清朝への冷徹な眼差し。泰斗が語る|内藤 湖南の『清朝史通論』


ジャーナリズムを出発点としていたので、湖南の東洋史はそれまでの漢学と違い、

非常にビビッドだった。彼にとって清朝史は現代史だった。

辛亥革命が起こっているまさにそのときに、大学で教えていた。

『東アジアの実像 Ⅳ』岡田英弘

内藤湖南は、一八六六(慶応二)年、旧南部藩領・鹿角郡毛馬内(現・秋田県鹿角市十和田)の士

族、漢学者の家に生まれている。

秋田師範学校高等師範科を卒業後、一八八七年、東京に出て、大内青青巒(せいらん)主宰の仏

教雑誌で執筆活動を開始し、三宅雪嶺の政教社でも活動している。

本名の虎次郎は寅年生まれだったことに加えて、吉田松陰の通称・寅次郎から借りたものとされ

る。

以後の経歴は前半と後半、それぞれ二十年づつに分けると理解しやすい。

この見方は岡村隆司氏の『近代日本の中国観』でまとめているものだが、前半は『亜細亜』

『万朝報』『大阪朝日新聞』などで健筆をふるってジャーナリスト、後半は京都帝国大学文科

大学史学科東洋史学の教授。

ジャーナリスト湖南が中国問題に関する論説を盛んに執筆するようになったのは、日清戦争(一

八九四~九五年)前後からであり、当時、大阪朝日新聞の論説記者だった湖南は、中国の改革と

日本の役割を提唱し始めている。

上述のように湖南はもともとジャーナリストであったが、現在の学者・研究者より、学識・学殖

があり、湖南はそこをみとめられて、新たにできた京都帝国大学に迎えられている。

しかし、学歴がなかったので、文部省が教授に任命するまで、二年の猶予期間を設けている。

前述した岡村氏によれば「そんな経歴からか、かれには一つの専門、あるいは学問方法にとら

われない広汎な視野と柔軟な思考があった」と評価しているが、それは冒頭に掲げた岡田氏と

通ずる“湖南評”といえるだろう。その他の学者も同様に評価しているのを目にしたことがあ

る。

ちなみに、湖南がはじめて世に問うた著作は、一八九七年一月刊行の『近世文学史論』。

数え三十二歳の作で、徳川日本の学問文化をとりあげたものだった。

内藤湖南

(1866年8月27日[慶応2年7月18日]-1934年[昭和9年]6月26日)

湖南が生まれた慶応二(一八六六)年は、清朝の年号では同治五年であり、辛亥革命が勃発した

宣統三(一九一一)年は明治四十四年にあたる。

要するに、清朝という時代、厳密にはその末期は、湖南にとって同時代であり、岡田氏が述べ

ているように「清朝史は現代史」だった。

そして、その「清朝史は現代史」だったということを明確に感じられる代表作は、『支那論』

や『新支那論』であろうが、本書『清朝史通論』もまた同様に感じられる。

本書は『清朝史通論』と『清朝衰亡論』の二篇で構成されている。

表題の『清朝史通論』は、一九一五年八月二日から六日間、京都帝国大学で行なわれた計六回

の夏季講演がもとになっている。

その講演速記がのち湖南没後の一九四四年に湖南の長男乾吉氏などによって校訂され、弘文室

から刊行された。

一九一一年十月十日に辛亥革命が勃発するが、その直後に湖南は論説「革命軍の将来」と、少

し間をあけて「支那時局の発展」を連載している。

さらにそこから十日後に、京都帝国大学で「清朝の過去及現在」という特別講演を開始した。

この講演は計三回の金曜日に行なわれている。

そして、この講演の速記をもとにして翌年に弘道館から出版されたのが、もう一篇の『清朝衰

亡論』だった。

『清朝衰亡論』は、湖南が十数年にわたって行なってきた中国観察・研究の延長線上に位置し、

「革命軍の将来」と「支那時局の発展」の二論説を受け継ぐ性格のものであり、辛亥革命を清

朝全体のなかで理解しようとしている。さらに『清朝衰亡論』は二年後に出版される『支那

論』に引き継がれていく。

『清朝史通論』では、皇帝や内治、異民族との関係や外交と貿易、外国文物の輸入や経学、ま

たは湖南らしく芸術までに言い及んでいて対象範囲が幅広い。

その冒頭では清朝史研究に関して、十五年ばかり前に於いては、如何に研究したいと思って

も、材料が乏しかった為、手のつけようがなかったが、支那で革命乱があって以来、種々の材

料が出て来たと述べている。

さらには、支那で正史が出来上がると、その材料の多くは滅亡してしまうが、清朝のことに就

いては、まだ材料の滅亡しない今日に当って之を研究することが出来るので、その点は幸いで

あるが、材料が非常に多く開口するとも述べている。

ちなみに、明初に元代の歴史を編纂した時に、百数十年間の歴史を僅か一年足らずの間に作っ

たという。

明代は愚帝が多く清代は賢帝が多い、とよくいわれるが、湖南も、清朝の帝王は、余程完璧な

教育を受ける習慣があった、ということを紹介している。

清朝の言伝えとして、天子がもし後を立てることに就いて注意をする必要のある時には、

自分の気に入った人でもし自分が死んだならばそれを後に立てたいと思う人があれば、

宮中の正大光明殿にある正大光明と書いた額の裏に自分の皇太子たるべき人の名前を書いて秘

しておいた。

もし天子が遺言せずに死んだ時は、それを開けると後を継ぐ人がわかるようになっていた。

皇太子を予め立てないことにしていた。それが為に、皇子は各々自ら勉強をして学問に励んで

いた。

「清朝は夷狄から入って支那を支配したにも拘わらず、歴代の天子は文事に長じて居りまし

た」と湖南も指摘する。

左から、康熙帝(聖祖)、雍正帝(世宗)、乾隆帝(高宗)

その中で湖南も、康熙帝(聖祖)、雍正帝(世宗)、乾隆帝(高宗)を高く評価している。

聖祖・康熙帝のエピソードとしては、「三藩の乱」を平定したことを取り上げている。

「三藩の乱」というのは、雲南の呉三桂、広東の尚可喜、福建の耿精忠ら―明末以来非常に戦

争に経験を有った人々であったが、これらのものが清朝に対して反乱を仕掛けたことをいう。

その時に清朝の方では古い大将等は多く死んでしまって、これらの宿将に対して兵力で敵対す

るような偉い人は殆んど居なかった。それで最初は、三藩の為に清朝の兵が破られていた。

この時の聖祖は、十九か二〇歳の少年だったが、自分が悉く方略を指図した。

それで一日の中に何百通という上奏文を読んで、皆な一々指揮を下し、側に控えて居る大学士

に指図した。

それで兵が弱かったにも拘わらず、方略がよかったが為に、この三藩を七年ほどかかって平定

することができた。湖南は聖祖・康熙帝を評価し、次のように述べている。

「此の天子は極めて規模の雄大な人でありまして、単に支那へ入ったが為に支那の文化に感服

するやうな人ではありませぬ。

其の時には既に西洋の宣教師が支那へ入って居りましたから、西洋の宣教師から種々西洋の知

識を得て、世界の知識を集めて大なる帝国を押立てようという雄図を懐いて居った」(本書)

世界的の知識を持ち、そうして世界的の帝国を立てようという雄図を持っていたのは、

康熙帝が著しく、これが為に清朝の政治の基礎が堅固になったとも述べている。

康熙帝は宦官の数も大幅に減らしている。

世宗・雍正帝に関しては、皇帝権を強化し、帝国の内部を充実したことを評価している。

明以来の風習として、地方官は中央政府の租税に対して附け加えをするということがあった。

即ち附け増しをして、その附け増しを自分の懐へ入れて居た。いわゆる賄賂だ。

それが習慣になって居たが、雍正帝は人民から取ったものは悉く天子に出すべきものであると

云って、地方官の懐へ入ったものを皆な取り上げ、その代わりに地方官に対しては養廉銀とい

うものを給与した。この時から天子の収入が非常に殖えていき、大変豊富になっていた。

雍正帝の次に高宗・乾隆帝が立つが、この時代に清朝の最盛期に入る。

乾隆帝はみずから功をほこって十全老人と号し、八十一歳のときに書いた「十全記」という文

章には、十回の大戦争に十回とも勝利をえたと得意満面で自慢している。

「此の人は蒙古を懐柔する為に、蒙古語が必要だと唱えました。それから又西蔵のラマ教の関

係から、西蔵語を学んだ。

又其の後になつて土耳其語を話す所の種族を平定すると、土耳其語も研究することになったの

であります」(本書)

乾隆帝の時までは、満洲語が大変衰えかかっていたが、満洲語を復興し、字引やその他種々の

方法でこれを奨励した。また、漢人でも何でも翰林院へ入る人は、必ず満洲語を知らなければ

ならないというので、どんな英才でも満洲語を知らなければ翰林院へ入ることが出来ないよう

にした。

さらに、四庫全書を作った間に、明代や清代の初めに悪口を書いた本や、夷狄という言葉を

書いた本があると、悉くそれを削って直させ、若しくは全部潰してしまうということがあっ

た。

「西洋人が支那の本を読む為には、先づ皆な満洲語で読んだのであります・・・

西洋人は満洲語で支那の本を勉強することを始めました」(本書)

湖南は日本の満洲語研究も取り上げているが、日本で一番初めに満洲語に注意したのは、荻生

徂徠だったという。

文化年間にロシアの船が長崎へ到着して、貿易を求めて、その時に彼方から日本へ手紙を書い

て来たが、それはロシア語と満洲語で書いてあった。

それを日本へ持ってきたが、その当時ロシア語を読む人もいなければ、満洲語を読む人もいな

かった。

しかし、その頃幕府の天文台を支配していた高橋作左衛門という人が、どうもこれが読めない

のは残念だと考えた。

この時代には、既に清文鑑という満洲語の字引が日本へ渡っていて、徳川家の庫にはあった。

それで高橋作左衛門は数十年間満洲語の研究に骨を折っていた。

高橋作左衛門はその後、満洲語の字典を拵えようと考え、また満洲語と和蘭語の字引を拵えよ

うとも考えていた。

そして、和蘭語の知識で満洲語を読むことに掛かって、十数年間掛かって満洲語の字引と文典

を作り出していった。その字引は満文輯韻といい、文典の方は満文散語解といった。

ところが、高橋作左衛門はシーボルトとの関係から、地図を外国人へ渡したというので、

牢に入って死ぬようになったが、その牢屋に入る約二日ほど前まで、その満文輯韻の著述に掛

かっていたという。

ちょうどこの頃に、高橋とは関係なく、嘉永年間になって外国との交通が盛んになってきたた

めか、長崎の通事などが、満洲語の研究をしたいと考えを起こしたという。

幸いに長崎に来ている人で、満洲人の端くれがあったので、それに就いて研究をしたという。

その他にも、康熙帝の時に暦算の南懐仁が成功したことや康熙乾隆年間に於ける地理探検及び

外交、西洋芸術の採用や清朝の学者が貴んだ撲学のこと、清朝の書風の七割は董其昌の書風が

流行ったこと、芸術に関しては、雍正乾隆以後は技巧を超越することをつとめて、自由な手法

によって個性を現はすように、思い思いの画風を画いていたことなどが述べられている。

かなり幅広く論じられているのが『清朝史通論』で、清朝文化に関する通史であり学術的な著

作となっている。

『清朝衰亡論』は前述したように、辛亥革命を清朝全体のなかで理解しようとしているので、

兵力に関してはヌルハチの兵隊や八旗などから説き起こし、袁世凱の新軍までを語り、次いで

財政のことにも触れている。

「清朝の兵制(中略)満洲八旗は勿論是は重要なものになって居るが、其後之に蒙古八旗が加は

つて居り、それから漢軍八旗が加はつておる。之を禁旅八旗といつて北京に居る。

日本の近衛兵といふよりは、徳川幕府の旗本のやうなものであるが、それが十万人、二十四旗

の兵で組織されているが、此外に地方の兵は八旗の分遺隊のやうなものがあって、それは各省

に皆ある訳ではないが、重要の土地に駐防八旗といふものを置いて居る。

駐防八旗は一ヶ所三千人位である。此外に各省に漢人より組織した兵即ち緑旗兵(普通緑営と云

ふ)がある。

是は各省の常備軍であって、其上に駐防八旗が監督して居り、地方の安寧を保つやうになつて

居たのである」(本書)

ところが、嘉慶帝の頃に白蓮教匪が起こると、これらの兵は役に立たず、清国の常備兵は役に

立たぬということが証拠立てられた。

嘉慶帝がどのような手段でこれを平定したかというと、郷勇即ち地方の義勇兵に頼ってしまっ

た。その後にも長髪賊の乱なども起こるが、これを平定したのも義勇兵たちだった。

その時に功を立てたのは、曾国藩、胡林翼、李鴻章、左宗棠、という連中だったが、これらは

皆、義勇兵として功を立てた。

そして、その後に李鴻章が義勇兵に対して洋式の兵器を授け、それでもって精兵が作られると

考えたが、日清戦争で敗北する。

日本に敗北した後に、本格的に西洋などから士官を招き、それによって純洋式の訓練をして新

らしい兵を作らなければならぬということになり、真先に訓練を受けたのは袁世凱だった。

湖南は清朝時代の兵制の流れを大まかにまとめているが、

満洲兵を中心にして、一、漢人駆使、二、義勇兵の利用、三、義勇兵の常備(尾大不振の弊生

ず)、四、新式兵、革命思想の養成となって来た。

湖南の見立てでは、辛亥革命は武昌で突然起こったものではなく、結局は清朝はニ百年間、

その政策上から自然に革命思想を養成するように自分で仕向けて来た、と指摘する。

そして、湖南は辛亥革命がどのようになるのか、また、周辺諸国がどのように対応したらいい

のかなどを述べて結んでいる。

「何れにしても革命主義、革命思想の成功は疑いないのである。

是は幾百年来の趨勢で、今日ではどうしても一変すべき時機に到着して居るのである。

列国は此際仲裁や干渉することを止めて、先づ大勢の到着する所を見て居れば間違いないと思

います」(本書)

言わずもがな、湖南は清朝史に関する史料に非常に強い関心を持っていた。

一九〇二年に初めて奉天を訪れた後、満洲語を独習していた湖南は、一九〇五年に再び奉天を

訪れた際、崇謨閣の『満文老檔(まんぶんろうとう)』や翔鳳閣の『五体清文鑑(ごたいしんぶん

かん)』を発見して調査した。

さらには、一九一二年にまた奉天を訪れた湖南は、『満文老檔』や『五体清文鑑』を写真にと

って日本に持ち帰っている。

岡田英弘氏の言葉に直せば、「内藤湖南を初めとする明治時代の日本の学者は、漢字ではない

文字を調査し、写真の撮って日本に持ち帰った」ということである。

特に湖南が命名した『満文老檔』に関しては、日本における満洲語史料を利用する清朝史研究

の出発点となっている。

それと関係してか、湖南と満洲国は決して浅い関係ではなかったという。

湖南は日満文化協会の理事になり、その設立のため、逝去の一年前には満洲国に渡航し、執政

の溥儀や鄭考胥(ていこうしょ)とも会見している。

湖南は同僚の矢野仁一ほど、コミットしていなく、日本の行動には批判的ですらあったとい

う。

昭和二年八月、京都帝国大学を退官した湖南は、瓶原恭仁(みかのはらくに)山荘に隠棲する。

すでにジャーナリストとしての高い知名度にくわえ、権威もそなえた湖南の許には、つねに来

客が殺到したという。

都会の喧噪を離れて隠棲したのも、来訪の煩わしさを嫌ったためであった。それでもみな、は

るばる足を運んできている。最寄の駅には、山荘を往復する人力車が待ち受けていたという。

辛亥革命に至る清朝史に対するジャーナリスティックな見方、清朝衰亡の過程に対する学問的

な関心、度重なる奉天訪問を契機に高まっていった清朝関連史料への関心、こうした湖南が一

九〇七年から京都帝国大学の教壇に立ったとき、その講義題目が清朝史、特に建国初期史だっ

たことは極めて自然であった。

(本書解説の井上裕正を参考。本書の解説は一冊の本として刊行してほしいぐらい豊富だった)

湖南の学位論文もヌルハチの先祖に関するもので、「清朝姓氏考」(一九一二年三月)はそれと

関係があると考えられている。

清朝史研究こそは東洋学者内藤湖南の原点でもあった。本書でそれを遺憾なく堪能できる。

そして、湖南を源泉とするその水脈は、岡田英弘氏、神田信夫氏、松村潤氏の満洲語研究グル

ープに引き継がれていったと確信している。

岡田・神田・松村氏のお三方は、一九六三年に台湾の台北を訪れ、自由世界で本物の満洲語が話

せる最後の人である広禄夫妻に会いにいっている。

何を隠そう、この満洲語研究グループのお三方は、『満文老檔』の訳註を行い、これによって

一九五七年に日本学士院賞を受賞されてもいる。

また、『紫禁城の栄光』(明・清全史)を著され、それは本書をバージョンアップさせた内容にな

っているが、湖南が用いた基本的視座、清朝への眼差しは変わらない。

先学たちは、シナを支配する以前の清朝の、満洲語で書かれた史料を解明すれば、シナをもっ

と違う面から見ることができる、と考えたわけである。

シナがどういうふうにしてできたかを知りたい、という強い興味から、こうして日本で満洲語

研究が盛んになった。

日本人がいなければ、モンゴル史や満洲史は残らなかっただろう。

『東アジアの実像 Ⅳ』岡田英弘

中国という対象は、きわめて難解なのである。

日本人はそんな隣人と未来永劫つきあっていかなくてはならない・・・

中国とその社会、そのしくみと動きを、借り物の思想・概念で断ずるのではなく、自分の目でじ

っくり、しっかりみつめてゆくこと。

近代の不幸な関係のなか、中国をみつめてきた先人の経験は、まずはただ、それだけに取り組

み、それだけを成し遂げるよう、われわれに託しているように思えてならない。

『近代日本の中国観』岡村隆司

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内藤 湖南 平凡社 1993-11-1
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岡田英弘・神田信夫・松村潤 講談社 2006-10-11