『荒地/文化の定義のための覚書』 T・S・エリオット



四月はいちばん無情な月

死んだ土地からライラックを育てあげ

記憶と欲望とを混ぜあわし

精のない草木の根元を春の雨で掻きおこす。

『荒地』(死者の埋葬) T・S・エリオット

アメリカ生まれのイギリス詩人であるT・S・エリオット。

長編詩の『荒地』は、第一次世界大戦後の1922年の出版で、

エリオットの数少ない長編評論と呼ばれている『文化の定義のための覚書』は、

第二次世界大戦後の1948年の最晩年に書かれたもの。

エリオットの詩については、グスタフ・ルネ・ホッケの『文学におけるマニエリスム』の中で、

「ゴンゴラからマラルメとT・S・エリオットにいたる〈クルティスモ〉はさまざまのかけ離れ

た構成要素を錯雑とした隠喩法にかけ合わせる」

と書いているが、20世紀に活躍したイタリアの作家のイタロ・カルヴィーノは、ダンテと絡め

ながら、

「T・S・エリオットはその神学的な意匠を諧謔(アイロニー)の軽妙さと

目も眩むばかりの言葉の呪法のなかに溶けこませています」

と評している。エリオットも『荒地』の自註でダンテの『神曲』を多く引いているし、

ジェシー・L・ウェストンの『祭祀よりロマンスへ』から示唆を受け、フレーザーの『金枝篇』

にも深い影響を受けた、とも書いている。

エリオットの詩については、その他にも色々と論じられたものがありそうだけれど(特に気にな

るのはエリザベス・シューエルの『ノンセンスの領域』) 、個人的には、本書のメインでもある

『文化の定義のための覚書』が気になって手にした。

トマス・スターンズ・エリオット (1888年9月26日~1965年1月4日)

「何か社会理論とかあるいは政治理論とかいうものの大要を示そうとするものでもなく、

またこの書物は単にいくつかの話題を捉えてそれについてわたくしの私見を載せるために書か

れたものでもありません。

わたくしのねらいはただ一つの単語、カルチュアという単語の定義をさだめるための一助とし

たいというに過ぎないのであります」(本書)

エリオットによれば、「カルチュア(カルチャー)」という用語には、

一人の個人の発展に念頭をおくか、一つの集団もしくは階級の発展を念頭におくか、

一つの社会全体に念頭におくかに応じてそれぞれ異なる連想を伴うとしている。

個人の教養は一つの集団もしくは階級の文化に依存し、その集団(階級)の文化は、その属する

社会全体の文化に依存すると。

「われわれはただ個人のカルチュアは集団のカルチュアから引き離すことができないし、

また集団のカルチュアは全体の社会のそれから抽象することができないということ、

また「完成」についてのわれわれの観念は「カルチュア」の三つの意味を同時に考慮に入れる

ものでなくてはならないことを意味するのみであります」(本書)

文明が次第に複雑になってくると、職業の分化が目立ってくるようになり、各個人の職能が世

襲的となり、世襲的職能が硬化して階級別、カースト別となり、階級別が闘争まで導くよう

に、それと同時に、宗教と政治と科学と芸術も、互いに自律もしくは絶対的支配を求めて意識

的な闘争を開始する一地点まで到達し、この摩擦は、或る段階、或る状況においてはきわめて

創造的なはたらきをする、とエリオットは指摘する。

さらには、その文化には一つの宗教との連関においてでなければ出現することも発展すること

もない、と主張しているが、両者を分離して別個のものと見るのも、同一化するのもしてはな

らない、と指摘する。

「われわれの文化の或る部分はそれが同時にそのままわれわれの生きられた宗教の或る部分で

あるということになるのです」(本書)

「またヨーロッパのいかなる国民の現実の宗教もかつて一度も純粋にキリスト教的であったた

めしもなく、それかといって純粋にその他の何ものであったためしもありません。

そこにはあらゆる場合に、より原始的な信仰の切れっぱなしや残滓が半分消化されたかたちで

くっついています」(本書)

そして、さらに高次の段階に入ると、或る職能が他の職能よりもより多くの尊敬を受けている

ことを発見し、この区分が階級というものの発展をうながしていることを発見するとしてい

る。

「政治や行政の能力に適した各個人から成る集団は国民の政治生活を指導するでありましょ

う。その集団を構成する個人は指導者と呼ばれるでありましょう。芸術にたずさわる集団もあ

るでしょう、科学にたずさわる集団もあるでしょう、哲学にたずさわる集団もあるでしょう、

もちろん行動人から成る集団もあるでありましょう。

そうしたこれらの集団がつまりわれわれの呼ぶ「エリット」(選ばれたもの)であります」

(本書)

生命力の強靭な社会においては階級の現象と「エリット(エリート)」の現象が同時に見られ、

この両者のあいだに多少の重なり合いと絶えざる交互作用が行われる、という風にエリオット

は見ている。しかし、それは上部の水準が下部の水準よりも多くの文化を所有すると考えては

ならず、より自覚的な文化、より特殊化された文化を代表するものと考えなくてはならない、

としている。

エリオットによれば、「完全な平等は普遍的無責任を意味する」

「あらゆる人間があらゆる事柄に平等の責任をもつごとき民主社会は良心ある者には圧制とな

り、その他の者を放縦に委ねるでありましょう」と指摘してもいる。

スペインの哲学者のオルテガジョージ・ケナンも同じ様な事を言っていたのを思いだす。

さらにエリオットは、文化の統一性や多様性を踏まえながら、地域性にも言及する。

一つの地方の住民が祖先から受け継いだものであり、またそれが自覚的選択の結果でもないよ

うな忠誠心が成熟するまでには、一世代から二世代まで待たなくてはならないとし、家庭と階

級と地方的忠誠心とはみなお互いに助け合うものであり、これらのいずれか一つが衰えた場合

には、同時にその他のものも被害を受けると、エリオットは指摘する。

「絶対価値として動かないところは、各々の地域がその地域に特有の文化を持たなければなら

ないということであり、同時にその文化は隣接の諸々の地域の文化と調和し、これらを豊富に

するものでなくてはならないということです」(本書)

「もしも「ブリテン諸島」の他の諸々の文化が全面的にイギリス文化によって取り代えられる

ならば、そのイギリス文化もまた消失するであろうということがわたくしの立論の本質的な一

部分をなすのであります」(本書)

「一個の国民文化は、もしもそれが繁栄すべきものとすれば、諸々の文化が相寄って一つの星

座を構成し、その各構成分子が互いに他を利することによって結局全体を利するごとき構造を

もたなくてはならないからであります」(本書)

文明のためには、集団と集団とのあいだの摩擦が必須の要件だともしているが、

一つの全体としての他の文化を故意に破壊することは、人間を動物として待遇する悪にも比す

べき、償いがたい罪悪であると。

その他にも、宗教や政治にも触れられているが、教育と文化についても言及している。

エリオットによれば、教育とは階級を保存しエリートを選択するに役立つものでなくてはなら

ない。特に優れた才能をもつ個人が社会の上層に登り、みずからの才能を自己と社会の最大の

利益となるように使用し得る地位に達する機会をもつことは正しいことである、とし、教育は

機会の均等を与えることを眼目として組織されてはならない、と主張する。

「機会均等の臆断はそのうち最も有力であり、或る種の人々から強力に支持されている臆断で

ありますが、わたくしの見るところでは、これを主張する本人がその及ぶ結果を正視したうえ

で主張しているとは思われないのであります。

この臆断は家族制度というものがもはや尊敬されなくなり、そうして両親の指導と責任とが国

家の手中に移動するに至ってはじめて完全に実現し得る理想であります」(本書)

イングランドでは、貴族階級が近世に至るまで主に家庭教育を中心としてきたが、

拡大する紳士階級とともに上流階級を形成するにつれ、徐々にその機会を学校教育に委ねるよ

うになったという。この際、近代を通じてその中心を担ったのがパブリックスクールであっ

た。社会の産業化によって富を蓄えた上層中産階級の学生も増加し、その親たちはパブリック

スクールに、伝統的な教養教育ではなく、産業化する近代社会で役に立つ知識の実用性を求め

るようになったという。(『よくわかるイギリス近現代史』に詳しい)

エリオットによれば、文化とは、全部が全部まで自覚にのぼせ得るものではなく、

全部を自覚するごとき文化が決して文化の全体ではないという。

有力な文化とは、みずから文化と自称してそれを玩弄しつつある人々の活動をかえって逆に指

導するもののことである、としている。

そういう意味において、教育というものがその責任を不当に占有しようとすればするほど、教

育は組織的文化を裏切る結果になると。

「ヨーロッパ文化は見る見るうちに急速度に頽化しているのであります。

それにまた教育が文化を育成し改善し得るかどうかは別としても、現代的現象として教育が確

実に文化の質を汚涜し、その低下を来し得る証拠をわれわれはいやというほど見せつけられて

いるのであります」(本書)

さらに続けて、ヨーロッパ文化にも言及している。

「ヨーロッパの文化の健康のためには二つの条件が必要であります、つまり、各国の文化は独

自のものでなくてはならないということ、それから、互いに異なる諸々の文化はその交互の関

係を認め合い、各自が他の文化からの影響を敏感に受け容れなくてはならないということであ

ります」(本書)

統一性のなかに多様性を要し、組織化の統一性でなく、自然の統一性を要し、ヨーロッパとア

ジアとのあいだに、絶対の一線をひくことを拒否するともしている。

かなり解りづらいかもしないが、『文化の定義のための覚書』は、イギリスからヨーロッパに

広げ、アジアや世界にまで拡大されながら展開されている「文化論」。

ぼくは本書を読んでいて、白川静の『中国古代の文化』の中での、

「文とは、ひとの創造した秩序や価値をいう語である」

「文化とは、集団のなかの合目的性をもつ無意識の働きであるともいわれている。

そこには、民族固有の、もっとも本源的な志向がよくあらわれているはずである」

という言葉や、十四世紀にイスラーム圏で活躍したイブン=ハルドゥーンの『歴史序説』で

の、「文化の多様性は文明の発展の程度に一致し、文明が発達すればそれだけ文化も完全な

ものとなる」というのと同様なものだと感じた。

本書の巻末には訳者である深瀬基寛氏の「エリオットの人と思想」も収録されているので、

エリオット入門書としても最適。

文化は決して全局面的に意識的になり得ない―

あらゆる場合に、われわれの自覚し得るよりも遥かに以上のものが文化には属しているのであ

ります。

文化は計画し得ない、何となれば、われわれのすべての計画の無意識の背景をなすものが、

また、文化だからであります。

『荒地/文化の定義のための覚書』T・S・エリオット

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T・S・エリオット 中央公論新社 2018-4-20