帯には“情報編集国家日本 万葉から満州まで、松岡史観が疾駆する” と、書かれている。
以前、松岡正剛氏の著書、『連塾 方法日本 ⅠⅡⅢ』の3冊を取り上げたが、
今回はNHKで放映された『おもかげの国・うつろいの国』を基に、
加筆、修正し、書籍にしたもの。コンパクトにまとめられていて、こちらの方が読みやすい。
2016年刊の『インタースコア 共読する方法の学校』の中で松岡氏が、
「日本には欧米的な普遍を抱いたロジックではなく、そこに敬意を払いつつも、
もっと日本に特有なものをハイブリットに提示するほうがふさわしい」
と述べられていて、
特に戦後は“日本に特有なものをハイブリット”にする事を怠っているのではないかと、
感じている。
本書では「外来コードをつかって、内生モードをつくりだす方法」と、
別の表現を使っている。
副題の「おもかげ」、「うつろい」は当然のことだけれど、
本書を読み解くキーワードは、「弱さ」「矛盾性」「間」「対角線」「本来と将来」。
本書のタイトルは「日本の方法」ではなく「日本という方法」です。
これはどういう意味かというと、一言でいえば、
日本は「主題の国」というよりも「方法の国」だろうということです。
主題やグローバル・コンセプトを設定してもいいけれど、
それを日本の全体にあてはめることに自信をもちすぎないほうがいいのです。
『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』 松岡正剛
松岡正剛氏を読み解くキーワード “情報編集” とは何か。
私はながらく編集工学という領域で、
「編集」という方法についてあれこれのことを考えてきましたので、
日本社会や日本文化の特色をピックアップすることについても、
この「編集」という見方を適用したいと思います。
編集という用語は、
一般には新聞・雑誌・書籍・テレビ・映画などでよく使われている技法用語ですが、
私はその意味と用法をかなり拡張しています。
なんらかの出来事や対象から情報を得たときに、
その情報をうけとめる方法すべてが編集なのです。
だから、日記を書くことも、俳句を詠むことも、筆で山水をスケッチすることも、
幕府のシステムをつくって役職名をあてがうことも、会社の経営も、プランニングも、
今晩の献立を考えることも、サッカーやラグビーのゲーム進行も、創作ダンスも、
それぞれ「編集」なのです。
負のエントロピーを食べて非線形的なふるまいをしている生命体の活動の本質が
もともと情報編集なのだというのが、私の見方なのです。
しかし、情報にも事件の報道内容から個人の中味のようにいろいろな情報があるのと同様に、
編集にも時代によって人によって、メディアやツールによってその特徴が変わる。
たとえば言葉や文字の情報も、漢字だけで書くか、漢字仮名交じりで書くか。
屏風に描くか、版画に刷ってたくさん配るか、連歌にするか、
発句だけにするかなどの編集方法の選択の仕方によって、その特徴が変わります。
その特徴を見きわめることが大事です。
本書ではこのように「日本は情報編集をしてきた」という見方をとりながら、
その方法に着目しつつ、日本社会や日本文化の様相を浮き出してみたいと思います。
『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』 松岡正剛
面影とは何か。
「おもかげ」とは脳裡に思い浮かぶプロフィールのことだと思ってください。
イメージだとかイマジネーションと見てもいいところもありますが、
やはりプロフィールのほうが正確です。
なぜならそこには“像”が動いているからです。
「おもかげ」という言葉をよく見ると、
そこには「かげ」(影)という言葉がくっついていることに気がつきます。
この「かげ」も日本文化が神々や聖なるものの出現をめぐって表現してきた
とても大事なプロフィールでした。
つまり「影」とは何かの具体的なシャドウなのではなくて、
本体にくっついている影なのです。プロフィールそのもの、影像そのものなのです。
『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』 松岡正剛
影は光を意味していたこともあると。
それは「かげ」が「かがみ」(鏡)と同根の言葉だったから。
そして、神の現れを「影向」(ようごう)といい、
面影に何かを捧げて供えることを「影供」(えいぐ)といった。
「うつろい」は文字通り、移ろっていくものをさす。
時のうつろい、世のうつろいという、あのうつろいです。
変化する当体というものがあるとすれば、それがうつろい。
もともとの「うつろい」の意味は日本人が「かげ」や「いろ」の本質とみなしたものと
関係があるようなのです。
すなわち、一定しないもの、ちょっと見落としているうちに変化してしまうもの、
そういうものに対して「うつろい」という言葉が使われている。
容易にアイデンティティが見定めがたい現象や出来事、それが「うつろい」の対象なのです。
すなわち、「うつろい」は月にも色にも、また世にもあてはまっている。
ということは万事万象が移ろっていることを表現するための言葉だろうということになる。
日本人は、この「うつろい」に独自の情報を感じ、それを歌や絵に編集してきたのです。
『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』 松岡正剛
この「面影になる」ということ、そこに「面影がうつろう」ということ、
「ない」と「ある」を「なる」がつないでいることに注目するのです。
そこに「日本という方法」が脈々とたちあらわれていると見るのです。
『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』 松岡正剛
その「おもかげ」「うつろい」「なる」をキーワードに、平仮名や片仮名、能や連歌や俳諧、
水墨山水や茶の湯や近代工芸、神仏習合思想や江戸の儒学や国学、近代の哲学や童謡などを、
紐解いていく稀有な構成になっている。
日本人はもともと、互いに異なる特色をもつ現象や役職や機能を横に並べて、
それらを併存させることがそうとう好きなのかと思わせます。
日本人は対比や対立があっても、その一軸だけを選択しないで、
両方あるいはいくつかの特色をのこそうとする傾向をもっているのでしょうか。
どうもそのようです。
『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』 松岡正剛
“その方法”を、近代に清沢満之は「二項同体」と呼び、
西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」と呼んだ。
“その方法”で、内村鑑三は「二つのJ」に、新渡戸稲造は「武士道」に照応させた。
そして今も、“その方法”が問われ続けている。
グローバルスタンダードをそのまま受け入れるのではなく、
デュアルスタンダードへの編集力。
本書は、その日本が培ってきた、特有のデュアルスタンダードの方法を、
“本来”まで遡り“将来”に向けて提示している。
(わかりづらいかもしれませんが、読めばすぐにピンとくる)
日本の面影は、いまさまよっているかもしれません。
けれども、さまよわない面影なんてないのです。
大切なことは「おもかげ」や「うつろい」を主題ばかりで埋めつくさないことです。
まだ主題が何かがわからない方法から、蝶が羽ばたくか、蝉が啼くかを見るべきです。
『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』 松岡正剛
模を作(な)し様を作(な)し什(な)にかせん。
方法を問えば、視界が開けてくる。