ」についての自己の感覚を授けていると。

それは未来を照らすことはなく、「ここ」以外に場所はなく、「いま」の前も後もない。

その中核意識は単純な生物的現象で、そこには単一レベルの構造しかなく、だが、有機体の一

生を通じて安定しているものであり、人間的というものではない、とされている。

他方、多くのレベルと段階からなる複雑な種類の意識は

「拡張意識(extended consciousness)と呼んでいるもので、有機体に精巧な自己の感覚―「あ

なた」、「私」というアイデンティティと人格を―を授けている。

それは過去と未来を十分に自覚し、外界を強く認識しながら、人格を個人史的な時間の一点に

捉えている、としている。

拡張意識は複雑な生物学的現象で、そこにはいくつかのレベルからなる構造がある。

それは有機体の一生をとおして発達するものであり、単純なレベルでなら人間以外のある種の

動物にもあると。

ただそれは、人間において極みに達し、コンペンショナル・メモリー[通常記憶]とワーキン

グ・メモリー[作業記憶]に依存し、言語によっても強化される。

「中核意識を認識への通過儀礼とするなら、人間に創造性を授ける認識レベルは、もっぱら拡

張意識によるものと言える。

(中略)拡張意識は一個の独立した種類の意識ではない。そうではなく、それは中核意識という

基盤の上につくられている」(本書)

拡張意識が傷ついても中核意識が無傷であるが、中核意識のレベルではじまる障害は、意識の

砦全体を崩壊させ、拡張意識も崩壊する。

この崇高な意識は、二種類の意識の相互強化を必要とし、二種類の意識は二種類の自己に対応

している、と指摘する。

その中核意識の中には浮上する自己の感覚があり、それを「中核自己[core self]」と呼んでい

る。それは、脳が相互作用するすべての対象に対してやむことなく再創造される一過性の実在

としている。

さらに、有機体の生活のもっとも不変的な特徴である、あなたはだれのもとに、いつ、どこで

生まれたとか、あなたの好き嫌い、問題や争いに対する反応の仕方、あなたの名前など、の認

識に中核意識が関わった状況についての体系的な記録に依存している、

「自伝的自己[autobiographical self]」というものがあるとする。

これらの「自己」はたがいに関係している。

そして、脳には、有機体のデザインによってマッピングできるようになっている対象なら何で

もマッピングする部位と、有機体の状態を表象し、固定され、自由に巡ることがまったくでき

ない部位があり、それは、身体だけをプリセットされているマップの中にだけ、マッピングす

ることができるとされている。

ダマシオは、それを身体の「獄中の聴衆」であり、身体の動的同一性に支配されている、

と述べている。

まあ、わかりやすく言えば、外を観察する部位と内を観察している部位が非対称に存在してい

るということだろう。

これには、いくつかの理由があると指摘する。

第一に、生体の構造と全般的機能は、一生、質的に同じ状態にある。

第二に、継続的に起きている身体の変化は量的に小さい。

身体の変化の幅が狭いのは、生存するために身体はパラメータの限られた範囲で機能しなけれ

ばならない。

身体の内部状態は、それを取り囲む環境にくらべ、相対的に安定していなければならない。

第三に、その安定した状態は、身体内の化学的組成の微小な変化を検出し直接的または間接的

にその変化を修正するように命じる精巧な神経機構によって、脳から制御されている。

有機体内部の環境を「内部環境[internal milieu]」と名づけたのは、フランスの生物学者クロ

ード・ベルナールであり(一八六五年)、命が継続するためには内部環境が安定していなければ

ならないとし、二〇世紀初期にこの考えを前進させたのが、W.B.キャノンであり、

「身体の安定状態の大半を維持している…生物特有の、調整のとれた生理的反応」と説明し、

それを「ホメオスタシス」と名づけた。

ダマシオはこれらの装置全体の活動状態を「原自己[proto-self]」と呼ぶ。

ちなみに、「ホメオスタシス」の概念を国内でよく言及しているのは、

認知科学者の苫米地英人博士。

「私は、この、脳の中に表象されている有機体こそ、最終的に捉えがたい自己の感覚になるも

のに対する生物学的前兆ではないか、そう結論づけるようになった。

アイデンティティや人格を備えた複雑な自己も含め、自己の根源は、生存のために身体の状態

を継続的かつ「非意識的に」狭い範囲で比較的安定した状態に保っている脳のさまざまな装置

の中に見いだされるはずだ。これらの装置は、生体の状態と生体の多くの特質を継続的かつ

「非意識的に」表象している」(本書)

端的に言えば、原自己が意識の下にあり、その上に中核自己があり、さらにその上に自伝的自

己があるとしている。

「変化の範囲が極度に制約されている有機体の内部状態は、生来的に脳により制御され、脳の

中で信号化され、そしてそれが心の背景を、もっと具体的には、われわれが自己と呼ぶとりと

めのない実体に対する基盤を構成していると私は思うが、どうだろうか。

私はまた、そうした内部状態―それは苦と快を両極とする範囲で起こり、外なる、あるいは内

なる対象と事象により引き起こされる―は、その有機体の固有の価値に照らして状況の善・悪

を非言語的に知らしめるものになったと思うが、どうだろうか」(本書)

「意識は、脳が言語を使わずにある物語を語る力を、単純な力を、獲得したときにはじまっ

た。その物語は、有機体の中には時を刻む命があって、身体境界の内側にある有機体の状態は

環境中の対象や事象との遭遇により、あるいは思考や、生命プロセスの内的調節により、たえ

ず変化しているという物語である。

この原初的な物語―一つの対象が因果的に身体の状態を変えるという話―が、身体信号とい

う、言葉によらない普遍的言語を使って語られるようになると、意識が浮上する。

明白な自己が、ある種の感情として浮上する。

物語が求められることなく自発的にはじめて語られ、その後も永久に同じ物語が繰り返される

と、有機体がいま切り抜けつつあるものについての認識が、問われざる問いに対する答えとし

て、自動的に生じる。その瞬間から、われわれは認識しはじめる」(本書)

そして、ダマシオは、意識が進化で幅をきかせたのではないかと思う、なぜなら、情動により

引き起こされる感情を認識することは生の技術(アート)に不可欠だったからであり、

また命の技術は自然史における一つの大きな成功であるからだ、と述べ、情動や感情、上で取

り上げた概念などを個別で掘り下げ記述している。

ちなみに情動は、刺激に反応して起きる身体の生理学的状態で、心拍数や血圧、身体の動き(恐

怖に反応して凍りつく、逃げだす)、さらにはそのときの認知(思考が冴えているか、鈍ってい

るか)まで含まれる。

それに対して、感情は、脳と身体をひっくるめて起きている情動の主観的知覚。

まあ、ぼくのダマシオブックナビゲートはここまでで、間違って認識している箇所もあるのか

もしれないが、後は皆さん独自で紐解いてみてください。

本書を読む前に、ダマシオがTEDで登壇した動画を視聴したほうが尚理解が深まる。


結局は、ダマシオの同僚である認知神経科学者のスタニスラス・ドゥアンヌが『意識と脳』(紀

伊国屋書店)で述べていることだろう。

「私の同僚の神経科学者アントニオ・ダマシオは、意識を「知る行為における自己」と定義す

る。つまり、自己の何たるかが理解できるまで、意識の謎は解けないということだ」

(『意識と脳』)

本書の中でダマシオ自身「私は意識の問題を解決したなどと主張してはいない」とも述べて

いるがね。説明が足りないかもしれないが、ご参考までに。

アニル・アナンサスワーミー『私はすでに死んでいる―ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳 』で

は、何ごとにも感情がわかず現実感を持てない離人症を取り上げている章があるが、

そこでもダマシオ理論を説明している。

ちなみに「意識」という名辞は、幕臣でオランダにも留学し、西洋史、経済学、国際法などを

学んだ、西周(にし・あまね)がその著『百一新論』で用い、意味を与えたもの。

・・・著書『無意識の脳 自己意識の脳』をはじめ、

多くの本や論文で述べているアントニオ・ダマシオほど、雄弁に語った人はいない。

彼の言う「中核意識」は、自分がどういう状態かの基本的感覚であり、それは最終的に、あい

まいな暗黙の意識の感覚になる。

とくに、体内の状況がおかしくなっているとき―ホメオスタシスが維持されていないとき、

自律神経系のバランスがどちらかにひどく傾き始めるとき―に、この中核意識、自分がどうい

う状態かの感覚が出しゃばって来て不快なものになり、そうなると人は言う。

「具合が悪い―何かが変だ」。そうなるとき、外見も元気そうでなくなる。

『意識の川をゆく 脳神経科医が探る「心」の起源』オリヴァー・サックス

created by Rinker
アントニオ・ダマシオ 講談社 2018-06-11
created by Rinker
スタニスラス・ドゥアンヌ 紀伊國屋書店 2015-08-27